ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】大丈夫じゃない世界を絶望した上で、肯定してほしい~『天気の子』を観て~

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 映画『天気の子』を見てきました。

 『君の名は。』のサントラをずっと聞き続けているくらいには、前作のことはそれなりに好きではあり、今作については前作を超えることは難しいだろう、という感じで、ハードル低めに見てきました。

 つらつらと思ったことを。

 

・いい作品だと思う

 ネタバレしない程度に前評判を聞いていた感じでは、賛否両論という感じだったので、どれだけの奇想天外な作品なのか、と思ったが、なんのことはない、基本的には真っ直ぐな物語で、非常に読後感が良かった。

 前作よりも確実に良くなった部分として、この二人が好き合う理由が、わかりやすかった。

 前作は、凡百の脚本家であれば、必ず入れ替え時に描くべき部分を抜いていた。それは、二人がそれぞれに持つ家庭などの問題を、入れ替わることにより客体化、ないしは別人の力で打破し、それ故に惹かれ合う、というシークエンスだ。それが無い為に、恋愛弱者である自分にとっては「この二人、いつ好きになったんだ?」と首を傾げてしまった。

 その弱点を、今作はきちんと晴れ女業シーンで描き、こんな女の子なら好きになるわ、と思うことができ、なおかつヒロインも主人公のおかげで天職を得ることができ、そらもう惚れてまうやろう、と理解できた。

 そして、その二人が選んだ結果によってセカイの形が変質してしまう、というのは割とわかりやすくセカイ系であり、新海誠作品を見たな〜、という読後感を得られた。

 

・『君の名は』ほどの感動はなかった。

 理由の大部分はRADWIMPSの責任?にあると思う。

 逆に言えば、僕にとっての『君の名は。』が、RADWIMPSの作品だった、ということでもある。

 

 前作において、代表すべき曲は『前前前世』ではなく、『SPARKLE』であり『なんでもないや』であった。そして、この二曲に通じているテーマとしては、「今は有限」であり、「いつか終わるものとしての今」について歌っている、というものだ。いつか消えてなくなる、だからこそ、この出会いは素晴らしく、愛おしい。

 しかし、今作の主題歌では、ただあけすけに愛の無限大の可能性について歌っているように思われる。

 実のところ、映画の終わり方(ないしは進行)としては、2作ともそれほど変わってはいない。ハッピーエンドであり、未来のある終わり方だと言える(犠牲者の有無が大きく異なっているが)。違うのは、そこに添えられた歌であり、その歌詞だ。

 前作は、映画の終わり方とは真逆の歌詞でエンドロールが始まる。一瞬前まで、エンドロールの直前、二人は名前を言い合い、恐らくは結ばれる。しかし『なんでもないや』と一緒にエンディングが始まった瞬間、その愛は有限であり、観客には想像もし得ないが、おそらくは終わるのではないか、という不安が漂う。それこそ、二人の間を通り過ぎた風が、どこか寂しさを誘うように。

 今作は、「大丈夫」と言ってエンドロールが始まる。まっすぐだ。なるほど、世界の運命は君の肩に乗っかっている。でも、大丈夫。ぼくがいるから、、、、

 前作は、全くそうではない。あの二人は運命のおかげで出会い、そして結ばれる。しかしながら、それはもしかするとヒロインの両親と同じ末路になるのではないか。今この出会いもまた、いつか忘れてしまうのではないか。観客にはわからない。もともと、なんで好き合ったかもわかりにくいこの二人が、どんな理由で分かれるのか、想像もつかない。

 だからこそ、この二人の幸せを願わずにはいられず、今を愛おしく思う、というエモーションへとつながる。

 そこが、『天気の子』にはない部分であり、『君の名は。』と比べて物足りなく感じる部分ではないかと思う。

 

RADWIMPSの良さは、「時空への言及の有無」ではないか

 『天気の子』を平たく行ってしまえば、「環境」がテーマであることに対して、『君の名は。』は、「時空」をテーマとした作品だった。そして、「時空」こそ、RADWIMPSの十八番のテーマである。

 昔のRADWIMPSの歌う内容といえば、基本的には「今(の僕たち)」に対応する「過去」や「未来」に対して、どう向き合っているかを歌っているに過ぎない。時と空間は、密接に関係している。そして「時空」とはどこまで表現しても、私的な言葉でしか表現できない。つまりは、公的な「環境」には、あまり触れられない。

 さらに言えば、野田洋次郎はそこに「自己肯定」と「終わりの予感(ないしは、すでに終わってしまったという悔恨)」を混ぜる。それこそが、彼の真骨頂だ。

 物語の始まりは、すでに終わりを内包している。僕たちの人生や素晴らしい時間は、いつか必ず終わる(終わりの予感)。それでも、いやだからこそ、僕たちは今を生きる(自己肯定)、というのが野田洋次郎の一番調子のいいときに書く歌詞だ。このアンバランスさと甘ったるいナルシシズムが、厨二病的であることは否定しない。というより、厨二病的であるからこそ良いのだ。

 厨二病とは、罹患しない人間には良くわからないだろうが、幼少の人間が持つ万能感と現実のせめぎあいの中で生まれる病だ。ある意味、それ自体が必ず終わる、人生における執行猶予のようなものだ。現実は基本的に、僕たちを大人にする。そしてそれは、やはり寂しいものなのだ。

