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ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】上品であった~『美女と野獣』を観て~

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 ディズニーの実写版 『美女と野獣』を観てまいりました。

 ディズニー作品の中でも、やはり不朽の名作と言ってもいい作品だと思いますし、そもそも名曲が多い。子供の頃にVHSでよく観ていたこともあり、未だに曲を口ずさめたりすることもあり、楽しみに観に行きました。

 非常に面白かったです。

 以下、箇条書き。

 

 

・これ以上を求めるべきか

 良くも悪くも、ほぼアニメ版の枠をはみ出さず、きっちりとまとめ上げてきたな、という印象。アニメ版と変わっている所は、現代的解釈というよりは辻褄合わせのように感じた。特に、アニメ版では魔女の呪いから10年という月日が流れ、その結果として城が忘れられた、という説明であったが、10年位で忘れるもんでもないだろう、ということで「魔法によって記憶が改ざんされた」という、結構思い切った改変をしていた。それがエンディングでも忘れられずに解消されていたり、若干の伏線にもなっていたので、悪いものではないかな、とは思う。

 また、人種への配慮も完璧であり、もはやあざとさすら感じる。

 城の中のデザインが、なんか時空がゆがんでる感じがあって、おどろおどろしさが増しており、それ自体は凄く良かった。個人的には、FF8アルティミシア城っぽいなぁ、と思って笑ってしまったが。

 

・名曲はやはり名曲

 『朝の風景』から、『強いぞ、ガストン』、そして『ひとりぼっちの晩餐会』など、名曲はやはり名曲だし、最新のCGを駆使した『ひとりぼっちの晩餐会』を始め、アニメ版よりも趣向を凝らした『強いぞ、ガストン』など、音楽シーンについては大満足。というより、『朝の風景』が始まった瞬間、アニメを思い出して泣きそうになるという軽い誤爆

 新曲として入った『Evermore』についても、個人的には凄い名曲だと思う。製作者もそう考えたのか、エンドロールですら流れている。この曲を元に映画を作り直してもいいくらいだ。ただそうなると、全く別の作品になってしまうのではないか、という危惧すら感じた。それくらいの力のある曲だし、文句無しで名曲だ。そもそも、かなり情けない(褒め言葉)歌詞に、ちょっとウルッと来た。

 また、この歌詞にある「ドアを開けて待っている」ということが、後の襲撃への無防備さすらも説明しており、新曲として浮くこともなく、凄く考えられた作品であることも分かる。

 

エマ・ワトソンは良い

 『ラ・ラ・ランド』を蹴って、本作に出演したという話(本人はブチギレ)だが、確かに歌の感じなどは『ラ・ラ・ランド』に出ていても違和感なかったかも、と思った。たしかに、ハーマイオニーツンデレであった。

 最近の、なんか才女っぽい雰囲気で忘れていた。そして、ベルも若干ツンデレである。

 

 基本的に、古典作品を最新映像技術を駆使して作り直した作品としては、そこまで変なことをしているわけではないので、十分アニメファンも楽しめるのではないか、と思う。

 以下は、重箱の隅をつつくような話ばかりであれだが、気になった点の箇条書き。

 

 

・ベルの発明好きはあんまりいらなかった

 少なくとも、魔法側の人間にするんだったら、洗濯機の描写は不必要だったと思われる。

 この描写を入れてしまったことで、文明の進歩に対して開けているはずのベルが、魔法というものに対してすんなりと受け入れすぎているような気がした。

 あの時代に、科学的進歩を信じる、というのは、言ってしまえば新しい宗教を信じていることと同じだ。当時の人達にとって、科学と錬金術、そして魔術の違いなどあまりない。どちらも「異端」だからだ。それは科学を信じていない人間も、信じている人間も、どちらも同じだ。

 原作は、どちらかというと剣や魔法、おとぎ話の世界に夢中であって、新しい科学や女性の社会進出などは関係なかった。だから、どちらかと言うと、村の人達のほうが現実的であり、ベルの方が夢ばかりみている阿呆な娘、というノリであった。

 

・コグスワースの「時計に戻してくれ」発言は微妙

 ああいうギャグを入れることは悪いわけじゃないのだが、ここに来て「見た目で判断している」演出を入れるのはどうかと思われる。この話の土台である、見えない心にこそ美は宿る、という意味で言うならば、あそこはもうシンプルに「みんな良かったね」でよかったのではなかろうか。

 そもそも、心に美が宿るんだったら野獣のままでええやんけ、とは思うのだが。一応「ヒゲ生やすのもええんちゃう」というエマ・ワトソンのフォローはあったか。

 

 

・ル・フウを中心にしたら、とかいう妄想

 彼をゲイとして描きなおしたことは、素晴らしいチョイスだった。物語のアクセントになったし、ただの子分というよりも、彼がなぜガストンに付き従ったのか、という物語の仕掛けとしてよく機能していた。

 そして、彼の描き方も現在のLGBT問題に配慮した、非常に上品な描き方だったと思う。ただのガストンに心酔していながらも、心根は善良であり、物語の後も生きていくキャラクターとしては、そう悪いものではないと思った。

 しかしながら、僕が少し古い人間ということもあってか、もう少し踏み込んでみても良かったのではないか、という思いも浮かんだ。つまり、もう一人の怪物はガストンではなく、ル・フウにすべきではなかったか、という思いである。

 本来、この物語は「中身」の物語だ。人間とは見た目ではなく、その心の美しさこそを問題とすべきだ、というテーマについて語っている物語だ。それがディズニーによって作り直された『美女と野獣』という物語だ。そこでは、野獣とガストンが対比される二者として描写されている。見た目は良いが、中身はガサツで醜いガストンと、見た目は獣だが、実は繊細で教養もある野獣。この二人の対比が物語のテーマと関わっている。

