ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】進化とは~EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション~

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『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観てきました。

思い起こせば、初代のアニメ版を観てからすでに15年経っているということに驚きました。

正直なところ、初代のアニメ版以降の作品にはそれほどの思い入れはないのですが、ここまできたら全部見よう、という心持ちで見に行きました。

思ったことをつらつらと書きます。

 

  • 正直、3回位泣きそうにはなった

 流石に古参?のせいか、ところどころで泣きそうにはなった。これはシン・エヴァンゲリオンを観ていたときにも感じたが、積み重ねてきたものがあるので、正直もうすぐ終わるのか、という感傷で涙は出る。

 

 自分でもわりと忘れていたのだけど、初代アニメのときは孤児を引き取っていたよね、と思い出した。一種のギャップ演出にもなっていたけど、キャラクターの深みの部分としても機能していたので、すごくよかった。

 

  • 贖罪というもともとのキャラクター造形

 レントン大好きキャラ、という部分がクローズアップされがちになった昨今だが、よく考えたらエウレカの初期設定として”贖罪”があったように思う。それは孤児をひきとり、育てていた部分にもつながるのだが、そういう罪と罰を設定し、そこにどう答えを出していくか、というのは初期のエウレカのキャラ設定としては存在したし、また、それはオタクには非常に刺さる設定でもある。ヴァイオレットちゃんも似たとこあるよね。

 そもそも、感情のない少女が戦闘マシーンになるってオタクには大好物なんだよな、という中二病の症例を思い出さずにはいられない。

 ともかく、そういった贖罪のキャラクターを久しぶりに出してきたのはすごく良かった。

 ただ、エウレカの責任で生まれたブルーアースの人類が差別的な扱いを受けるものの、自分にはどうすることもできない、という贖罪がもっとメインテーマになっていても良かったように思う。そうしなかったのは、それだと話が全然スイングしないからなんだろうな、とは思う。わからんが。

 

  • ”軍人と(少年)少女”という鉄板の組み合わせ

 ”無骨な職人キャラ”と”純粋な子供”という組み合わせはハリウッドのド定番作劇。昨今だと、ちょっと違うけど『ROGAN』とかもそういう部分が大きかったし、『LEON』だってそう。また、ロードムービーに非常にマッチする。

 今作で一番面白いのはロードムービー部分であり、そこにエウレカの一種の成長(軍人として、どのようにこの世界に順応してきたのか)と、純粋な子供の反駁、元々は同じ能力を持っていた存在としての同情など、様々な感情が絡み合い、セリフ一つ一つに重みを加えながら物語が進行する。

 だからこそ、アイリスが連れ去られた後、改めて自分の罪に直面するエウレカの慟哭こそ、この物語のハイライトシーンだと思う。自分の好き勝手で世界を壊し、更には最愛の人間ですらも救えず、また失敗する。

 そしていじけてからの、アネモネとの会話シーンは、ハイエボリューションをやってよかったと言える部分だろう。終始、アネモネエウレカのいちゃいちゃシーンはすごく良かった。アネモネの服装にもっとバリエーションが合っても良かったとは思うが。

 あと、おばさんネタはもう使い古されすぎているのでやめてほしい。

 

  • グリーンとブルーとか言うくらいなら、もっと色で分けてほしかった。

 今回の劇場版、なんとなく話が飲み込みづらかった。というのも、最初に説明がされるのだが、それがかなり情報量が多く、しかも陣営が込み入っているのでよくわからない。

 問題としては、グリーンアースとブルーアースが「敵対関係にはないけど緊張関係にある」という飲み込みにくい状態であること。作劇として、きっちりと敵対させてたほうが良かったとは思う。リアルじゃない、ということでそうはしなかったんだろうけど、結局お前はどっちなんだ、という風に思う。

 せめて色調とかを緑と青で分けるとか、そういう風にデザインで対処できなかったのか。

 あと、名前をカタカナにするなら、もっと変な名前にするとか? ボダラとかあるじゃない。

 そう考えると、ガンダムというのは実にわかりやすい。デザインもそうだが、”連邦”と”ジオン”だ。漢字とカタカナで分けている。めちゃくちゃ分かりやすい。星界の紋章だってそうだった。

 

  • アイリスとかいう全くキャラのないキャラ

 それ自体を悪いとは言わないが、あまりにも特徴がなくてビビる。こう、なんというか、子供という外形を着込んだ虚無のような存在だな、と思った。ただ、コーラリアンやしそんなもんか、という気もしたし、そのサンプリング感がたまらなくエウレカって感じだ!とも思わなくもない。

 初っ端から「そのブローチ、そんな可愛いか?」と思わせたり、物語を推進させることしか念頭に置いてないキャラ造形は、ある意味で好感が持てた。潔い。

 

 これは本当に驚いたのだが、割と目立つ作画崩壊があって驚いた。一つは、森の中でエウレカとアイリスが口喧嘩をしながら歩くシーンだが、デフォルメにしてもやりすぎじゃないか、というくらいにデフォルメされていた。あそこまで行くと不安になる。

 その前にも、貸し金庫から偽造パスポートや紙幣、銃を取り出し、かばんに詰め込むシーンでも、どこかコマ落ちのような動きをエウレカがしていた。もしかすると、入れるべきコマを入れ忘れていたのではないか。そう思うような動きだった。

 突貫で作ったんだろうか、と少し不安になった。

 

  • もっとロボットの戦闘があっても良かったかな? というか、ロボット対ロボットの戦闘がほぼなかったような。

 エウレカセブンは一応ロボットアニメなので、もう少しあってもよかったのでは、とも思った。最初のホランドとの戦いも尻切れトンボと言うか、あそこをああいう終わらせ方をするなら、最後までに一回はきちんと戦うシーンを入れても良いとは思う。

 ロボットのデザインについて批判する声も聞くが、そもそも格好いい戦闘シーンがないから良いも悪いも言えない。無である。

 ニルヴァーシュほどの思い入れがないにしても、もう少しなんとかならなかったのか。アムロリ・ガズィでももう少し戦ってなかったか? いや、あんなもんだったか?