 しかるに、『天気の子』は「大人にならないで済む方法」を編み出そうとした物語であり、それ自体は否定するものではないものの、RADWIMPSとは、実は相性が悪かったのかもしれない。

 ただ、今作の曲の中でも、「大丈夫」のニュアンスを前作の「なんでもないや」に近づけられなかったものか、と惜しく思ってしまう。

 あの「やっぱり、なんでもないや」は、どう考えても「なんでも」あるに決まっているし、何なら、気づいてほしい気持ちも少しある。ただ、そんなことに時間を無駄にしている場合じゃない、僕らには今しかないんだ。なぜなら、やっと君に出会えたんだ、、、、、

 

 

・主人公は雨が嫌いであるべきだった

 個人的には、主人公があまり雨を嫌がっていないことがマイナスではあった。

 どちらかと言うと、雨の中でも楽しく生きている感じで(それはそれで良かったのだが)、彼が最後にヒロインを選ぶ価値が減ったように思われた。何なら、船では全身に雨を浴びて楽しそうにしていた。あのシーンは何だったんだろう。

 彼にとって、別に雨の東京は悪いものではない。なら、好きな女の子を選ぶ方にインセンティブが傾いても問題ないようにも思える。

 回想で、彼は晴れた世界を夢見て島を飛び出し、東京に来た、となっていた。ならば、雨の中では陰鬱に過ごすべきなのだ。冲方丁が「主人公は雨男であるべきだったのでは」と言っていたが、まさしくその通りだと思う。猫に雨なんて名前をつけるはずもない。

 彼は雨から逃げようとし、晴れの世界に行きたくて東京に来て、そこでも雨が降っている。俺の人生は雨ばかりだ。どうしようもないのか、というところに、晴れの世界を持ってくる女性が現れる。彼女の力があれば、晴れの世界に行ける。

 しかしながら、その代償として、彼女の命を差し出さなくてはならない。さて、彼はどうするのか。

 大嫌いな雨の世界で、愛する女性と暗く過ごすのか。それとも、彼女のいない晴れやかな世界を選ぶのか。(しかも、後者は東京を救った英雄にもなれる)

 この二択であれば、彼が雨の世界を選んだときのカタルシスも高まり、夢に二人で帆を張る意味がある。怖くないわけはない、でも僕らは子供のままで、生きていくのだ。この雨の世界で。

 

 恐らくは、心理的なブレーキとなる陰鬱的な世界を嫌っての脚本だとは思う。東京での生活を楽しく見せることの方が、客の受けも良いとは思うし、個人的にも、あの疑似家族の描き方は好ましいものだった。なので、あまりあげつらうべきではないのは確かだが。

 

・手錠つかってよね

 あの手錠、絶対に二人をつなぐのに使ってほしかったよね。

 

・人の生き死にの問題について

 今作のエンディングでは、雨を止めなかったために、家をなくした人間や、それこそ命を落とした人間もいるに違いない。

 ただ、そこに大きな言及はない。正直、それがセカイ系だ、とも言える。セカイ系の主人公は、どこかでセカイを背負うことをやめる。なぜなら、セカイ系とは、一種の自己肯定の物語だからだ。

 『君の名は。』も、運命という大きな自己肯定が働いていた。死人を蘇らせた、という意味では、前作でも世界の在り方を大きく変えた、とも言える。なので、そこまで重要な問題には感じられなかった。子供はそういうもんだしな、と。

 

 

 ・小栗旬は良かった

 個人的に、小栗旬の主演作で好きなものはなく、また役者としてもそこまでの演技は期待していなかった。しかし、今作では徹頭徹尾、小栗旬の演技は良かった。一本調子ではあったが。本田翼も、ティーザーのときの「おや、これは大丈夫かな」という心配ほどにはだめではなかったと思う。ただ、小栗旬にはそれ以上の驚きがあった。

 今後も声優としての道は開かれていると言っても過言ではない。

 ただ、最初の船に乗ってた理由は何だったんだろう。

 

平泉成で笑ってしまった

 刑事役で出すのは卑怯。

 

・弟の存在価値について、未だに考えてしまう

 女装男子以上の意味を、未だに見いだせずにいる。

 

www.youtube.com個人的に、エンディングで頭の中に流れていた曲。

映画の終わり方とは真逆だけど。

 

 

Amazing still it seems
I'll be 23
I won't always love what I'll never have
I won't always live in my regrets

 

未だに、すごいことだなって思えるよ

僕はもう23になって

持ち得ないものを愛し続けることはないだろうし、

後悔の中で生きるつもりもないんだ

【ネタバレ】海外の「怪獣映画」というもの~『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観て~

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 映画館で『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観てきました。

 『シン・ゴジラ』の出来栄えの良さに評価を落としていた前作のギャレス・エドワーズ版ですが、個人的には「ゴジラ映画として、別に良い部類では」と思っていました。今作は監督が変わったので、企画が上がったときは期待していませんでしたが、上がってくるトレーラー映像やシーンの一枚目を観ていくに「これはやばいかもしれない」と期待値マックスで観に行きました。

 以下、徒然。

 

・とりあえず、一枚絵としての美しさはダントツ

 あらゆる批評家が口にするとは思うが、とにかく怪獣が出てくるシーンや、立っている姿を写すシーンは、何かもう神話の一ページのような様相だった。場面全体を、それぞれの怪獣のイメージカラーに統一したことも、全く現実感のないファンタジックな世界観を作る一因となっており、これが良い意味で作用した結果、観たことのない怪獣映画になったと思われる。