 しかし、この物語を「異端を主軸においた」物語とするならば、ル・フウこそが「異端」であり、街の中で孤独を感じるていて然るべき人間だ。呪われた城で家来に囲まれながらも孤独に過ごす野獣と、明るい村で友人たちと過ごしながらも孤独に過ごす同性愛者のル・フウは、非常に似通った存在だ。どちらも、本当の意味で満たされていないからだ。

 また、どちらも変身願望を持っている。野獣は元の姿に戻りたいと願い、そしてル・フウはガストンのような男になりたい、と願っている。そして、二人ともその願いがかなわない。

 ル・フウの見た目も、超美男子に変えてしまっても良かったな、と思う。もちろん、アニメ準拠のぽっちゃりにすることで、ゲイらしさを強めることは出来ていたが、ここはもうガストンと全く別の、華奢な美男子にするのも良かったのではないか。そうすることで、ル・フウがガストンの真似をする時の悲しさは、笑えないレベルに達する。どうやっても、あの獣のような男の真似ができない。

 この考えに至った理由は、劇中の『強いぞ、ガストン』の時のル・フウの仕草による。彼はその時、アニメとは少し違う挙動を入れている。それは、「お金を払っている」動きだ。彼は、酒代であったり、チャンバラに参加する男や、楽器隊にお金を払っている。おそらくは、それは身銭を切っているのだ。そこまでして、ル・フウはガストンを元気づけている。これはつまり、ガストンのパトロン的なポジションにいるということだ。

 ガストンとル・フウが登場する初めのシーンで、ル・フウはフランス語の諺にも通じていることが明かされている。もしかすると、良い家の出なのか、と思わせるほどに。

 そんな彼が、なぜガストンを好きなのか。それは、ガストンこそが自分とは全く正反対の存在だからだ。教養も、繊細な心もない、ただ腕っ節と男らしさで、村の王のように君臨している彼に、ル・フウはベルとは対象的に惹かれていた。ベルが自分と同じ属性の人間を求めていたことに対して、ル・フウは逆だ。ル・フウは自分にないものをこそ求めた。しかし、それは異端の想いではある。

 そんなル・フウが、ガストンの求めを拒否し、野獣に思いを寄せるベルを見たら、果たしてどのような感情を浮かべるであろうか。

 おそらくは、嫉妬と怒りではないだろうか。社会の通年に合わせ、自らを欺いてきたル・フウにしてみれば、自由に人生を謳歌しているベルは、羨ましくもああるが、もはや嫉妬の対象でしかないであろう。しかも、自分の最愛の人間を棄て、こともあろうに野獣などに惹かれている。これはつまりは、ガストンへの侮辱であり、ガストンを愛しているル・フウへの侮辱でもある。(なお、アニメ版ではないフランス民話の『美女と野獣』において、「嫉妬」は非常に重要な要素である。民話の話には、なんとベルには姉がおり、城に戻らねば野獣が死ぬ、という時に、嫉妬にかられた姉二人によって邪魔をされるのだ。)

 ならばどうするか。それはもう、ベルの愛している世界を壊すしかない。父親を精神病院送りにし、城を焼き、そして野獣を殺す。そうした所で、ル・フウの思いは届くことはないが、そうするしかない。

 野獣との決闘の末、転落するガストン。息絶える野獣と愛を口にするベル。その光景を目の当たりにして、ル・フウは気がつく。そうだ、自分は彼に愛している、と伝えたことなどないのだ、と。そして、この行為に意味などないのだ、と。

 燃え盛る野獣の城の屋根から、ル・フウはガストンの元へ身を投げる。まるで、落ちていく最後の薔薇の花のように。もはやベルも野獣も、そんなことは知ったことではない。ガストンのいない世界で生きていくことなど、彼にはできないのだ。

 

 

 と、まぁ、ル・フウを漫画の典型的な同性愛者にしたら、こうなるのではないだろうか、という妄想をぶち込んでみた。

 正直、こういう妄想をすること自体が同性愛者の方々に失礼だろうし、今作での描き方のほうが上品だと思う。

【ネタバレ】隠されたテーマを探しに~『GHOST IN THE SHELL』を観て~

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 スカーレット・ヨハンソン主演の『GHOST IN THE SHELL』を観てきました。原作の漫画『攻殻機動隊』や、押井守監督作品の『GHOST IN THE SHELL』を、何も見直さず、省みず、ただただ頭を真っ白にして観に行ってまいりました。

 正直、全然面白くなかったです。

 

 

・映像はすごくきれい

 ここに関しては本当にすごかったので、これだけは映画館で観てよかったな、と心の底から思っている。なんというか、家で観たらもっとひどい映画だと思っていたと考えられるので。

 ただ、街の映像は押井守の『GHOST IN THE SHELL』ではなく、『ブレードランナー』に近い、ホログラムを多用したサイバーパンク表現だったことは、少し残念。というか、アメリカ人はあれ好きなんだろうか。押井守の表現していた街は、どちらかと言うと、現在の地続きとしての東京と多国籍文化のハイブリットだったと思うのだが、そういうのはアメリカだとうけないのか、もはや日常的すぎるのか。

 

・やりたいことは分かる

 映像もそうだし、オープニングの義体構築シーンや、最後のシーンで少佐の義体が壊れていくシーンなど、押井守版を原題の実写映像でリメイクした映像などを観ると「こういうのがしたかったのね」と、納得はする。原作ファンへのラブレターというところだと思う。その文面が響いたかどうかはわからない。あまりにも内面を無視した、表層的な恋文に原作ファンがブチ切れないか不安になった。

