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ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】夢追い人への祝杯~『ラ・ラ・ランド』を観て~

 

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 『ラ・ラ・ランド』を観てきました。

 後半はずっと泣いてました。というか、『シティ・オブ・スターズ』を二人でデュエットするシーン以降は、もう涙を止めておくことは難しかったです。

 

・ダンスシーンが格好良すぎて泣いた

 この映画は、一応はミュージカル映画なので、全編的にダンスが用いられているわけだが、どれもが格好良すぎて涙が出そうになる。というか、本当の最初の渋滞シーンでドラム隊が出てきた瞬間、格好良さと多様性入り交じるハリウッド的美意識に打ちのめされて、本当に泣いてしまった。

 最初のあのシーンは、人種も文化もすべてをぶつける場所としてのハリウッドが描かれている。誰しもが夢を見られる場所。その説明として、すごく豪快で、すごく現代的であり、そしてなによりも格好良かった。

 

・二人とも成功してはいる

 この物語の興味深いところは、二人とも映画の最初に抱いていた夢は叶えている、というところだ。ライアン・ゴズリングはジャズクラブを開き(名前は違うが)、エマ・ストーンは女優となった。もしもこの二人が出会わず、恋に落ちなかったら、こんな苦いハッピーエンドになることはなかったのだ。

 ただし、この二人が出会わなかったら、二人とも成功していなかった可能性も高い。ライアン・ゴズリングエマ・ストーンがいなければ、あんなポップスバンドに入ることはなかったろうし、エマ・ストーンも一人芝居をすることはなかった。二人とも互いの人生に多大な影響を与えているのに、まるで歴史に語られることのない敗北者のように、それぞれの人生から除外されている。成功しているのにもかかわらず。

 

・少しずつ勇気が足りなかった

 映画のラスト、ライアン・ゴズリングのピアノに合わせながら、二人が「もしかするとこうなっていたかも知れない」二人の人生を描く回想シーンは、もう思い出すだけで涙が出てくるのだが、あそこに描かれている荒唐無稽で、都合がよく、二人にとってはかなりエゴイスティックでありながら、それでも優しいシーンこそ、この映画の白眉だ。そして「こうなっていたかも知れない」ということは、「現実はこうではない」ということの裏返しなのだ。

 なぜ、こうならなかったのか。回想シーンで幾度も描かれる、現実とは違う選択をとる二人。ライアン・ゴズリングは出会って速攻エマ・ストーンにキスし、ポップスバンドを反故にする。エマ・ストーンは一人芝居を大成功させ、女優の近道を蹴り、それでも二人が大成功する、都合の良すぎる夢物語。

 そうならなかったのはなぜか。それはつまり、二人ともに少しずつ勇気が足りなかった、ということなのだ。二人にもう少しだけ勇気があれば、こうなっていたかも知れない、という甘すぎる認識。勇気とは、自分を信じる、ということだ。自分の才能にもっと自惚れる人間であれば、こうなっていたかも知れない。しかし、二人はともにそうではなかったし、彼らは彼らなりに精一杯生きた結果として、あのジャズ・クラブで再会したのだ。『かもめ』のようにボロボロな姿を見せ合うこともなく。

 その部分において、この映画は本当に夢を追う人たちを讃えている。それと同時に、愚かでもあると言っている。その両面性こそが、典型的な夢追い人であるし、だからこそ涙がでるほどに愛おしいのだ。

 

・特にライアン・ゴズリングに共感

  僕が男ということもあるだろうが、ライアン・ゴズリングの動き、振る舞いが心に刺さった。

 タップダンスのシーンで、すぐ近くに停めてある車を無視してエマ・ストーンと車を探しに行くシーン、映画館でチケットを二枚持ってヤキモキするシーン、そして最後に強がりも含めた笑顔。すべてのシーンが刺さり過ぎた。「分かる!」の連続だ。あるあると言うにはあまりにも辛いシーンばかりではあるが。

 ただ、それらすべてを含めて、最後の笑顔は自己肯定の笑顔であるようにも思えた。そして同時に、エマ・ストーンへの肯定も含めていたのではないだろうか。まさに夢の世界から戻ってきた後、ビターな現実に辿り着いてもなお、「まぁ、この人生も悪いわけじゃないんだよ」と、誠実な笑顔を覗かせる。

 