 正直、和洋問わず、今まで観たことのある怪獣映画の中でも異色な作品だと思う。

 唯一似ているとしたら、初代ゴジラや、最近のリメイク版キングコングとかになるのかもしれないが、それをよりマッシブな映像で表現しており、映画館で観れて本当に良かったと思った。

 なんというか、観ている間ずっと「俺は今、なにか猛烈にすごいシーンを見ている」という感慨に浸れる、稀有な映画である。

 

キングギドラの造形

 正直、生物としてのキングギドラの造形は、ゴジラよりも難しかったと思われるが、割とすんなりと普通の龍にしてくれていた。

 三首の中でヒエラルキーが存在していたのもユーモラスでよかった。左の首に「おい、お前やめろや」と真ん中が噛み付くなど、意思を感じられて好ましい。

 

ラドンが白眉

 個人的には、ラドンの空中ドッグファイトシーンが凄まじく良かった。ああいう大きな生物を描く際は、スピード感はかえって損なわれるものなのだが、そこを逆に凄まじい速度で飛翔させた結果、もう訳がわからないが、なんかすごいシーンになっていた。

 

・巨大な生物との対峙

 こういう作品では、やはり人間と巨大生物との対峙シーンが一番の見どころでもあるのだが、それについては現実感がなさすぎて、わりと薄らいでしまったように思う。

 ただ、神話的な世界観という意味では、物語の動きを削ぐことにはなっておらず、バランスは良かったのではないか、とも思う。

 

 

・海外での怪獣映画とは

 今回の作品で個人的に考えていたのは、日本での怪獣映画と海外での怪獣映画は、根本的に楽しみ方が違うんだな、というものだ。

 それは、日本での怪獣映画とは、”怪獣を「見る」映画”、である事に対し、海外においては、”怪獣を「体験する」映画”、ということになると思う。

 このゴジラという一連のシリーズにおいて、重要なシーンでは必ず人間と怪獣が同じ場所にいることが多い。ドッタンバッタン大騒ぎしているところに、人間も放り込まれて、その中で大変な目に遭う、というのが映画を楽しむ上で重要なシークエンスとなる。

 日本の怪獣映画は、果たしてそうではなくなった。最初はそうではなかったが、ゴジラシリーズが次第に怪獣同士の戦いにフォーカスしていくに連れ、怪獣の存在を遠くから眺める映画になったのではないか、と思う。もちろん、それは日本特撮のスーツアクターが実際に戦う、という撮影方法であったため、それ自体が問題だとは思わない。そして、それを追従した『シン・ゴジラ』も基本スタンスはそれと同じだ。何度も言っているが、それが問題だと言っているのではない。文化の違いだ。

 おそらく、今作の不満点として挙げられるのが「怪獣同士の戦いが少ない」というものが多いと思う。戦ってはいるのだが、どこか分量に乏しいように感じる。それは、戦っている最中に、横でチョコチョコ動いている人間を追ったりして、怪獣ばかりにフォーカスされないからだ。ただ、それは仕方ない。この映画で描かれているのは「こんな所には一秒だっていたくない」という痛みだ。

 阿鼻叫喚が交差する、怪獣同士の戦いの現場にいきなり放り込まれ、人間たちは泣き叫びながら、なんとか生きようと必死にもがく。海外の怪獣映画は、基本的にそれを見せようとしている。怪獣は舞台装置でしかない。

 そう考えてみると、日本人の映画監督で海外での評価が高い人は、必ずと言っていいほど痛みに敏感だ。これは一種の評価基準になるのかもしれない。

 

 何にせよ、怪獣映画として最高峰の映像で、怪獣そのものを堪能できる最高の作為品だったと思います。

【ネタバレ】ヒーローに呪いは必要か?〜『スパイダーマン: スパイダーバース』〜

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アニメーション映画『スパイダーマン: スパイダーバース』を観てきました。スパイダーマンの映画は果たして何個目だ、というくらいにリブートの多い作品ですが、人気者の宿命といえばそれまでか。
徒然と感想書きます。


・素晴らしい映像
スパイダーマンの映画は、他のヒーロー映画やSF映画同様に常に最新の映像技術の博覧会のようなものとなるが、今作もまた最新CG映画の見本市の色合いが見て取れる。
詳しくはパンフレットを見ていないので分からないが、実写と見紛うばかりの風景と、その中にカートゥーンライクなキャラがいても全く浮いている感じがしない。恐ろしいほどに美しい色彩と、そこに矢継ぎ早に繰り出される二次元と三次元の架け橋のような演出、動き。
実写のように見えすぎることに意味はない、ということを百も承知の映像美は素晴らしいの一言。
この映画にお金を払う価値があるとすれば、まさしくその映像美だ。