 というか書いててふと思い出したけど、ニルヴァーシュにも大した思い入れを感じなかった。搭乗するシーンはもう少しなんかあっても良かったんじゃないか?

 

  • みんな特攻は、話的には分からなくもないけど、やるんならそういう説明をしてもいいのかもしれないな、とは思いました。彼らが自発的に、作られた虚構の世界を救おうとしていることは説明しても良いかもしれない。

 みんな特攻しまくるシーンは、ある意味で正しいというか、つまりはデューイの言っている「自ら死を選ぶことが自分という存在の証」に対して、世界を守るという意思を表明し、存在証明をした、という話なんだとは思うんだけど、それでいいのか?とも思わなくもない。それはつまり、デューイが正しかった、という話にならないか? 

 デューイが正しいかどうかは問題ではないかもしれないが、少なくとも、彼自身を改心させないのであれば、彼のキャラクターを立てた意味が薄れる気はした。

 彼自身は、結局は「エウレカに作られた自分が本当に自意識があるか」を問題としていたので、それへのアンチテーゼは「自由意志があることは無意味」とするくらいにしないと意味ない気はする。

 というか、最終的には自死しても自由意志があるかはわからない、みたいな納得の仕方してたような(うろ覚え)。じゃ、物語的にも無駄死にでは?

 

  • 一番の本筋として、レントンのいない世界を肯定する、という話にしていたんだろうけど、だったらその世界で生きて行くのもいいのでは、とは思ったが、、、、

 終わらせ方は、まぁエウレカの最後としてはいいんだとは思うんだけど、お前の十年は何だったの?という気分にはなった。十年をこの世界で過ごしてきて、まぁ大事なこともなにも作らないで、ただひたすら筋トレして酒飲んでました、にしてしまうのはどうなんだろう、とは思った。

 贖罪の話にするのであれば、やはりブルーアースの代表としてなんか頑張る、とか、少なくとも対立している二国間の間でもっと頑張っているように描いても良かったんじゃないだろうか。

 そのためには、ある意味十年なんてスパンをおいた事自体がやりすぎだった気はする。

 

  • ラストは、ニルヴァーシュの不思議パワーじゃなくて人間的な力で勝ってほしかった。

 別の方の考察ブログを読ませてもらって、めちゃくちゃ良い内容だったんだけど、「エウレカとアイリスの関係は偽物が本物を鼓舞する関係」って言ってて「これはクリードと同じ話だ!」とウヒョーってなっていたんだけど、だったら最後はニルヴァーシュの不思議パワーじゃなくて、なんとか人間的な特攻精神で言ってほしかったな、という気はする。これじゃ、結局エウレカも本物じゃね?と。

 

 エウレカセブンの良さというのは、個人的には2つあって、一つは「片思いの成就」と、もう一つは「二度と手に入らない青春」だと思う。ある意味、『ハチミツとクローバー』と物語の推進の仕方は同じなのかな、と思う。

 元々、レントンエウレカの関係性はレントンの片思いで、さらに言えばホランドの片思いでもある。レイとチャールズのレントンに対する思いも一種の片思いだ。

 エウレカセブンには各種多様な片思いがあり、それを成就させていくときにカタルシスがある。

 「バレエ・メカニック」が名作と言われる理由は、まさにドミニクの片思いが成就したからだし、SUPERCARの『ストーリーライター』が鳴り響く中、レントンエウレカが抱き合うシーンで涙するのは、やはり片思いが報われたからだ。それが、たとえ物語の進め方が少し変でも、たとえキャラクターの説明が薄くても盛り上がる理由だ。そこの熱量を高める手腕にかけては、凄まじいものがあったと思う。

 逆に、そのあとに残るのは悲しさだ。チャールズは圧倒的にスペックで勝っているはずの機体なのに、ニルヴァーシュに追いつけない。なぜなら、チャールズにはもう二度と手に入らない青春が、今そこにあるからだ。

 そして、青春は一度手からこぼれ落ちると、もう二度と同じものは手には入らない。

 だが、エウレカセブンのアニメ版では、それをやりきった。レントンエウレカはその青春のまま、遠くに飛び立ち、二度と帰ってこなかった。だから、彼らには誰も手を出すことはできなくなった。

 だからこそ、あのラストは最高のラストだったのだ。二度と追いつかない青春の残滓だけを見上げながら、胸の中でなにかくすぶり続けるような、そんな終わり方だったのだ。

 ある意味、僕たちのようなファンは、あの頃のエウレカセブンにずっと片思いをしているのかもしれない。だから、性懲りもなく新作が出れば見てしまう。そして、げんなりして帰る。

 ただ、その一連の行為こそが、あのチャールズのように、二度と追いつけない青春を追いかけることと同じなのだとしたら、また僕たちは劇場に足を運ぶに違いない。

 

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【ネタバレ】この世は地獄~『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』~

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テリー・ギリアムドン・キホーテ』を観てきました。

 以下、徒然

 