エマ・ストーンは写し方によっては絶世の美女

  『アメイジングスパイダーマン』のときは「美人か、この人?」と若干思っていましたが、『バードマン』を観て「こんな美人やったか?」となり、今作で「こんなきれいな人いるか?」となる。

 目が大きいので、なんか睨みつけたりするとすごく怖くなるのですが、角度を変えると魔法をかけたみたいにきれいになる。そら売れますわ。

 恋人のアンドリュー・ガーフィールドも良い役に出まくっており、スゴイカップルだなぁ、と思うのだが、二人とも大作に出ながらも変な役も出るので、仲良さそう。このまま末永く幸せになって欲しい二人である。

 

・ライブシーンが素晴らしい

  この映画はダンスシーンが全編素晴らしいので、それだけで何故か泣きそうになったのだが、個人的にはポップスバンドのライブシーンがすごく面白かった。ギャグシーンとして。

 ライアン・ゴズリングが顔をしかめながら弾いてるのとか、エマ・ストーンが「思ってたのとなんか違う」感をすごい出してるのとか、歌詞がもうコテッコテなのとか、全部含めて笑える。何を燃え上がらせるつもりなんだ。

 このライブシーンもそうだが、あまり本意でない演奏を終わらせたときのライアン・ゴズリングの仕草も「はい、おわったよ~」というわざとらしさがあって素晴らしい。

 

 そらアカデミー賞とりまくるよね、という作品。

 楽しくて悲しくて、映画館から出た後は踊りたくて仕方なくなる、そんな映画。

 

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【ネタバレ】忘れられた男たち~『ナイスガイズ』を観て~

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 面白かったです。

 どうでもいいこと書きます。

 

 

ラッセル・クロウのキャラがカッコいい

 太っているのにカッコいい。それは、短い説明で深みまで教えてくれるその人物造型が素晴らしいからだ。

 彼の部屋がやけに象徴的だ。彼の私生活についてはあまり描写されない。妻の不倫により離婚したらしいシーンや、酒だけを箱買いしている以外、彼の私生活は出てこない。寂しさや孤独を表象するような彼の部屋は、ブレーカーをそのまま切って部屋を後にする。部屋のブレーカーこそが、言わば彼のスイッチなのだろう。

  彼の見た目はだらしなく、肥満で、老眼だ。そして、見た目に反して神経質であり、何故か女子供には優しい。しかしその優しさも、どこか狂気をにじませる。

 人の役に立つことが心地よい、と言いつつ、彼がやっていることは暴力そのものだ。もちろん、それ以外にできることがないから、という言い訳も立つだろうが、それはやはり異常だ。主人公の娘に優しい言葉を投げかけるときですら、その裏に怖さを感じる。父親の腕を折った後、その娘に対して全く悪びれる態度を取らないその姿はサイコパスのそれだ。

 この映画は、ただの娯楽映画であると同時に、このサイコパス的な人生を送っているラッセル・クロウ人間性を取り戻していく映画でもある。孤独で非人間的な暴力マシーンが、暴力以外の生き方を再獲得していく映画だ。

 

ライアン・ゴズリングはこういうキャラができるから仕事がもらえる

 エドワード・ノートンとは違うのはそこだと思うのだが、なんとなく、二代目エドワード・ノートン的な存在とはそもそも全く違う人なんだろうな、と思う。

 まぁ、よく考えるまでもなく、『きみに読む物語』で出てきた人なんだから、その通りなんだろうけど。

 エドワード・ノートンも糞野郎を演じさせたら凄い人だが、ライアン・ゴズリングの糞野郎は違う種類の糞野郎ということだろう。キザでニヒルで糞野郎。最高だ。『マネーショート』の役も当たり役だったといえる。

 

・キャラ同士の補完関係

 クズでどうしようもない奴だが、娘には優しく、頭の回転も早いライアン・ゴズリングと、女子供には優しく、一見常識人にも見えるがやはり狂ってるラッセル・クロウ。そして、その間を束ねるアンガーリー・ライスの存在。このトライアングルが生み出す空気感、関係性の心地良さが、この映画をただのB級映画から少し上等なものにしている。

 

・役者たちの素晴らしい演技

 特にアンガーリー・ライスの素晴らしい演技。二代目エマ・ワトソンと言える強気と弱さの融合具合。大人びているものの、純粋さをなくしていない。あまりにも純粋であれば、ラッセル・クロウは離れてしまったに違いない。どこか危なっかしく、生意気なのに、最後の最後には弱さと純真さをのぞかせる。

 

 