・ベンおじさんの説教という呪い
スパイダーマンのリブートはファンに色々な感情を思い起こさせるが、その複雑さの一つには「またベンおじさんの説教を聞くのか」「時報(ベンおじさん)」という感情も含まれる。
ベンおじさんの教えはスパイダーマンという作品を、ただのおちゃらけてPOW!とか言いながら悪人を殴りつける作品から、大人まで魅了する暗さを持つ作品に昇華させた、最大の功労者と言える。
スパイダーマンの原作は明るい主人公とは対照的に暗く、陰鬱な部分が色濃い。その明るさすらも、影を濃くする効果を持っているほどに。それはベンおじさんの教えが、「力を使うことは、その対価を支払うこと」と言っていることに他ならないからだ。
つまり、この教えは、言ってしまえばスパイダーマンを「抑えつける」教えでもある。この教えは彼を解放せず、常に首筋に置かれたナイフのように彼の人生に影を落とす。スパイディの人生は、常にこの教えがあるために、自らの責任の代価を支払いながら、彼は傷だらけのままヒーロー稼業に勤しむ、という状態となっている。(『アメイジングスパイダーマン2』はそこを描ききった名作だと思うが、世間の評価は低い)
それに対し、今作の教えは「解放」だ。今作でも叔父が目の前で死ぬことで、マイルスはスパイダーマンになる。そこには同じ悲しみ、同じ痛みがある。(痛みの共有はマーベル映画では重要な概念だ)しかし、今際の際の叔父の言葉は、ベンおじさんとは真逆だ。錨のようにピーターパーカーの心に居座ったベンおじさんとは違い、今作のおじさんは「お前の好きなことをするんだ」と背中を押す。少なくとも、力の抑制を教えるのではない。
それを無責任と言うことはできる。ベンおじさんの教えはたしかに正しく、マイルスはその責任に対して未だ無自覚だ。いつかその責任を取る日がやってくる。ただ、それが今である必要はない、というのが今作の話だ。
「ヒーローは犠牲となる者」とすることは簡単だが、それはヒーローに対して求め過ぎなのではないか。彼らの傷の上に成り立つニューヨークは確かに美しい。だが、それはあまりにも残酷な徒花だろう。
今の世界は、おそらくは誰かを犠牲にすることに対して感じやすくなってしまった結果、目を閉ざそうとしているか、なんとか救おうとしているか、どちらかに別れているのかもしれない。それが移民の問題や、すべての問題に通じているのでは、と個人的には思う。そして、ヒーローとは誰よりも感じやすい人間なのだ。感じやすいからこそ、誰かを守らずにいられないような。たとえ、不格好で、傷ついたとしても。
今作は思想的にも現代的にブラッシュアップされた作品だった、と言える。


・スタン=リーのシーンは涙腺崩壊
スタン=リーが出てくるヒーローグッズ店のシーンは、もとより悲しい演出が施されていた。そして、悲しみを覆うほどのネタ要素も。しかし、今となってはそれすらも「スタン=リー節」に感じられ、涙を流さずにいられなかった。
もはや、全てのクリエイターに対して投げかけるようなそのセリフは、脚本家の意図を遠く投げ飛ばし、遺言のように感じた。
もちろん、ここで言っている「いつかはスーツに合うようになる」というセリフが、マイルスが後にスパイダーマンとして覚醒することの伏線となっているなど、物語上重要であることには変わりないのだが。(スーツと顔の反射がどの位置にあるかなど、小気味よい演出も悪くなかった。クドかったが)
ただ、人生はいつでも返品不可だし、いつだって自腹だ。


・音楽も素晴らしい
スパイダーマンはストリートのヒーローだ。そんな彼にはヒップホップが似合うのは当然か。とにかく、サントラは買う。


映像も思想も素晴らしく洗練された、まさに新しいスパイダーマンの世界に没頭できる良作だった。
スパイダーマン映画で一番、という人がいてもおかしくはない。

【ネタバレ】脳筋でいいのさ~『アクアマン』を観て~

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 DC映画の『アクアマン』を観てきました。

 DCのシネマユニバースといえば、基本的には駄作を量産する肥溜めと化していたわけですが、『ジャスティス・リーグ』以降の作品は必ずしもそうではない、という評価であり、今作も色々と言いたいことはあるが基本的には楽しく痛快で、映画館で見る価値のある良作になったといえます。

 以下、徒然。

 

・客が観たいものを提供するジェームス・ワン

 今までのDCの映画の問題点は「客が観たい映画ではなかった」の一言に尽きると思う。客が観たいのは「ヒーローが格好良く、敵をなぎ倒していく」映画が見たかったのに、ずっと悩むか、なぎ倒すのはビルばかりで敵は健在、みたいなものばかりであった。『マン・オブ・スティール』のことを言っている。今後も言っていく。

 もちろん、そういう映画が悪いわけではない。ただ、シリーズの(それも今後、いろいろと長く続いていく連作の)1作目にやることではない。3作目くらいにやって、シリーズを緩やかに終わらせる作品でやることだ。

 『アクアマン』では、そんなことはしない。客が観たいであろうアクションを多く見せ、その間につまらない政争劇や津波の大仰なシーンを見せる。まさしく「ワイルド・スピード」作品の監督だな、という印象そのままである。疑似ワンショットで大立ち回りを見せる美男美女(ニコール・キッドマン含む)が、屈強な敵をボコボコになぎ倒していく。その姿にポップコーンが進む。

 ただの大立ち回りの連続ではなく、例えばイタリアではワインを使った超能力など、客を飽きさせないバリエーションも用意する。海の中ではスーパーマンよろしく飛び回ることもあるが、一対一の対決なので『マン・オブ・スティール』のように見にくいこともなく、緊迫感も爽快感もある戦闘シーンだった。

 『アクアマン』という枠を出ない程度に、客層をきちんと理解し、何を観たがっているのかを調べ、提供する。まさしく職業作家として最高の仕事をしたと言える。

 