 最後のクゼ(原作で言う人形使い)との決別も、ある意味ハリウッド娯楽作品として完成させるなら、「そうするよね」とは納得できる。ただ、それだとしたら本当に他の作品と全く変わらないので、「この原作を映画にした意味は無いよね」と冷静になってしまった。全体を通して「俺が押井守版を見た時に感じた感動を共有できない人が作った映画だな」と思った。

 

・これはSF作品として、ちょっと程度が低い

 押井守版と原作は、SF作品である。SFというのはどういう作品かというと、「何かしらの革新的な技術が、人間の世界・思考・構造すらも変えてしまった場合、何が起こるか」ということを表現している作品である。ただ単にカッコいいガジェットがでてきて、楽しい! というだけではない。もちろん、そういうのもないではないけど。

 例えば、この映画がひたすらオマージュを捧げている『ブレードランナー』だって、レプリカント(アンドロイド)という、人間に酷似し、なおかつ意思すらも持つような存在が生まれた時、果たしてどうなるか。そういう思考実験の一つの形であり、そういった作品群の一つなわけだ。そして、原作はそこに「人間とは何か」というテーマ(それは共感できる、ということである、と)も入れていた。映画はそこまで語ることは難しかったが、確実にそのテーマを咀嚼した形で提示しようとはしていた。娯楽作品として昇華するために、レプリカントの長台詞があったりした。もちろん、『ブレードランナー』の映画において、ビジュアル面の功績がなかったとは言わない。しかし、確実に思想面の功績もあった。そしてSF作品というのは、思想面が薄くなるということは致命的になる。

 押井守版にせよ原作にせよ、この点は十二分にカバーしているというか、ここの大きさがあまりにも大きすぎる。ネットという存在と、地続きの先に義体化や電脳化というものがあり、そしてその先に「ネットに生まれる自我」というものであったり、だからこその「ゴースト」という概念が重要になってくる。ここまでくると、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と同じ問題が浮かび上がってくる。「人間とは何か」「何をもって人間とするか」という。

 今回の『GHOST IN THE SHELL』で一番の問題は、その問題を全くなしにして、なんかただの企業の悪性であったりに落とし込んで、本来この作品が語るべきというか、語ってもいい問題を蔑ろにしている点にあると思う。はっきり言って、原作が出たのは1989年である。もはやこの作品で語られてることなど、陳腐化していると言っていい(今でも面白い題材ではあるが)。なので、現在の作品群は、そこから更なるひねりを入れて語ることが求められてしまう。しかしながら、原作を忠実に再現する、という目論見で作るなら、そこが甘くみてもらえる。そこまでの捻りを必要としない。だから、衒いなくやってしまえばよかったと思う。

 それでいながら、街にいっぱい出てるホログラムみたいに「これ原作に忠実な見た目ですよ」「こんなの、押井守版にありましたよね!」とか出されても、「この人、あの作品をそういう風にしか観てなかったんだな」となってしまう。ていうか、そもそも押井守版しか観てないんじゃないか。

 

・普通の映画としてみてもレベル低いよ

 じゃ、普通のハリウッド映画として観て面白いか、というとそれも別に面白くない。

 例えば、バトーの義眼も、別にあそこで目を焼かれて義眼にする必要が全くない。最初から義眼でもいいし。何故なら、別に後になって彼の義眼が、物語に影響を一つも与えていないから。

 例えば、(面白いかはしらないけど)そこを元に、スカヨハとバトーとの恋愛というか、仲良くさせるキッカケとかにしても良かったはずだ。ていうか、映画の前の話としてそういう事件があって、二人の関係が「ただの職場の仲間以上」とかになってた方がスムーズだったし、犬の餌やりも、なんかもっと良い感じに描けたんじゃないの?(そもそも、あそこの犬が押井守犬っぽいのも、逆にオタクをイラッとさせるポイントじゃないか? 袈裟まで憎い状態になってしまってるかもしれない)

 あと、そういうことでもない限り、スカヨハが現世に残る意図がよく分からない。あの娘、なんか今の世界でなんか良いことあったか? 「私はここで生きていくわ」とか言われても「え、なんで?」となる。だって別に、スカヨハのこの作品内での人生を考えてみても、特に残る理由がない。母親くらい。でも、あのままで母親とずっと暮らすのかよ、と驚いてしまった。

 あと、あの会社と公安9課(section 9って言ってたけど、一応警察でいいの?)の関係は、なに?

 どういった関係か全くわからなかったので、最初は私警察か何かな、と思ったけど、いきなり首相とかの話出てきたから「あ、公の組織なんだ」と。じゃ、あの関係は、なに?