・車社会の暗部と、その輝かしさ

 この映画はバカみたいな陰謀論物ではあるが、アメリカの持っている車社会に対してのアンビバレントな考えを表出している。

 この映画は車会社を悪役にしているが、主人公たちが乗っている車は常にきらびやかで、カッコいい。特にライアン・ゴズリングはシーンが変わる度に新しい車に乗り換えているようだ。

 アンガーリー・ライスを助けに行くシーンもそうだ。ライアン・ゴズリングは真っ赤なスポーツカーに乗り込み、さっそうと(それこそヒーローのように)走りだす。そして、アンガーリー・ライスを助けるのは主人公ではなく、どこの誰が乗っているかもしれない、通りすがりの車なのだ。ブルーフェイスを殺したのはラッセル・クロウだが、娘を助けたのは、謎の車であった。それは、何かを暗示しているのかもしれない。

 結局、アメリカを作り上げたのは車なのだ。デトロイトであり、その中で汗水を流して働いてきた男たちなのだ。そして、彼らは忘れられた。

 最後に、結局は車は来るぞ、と言い残す悪役言葉は、その通りだった。

 今のアメリカ社会は、デトロイトの男たちによる革命なのか。忘れるな、という叫びなのか。

 

 

【ネタバレ】僕らの戦争~『虐殺器官』を観て~

 

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 伊藤計劃原作の『虐殺器官』を観てきました。原作は結構前に知り合いに教えてもらって読み、『ハーモニー』や『屍者の帝国』も原作を読み、映画も観てきました。

 連々思ったこと書きます。

 

・別に悪い映画ではない

 原作の面白さの一つである「軍事ガジェット物」としては面白かった。原作でも随所に散りばめられている「そんなんあるの?」と思わせるテクノロジーの数々が描写されてカッコいい。

 ただ、それは原作を読んでいるからこそ分かる部分でもあると思う。原作では地の文(主人公の独白)で語られているため、そのガジェットがどういうものであるかまで分かるが、映像だけになった瞬間、逆に情報量が増えているようにも感じる。情報量ではなく、情報処理量が増えるというべきか。なので「今の何?」と思っている内にストーリーは進んでしまうので、結構取り残されてしまうのではないか、という不安はあった。

 そこを完全に無視して物語に没入しても悪く無いとは思う。この映画の面白さの一部ではあるが、全体ではない。

 

・自由の対価としての平穏という時代に合ったテーマ

 原作は911の時に書かれたものだが、現在でも通じるテーマである。特に、トランプ政権が発足し、欧州でも右翼政権が天下を取る可能性がある現状、こういう一種のディストピア的選択がなされる可能性はある。自由との対価に平穏を求める。そこには一種の正しさがある。そして、そこに対する抵抗も、一理ある。それは作中でも語られる通り、バランスの問題なのだ。

 それ以上に感じ入るのは、こういったビッグブラザー的な平和というものは、便利さを介在して人々に認められるものなのだな、という事実だ。原作では「デリバリーピザ(ドミノピザ)が届く世界」という言い方をしているが、それは管理されるが便利な世界と、不便だが管理のない世界、というものだ。どちらも相応の不自由さがあるのだ。そこで何を対価に便利さを得るか、という天秤をかける時に、人は便利さを選ぶことが多い、というのは現実だ。少なくとも、社会契約論などもそういう見方はできる。

 オーウェルの『1984年』ではあまりその面は語られなかったが、おそらくは就職に便利とか、そういう社会の構造的な面での便利さというものは、意外と人の選択を誘導できるものだ。

 

虐殺器官というものものしい名前と、その正体の理論的正しさ

 正しさというよりも、「正しいっぽさ」とでも言うべきか。この理論自体が正しいかどうかはさておき、少なくとも主人公たちの精神的調整が可能な理由として出て来る限り、物語の中での整合性は保たれている。また、伊藤計劃の作品を貫いている思想でもあるので、ある意味この作品から読まないと『ハーモニー』も、また円城塔による『屍者の帝国』も感動が薄れると思う。

 

・しかしそれは、原作の半分でしかない

 この作品が、少なくとも日本で今のような評価を得ているのは、ガジェットが目新しかったわけでも、テロとの戦争の新しい時代設定が現実的だったからでも、破滅的なエンディングが良かったから、というだけではない。