・予想よりも下を行くサービス精神

 サハラ砂漠に行くシーンでtotoの『アフリカ』が流れて来たときは「勘弁してくれ」と笑いそうになったが、そういう無意味なほどに分かりやすいものを詰め込むところがこの監督のらしさなのかもしれない。

 「太古の島!? そんなん恐竜おるにきまっとるやろ!」という短慮のすぎる頭で、トライデントのある島はジュラシックパークとなっていたが、それも観ていて「勘弁してくれ」となった。

  どこまでが真面目で悪ふざけなのかがつかみにくい監督だが、一言でまとめるなら”ヤンキー節”というのが近いかもしれない。とりあえず、ノリと勢いでやってみればなんとかなる、と思わせる何かがある。

  全てを過剰にしていく所はマイケル・ベイに近いものがある気もする。

 

 MCUの面白くない作品くらいなら太刀打ちできないくらいのレベルの作品にはなったと思う。

 次回作が楽しみ、とまでは思わないが、このノリで楽しませてくれるなら、別に映画館代は高くないと思う。

【ネタバレ】ロシアは未だに深淵~『クリード 炎の宿敵』を観て~

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・スポ根映画としてみたら十分面白い。何も考えず、楽しめる良作になったと言える。

 

ドルフ・ラングレンのロシア語を堪能できる。というのはさておき、ドラゴ側の話は良かった。ドラゴ親子の葛藤や交流、そしてラストの一緒に走り出していく姿は素直に感動した。

 

クリード1に比べると、やはり作品全体としてはジャンル映画化し、普遍的な良さはなくなった。

 前作は、それこそボクシング世界の縮図としての「アメリカの再生」を描いた作品だったと思う。ヨーロッパに蹂躙されたアメリカボクシング界の再生劇であり、最後の舞台がイギリスだったことも含めて、一種の親子の話でもあった。親がなし得た偉業を、子供はどのように受け継いでいくのか。また、受け継ぐ意味はあるのか。そういう事も含めた作品だったし、そんなところまで射程に含めながら、非常にコンパクトにまとめ上げることのできた、まさしく傑作だった。

 それに対して、今作ではその視座はない。あるとすれば、親子の関係だろうか。親から子に、一体何を受け継ぎ、そしてそれをどう受け止めるのか。

 例えば、アマーラの耳への障害が、この映画の中で何を意図しているかは難しい。良いものも悪いものも、受け継いだものすべてを受け止めて前進する、ということを言いたいのではないか、と考えるも、この映画ではそこには言及しない。ほのめかしすらもない。ただ与えられるだけで、あとは解釈のみが存在している。

 

 もっとも、ロッキーですらも、1以降はただのスポ根映画になっていたことを考えると、それ以上を求めるのは最初から酷である、とも言える。

 

・ロシアサイドの描き方はどうだったか

 クリード1がボクシングの世界の縮図であったとしたら、その中におけるロシア(旧ソ連)はどのような存在になるだろうか。ボクシングファンからすると、それは現代ボクシングの頂きに君臨している、という答えになると思われる。

 長かったクリチコ政権が終わりを告げ、アメリカにも久方ぶりのヘビー級王者が生まれたとはいえ、未だにPFP最強と呼ばれるのはロマチェンコであり、その少し前はゴロフキンだった。

 そんな世界から見ると、ドラゴ親子の描き方はあまりにも古臭く、残念と言わざるを得ない。さらに言えば、ロッキー4よりも退化している面ですらある。

 ロッキー4のドラゴはアマチュア出身の強いボクサーだった。現在、ボクシング界を支配しているのは五輪でメダルを取った猛者たちだ。その観点からすると、ドラゴというキャラクターは非常に現代的な存在だったと言える。ロマチェンコなど、プロになって3戦で世界王者になったところはドラゴの現実版にすら見える。

 何が言いたいかというと、ボクサーとしての描き方が現実から乖離しすぎている、ということだ。ドラゴのボクシングスタイルはパワー偏重で、荒削り、ということだったが、それは現在のロシア系ボクサーとは少し違う。現代のヨーロッパのボクサーはアマチュア上がりの技術力を全面に押し出し、そこにパワーを加えた攻防一体のボクサーであり、その技術力でアメリカのボクサーを圧倒している。また、ただのテクニック偏重なのではなく、体幹を鍛え上げ、少ない動きで大きなパンチ力を出すこともできるなど、現代スポーツの申し子たちでもある。あのゴロフキンですら、防御テクニックはアマチュア出身らしく高いものがある。

 ドラゴは、息子もアマチュアに進ませるべきだったし、そこを「一度大きく負けたから」という理由で除け者にはしないはずだ。除け者にするにしても、ロシア内でドラゴがのし上がる過程を見せるべきだったと思う。実力で黙らせる野獣、ということであれば、まだ納得はいくものの、いきなり出てきて、となると「他に強いやつはいなかったのか」と疑問に思ってしまう。

 これも、1の脚本が良すぎたせいであり、ここまで求めるのは間違っているとは思う。ある意味、ただの言いがかりなので、この作品を貶める要素にはならないとは思う。

 

・4のドラゴって、最後は良いやつだった気がする

 うろ覚えながら、あのドラゴは、何だったのか。「俺は負けたから、何もかも失った」って言ってたけど、その前に歯向かったからでは。まぁ、歯向かったから干しても良いわけではないが。

 

 

 

 

 

 

 