 

・単純に面白い

 個人的に、話の作りが非常に面白いと思った。元の脚本では、なぜかタイムスリップした現代人が、ドン・キホーテ本人にサンチョ・パンサとして連れ回される、というものだったそうだが、それを逆転し、ドン・キホーテを(擬似的に)現代にタイムスリップさせる、という転回は素晴らしいと思った。おそらくは、スケジュールや予算的な都合もあったのではないか、という邪推もあるが、物語として効果的だったと思う。

 というのも、物語をドン・キホーテアダム・ドライバーにフォーカスすることに成功していたからだ。また、本物のドン・キホーテではなく、狂人のドン・キホーテを設置することによって、物語はまさに狂気の世界に入り込んでいく。

 

・前半はほぼホラー映画

 今作のドン・キホーテは、紛れもない狂人だ。たとえ、最期に「私は気がついていた」と言ったとしても、狂人のふりをして大路を走る人間は、狂人でしかない。

 しかも、それは主人公が作り出した狂人なのだ。しがない靴職人だった老人を、役柄に入り込ませるために洗脳し、その結果として狂った世界のまま十年を過ごした狂人。これはもはやホラー映画だ。

 途中、何度も主人公はドン・キホーテから逃げようと試みるも、その度に失敗に終わる。スマホもなく、財布はあるが周りに助けのない荒野が広がる中で、彼は何度も「これは夢だ」とつぶやく。それは、たとえ過去にタイムスリップしていなくても、この世界は常に理解不能で解決不可能な部分を備えている、ということを示唆してくれている。そして、その狂った世界は、自分が作ったまやかしによって顕現したのだ。まるで、そんなつもりもないのに悪魔を呼び出してしまったようだ。

 逃れることのできない「この世の地獄」を、主人公はスペインで過ごすことになる。いや、彼が処女作を撮影したときから、この地獄は続いていたのだ。そう思うと、より恐怖は増す。僕たちは、知らぬ間に誰かを悪魔にしているのかもしれない。地獄は見えない背後から、いつしか僕たちに追いつき、そして、逆に僕たちを引きずり回すようになる。

 映画『悪の法則』などで語られているように、世界は気づいたときには変化し、終わってしまっている。

 

・しかし、どこかコミカル

 恐怖を感じさせないのは、やはりすべてがスケッチのようにコミカルで軽妙だからだ。

 途中、宿泊した施設(経験なキリスト教?の集落)に異端審問の騎士が現れるところなど、完全にスペイン宗教裁判だったのがツボだった。まさに誰も予期していなかった。そして、テリー・ギリアムがやっていた部分もきちんと再現されており、映画に来る観客の層を的確に捉えているな、と感心した。まぁ、あまりそういうことをする人ではなかったので、歳のせいかな、とも思ったが。

 とにかく、主人公とドン・キホーテの掛け合いがギャグでしかなく、(個人的にはそれすらも恐怖ではあるが)ちぐはぐで全く噛み合わない会話が、物語を埋め尽くしていた。

 正直、その会話がきちんと物語に活きていたかというと、そうではない。この映画の難しい部分はそこにある。この映画は、ドン・キホーテの言葉を伝える映画ではなく、生き方を伝える映画だからだ。

 

・伝わりにくい主題

 そもそも、この映画の大きな弱点は「なぜドン・キホーテなのか」が問われず終わっている点だ。

 なぜ、主人公は学生映画として「ドン・キホーテ」を撮ろうと考えたのか。

 なぜ、この映画はドン・キホーテを使わなくてはならなかったのか。

 なぜ、現代にドン・キホーテを蘇らせたのか。

 この映画では描けていない。そもそも、テリー・ギリアムがそういう作家ではないし、原作からしてそうだからだ。

 

・物語の中で、誰も改心しない

 ドン・キホーテという物語は、作中で誰か(市井の人々)を啓発することはない。基本的に、ドン・キホーテ一行が訪れる場所でバカをやらかし、終いには石つぶてを投げられ、ほうほうの体で逃げ出す、ということを繰り返しているようなものだ。

 ドン・キホーテが改心させた人物がいたとすれば、それは読者くらいのものだろう。しかし、その読者ですら、ドストエフスキーや著名人らが解説をしないと、ドン・キホーテの精神性に気づくことはなかったのだ。およそ200年という長い年月を、ただ笑われる存在としてドン・キホーテは過ごした。そして、ドストエフスキーやその他の作家が褒め称えた、という理由だけで、「世紀の大傑作」や「不朽の名作」として語られているに過ぎない。

 結局、ドン・キホーテは、彼一人の手では誰の目も啓くことはなかったのだ。

 そんな物語を映画にしたところで、たしかに誰の目も啓くことはできないのではないか、と思われる。

 ただ、同じような境遇の人間には、彼の生き方がまだに描くべき主題だと思われるのかもしれない。そういう意味では、テリー・ギリアム本人にとって、まさに撮らねばならない映画だったのだと思う。

 

・狂人はどこへ行くのか

 物語の最後、主人公は愛したはずの女をサンチョ・パンサとして、狂ったままドン・キホーテの生き方を継承する。このエンディングは、物語の作りとしてはツイストした終わりだと言える。

 一番美しい物語の作りを、元いた場所に帰ること、だとするならば、主人公はCM監督に戻らなくてはならない。もしくは、映画監督だ。ただ、この映画はそうならない。彼は狂人の遺志を継ぎ、自らも狂人となる。