 観に行った僕の頭があまり良くなかったせいで、多分読みきれなかったのでしょう。そこら辺は、多分最初のトグサのセリフからしても、分かる人には分かる、ということなんだと思う。

 トグサ「お前、なんか変わったな」

 黒人「わかる? 肝臓変えたんだ」

 それ、見た目で分かるか? 俺は絶対にわからないと思うんだけど。

 まぁ、でもそういう人なら、この映画の隠されたテーマをきちんと見つけられると思いました。

【ネタバレ】僕らがなりたい誰か~『ハードコア』を観て~

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 一人称視点映画として注目されていた(?)『ハードコア』を観てきました。

 個人的にFPS視点のゲームについては非常に苦手で、時々かじるくらいしか遊んでいないのですが、そんな自分でも予告編をひと目見て「これはFPS洋ゲーあるあるを詰め込んだだけの映画だろうな」と考えてしまうような、まぁ、オタクっぽい作品になってそうだな、と思いながら観に行きました。

 結果としては、まさしくその通りの映画になったと思います。しかし、凄く面白かったです。色々言いたいことはありますが、映画の始まりから終わりまで、ずっとハイテンションでジェットコースター気分を味わえるので、楽しいと言えば楽しい作品でした。

 以下、考えたことを連々と。

 

・基本的には洋ゲー

 物語、登場人物、全てが予想通りに洋ゲーのままでした。この映画は次から次に事態が進展し、飽きることがないばかりか逆に疲れるくらいですが、それはまさしくFPSゲームと同じだな、と思った。ヘイローにせよ、ハーフライフにせよ、物語をテンポよく進めていくと(ムービーシーンなどは入るが)基本的にはノンストップでゲームが進行してしまう。なので、ゲームに慣れれば慣れるほど、ある意味笑えるほどに物語の進行は早くなる。この映画を観ていて同じような感覚になった。

 

・大佐のようなキャラはよくいる
 あんまり死ななそうで、無駄に強いキャラで、なおかつ主人公の手助けをするようなキャラクターはよく洋ゲーで見る。主にギャグ要員として、ではあるが。フォールアウト3の最後らへんで味方になるゾンビとか強かった。

 

・人間の目はよくできている、という話
 この映画を観ていて、最後の方はかなり疲れてしまったのだが、その理由はなんだろうか。事態が次々と加速度的に進行していくことに加えて、人間が普段の生活で、ありのままに視界を処理してはいない、ということも理由なんだと思う。
 というのも、この映画の冒頭部分で喋れない主人公が首を振る(NOと伝える)シーンがあるが、僕達が首を振るときの視界は、あそこまで揺れてはいないように感じる。少なくとも、対話者がグラグラ揺れて見えるほどには。これはそこまで首を動かさない、というのもあるが、「そういう風に見えている」だけにすぎない、とも言える。つまりは、脳みそがあまり揺れていないようにそれ以外の焦点を外してしまっている、ということだ。
 普段、何気なく道を歩いているとき、人は自分の歩いている道の全てに焦点を当てている(パンフォーカス)わけではない。自分の注意が向いているものにしか焦点を当てないので、それ以外の情報は「見えているけど認識していない情報」となる。それは脳みそがフィルターをかけているということだ。そのフィルターを外すと、人間の脳みそがフル回転し、早い話がすごく疲れる。この映画で疲れる理由はそこだと思われる。
 特に、街なかでパルクールをするシーン(この映画のハイライトの一つ)があるが、そこがすごく疲れる。息もつかせないシーンであるだけでなく、様々な情報を脳みそが処理「してしまい」、かなり疲れる。どうすれば良いのか、と言うとあまり検討はつかないが、よりフォーカスをぼかすなどすればよいのかもしれない。あと、この作品で惜しいと思われる要素の一つに、急なカット切り替えがあった。いきなり暗転し、場面が少し変わっている、というような。パルクールの合間にもあったのは少し残念。技術やお金の問題もあり、非常に難しいとは分かっているが、これどうやってるんだろう、と思わせるような1カットをもっと残せたら、この作品は歴史的な一作になったかもしれない。今でも、十分怪作として名を残しそうではあるが。

 

・物語と映画の構造

 この映画は多分、そこまで脚本と映像に相乗効果をもたせようとは考えてなかったと思われるが、なんかメタ構造になってたように感じる。

 他の人造兵士に主人公の記憶を移して、言うことを聞くようにする、というものだ。つまりは、映画の観客者がそれに対応している。

 ただ、映画の内容としてはそれを若干否定している。自分というものを見失わず、自分の好きな自分になるべきだ、としている。

 となると、この映画自体を否定していることになるが、それはいいのだろうか。シンクロ率100%!とか言ってる割には、シンクロ自体を否定している。

 ただ、この映画の言いたいことを表してもいる。誰にそしりを受けようが、好きなものを好きなようにやる。例え、ゲームを実写でやっただけと言われようとも、やりたいことをやりきる。その精神は正しいし、今後も持ち続けてほしい。

 誰しもがなりたい自分にはなれないし、他の誰かをなりたい誰かにすることはできない。ただ、なりたい何かを目指してもがき続けるだけだ。

 たとえ、血を見る結果になるとしても。

 

【ネタバレ】お祭り感~『夜は短し歩けよ乙女』を観て~

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 森見登美彦原作の『夜は短し歩けよ乙女』を観てきました。監督はTVアニメ『四畳半神話大系』でも森見登美彦作品をアニメ化した湯浅監督。監督自身も言うとおり、「四畳半神話大系のご褒美的に作ることが決定した」との見方は正しいと思う。それくらい、今回の作品は湯浅成分が強めなのかもしれないな、と思いました。

 

 

・ぶっちゃけ四畳半の方が面白かった

 原作も含めて、という意味で。

 まず、TVアニメ版『四畳半神話大系』は個人的には大好きな作品で、近年のアニメの中では(もう7年前なのか)トップクラスに好きだし、傑作だと思う。何が傑作なのか、というと「あの森見登美彦の原作をここまでアニメとして成立させ、尚且つ湯浅監督の味を出し切ることができた絶妙なバランス感覚」が良かったのではないか、と考えている。