【ネタバレ】僕らはまっすぐ世界を見れるのか~『ペンギン・ハイウェイ』を観て~

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 森見登美彦原作『ペンギン・ハイウェイ』を観てきました。

 原作は読んでいないので、そういう意味では正しいレビューではないと思います。ただ、森見登美彦作品では『有頂天家族』をよく読んでおり、また『四畳半神話大系』は原作、アニメともに好きです。

 徒然と思ったことを書きます。

 

森見登美彦の映像化としては正解

 森見登美彦作品の面白さの半分は、その文体である。そう言ってしまっても問題はないと考えている。映画『夜は短し歩けよ乙女』が、映像作品としての面白さはあるものの、個人的に響かなかった理由はそこにある。逆に、アニメ版『四畳半神話大系』が大成功だった理由は、個人的にはその超高速独白を延々と全話続けたからに他ならないとも考えている。

 つまり、今作ではその映像的な美しさとは別に、主人公の独白が多くを占め、そして口調も基本的に、読みやすい文語体的な口調をそのまま使ったおかげで、面白さの半分は担保できている、と言っても過言ではない。

 というのも、森見登美彦作品における文体、独白というものは、それ自体が作者の、現実に対する距離を物語っているからだ。森見登美彦は、基本的には傍観者である。世界を批評的に見ているからこそ、その物語はどこか悲しく、幻想的であり、そして優しい。

 

・映像が素晴らしい

 オープニングから、個人的には心を鷲掴みにされた。近年、アニメでも流行っているのであろう、マーティン・スコセッシのような部屋の俯瞰に、アオヤマくんの代表的な独白が重なる始まりから、ペンギンと出会い、そして町から山の中へとペンギンが入り込んでいくシークエンスで、劇場版アニメーション作品としての尊厳のようなものを垣間見た。有り体に言えば、手間も金もかけている、ということをまざまざと見せつけられた、というところだ。

 キャラクターデザインも、オタク臭すぎず、かといって中村佑介的な色から離れすぎず、野暮ったくもなく、フレッシュなデザインだったと言わざるを得ない。全員の頬に朱が射している部分は少しあざとく見えたものの、すべてのキャラクターデザインが正解と言えるバランス感覚で作られている。正直、ここまでちょうどいいデザインは、思いつかない。正しい言い方ではないが、ガイナックス作品からオタク臭さを脱臭したような作りだと言える。

 

・アオヤマくんという子供

 主人公のキャラクターについては、森見登美彦作品の集大成のような人物像系だと思う。

 彼の美徳は、世界を肯定しているところだ。冒頭のいじめっ子との対比で、それは分かりやすく描かれている。ペンギンを「珍しくない」「つまらない」と断定するいじめっ子に対し、主人公は「そうではない」とはっきりと言い返す。主人公にとって、世界とは驚きに満ちあふれており、一つ一つは確かに日常的で、ありふれたものかもしれないが、その中に入り込むことで、世界はまだ見たこともない顔を見せつけてくる。

 初期の森見登美彦作品において、主人公はどちらかといえば、世界を否定していた。もしくは、否定するように世界に飼い慣らされた、とも言える。アオヤマくんのような少年の成れの果てこそが、森見登美彦作品における主人公であり、腐れ大学生であった。初期作品では、そういった青年たちが、自分たちの世界を肯定することに立ち返る作品が多かったと思われる。アニメ版『四畳半神話大系』などは、その性質をより際立たせる物語展開を行った。自分の灰色だと思っていた大学生活が、実はそれ自体が素晴らしく、かけがえのないものであった、と気がつく瞬間、彼は世界を肯定したのだ。

 対して、今作の主人公は、いわばその前身であり、なおまだ他人を否定することも知らない少年として描かれている。例えば、彼は幼い妹や、クラスメイトでドジっ子のウチダ君(この映画で一番可愛かった)を、文句も言わずに助ける。彼は、誰も蔑まず、否定しない。彼にとって世界とは肯定の対象でしかないのだ。そういった主人公だからこそ、まっすぐに世界を見つめ、そしてまっすぐにお姉さんへ向かっていくのだろう、という終わり方を見せている。

 

・世界のルール作りの曖昧さについて

 今作における一番のネックとは、お姉さんとはどういう存在で、ペンギンとは何で、結局“海”とは何だったのか、という風に、あまり答えのない事柄が多いことだと思われる。簡単な説明はあるが、明確に答えを言明しているわけではない。確かにそれはノイズであった。

 ただ、それに関して擁護をするならば、その答え、ないしはスタンスをアオヤマ君が考えたくなかったから、だと言える。

 この映画の物語を押し進めるのは、様々な謎だ。それはペンギンであったり、“海”であったり、お姉さんの能力であったりする。それらの謎を解明し、答えを見つけることが物語の目的であった。しかし、実はその答えよりも大事なものがお姉さんであった、という物語に、急激にシフトチェンジしてしまう。

 例えば、夜、妹が「お母さんが死んでしまう」と主人公に泣きつくシーンが有る。それは単に、「“いつかは”お母さんは死んでしまう」という事実に妹が気がついただけであった。主人公は冷静に「命とはそういうものだから」と諭す。しかしながら、お姉さんに関しては、冷静ではいられなかった。彼は「お姉さんの喪失」という可能性に対しては、いついかなる時も可能性に蓋を閉め、答えを出さないようにしようとしてきた。最後になっても、彼は答えを口にしないように努力をした。