 この原作が日本で認められた理由は、それらを説明する主人公がオタクだから、という部分だったと思う。というか、それが発明だった、と思う。軍事オタクが戦争に飛び込んでみたらどうなるか、という話をそれなりのレベルでやれた作品だった、ということだと思う。そこに新し目の(MSGっぽい)ガジェットと、SF的な要素が組み合わさることで、説得力を増すことに成功したというより、そういう仕組みがあることを発見したといえる。

 個人的にこの作品が面白い理由は、実はその部分だった。詳し目に言うなら、テクノロジーの発達にともなって、人間は精神的な成熟を経ることなく大人の一員として社会に溶けこむことが出来るようになるが、それが何を生み出すのか、という部分である。

 実は映画ではこの部分がすっぽりと抜け落ちている。というより、原作では地の文そのものが成熟していない青年としての主人公を浮き彫りにしていたのに対して、映画ではそれが出来なかった、とも言える。

 

・母親と父親はカットすべきではなかった

 また、この作品の主人公が成熟していない要因として母親への葛藤があったと思われる。父親の自殺と、母親への安楽死、この2つの要素がそもそもこの主人公には重たくのしかかっていたはずだ。それを全て消し飛ばした後、それでも主人公がカタストロフを起こす要因が見当たるかといえば、特に見当たらなかった。

 主人公は、外面を取り繕ってはいるが、中身はただのマザコンに近い精神構造であるし、自らを成長させるような父親も若くして亡くしている。そして、自らを見続けていると思っていた母親のライフログの中身に自分の姿を見受けられなかった時、主人公にとってこの世界はどう映ったのか。その結果としてのカタストロフである、というのが原作の流れだ。

 映画では、なぜ主人公が災厄を犯したのか、よく分からない。それこそ、ちょっと好きになった美人にほだされて、位にしか見えないというか、それにも見えない。というか、カタストロフを起こしていないのか。映画では結局、最後は曖昧なまま終わっていた。

 

・そもそも、原作自体にムラがある

 ぶっちゃけてしまうと、個人的にこの原作小説は大好きではあるが、名作ではないと考えている。

 というより、伊藤計劃の作品全てに言えることなのだが、結局は主人公は伊藤計劃そのものであり、彼自身が面白いから作品が面白いのだ。彼自身が何を感じ、どういう風に考えたか、があの小説だ。それは『インディファレンス・エンジン』でもそうだし、果ては『蛮族』でもそうだ。

 また、原作では時折飛び出てくるオタク的な引用(ときメモイニシャルDなど)についても、あれは一種の恥ずかしがり屋の伊藤計劃節でしかないが、アレがないということは、作品に伊藤計劃がいないということだ。それでは、クラヴィスシェパードとは何者なのか。あんな人間はいないのだ。あれは伊藤計劃なのだ。

 しかしもちろん、それらこそがこの作品を通俗的で、オタク的で、一言添えないと評価しにくいものにしていると思う。はっきり言って、車が藤原豆腐店のものである必要はないのだ。それが物語の導入として主人公に漢字について語らせる要因になるとしても、必要か否かで言えば必要ない。

 ただ、それがなぜ物語に出てきたかというならば、伊藤計劃には必要だったからなのではないか、と思う。早い話が、そういう人間だった、ということだろう。色紙に「童貞バンザイ(DTB)」と書くような人間が書いた小説である、という意味では、そういうネタを入れないわけにはいかなかったのだと思う。

 つまり、そういう部分なしにこの作品を映画化すること自体が、すこしばかり無茶だったのだと思う。原作には幾度と無く出てくる死の国の幻視など、映画化するにはネックになったと思われる部分こそが、この作品の面白さであり、それを無くしたことで、作品としての面白みの大半を失うことになったと思う。

 

 ・ただ、それでも面白い部分はある

 思想的なものを除いても、それなりの作品に仕上げることができるんだなぁ、というのが最終的な感想だ。

 それはブレード・ランナー(原題『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)にも同じことが言える。原作を読んでみて驚いたのは、あの原作は人間の存在証明や哲学、宗教に至るまで全ての要素が渾然一体となった名作小説だということだ。映画の『ブレード・ランナー』にもその要素がないではないが、どちらかと言うと映像や雰囲気の作品に思われる。それでも好きだが。

 映画ならではの雰囲気物として、またガジェットいっぱいの戦争アクションアニメとしてなら、それなりに深みもあって面白い、と思う人がいるのではないか、と思う。

 もしも気に入ったなら、原作を読むのが良いと思う。だいぶ印象が変わるはずだ。

 