 そもそも、森見登美彦作品というのは映像化しにくい作品ではないか、というのがある。それは、物語の面白さというよりも、作品全体の文体や、その文体に非常にマッチした主人公の精神構造こそが面白いのであって(個人の感想です)、それは言うなれば「小説ならではの」面白さが詰まっている、とも言える。ぶっちゃけて言えば、文章が面白いから面白いのだ。つまり、文章が消えれば面白さの半分以上が消えると言って過言ではない。(前に書いた『虐殺器官』などと同じだが)

 それに対して、『四畳半神話大系』ではどうしていたのか。同作品の脚本を担当していた上田誠が、森見登美彦原作の『有頂天家族』の文庫版でそれについて「恐るべき体験」として解説している。

 

四畳半神話大系』は、その名の示すとおり、四畳半に暮らす冴えない大学3回生が主人公の小説であり、文章の大半は、飯を食う、猥雑図書を読む、悪友とじゃれあって過ごす、など、およそストーリーの展開には与しない、無意味な描写に費やされる。

(中略)

 となれば、それらを差っぴいて、物語の「核」を見い出せばいいのだとばかりに、そうした箇所を順番に落としていくと、物語はなんだかみるみるやせ細っていき、「大学生活をスマートに送る男子学生の話」といった風情の、模範的ではあるものの、原作の豊穣さとはまるで別のことになってゆく。そしてその一方では、割愛した瑣末なエピソードたちが、より集まって、なんだか妙なきらめきを湛えている。

森見登美彦著(2010)『有頂天家族幻冬舎文庫p.420)

  掻い摘んで言ってしまうと、最初は「物語の核」さえ掴んでしまえば、枝葉の部分は少し削ってしまっても問題なかろう、という風に考えていたが、そうすると全く物語が面白くならない。というよりも、核ではないと思われる部分こそ、核なのではないか、ということである。個人的には、核ではないと思われている部分は、本当に核ではないのだと思う。ただ、核であるからこそ面白い、というわけではないし、核でないから大事なものではない、というわけではないだけだろう。

 これはもはや、物語が面白いのではなく、作者が面白い類の作品なのだと思う。僕の友人曰く「昔のテキストサイト侍魂など)みたいで嫌い」との評価だったが、それはその通りだろう。

 かくして、あのアニメでは、まるで原作小説をただ読んでいるかのごとく、主人公の独白(小説の地の部分)を延々と30分間叩き込み続ける、という常軌を逸した作品になった。

 そして、その常軌を逸した作品を分かりやすく説明し、なおかつより引き込ませるために湯浅監督の、一見荒唐無稽ながらも直感的に物事を説明できるアニメ演出が組み合わさり、観たその瞬間に理解しながら、そして笑いながら観ることのできる素晴らしい作品になった、のだと思う。

 理解の補助としての演出、という意味で言うと、湯浅監督にはあまり似つかわしくない言葉にも思える。どちらかと言うと荒唐無稽なパースで視聴者を叩き伏せまくるのが得意技だと思っていた監督だが、どうやらそうではないらしい。能ある鷹は爪を隠すと言うが、それに近い何かしらがかの監督の今の名声と、そして奇妙な立ち位置を醸成したのであろう。というのが、僕の湯浅監督評であった。

 ともかく、そういった様々な要素が絡んでできあがった『四畳半神話大系』と比べて、『夜は短し歩けよ乙女』は少し小さくまとまった作品になった、という印象であった。

 

・夜という空間

 森見登美彦の作品における「夜」という存在は、不思議なものに感じられる。森見登美彦作品がファンタジー小説と言われている所以でもある。それは彼の描く夜が、非常に奇怪で、時には底知れぬ暗闇としての夜として現れるのではあるが、そこに出てくる人物たちは皆優しく(金貸しなどを除いて)、主人公たちを受け入れてくれる。

 様々な要素をまとめる存在としての「夜」は、確かに京都の祗園や木屋町には現実として存在している。それは森見登美彦作品に出て来る登場人物のようだ。彼らは、主人公や物語という側面だけでしか語られないが、確実に何か裏を感じさせるように描かれている。

 それをきちんと描ききった作品が『四畳半神話大系』であった。なので、『夜は短し歩けよ乙女』は、言うなれば『四畳半神話大系』のうちの一部分とも言える。あの連綿と続く四畳半の中の一つの物語にある、とも言える。というよりは、その後も続いていく森見登美彦サーガの一側面、と言うべきか。

 そういうこともあり、『夜は短し歩けよ乙女』が小粒に感じるのもあると思う。

 

・役者たちの技量

 これについては仕方ないとは思うのだが、星野源に『四畳半』の先輩役のような長回しのセリフは難しかったのだと思うし、そこを同じにしたら「四畳半と同じじゃねーか」となるので、やらないのは成功だったとは思う。

 

・街に認められること

 個人的にこの作品でよかったのは、全体の雰囲気、と言うに尽きる。これは森見登美彦作品に必ず存在する空気感なのだが、主人公は街に認められている、という感覚。この場合、主人公というのは黒髪の乙女のことでもあるし、先輩のことでもある。個人的に言えば、非常に世の中から阻害されていると感じている先輩もまた、この街の一部であり、彼も夜の中に入り込んで行けている。それは愛ゆえの行為ではあるが、彼の行動こそが、映画全体のテンションをきちんと上げている。そこは良かった。

 逆に、乙女はあまりにもキャラがのっぺりとしていて、そこまで魅力的には描かれていない。『四畳半神話大系』の明石さんとは大違いである。明石さんは、文系オタクの求める女性像としてあまりにもオーバーキルな感じが、もはやギャグでしかないとは思うが。ただ、彼女が街に溶け込み、認められ、練り歩いていくさまは観ていて気持ちが良い。