 しかしながら、最後は現実が彼とお姉さんを引き裂いた。命とはそういうものであり、世界とはそういうものなのだから。彼ははからずも、自らの言葉を証明してしまった。

 

・「言わない」という関係性

 『有頂天家族』などでも描かれていたが、森見登美彦作品において、「言わなくとも伝わる」という関係性は、非常に重要なものとして描かれる。例えば、『有頂天家族』の主人公と、師匠である天狗の関係性はそれを如実に表している。

 横暴な師匠と、それに不承不承つきあう弟子、という体裁を彼らはとっているものの、実のところ、互いに(それぞれにとって可能な範囲ではあるが)敬愛しあっている。それを弟に見破られても「恥ずかしいから言うなよ」と口を封じる。

 また、父を殺したのは自分かもしれぬ、という後悔で蛙になってしまった次兄のことを、「恐らくはそうではないか」と気がつきつつも、優しく受け入れる母なども、同じく「言わなくとも伝わる」関係性と言えるだろう。(そもそも、『有頂天家族』という作品は、狸鍋となった父を介した、伝えることのできない思いの交錯する様を描いた作品だったとも言える)

 今作においてもそれは同様だ。主人公はお姉さんへの思いを、最後まで本人には言わない。本人どころか、周囲にも言わない(胸部への飽くなき興味は断言するが)。だからこそ、最後に「お姉さんにもう一度会って、どれだけ好きだったかを伝える」という決意が、大きな感動を生むのだ。空き地に帰ってきたペンギン号を見つけ、主人公は目を輝かせた。ペンギンはお姉さんとのつながりであり、そして、いつしか自分もまた、このペンギン号と同じことをするのだ、という決意のようでもあった。

 個人的には、そこは良いと思う半面、やはり言葉にすること、行動にすることも別の感動を生む、と考えている。アニメ『フリクリ』や『エヴァンゲリオン破』などのガイナックス作品は、逆に伝える方向にシフトチェンジした。個人的には、その方が好みではある。

 しかし、森見登美彦らしい、という意味では問題はない。

 

・大きな問題点は、お姉さんの登場時間

 途中に大きな断絶があるため、登場時間が短く感じる。

 “海”の研究をしている間、お姉さんがあまり出てこないものだから、映画だけで見るとお姉さんとの交流は少なく、どちらかと言えばハマモトさんのほうがヒロインのように見える(さらに言えば、ウチダ君は徹頭徹尾ヒロインのようであった)。そのため、原作未読者には「お姉さんのどこが好きなのか」「胸がでかいからじゃないか」という認識になるのでは、と感じた。

 と言うより、出ずっぱりにしてもらえないものだろうか、とは思った。蒼井優の棒っぽい演技も相まって、お姉さんは魅力的だった。ペンギンを整列させ、突撃していく様は痛快でありながら可愛く、確かに少年にとっては刺激の強い女性である。

 

宇多田ヒカルの曲は素晴らしい

 エンドロールは曲の良さで泣きそうになった。しかも映画にあっている。

 おやすみ、という言葉はお姉さんへの鎮魂歌のようでもあるし、お姉さんからアオヤマくんに伝えているようでもある。

 謎は終わらない、ということは、この世界はずっと続いていき、その細部は複雑になり続ける、ということだ。その度、世界の複雑さ、奇妙さに驚くことだろう。そしてその驚きは、つまりはお姉さんに対する驚きだ。世界とは驚くほどに美しく、そして訳もなく好きなのだ。

 そういったまっすぐさを持った映画であり、ぜひ腐れ大学生や、そのまま大人になってしまった不純な人間こそ、夏の終わりに見るべき作品だと思われる。

【ネタバレ】良い映画だがチグハグ~映画『フローズン・タイム』を観て~

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 アマゾンプライムで映画『フローズン・タイム』を観ました。

 結構前評判が良かったので安心していましたが、考えていた以上に良い映画だったので驚きました。ジャケットがあまり映画とあっていないので、なんとかして変えたほうが良いのでは。

 SF、というべきかファンタジーと言うべきか、ジャンルとしてはヒューマンドラマと呼ぶべき作品。

 

・基本的には笑える映画

 この映画は一本道のストーリーではあるものの、主人公が何かしらの目的を持って行動しているわけではないので、途中までは非常に無軌道に見える。

 例えば、主人公は恋人に振られた(と言うよりは、その後目の前でイチャツカれたりした)ショックで不眠症となっているが、それを苦しんでいる素振りは少ない。と言うよりも、そうなっていることで恋人を忘れないようにしている、とすら読める。つまり、この映画の主軸は不眠症の治癒ではない。

 では、フローズン・タイムという名前が示す能力(というべきか、なんというべきかわからないが)を使った、楽しいエンターテインな人生を送ることが主題歌と言うと、そうでもない。主人公はその能力を使い倒して楽しむでもなく、ただひたすら絵を書くことばかりに使う。(少なくとも、映画で描写する範疇では)

 ヒューマンドラマと呼ばれるジャンル映画によくあることだが、この無軌道っぷりを覆い隠すために、この映画では随所に笑いを散りばめている。そして、その笑いは冷たいものではなく、温かみに溢れた、人とのふれあいの中の笑いだ。そこがこの映画を良い映画にしているところだと思われる。