 これはつまり、物語が終わらない、ということを示している。ドン・キホーテの物語は未来永劫続いていく。これを素晴らしいことだ、と受け止めることもできる。しかし、これはつまり終わらない地獄を生きることにほかならない。

 テリー・ギリアムにとっての理想郷とは、もしかするとそこなのかもしれない。ただ、普通の人間にとって、そこは地獄でしかない。

 一体、主人公はどこへ向かうのか。結局は、現実に打ちのめされるだけではないのか。テリー・ギリアムにも、おそらくはわからないのではないか。

 ただ、彼が幸せそうなことだけで、今は良しとするしかない。

【ネタバレ】大丈夫じゃない世界を絶望した上で、肯定してほしい~『天気の子』を観て~

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 映画『天気の子』を見てきました。

 『君の名は。』のサントラをずっと聞き続けているくらいには、前作のことはそれなりに好きではあり、今作については前作を超えることは難しいだろう、という感じで、ハードル低めに見てきました。

 つらつらと思ったことを。

 

・いい作品だと思う

 ネタバレしない程度に前評判を聞いていた感じでは、賛否両論という感じだったので、どれだけの奇想天外な作品なのか、と思ったが、なんのことはない、基本的には真っ直ぐな物語で、非常に読後感が良かった。

 前作よりも確実に良くなった部分として、この二人が好き合う理由が、わかりやすかった。

 前作は、凡百の脚本家であれば、必ず入れ替え時に描くべき部分を抜いていた。それは、二人がそれぞれに持つ家庭などの問題を、入れ替わることにより客体化、ないしは別人の力で打破し、それ故に惹かれ合う、というシークエンスだ。それが無い為に、恋愛弱者である自分にとっては「この二人、いつ好きになったんだ?」と首を傾げてしまった。

 その弱点を、今作はきちんと晴れ女業シーンで描き、こんな女の子なら好きになるわ、と思うことができ、なおかつヒロインも主人公のおかげで天職を得ることができ、そらもう惚れてまうやろう、と理解できた。

 そして、その二人が選んだ結果によってセカイの形が変質してしまう、というのは割とわかりやすくセカイ系であり、新海誠作品を見たな〜、という読後感を得られた。

 

・『君の名は』ほどの感動はなかった。

 理由の大部分はRADWIMPSの責任?にあると思う。

 逆に言えば、僕にとっての『君の名は。』が、RADWIMPSの作品だった、ということでもある。

 

 前作において、代表すべき曲は『前前前世』ではなく、『SPARKLE』であり『なんでもないや』であった。そして、この二曲に通じているテーマとしては、「今は有限」であり、「いつか終わるものとしての今」について歌っている、というものだ。いつか消えてなくなる、だからこそ、この出会いは素晴らしく、愛おしい。

 しかし、今作の主題歌では、ただあけすけに愛の無限大の可能性について歌っているように思われる。

 実のところ、映画の終わり方(ないしは進行)としては、2作ともそれほど変わってはいない。ハッピーエンドであり、未来のある終わり方だと言える(犠牲者の有無が大きく異なっているが)。違うのは、そこに添えられた歌であり、その歌詞だ。

 前作は、映画の終わり方とは真逆の歌詞でエンドロールが始まる。一瞬前まで、エンドロールの直前、二人は名前を言い合い、恐らくは結ばれる。しかし『なんでもないや』と一緒にエンディングが始まった瞬間、その愛は有限であり、観客には想像もし得ないが、おそらくは終わるのではないか、という不安が漂う。それこそ、二人の間を通り過ぎた風が、どこか寂しさを誘うように。

 今作は、「大丈夫」と言ってエンドロールが始まる。まっすぐだ。なるほど、世界の運命は君の肩に乗っかっている。でも、大丈夫。ぼくがいるから、、、、

 前作は、全くそうではない。あの二人は運命のおかげで出会い、そして結ばれる。しかしながら、それはもしかするとヒロインの両親と同じ末路になるのではないか。今この出会いもまた、いつか忘れてしまうのではないか。観客にはわからない。もともと、なんで好き合ったかもわかりにくいこの二人が、どんな理由で分かれるのか、想像もつかない。

 だからこそ、この二人の幸せを願わずにはいられず、今を愛おしく思う、というエモーションへとつながる。

 そこが、『天気の子』にはない部分であり、『君の名は。』と比べて物足りなく感じる部分ではないかと思う。

 

RADWIMPSの良さは、「時空への言及の有無」ではないか

 『天気の子』を平たく行ってしまえば、「環境」がテーマであることに対して、『君の名は。』は、「時空」をテーマとした作品だった。そして、「時空」こそ、RADWIMPSの十八番のテーマである。

 昔のRADWIMPSの歌う内容といえば、基本的には「今(の僕たち)」に対応する「過去」や「未来」に対して、どう向き合っているかを歌っているに過ぎない。時と空間は、密接に関係している。そして「時空」とはどこまで表現しても、私的な言葉でしか表現できない。つまりは、公的な「環境」には、あまり触れられない。

 さらに言えば、野田洋次郎はそこに「自己肯定」と「終わりの予感(ないしは、すでに終わってしまったという悔恨)」を混ぜる。それこそが、彼の真骨頂だ。

 物語の始まりは、すでに終わりを内包している。僕たちの人生や素晴らしい時間は、いつか必ず終わる(終わりの予感)。それでも、いやだからこそ、僕たちは今を生きる(自己肯定)、というのが野田洋次郎の一番調子のいいときに書く歌詞だ。このアンバランスさと甘ったるいナルシシズムが、厨二病的であることは否定しない。というより、厨二病的であるからこそ良いのだ。