 

 映像も面白いし、悪くはないのだが、ファンディスク的な要素が強い作品だな、とは思った。

【ネタバレ】軍人対怪獣シリーズにして欲しかった~『キングコング: 髑髏島の巨神』を観て~

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 もう僕が生きてる間に数回映画化をしている「キングコング」の最新版です。前々から話に上がっている通り、ハリウッド版『GODZILLA』とつなげるために作った作品とのことで、まぁ、そういう感じの作品だな、と思いました。ていうかこれ、ギャレス・エドワーズは関係ないんですね。

 以下、箇条書き。

 

 

・面白くない訳じゃないが、凄く面白いわけでもない

 一応、コング以外にも変な怪物は出てくるし、物語に起伏はあるし、別に面白くないわけではない。

 ただ、凄く面白い要素があるかというと、別にそうでもない。そういう意味で、『GODZILLA』は凄く作りこまれていたと思う。

 

トム・ヒドルストンジョン・グッドマンというノイズ

 特に下調べをせずに観に行ったため、トム・ヒドルストンが出てきた時に「ロキじゃねーか」と口に出してしまい、一気に映画から距離をとってしまうという失態。今後は、役者だけでも必ず目を通そう、と固く誓った。

 あと、ジョン・グッドマンを「どこかでめちゃくちゃ見たことあるのに、どの映画か思い出せない」とやきもきし、最後のほうで「『ジョン・ウィック』のババヤガ歌ってたおじさんか!」と思いつくも、これは間違い。『10 クローバーフィールド・レーン』のサイコパスおじさん役だった。ぜんぜん違うわ。

 コーリー・ホーキンズについては「ドクター・ドレーだよね」としたり顔。

 ちなみに、登場人物全員とくに掘り下げられないまま物語が進む。結局、トム・ヒドルストンという役柄は何をしたかったのか分からない。一応はプロっぽいので別に問題はないんだけど。

 物語と人物の配置をうまくやりすぎてもご都合主義に見えるが、あまりにも関係ないと物語が薄味になる。何かの事件に巻き込まれる人物が、その事件と自分の人生に何かしらの接点を見出し、事件の解決とともに自分の人生を見つめなおし、変化していく、ということが物語においては王道だと思うのだが、それがうまくできていない作品は、途端に出汁がない味噌汁のように薄くなる。もちろん、怪獣映画にそんなものを求めるべきではないのだけど。

 

・軍隊の描き方は悪くない

 軍人たちの描き方は良かった。リアルかどうかはさておき、結束感があり、見ていて面白い。というか、一般人たちより軍人たちだけで島に乗り込んで欲しかった。その方が緊張感があったのではないか。

 そういう意味では、サミュエルL・ジャクソンとジョン・C・ライリーをもっと前に押し出して欲しかった。この二人の関係性をもっと面白く描けていたら、この映画は少し違う味の映画になったのではないか。

 ベトナム戦争の敗北(撤退)が、サミュエルL・ジャクソンに何を思わせたのか。それは「戦死者たち」と「敵」への思いだ。ある意味、この2つの存在は軍隊という組織を生み出す装置の表と裏だ。「戦死者たち」を生み出す「敵」がいないと、軍隊というものは存在しないからだ。戦場から離れる生活をできなくなった人間にとって、この概念のない日常生活こそが、最も恐れる世界になる。サミュエルL・ジャクソンは、最初の方はそういう描き方をされている。これからどうするんですか、という質問には何一つ答えられず、そのくせ最後の任務を与えてくれた上官には心からの感謝を示す。そして、部下たちを危険な任務に晒しておきながらも、そうなることで心の平穏を感じている。作中に示されていたように、サミュエルL・ジャクソンにとってキングコングもベトコンも同じなのだ。

 それに対し、ジョン・C・ライリーは敵と味方という概念を越えてしまった存在だ。彼は生き抜くために敵国の兵士と手を結び、ともに協力する道を選んだ。もしもサミュエルL・ジャクソンがそれを知れば、必ずなにか言うはずだ。「それでも軍人か」と。サミュエルL・ジャクソンにとって、軍隊とは「敵」を殺し、「戦死者たち」に報いる存在なのだ。

 だが、ジョン・C・ライリーは既に軍人ではない。軍人は、軍人でなくなることができるのだ。そういう世界に生きていくことができるのだ。

 そういう風にあの二人の関係を描けていたら、出汁の一つにはなったかもしれない。

 

キングコングの出方は悪くない

 いきなり登場する、というのは嫌いじゃない。そもそも、CMで普通に登場している怪物を出さないでいると、「まだ出てこないのか」とか「体の一部だけしか見えなくてまだるっこしい」という風に感じてしまう。『GODZILLA』くらいのネームバリューになるとそれもいいのだが、『キングコング』でそれをやってしまうと、物語がだれてしまう。今作は、いきなり顔のドアップが出てきたかと思えば、もう普通に夕日をバックに立っていたりとなかなか威勢がいい。なか卯松屋に来た気分にはなるが。まぁ、映画の出来もなか卯松屋の料理くらいのレベルだったとは思う。全然まずくはないし、お金を払って食べる価値はあるので問題はないが。

 

・良くも悪くも昔の特撮映画っぽい

 というのは、コングとの距離感がそう思わせたのだと思う。コングと人間は、いつも結構近くにいる。そのくせ、登場人物が巨大な生き物の近くにいる、という演技や演出を余りしない(鼻息に目を閉じるとか、髪が巻き上がるとか)ので、なんか凄い作られた絵感が出てくる。それが悪いわけではなく、オールドスクールな作りにしたい、という思いがあったのかもしれない。あと、ヒロインの横でヘリコプターがコングの手より落とされ、爆発炎上するシーンがあるが、ヒロインは微動だにしない。爆風で倒れたりしないんだ、と思った。

 昔のきぐるみのように、巨大な何かがここにあるわけではない、という感覚を久しぶりに味わえて面白かった。

 あと、島が狭いからか、しょっちゅうコングが出てくるのも、昔の『ゴジラキングコング』っぽくて面白いな、と思った。なんか距離感が短いというか、小さいというか。

 

・最後はアレは何?