 この映画は、本当にとりとめもない笑いを、これでもかと散りばめている。悪友二人の馬鹿なやり取りだけでなく、突拍子もなく出てきたカンフーマニアや、幼馴染の下ネタ。すべてが抱腹絶倒、というわけではないが、テンポよく運び込まれるネタの嵐を前に、くだらなすぎて笑えてしまう。

 ただ、それが物語を進めているわけではないことは事実だ。この映画の悪い点の一つとして、やはり無軌道すぎる点が挙げられると思う。ギャグを重ねても、物語への興味を持続させることは難しい。

 

・善人だらけのスーパーマーケット

 この映画の大きな部分を占めるスーパーマーケットは、日常そのものを描いている。基本的には退屈で、時間の進みのない場所だ。ただ、そこに息づく人たちはくだらないことに知恵を絞り(時計を隠すなど)、くだらない笑いを見つけ出し(悪友二人組)、そして、その日常を楽しんでいる。

 フローズン・タイムというタイトルではなく、原題のキャッシュバックという意味で言うと、主人公はこの日常の中から、お金以上の何かを取り戻した、ということになる。それは新しい恋人、という意味でも正解だろう。画家としての成功も正解だ。しかし、実際には彼が取り戻したのは日常だったのかもしれない。

 

・店長というキャラ

 本作中で一番の悪人として描かれている店長ですら、どこか優しく、憎めない。彼の描き方はこの映画の白眉と言える。厚顔無恥であり、自信家であり、誰よりもエゴイストな彼だが、周囲の人間を嫌わないことにこそ、その美徳はある。問題しかない従業員を信頼し、チームワークを説き、果てはパーティーにまで呼ぶ。

 なぜ彼が他人を信頼するか、という謎への答えは簡単だ。全ては、彼のエゴイズムから来ている。彼は自身が素晴らしい人間であることを疑わないがゆえに、他人も自分を愛していることを信じて疑わない。そして、自らを愛する者を、彼は愛しているのだ。

 この馬鹿げたキャラクターは、馬鹿げているがゆえに魅力的だ。

 

フローズン・タイムにはルールがあったほうが良かった

 主人公の時間停止能力は、この映画の主軸ではない。それゆえに、ほぼ説明もない。ただ、それでは本当に謎しか残さないため、人によっては「結局、これは何なの?」というブレーキにしかならない時もあるのでは、という危惧がある。

 また、主人公の独白が大半を占めるこの映画で、能力についての分析があまりないのも気になった。これだけ四六時中、様々な事を考えている主人公が、なぜこんな面白い事象を簡単に受け入れてしまうのか。

 やはり、こういう荒唐無稽なものに対しては、一定の主人公のスタンスを示すべきではないか、というのは感じた。主人公の中で「おそらくはこうだろう」というルールを設けるべきだったのではないか。

 

・そもそも、能力が暗示しているものが不透明

 この時間停止能力には、様々な理由が考えられるが、個人的には以下の3点かな、と推測していた。

 

①スージーと恋人に戻りたいという時間逆行への願望(そこから転じて、恋人がほしいという願望)

不眠症が突き進んだ結果、時間の進行が極限まで遅くなった

③主人公の妄想

 

①が一番ありえた、とは思うのだが、結局は最後も時間を止めており、そうではないらしい。

②については、不眠症が治ったはずが、その後で時を2日も止めている。ジョースター家の血でも入っていたのか。

③は、絵であったり、店長への実際の被害もあったので、おそらくは違う。

 

というように、映画の主軸がないために、時間停止能力もそこに関与したものとならない。

 この映画の大きな問題点はここにある。主題が定まっていないことだ。普通のヒューマンドラマで、特に時が止まらないのであれば、別にこの映画は何も問題がないように思う。もしくは、時間停止がただの妄想であり、主人公の願望を演出として見せているだけなのだとしたら、この映画は普通のヒューマンドラマとして成立したと考えられる。(最後の演出も、二人だけの世界に入りました、みたいな感じで納得できよう)

 時間停止のような荒唐無稽なものを出すのであれば、それはなにかの言い換えであったほうが映画的な主題を強化する装置になる。

 例えば、①の場合であれば、二度出てくる「時間は巻き戻せない」という言葉が、非常に大きな意味を持つ。つまりは、彼の持っている能力は、彼の本当の望みを叶えることができない。そして、二人の恋人を失い、彼がそれでも何かを『キャッシュバック』したとしたら、それは何か、という話に持っていくことができる。この場合は、バッドエンドを描くことになるかもしれないが、能力が映画の主題を説明する装置になる。

 主題がない映画が悪い、というわけではない。この映画は、装置の食い合わせが悪い、ということだ。少なくとも、時間停止は演出だけにとどめておけばよかったと思う。もちろん、それが面白くないのであれば、主題を明確にすれば良かった。

 

 例えば、この映画は何度も過去の話が挿入される。(その挿入のシームレスさは良かった。この映画の美点の一つ)

 もう二度と戻らない、馬鹿げていたが楽しく、美しい日々。それらは時間の不可逆性を演出するのに一役買っていた。さらに、その登場人物がまた現実に出てくることで、その閉鎖性を打ち破り、未来がある演出にもなっていた。(その後、付き合っていないのには閉口したが)

 その話もまた、与太話の一つでしかなく、あまり映画の進行に寄与していることはなかった。

 映画は無駄なことを語れば語るほど、主題が見えなくなり、結果としては茫洋な映画になる。

 良い映画ではあったが、今の評価はたしかに適当だと思われた。