 厨二病とは、罹患しない人間には良くわからないだろうが、幼少の人間が持つ万能感と現実のせめぎあいの中で生まれる病だ。ある意味、それ自体が必ず終わる、人生における執行猶予のようなものだ。現実は基本的に、僕たちを大人にする。そしてそれは、やはり寂しいものなのだ。

 しかるに、『天気の子』は「大人にならないで済む方法」を編み出そうとした物語であり、それ自体は否定するものではないものの、RADWIMPSとは、実は相性が悪かったのかもしれない。

 ただ、今作の曲の中でも、「大丈夫」のニュアンスを前作の「なんでもないや」に近づけられなかったものか、と惜しく思ってしまう。

 あの「やっぱり、なんでもないや」は、どう考えても「なんでも」あるに決まっているし、何なら、気づいてほしい気持ちも少しある。ただ、そんなことに時間を無駄にしている場合じゃない、僕らには今しかないんだ。なぜなら、やっと君に出会えたんだ、、、、、

 

 

・主人公は雨が嫌いであるべきだった

 個人的には、主人公があまり雨を嫌がっていないことがマイナスではあった。

 どちらかと言うと、雨の中でも楽しく生きている感じで(それはそれで良かったのだが)、彼が最後にヒロインを選ぶ価値が減ったように思われた。何なら、船では全身に雨を浴びて楽しそうにしていた。あのシーンは何だったんだろう。

 彼にとって、別に雨の東京は悪いものではない。なら、好きな女の子を選ぶ方にインセンティブが傾いても問題ないようにも思える。

 回想で、彼は晴れた世界を夢見て島を飛び出し、東京に来た、となっていた。ならば、雨の中では陰鬱に過ごすべきなのだ。冲方丁が「主人公は雨男であるべきだったのでは」と言っていたが、まさしくその通りだと思う。猫に雨なんて名前をつけるはずもない。

 彼は雨から逃げようとし、晴れの世界に行きたくて東京に来て、そこでも雨が降っている。俺の人生は雨ばかりだ。どうしようもないのか、というところに、晴れの世界を持ってくる女性が現れる。彼女の力があれば、晴れの世界に行ける。

 しかしながら、その代償として、彼女の命を差し出さなくてはならない。さて、彼はどうするのか。

 大嫌いな雨の世界で、愛する女性と暗く過ごすのか。それとも、彼女のいない晴れやかな世界を選ぶのか。(しかも、後者は東京を救った英雄にもなれる)

 この二択であれば、彼が雨の世界を選んだときのカタルシスも高まり、夢に二人で帆を張る意味がある。怖くないわけはない、でも僕らは子供のままで、生きていくのだ。この雨の世界で。

 

 恐らくは、心理的なブレーキとなる陰鬱的な世界を嫌っての脚本だとは思う。東京での生活を楽しく見せることの方が、客の受けも良いとは思うし、個人的にも、あの疑似家族の描き方は好ましいものだった。なので、あまりあげつらうべきではないのは確かだが。

 

・手錠つかってよね

 あの手錠、絶対に二人をつなぐのに使ってほしかったよね。

 

・人の生き死にの問題について

 今作のエンディングでは、雨を止めなかったために、家をなくした人間や、それこそ命を落とした人間もいるに違いない。

 ただ、そこに大きな言及はない。正直、それがセカイ系だ、とも言える。セカイ系の主人公は、どこかでセカイを背負うことをやめる。なぜなら、セカイ系とは、一種の自己肯定の物語だからだ。

 『君の名は。』も、運命という大きな自己肯定が働いていた。死人を蘇らせた、という意味では、前作でも世界の在り方を大きく変えた、とも言える。なので、そこまで重要な問題には感じられなかった。子供はそういうもんだしな、と。

 

 

 ・小栗旬は良かった

 個人的に、小栗旬の主演作で好きなものはなく、また役者としてもそこまでの演技は期待していなかった。しかし、今作では徹頭徹尾、小栗旬の演技は良かった。一本調子ではあったが。本田翼も、ティーザーのときの「おや、これは大丈夫かな」という心配ほどにはだめではなかったと思う。ただ、小栗旬にはそれ以上の驚きがあった。

 今後も声優としての道は開かれていると言っても過言ではない。

 ただ、最初の船に乗ってた理由は何だったんだろう。

 

平泉成で笑ってしまった

 刑事役で出すのは卑怯。

 

・弟の存在価値について、未だに考えてしまう

 女装男子以上の意味を、未だに見いだせずにいる。

 

www.youtube.com個人的に、エンディングで頭の中に流れていた曲。

映画の終わり方とは真逆だけど。

 

 

Amazing still it seems
I'll be 23
I won't always love what I'll never have
I won't always live in my regrets

 

未だに、すごいことだなって思えるよ

僕はもう23になって

持ち得ないものを愛し続けることはないだろうし、

後悔の中で生きるつもりもないんだ

【ネタバレ】海外の「怪獣映画」というもの~『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観て~

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 映画館で『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を観てきました。

 『シン・ゴジラ』の出来栄えの良さに評価を落としていた前作のギャレス・エドワーズ版ですが、個人的には「ゴジラ映画として、別に良い部類では」と思っていました。今作は監督が変わったので、企画が上がったときは期待していませんでしたが、上がってくるトレーラー映像やシーンの一枚目を観ていくに「これはやばいかもしれない」と期待値マックスで観に行きました。