 なんか、あの状態でヘリが来たら「あいつらまた来やがって!」とブチ切れてヘリ落としそう。

 もしくは、あのヘリの人達からしたら「やべーやつがいる! 攻撃しないと!」となるから、主人公たちはよく帰れたものだ。

 

 

 まぁ、大きい画面でアトラクション的には楽しめるので、面白く無い訳じゃない。でも、考えぬいてできた作品ではなさそう。

 今後も色々な怪獣を出すつもりらしいけど、ちょっと厳しいかな、という印象。

【ネタバレ】夢追い人への祝杯~『ラ・ラ・ランド』を観て~

 

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 『ラ・ラ・ランド』を観てきました。

 後半はずっと泣いてました。というか、『シティ・オブ・スターズ』を二人でデュエットするシーン以降は、もう涙を止めておくことは難しかったです。

 

・ダンスシーンが格好良すぎて泣いた

 この映画は、一応はミュージカル映画なので、全編的にダンスが用いられているわけだが、どれもが格好良すぎて涙が出そうになる。というか、本当の最初の渋滞シーンでドラム隊が出てきた瞬間、格好良さと多様性入り交じるハリウッド的美意識に打ちのめされて、本当に泣いてしまった。

 最初のあのシーンは、人種も文化もすべてをぶつける場所としてのハリウッドが描かれている。誰しもが夢を見られる場所。その説明として、すごく豪快で、すごく現代的であり、そしてなによりも格好良かった。

 

・二人とも成功してはいる

 この物語の興味深いところは、二人とも映画の最初に抱いていた夢は叶えている、というところだ。ライアン・ゴズリングはジャズクラブを開き(名前は違うが)、エマ・ストーンは女優となった。もしもこの二人が出会わず、恋に落ちなかったら、こんな苦いハッピーエンドになることはなかったのだ。

 ただし、この二人が出会わなかったら、二人とも成功していなかった可能性も高い。ライアン・ゴズリングエマ・ストーンがいなければ、あんなポップスバンドに入ることはなかったろうし、エマ・ストーンも一人芝居をすることはなかった。二人とも互いの人生に多大な影響を与えているのに、まるで歴史に語られることのない敗北者のように、それぞれの人生から除外されている。成功しているのにもかかわらず。

 

・少しずつ勇気が足りなかった

 映画のラスト、ライアン・ゴズリングのピアノに合わせながら、二人が「もしかするとこうなっていたかも知れない」二人の人生を描く回想シーンは、もう思い出すだけで涙が出てくるのだが、あそこに描かれている荒唐無稽で、都合がよく、二人にとってはかなりエゴイスティックでありながら、それでも優しいシーンこそ、この映画の白眉だ。そして「こうなっていたかも知れない」ということは、「現実はこうではない」ということの裏返しなのだ。

 なぜ、こうならなかったのか。回想シーンで幾度も描かれる、現実とは違う選択をとる二人。ライアン・ゴズリングは出会って速攻エマ・ストーンにキスし、ポップスバンドを反故にする。エマ・ストーンは一人芝居を大成功させ、女優の近道を蹴り、それでも二人が大成功する、都合の良すぎる夢物語。

 そうならなかったのはなぜか。それはつまり、二人ともに少しずつ勇気が足りなかった、ということなのだ。二人にもう少しだけ勇気があれば、こうなっていたかも知れない、という甘すぎる認識。勇気とは、自分を信じる、ということだ。自分の才能にもっと自惚れる人間であれば、こうなっていたかも知れない。しかし、二人はともにそうではなかったし、彼らは彼らなりに精一杯生きた結果として、あのジャズ・クラブで再会したのだ。『かもめ』のようにボロボロな姿を見せ合うこともなく。

 その部分において、この映画は本当に夢を追う人たちを讃えている。それと同時に、愚かでもあると言っている。その両面性こそが、典型的な夢追い人であるし、だからこそ涙がでるほどに愛おしいのだ。

 

・特にライアン・ゴズリングに共感

  僕が男ということもあるだろうが、ライアン・ゴズリングの動き、振る舞いが心に刺さった。

 タップダンスのシーンで、すぐ近くに停めてある車を無視してエマ・ストーンと車を探しに行くシーン、映画館でチケットを二枚持ってヤキモキするシーン、そして最後に強がりも含めた笑顔。すべてのシーンが刺さり過ぎた。「分かる!」の連続だ。あるあると言うにはあまりにも辛いシーンばかりではあるが。

 ただ、それらすべてを含めて、最後の笑顔は自己肯定の笑顔であるようにも思えた。そして同時に、エマ・ストーンへの肯定も含めていたのではないだろうか。まさに夢の世界から戻ってきた後、ビターな現実に辿り着いてもなお、「まぁ、この人生も悪いわけじゃないんだよ」と、誠実な笑顔を覗かせる。

 

エマ・ストーンは写し方によっては絶世の美女

  『アメイジングスパイダーマン』のときは「美人か、この人?」と若干思っていましたが、『バードマン』を観て「こんな美人やったか?」となり、今作で「こんなきれいな人いるか?」となる。