 

【ネタバレ】爆弾でハッピーになったら、次は黒澤映画だ~『マグニフィセント・セブン』を観て~

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 デンゼル・ワシントン主演、アントワン・フークア監督の『マグニフィセント・セブン』を観てきました。

 ボケっと観ながら考えたことを書いていきます。

 

 

・気分はもう西部劇全盛期

 この映画のすごい所はたくさんあると思うが、実際に馬を走らせ、建物を焼き払い、人を沢山一つの画面に出していることが既に凄い。というより、本当に昔の西部劇と同じことをやっている。そして尚且つ、こんなに金をかけてるのに説教臭くない。素晴らしい。

 一応、勧善懲悪という物語の骨子はあるものの、この監督らしいというべきか、それだけでは済まさない何かがある。それはもちろん、この映画の原案でもある『七人の侍』という作品がそうであったからではあるが。

 

・四の五の言わないで戦闘だけ見とけばいい

 この映画の大きな弱点は「主人公たちの動機が薄い」に尽きる。これは『七人の侍』も実はそうなんだけど、そこには大きなギミックがあるからだ。『七人の侍』という作品に出てきたあの七人は、もちろん浪人ではあるが、言わばもともとは侍だったわけで(一人を除く)、つまりは何か(主君)を信奉し、仕える存在を求めていたとも言える。だからこそ、食い扶持を稼ぐため、という目的以上に、自分たちを戦へと駆り立てる絶対的な存在をどこか求めていたのではないか。それが次第に村を救うという動機につながっていく。これは、あの時代の日本という社会構造だからこそ作れる物語だ。だから、あの映画は不朽の名作になっていると個人的には思う。

 それに対して、『荒野の七人』や『マグニフィセント・セブン』にはこの社会的な構造がない。軍隊出身者を置いてそういう風にすることも出来なくはないが、おそらくはアメリカではそういう人は少なかったのだと思われる。みんな根っからの自由主義なのだろう。

 だから、主人公たちはやはり荒くれ者でしかなく、社会構造的な話は少しピント外れになってしまう。『荒野の七人』では、『七人の侍』とほぼそのままに、「最後に勝ったのは農民だ」という趣旨の発言をする。また、途中で「俺はお前のおやじのように、土を耕し、何年も我慢することは出来ない」という、言わば農民への礼賛を口にさせるが、やはり日本における武士と農民との関係と比べると、いじめっ子といじめられっ子の関係のようにしか見えない。

 今作に至っては、その構造への言及すら省いている。ここは英断だと思うし、個人的には賞賛に値する部分である。

 その代わりにこの映画が用意したのは、大量の火薬と血だ。

 この映画は本当に戦闘シーンが楽しい。それに尽きる。7人全員にそれぞれの見せ場がきちんと用意されているし、しかも飽きさせない。

 こういった映画では、必ず最初の大きな闘いは圧勝で終わるものだが、そのシーンでどれだけ観客を引き寄せられるかに勝負がかかっている。この映画はその点でも圧勝だ。イ・ビョンホンがナイフで切り刻み、インディアンは恐ろしい威力の矢を放ち、そして熊のような狩人が、何故か担いでいる銃を使わずに体当たりで相手をブチ殺していく。

 銃を放てば相手は吹き飛び、ナイフを投げれば壁に釘付けにされ、そしてクリス・プラットは妖艶に笑う。それだけで最高の映画だ。時代背景も時代考証もいらない。そういうのが見たければ、黒澤映画を見たらいい。それも最高の映画だから問題ない。

 

イーサン・ホークの魅力

 出演者が全員良かったと言えるが、中でもイーサン・ホークが本当に良かった。と言うよりも、イ・ビョンホンとの、もはやホモセクシュアルな関係すら感じさせる中の良さが本当に見ていて良かった。最後の銃撃戦で、叫びながら塔から銃を撃っている時、楽しさの中に悲哀が感じられた。

 イーサン・ホークを主役にしても良かったくらいだ。ある意味、彼の演じていた人物こそがあの時代に、なにか自分の信じるべきものを求めていた人物なのではないか。戦争が終わり、敗残した後、彼には人殺しの名誉だけが残っている。尊敬と畏怖の念を陰のように従えて、耳元には人を殺した因果がつきまとう。その中で、何も言わず付き従うイ・ビョンホンのような仲間こそが、彼の余生を救ったに違いない。