 以下、徒然。

 

・とりあえず、一枚絵としての美しさはダントツ

 あらゆる批評家が口にするとは思うが、とにかく怪獣が出てくるシーンや、立っている姿を写すシーンは、何かもう神話の一ページのような様相だった。場面全体を、それぞれの怪獣のイメージカラーに統一したことも、全く現実感のないファンタジックな世界観を作る一因となっており、これが良い意味で作用した結果、観たことのない怪獣映画になったと思われる。

 正直、和洋問わず、今まで観たことのある怪獣映画の中でも異色な作品だと思う。

 唯一似ているとしたら、初代ゴジラや、最近のリメイク版キングコングとかになるのかもしれないが、それをよりマッシブな映像で表現しており、映画館で観れて本当に良かったと思った。

 なんというか、観ている間ずっと「俺は今、なにか猛烈にすごいシーンを見ている」という感慨に浸れる、稀有な映画である。

 

キングギドラの造形

 正直、生物としてのキングギドラの造形は、ゴジラよりも難しかったと思われるが、割とすんなりと普通の龍にしてくれていた。

 三首の中でヒエラルキーが存在していたのもユーモラスでよかった。左の首に「おい、お前やめろや」と真ん中が噛み付くなど、意思を感じられて好ましい。

 

ラドンが白眉

 個人的には、ラドンの空中ドッグファイトシーンが凄まじく良かった。ああいう大きな生物を描く際は、スピード感はかえって損なわれるものなのだが、そこを逆に凄まじい速度で飛翔させた結果、もう訳がわからないが、なんかすごいシーンになっていた。

 

・巨大な生物との対峙

 こういう作品では、やはり人間と巨大生物との対峙シーンが一番の見どころでもあるのだが、それについては現実感がなさすぎて、わりと薄らいでしまったように思う。

 ただ、神話的な世界観という意味では、物語の動きを削ぐことにはなっておらず、バランスは良かったのではないか、とも思う。

 

 

・海外での怪獣映画とは

 今回の作品で個人的に考えていたのは、日本での怪獣映画と海外での怪獣映画は、根本的に楽しみ方が違うんだな、というものだ。

 それは、日本での怪獣映画とは、”怪獣を「見る」映画”、である事に対し、海外においては、”怪獣を「体験する」映画”、ということになると思う。

 このゴジラという一連のシリーズにおいて、重要なシーンでは必ず人間と怪獣が同じ場所にいることが多い。ドッタンバッタン大騒ぎしているところに、人間も放り込まれて、その中で大変な目に遭う、というのが映画を楽しむ上で重要なシークエンスとなる。

 日本の怪獣映画は、果たしてそうではなくなった。最初はそうではなかったが、ゴジラシリーズが次第に怪獣同士の戦いにフォーカスしていくに連れ、怪獣の存在を遠くから眺める映画になったのではないか、と思う。もちろん、それは日本特撮のスーツアクターが実際に戦う、という撮影方法であったため、それ自体が問題だとは思わない。そして、それを追従した『シン・ゴジラ』も基本スタンスはそれと同じだ。何度も言っているが、それが問題だと言っているのではない。文化の違いだ。

 おそらく、今作の不満点として挙げられるのが「怪獣同士の戦いが少ない」というものが多いと思う。戦ってはいるのだが、どこか分量に乏しいように感じる。それは、戦っている最中に、横でチョコチョコ動いている人間を追ったりして、怪獣ばかりにフォーカスされないからだ。ただ、それは仕方ない。この映画で描かれているのは「こんな所には一秒だっていたくない」という痛みだ。

 阿鼻叫喚が交差する、怪獣同士の戦いの現場にいきなり放り込まれ、人間たちは泣き叫びながら、なんとか生きようと必死にもがく。海外の怪獣映画は、基本的にそれを見せようとしている。怪獣は舞台装置でしかない。

 そう考えてみると、日本人の映画監督で海外での評価が高い人は、必ずと言っていいほど痛みに敏感だ。これは一種の評価基準になるのかもしれない。

 

 何にせよ、怪獣映画として最高峰の映像で、怪獣そのものを堪能できる最高の作為品だったと思います。

【ネタバレ】ヒーローに呪いは必要か?〜『スパイダーマン: スパイダーバース』〜

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アニメーション映画『スパイダーマン: スパイダーバース』を観てきました。スパイダーマンの映画は果たして何個目だ、というくらいにリブートの多い作品ですが、人気者の宿命といえばそれまでか。
徒然と感想書きます。


・素晴らしい映像
スパイダーマンの映画は、他のヒーロー映画やSF映画同様に常に最新の映像技術の博覧会のようなものとなるが、今作もまた最新CG映画の見本市の色合いが見て取れる。
詳しくはパンフレットを見ていないので分からないが、実写と見紛うばかりの風景と、その中にカートゥーンライクなキャラがいても全く浮いている感じがしない。恐ろしいほどに美しい色彩と、そこに矢継ぎ早に繰り出される二次元と三次元の架け橋のような演出、動き。
実写のように見えすぎることに意味はない、ということを百も承知の映像美は素晴らしいの一言。
この映画にお金を払う価値があるとすれば、まさしくその映像美だ。