 目が大きいので、なんか睨みつけたりするとすごく怖くなるのですが、角度を変えると魔法をかけたみたいにきれいになる。そら売れますわ。

 恋人のアンドリュー・ガーフィールドも良い役に出まくっており、スゴイカップルだなぁ、と思うのだが、二人とも大作に出ながらも変な役も出るので、仲良さそう。このまま末永く幸せになって欲しい二人である。

 

・ライブシーンが素晴らしい

  この映画はダンスシーンが全編素晴らしいので、それだけで何故か泣きそうになったのだが、個人的にはポップスバンドのライブシーンがすごく面白かった。ギャグシーンとして。

 ライアン・ゴズリングが顔をしかめながら弾いてるのとか、エマ・ストーンが「思ってたのとなんか違う」感をすごい出してるのとか、歌詞がもうコテッコテなのとか、全部含めて笑える。何を燃え上がらせるつもりなんだ。

 このライブシーンもそうだが、あまり本意でない演奏を終わらせたときのライアン・ゴズリングの仕草も「はい、おわったよ~」というわざとらしさがあって素晴らしい。

 

 そらアカデミー賞とりまくるよね、という作品。

 楽しくて悲しくて、映画館から出た後は踊りたくて仕方なくなる、そんな映画。

 

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【ネタバレ】忘れられた男たち~『ナイスガイズ』を観て~

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 面白かったです。

 どうでもいいこと書きます。

 

 

ラッセル・クロウのキャラがカッコいい

 太っているのにカッコいい。それは、短い説明で深みまで教えてくれるその人物造型が素晴らしいからだ。

 彼の部屋がやけに象徴的だ。彼の私生活についてはあまり描写されない。妻の不倫により離婚したらしいシーンや、酒だけを箱買いしている以外、彼の私生活は出てこない。寂しさや孤独を表象するような彼の部屋は、ブレーカーをそのまま切って部屋を後にする。部屋のブレーカーこそが、言わば彼のスイッチなのだろう。

  彼の見た目はだらしなく、肥満で、老眼だ。そして、見た目に反して神経質であり、何故か女子供には優しい。しかしその優しさも、どこか狂気をにじませる。

 人の役に立つことが心地よい、と言いつつ、彼がやっていることは暴力そのものだ。もちろん、それ以外にできることがないから、という言い訳も立つだろうが、それはやはり異常だ。主人公の娘に優しい言葉を投げかけるときですら、その裏に怖さを感じる。父親の腕を折った後、その娘に対して全く悪びれる態度を取らないその姿はサイコパスのそれだ。

 この映画は、ただの娯楽映画であると同時に、このサイコパス的な人生を送っているラッセル・クロウ人間性を取り戻していく映画でもある。孤独で非人間的な暴力マシーンが、暴力以外の生き方を再獲得していく映画だ。

 

ライアン・ゴズリングはこういうキャラができるから仕事がもらえる

 エドワード・ノートンとは違うのはそこだと思うのだが、なんとなく、二代目エドワード・ノートン的な存在とはそもそも全く違う人なんだろうな、と思う。

 まぁ、よく考えるまでもなく、『きみに読む物語』で出てきた人なんだから、その通りなんだろうけど。

 エドワード・ノートンも糞野郎を演じさせたら凄い人だが、ライアン・ゴズリングの糞野郎は違う種類の糞野郎ということだろう。キザでニヒルで糞野郎。最高だ。『マネーショート』の役も当たり役だったといえる。

 

・キャラ同士の補完関係

 クズでどうしようもない奴だが、娘には優しく、頭の回転も早いライアン・ゴズリングと、女子供には優しく、一見常識人にも見えるがやはり狂ってるラッセル・クロウ。そして、その間を束ねるアンガーリー・ライスの存在。このトライアングルが生み出す空気感、関係性の心地良さが、この映画をただのB級映画から少し上等なものにしている。

 

・役者たちの素晴らしい演技

 特にアンガーリー・ライスの素晴らしい演技。二代目エマ・ワトソンと言える強気と弱さの融合具合。大人びているものの、純粋さをなくしていない。あまりにも純粋であれば、ラッセル・クロウは離れてしまったに違いない。どこか危なっかしく、生意気なのに、最後の最後には弱さと純真さをのぞかせる。

 

 

・車社会の暗部と、その輝かしさ

 この映画はバカみたいな陰謀論物ではあるが、アメリカの持っている車社会に対してのアンビバレントな考えを表出している。

 この映画は車会社を悪役にしているが、主人公たちが乗っている車は常にきらびやかで、カッコいい。特にライアン・ゴズリングはシーンが変わる度に新しい車に乗り換えているようだ。

 アンガーリー・ライスを助けに行くシーンもそうだ。ライアン・ゴズリングは真っ赤なスポーツカーに乗り込み、さっそうと(それこそヒーローのように)走りだす。そして、アンガーリー・ライスを助けるのは主人公ではなく、どこの誰が乗っているかもしれない、通りすがりの車なのだ。ブルーフェイスを殺したのはラッセル・クロウだが、娘を助けたのは、謎の車であった。それは、何かを暗示しているのかもしれない。

 結局、アメリカを作り上げたのは車なのだ。デトロイトであり、その中で汗水を流して働いてきた男たちなのだ。そして、彼らは忘れられた。

 最後に、結局は車は来るぞ、と言い残す悪役言葉は、その通りだった。

 今のアメリカ社会は、デトロイトの男たちによる革命なのか。忘れるな、という叫びなのか。