 そしてそんな人間が、本当に誰かのために、そして自分のために再び銃を握り、戦うというのであれば、それこそがアメリカにおける『七人の侍』になり得たように思う。彼らが信じていた正義、彼らが守ろうとしていた街、全てが終わった後で残されたものが果たして何だったのか。そういう話にもしもしていたら、『荒野の七人』は超えていたかもしれない。というか、デンゼル・ワシントンをそういう話に持って行かなかったのは、個人的には大きな不満。まぁ、私怨の復讐でした、というのはそれで悪くはないし、もはやそこら辺はどうでもいいか、とは思ったが。

 そもそも、『荒野の七人』の主人公も軍人という設定を使う予定だったらしい。なぜ変えたのかよくわからないが、やはりアメリカには合わない精神なのかもしれない。

 

・やはり『七人の侍』って、本当に素晴らしい脚本ですね

 前述した通り、『七人の侍』は不朽の名作であり、あの時代の日本だからこそ生まれた悲しい物語なのだ。それは言い換えれば日本的な作品ということなのだと思う。

 そもそも、あの村を襲った野伏というのも、もとは武士なのだ。つまりは、主人公たちと変わらない存在なのだ。そこについては『荒野の七人』も同じだ。彼らと主人公を分けるものは何なのか。それは「正義」や「大義」と言ってしまえば簡単だが、そう簡単なものではない。自らの持っている信条であったり、哲学であったり、色々なものがあり、その結果として彼らは浪人と野伏にわかれたに過ぎない。そしてどちらも、言わば自分たちが仕えるべき存在を求めているのだ。野伏の場合は、それは本能や、頭目という仮の君主なのかもしれない。主人公たちは、そうなれなかった、言わば半端者たちだったのかもしれない。しかし、その半端な存在(浪人)だからこそ、彼らは人を助けることが出来たのだ。

 そして、どれだけ頑張ってみても『荒野の七人』には出せなかった人物が菊千代だろう。彼の存在は、『七人の侍』の社会問題を大きく取り上げる一因だ。彼はもちろん、武士を容赦なく叩く。偉そうにしやがって、何が武士様だ、と言ってのける。しかし返す刀で、「農民だって卑怯者だ。奴らは自分たちが食う分の米を絶対に持ってるし、蔵を漁れば落ち武者からぶんどった刀や槍をもってやがる」と、これまた農民までこき下ろす。そして、最後には泣き出す。彼が叫んでいたのは、人間という存在が持っている両面性であり、醜くも汚いが、それが生きているということだ、ということに他ならない。これはそのまま、主人公たちと野伏との関係にも似ている。それは人間の弱さであり、同しようもない部分なのだ。

 ただ、その中でも、自分を顧みず、他者のために戦うのもまた人間なのだ。

 『マグニフィセント・セブン』は、残念ながらそこまでの深い作品にはなっていなかった。ただ、それができていたなら、間違いなく歴史的な作品になってしまうので、出来ないのが普通ではある。

 悪くない映画だし、映画館で2017年に西部劇を観るのも一興だとは思う。

【ネタバレ】ザ・プロフェッショナル~『コンサルタント』を観て~

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 ベン・アフレック主演の『コンサルタント』を観てきました。トレイラー観て「特に面白くないだろうけど、とりあえず見とくか」くらいのレベルで観てきました。

 結構良かったです。

 

 

・最近こういうの流行ってるんだろうか。

 『ジョンウィック』とか『イコライザー』とか。リーアム・ニーソン『96時間』もそういう流れだとは思うし、『エクスペンダブルズ』シリーズもそうかもしれない。昔のアクション映画をあえてやり直しているようなノリ。ジャンル映画を意識して作っているというべきか。

 でも、そのおかげで良い作品が増えている気がする。映画というのが引き算の芸術なのだとすれば、ジャンル映画というのは、そもそも低予算故にそうせざるを得ない。

 

・最初の銃撃戦の緊迫感は異常。

 素晴らしいの一言。最初の緊迫感あふれるあのシーンは、最後まで引っ張ることになるが、そのシーンが素晴らしいからずっと楽しい映画でいてくれている。

 