・ベンおじさんの説教という呪い
スパイダーマンのリブートはファンに色々な感情を思い起こさせるが、その複雑さの一つには「またベンおじさんの説教を聞くのか」「時報(ベンおじさん)」という感情も含まれる。
ベンおじさんの教えはスパイダーマンという作品を、ただのおちゃらけてPOW!とか言いながら悪人を殴りつける作品から、大人まで魅了する暗さを持つ作品に昇華させた、最大の功労者と言える。
スパイダーマンの原作は明るい主人公とは対照的に暗く、陰鬱な部分が色濃い。その明るさすらも、影を濃くする効果を持っているほどに。それはベンおじさんの教えが、「力を使うことは、その対価を支払うこと」と言っていることに他ならないからだ。
つまり、この教えは、言ってしまえばスパイダーマンを「抑えつける」教えでもある。この教えは彼を解放せず、常に首筋に置かれたナイフのように彼の人生に影を落とす。スパイディの人生は、常にこの教えがあるために、自らの責任の代価を支払いながら、彼は傷だらけのままヒーロー稼業に勤しむ、という状態となっている。(『アメイジングスパイダーマン2』はそこを描ききった名作だと思うが、世間の評価は低い)
それに対し、今作の教えは「解放」だ。今作でも叔父が目の前で死ぬことで、マイルスはスパイダーマンになる。そこには同じ悲しみ、同じ痛みがある。(痛みの共有はマーベル映画では重要な概念だ)しかし、今際の際の叔父の言葉は、ベンおじさんとは真逆だ。錨のようにピーターパーカーの心に居座ったベンおじさんとは違い、今作のおじさんは「お前の好きなことをするんだ」と背中を押す。少なくとも、力の抑制を教えるのではない。
それを無責任と言うことはできる。ベンおじさんの教えはたしかに正しく、マイルスはその責任に対して未だ無自覚だ。いつかその責任を取る日がやってくる。ただ、それが今である必要はない、というのが今作の話だ。
「ヒーローは犠牲となる者」とすることは簡単だが、それはヒーローに対して求め過ぎなのではないか。彼らの傷の上に成り立つニューヨークは確かに美しい。だが、それはあまりにも残酷な徒花だろう。
今の世界は、おそらくは誰かを犠牲にすることに対して感じやすくなってしまった結果、目を閉ざそうとしているか、なんとか救おうとしているか、どちらかに別れているのかもしれない。それが移民の問題や、すべての問題に通じているのでは、と個人的には思う。そして、ヒーローとは誰よりも感じやすい人間なのだ。感じやすいからこそ、誰かを守らずにいられないような。たとえ、不格好で、傷ついたとしても。
今作は思想的にも現代的にブラッシュアップされた作品だった、と言える。


・スタン=リーのシーンは涙腺崩壊
スタン=リーが出てくるヒーローグッズ店のシーンは、もとより悲しい演出が施されていた。そして、悲しみを覆うほどのネタ要素も。しかし、今となってはそれすらも「スタン=リー節」に感じられ、涙を流さずにいられなかった。
もはや、全てのクリエイターに対して投げかけるようなそのセリフは、脚本家の意図を遠く投げ飛ばし、遺言のように感じた。
もちろん、ここで言っている「いつかはスーツに合うようになる」というセリフが、マイルスが後にスパイダーマンとして覚醒することの伏線となっているなど、物語上重要であることには変わりないのだが。(スーツと顔の反射がどの位置にあるかなど、小気味よい演出も悪くなかった。クドかったが)
ただ、人生はいつでも返品不可だし、いつだって自腹だ。


・音楽も素晴らしい
スパイダーマンはストリートのヒーローだ。そんな彼にはヒップホップが似合うのは当然か。とにかく、サントラは買う。


映像も思想も素晴らしく洗練された、まさに新しいスパイダーマンの世界に没頭できる良作だった。
スパイダーマン映画で一番、という人がいてもおかしくはない。

【ネタバレ】脳筋でいいのさ~『アクアマン』を観て~

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 DC映画の『アクアマン』を観てきました。

 DCのシネマユニバースといえば、基本的には駄作を量産する肥溜めと化していたわけですが、『ジャスティス・リーグ』以降の作品は必ずしもそうではない、という評価であり、今作も色々と言いたいことはあるが基本的には楽しく痛快で、映画館で見る価値のある良作になったといえます。

 以下、徒然。

 

・客が観たいものを提供するジェームス・ワン

 今までのDCの映画の問題点は「客が観たい映画ではなかった」の一言に尽きると思う。客が観たいのは「ヒーローが格好良く、敵をなぎ倒していく」映画が見たかったのに、ずっと悩むか、なぎ倒すのはビルばかりで敵は健在、みたいなものばかりであった。『マン・オブ・スティール』のことを言っている。今後も言っていく。

 もちろん、そういう映画が悪いわけではない。ただ、シリーズの(それも今後、いろいろと長く続いていく連作の)1作目にやることではない。3作目くらいにやって、シリーズを緩やかに終わらせる作品でやることだ。

 『アクアマン』では、そんなことはしない。客が観たいであろうアクションを多く見せ、その間につまらない政争劇や津波の大仰なシーンを見せる。まさしく「ワイルド・スピード」作品の監督だな、という印象そのままである。疑似ワンショットで大立ち回りを見せる美男美女(ニコール・キッドマン含む)が、屈強な敵をボコボコになぎ倒していく。その姿にポップコーンが進む。

 ただの大立ち回りの連続ではなく、例えばイタリアではワインを使った超能力など、客を飽きさせないバリエーションも用意する。海の中ではスーパーマンよろしく飛び回ることもあるが、一対一の対決なので『マン・オブ・スティール』のように見にくいこともなく、緊迫感も爽快感もある戦闘シーンだった。

 『アクアマン』という枠を出ない程度に、客層をきちんと理解し、何を観たがっているのかを調べ、提供する。まさしく職業作家として最高の仕事をしたと言える。

 

・予想よりも下を行くサービス精神

 サハラ砂漠に行くシーンでtotoの『アフリカ』が流れて来たときは「勘弁してくれ」と笑いそうになったが、そういう無意味なほどに分かりやすいものを詰め込むところがこの監督のらしさなのかもしれない。

 「太古の島!? そんなん恐竜おるにきまっとるやろ!」という短慮のすぎる頭で、トライデントのある島はジュラシックパークとなっていたが、それも観ていて「勘弁してくれ」となった。

  どこまでが真面目で悪ふざけなのかがつかみにくい監督だが、一言でまとめるなら”ヤンキー節”というのが近いかもしれない。とりあえず、ノリと勢いでやってみればなんとかなる、と思わせる何かがある。

  全てを過剰にしていく所はマイケル・ベイに近いものがある気もする。

 

 MCUの面白くない作品くらいなら太刀打ちできないくらいのレベルの作品にはなったと思う。

 次回作が楽しみ、とまでは思わないが、このノリで楽しませてくれるなら、別に映画館代は高くないと思う。

【ネタバレ】ロシアは未だに深淵~『クリード 炎の宿敵』を観て~

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・スポ根映画としてみたら十分面白い。何も考えず、楽しめる良作になったと言える。

 

ドルフ・ラングレンのロシア語を堪能できる。というのはさておき、ドラゴ側の話は良かった。ドラゴ親子の葛藤や交流、そしてラストの一緒に走り出していく姿は素直に感動した。

 

クリード1に比べると、やはり作品全体としてはジャンル映画化し、普遍的な良さはなくなった。

 前作は、それこそボクシング世界の縮図としての「アメリカの再生」を描いた作品だったと思う。ヨーロッパに蹂躙されたアメリカボクシング界の再生劇であり、最後の舞台がイギリスだったことも含めて、一種の親子の話でもあった。親がなし得た偉業を、子供はどのように受け継いでいくのか。また、受け継ぐ意味はあるのか。そういう事も含めた作品だったし、そんなところまで射程に含めながら、非常にコンパクトにまとめ上げることのできた、まさしく傑作だった。

 それに対して、今作ではその視座はない。あるとすれば、親子の関係だろうか。親から子に、一体何を受け継ぎ、そしてそれをどう受け止めるのか。

 例えば、アマーラの耳への障害が、この映画の中で何を意図しているかは難しい。良いものも悪いものも、受け継いだものすべてを受け止めて前進する、ということを言いたいのではないか、と考えるも、この映画ではそこには言及しない。ほのめかしすらもない。ただ与えられるだけで、あとは解釈のみが存在している。

 

 もっとも、ロッキーですらも、1以降はただのスポ根映画になっていたことを考えると、それ以上を求めるのは最初から酷である、とも言える。

 

・ロシアサイドの描き方はどうだったか

 クリード1がボクシングの世界の縮図であったとしたら、その中におけるロシア(旧ソ連)はどのような存在になるだろうか。ボクシングファンからすると、それは現代ボクシングの頂きに君臨している、という答えになると思われる。

 長かったクリチコ政権が終わりを告げ、アメリカにも久方ぶりのヘビー級王者が生まれたとはいえ、未だにPFP最強と呼ばれるのはロマチェンコであり、その少し前はゴロフキンだった。

 そんな世界から見ると、ドラゴ親子の描き方はあまりにも古臭く、残念と言わざるを得ない。さらに言えば、ロッキー4よりも退化している面ですらある。

 ロッキー4のドラゴはアマチュア出身の強いボクサーだった。現在、ボクシング界を支配しているのは五輪でメダルを取った猛者たちだ。その観点からすると、ドラゴというキャラクターは非常に現代的な存在だったと言える。ロマチェンコなど、プロになって3戦で世界王者になったところはドラゴの現実版にすら見える。

 何が言いたいかというと、ボクサーとしての描き方が現実から乖離しすぎている、ということだ。ドラゴのボクシングスタイルはパワー偏重で、荒削り、ということだったが、それは現在のロシア系ボクサーとは少し違う。現代のヨーロッパのボクサーはアマチュア上がりの技術力を全面に押し出し、そこにパワーを加えた攻防一体のボクサーであり、その技術力でアメリカのボクサーを圧倒している。また、ただのテクニック偏重なのではなく、体幹を鍛え上げ、少ない動きで大きなパンチ力を出すこともできるなど、現代スポーツの申し子たちでもある。あのゴロフキンですら、防御テクニックはアマチュア出身らしく高いものがある。

 ドラゴは、息子もアマチュアに進ませるべきだったし、そこを「一度大きく負けたから」という理由で除け者にはしないはずだ。除け者にするにしても、ロシア内でドラゴがのし上がる過程を見せるべきだったと思う。実力で黙らせる野獣、ということであれば、まだ納得はいくものの、いきなり出てきて、となると「他に強いやつはいなかったのか」と疑問に思ってしまう。

 これも、1の脚本が良すぎたせいであり、ここまで求めるのは間違っているとは思う。ある意味、ただの言いがかりなので、この作品を貶める要素にはならないとは思う。

 

・4のドラゴって、最後は良いやつだった気がする

 うろ覚えながら、あのドラゴは、何だったのか。「俺は負けたから、何もかも失った」って言ってたけど、その前に歯向かったからでは。まぁ、歯向かったから干しても良いわけではないが。