・戦闘シーンもいいが、計算シーンの熱さもいい。

 今作の白眉は、ベン・アフレックによるよく分からない数字を書きまくるシーンだ。帳簿をくまなく調べ(エクセルではない)、金の流れを徹夜で調べあげるシーン。

 戦闘シーンと計算シーンも、どちらも通じるのは「プロの仕事ってカッコいい」という、単純なものだ。凄いシェフの料理シーンとかでも同じことが言えるかもしれない。専門家たちの洗練された動きというものは、傍から見てると美しく、気持ちが良い。ベン・アフレックが指先に息を吹きかける時、こちらもワクワクしてしまう。

 

ベン・アフレックはこういう役柄向き。

 最近のベン・アフレックの役選びは堂に入っている。とりあえず、黙っていてもいい役を選んでいる。そしてこの役も同じ。

 その他の役者陣も素晴らしい。特にJ・K・シモンズは喋ってるだけで凄い。いい声すぎる。セッションなんか受けるべきやなかったんや。スパイダーマンもな!

 

 

・弟は切ってよかった。

 敵が実は弟でした、というのは悪くないひねりなんだけど、本当に低確率過ぎて引いてしまった。そもそも、弟はいついなくなったんだ、という疑問。あの子供時代の喧嘩の途中で消えてしまったのか。だとしたらなぜ探し出さなかったのか。

 あの敵キャラの人物自体も悪くなかったし、大物にも小物にも見せられる、非常にいい敵キャラだった。だからこそ、弟にする必要はなかったと思う。おそらくは、ミスリードの一つとして用意していたのだと思うが、ちょっと答えがやりすぎていたのではないか。

 

・障害者への配慮はない。

 主人公がADHDである、というのは悪くはないし、伝えたいメッセージも良いと思う。何が正常で何が異常か、それは僕達にはわからないし、強制するべきでもない。

 しかしながら、主人公があんな殺人マシーンになった事自体、父親からの虐待に近いレベルの訓練と躾によるものであり、それがメッセージのキレイ事に対して「ほんとうにそう思ってるか?」という疑念につながる。

 というか、障害者があんな殺人マシーンになることって危ないことじゃない? という風に思われないか、とも考えたが、かなり穿った見方か。ただ、障害者への配慮というのはそれくらいやっても良いとは思うが。

【ネタバレ】誰が僕らを街に閉じ込めるのか~『エージェントウルトラ』を観て~

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 ジェシー・アイゼンバーグ主演の『エージェントウルトラ』をDVDで観ました。特にいい作品、とは聞いていませんでしたが、とりあえず楽に見れるものを観たいと思ったので借りました。

 考えたことをツラツラ書きます。

 

 

ジェシー・アイゼンバーグはいつも通り

 この役者好きなんだけど、いつも同じ役をやっているので、そろそろ変革が求められるんじゃないだろうか、といつも考えてしまう。『バットマンVSスーパーマン』でもそうだったし、別にそれが悪いわけではないんだけど、もっと幅が出てもいいのに、と思う。

 今作についても、結局はナイーブなヤク中といういつも通りなので、適役ではあるんだけど、そろそろその殻を破っていかないと、ヘイトを貯めるだけのような気がする。

 

・「街から出られない」ということの悲しみ

 数年前に流行った「マイルドヤンキー」という言葉は、今思うとすごく失礼であると同時に、本質を隠してしまう言葉だったなぁ、と考えてしまう。

 当時のマイルドヤンキーへの評価は、基本的には金稼ぎの対象でしかなかったわけだが、冷静に考えてみると彼らは「街から出られない人間」だったわけだ。それを都会の人間が冷笑的に名前をつけて、定義しなおし、金を吐き出す層として認識したわけだけど、その実はもっと切実な存在である。というよりも、社会的な構造が生み出した存在であり、もしかすると治癒すべき対象だったかもしれない、という認識が次第に広がっているように感じる。(この言い方もかなり失礼なので、うまい言い方が思い浮かばなくて申し訳ないが)

 ちょっと言い方を変えるなら、マイルドヤンキーは次第に「サイタマノラッパー」に認識を変えていっているように感じる。彼らは、悲しいが落伍者であり、才能も努力すらできないが、それでも生きている、という存在なのだ。それ自体を治癒するとかそういうものではないのかもしれないが、彼らを産んだのは資本主義社会であり、国道に立ち並ぶ商業施設達(ファミレスやドンキホーテなど)がその成果である。そして、そこの養分となるしかない人間たち。

 僕はこの映画の主人公に、似たような悲しさを感じた。たぶん、そんなことは描いていはいないはずなのだが、街から出られない主人公の姿は、結局はつまらない日常を空想(大麻付き)で埋め、愛する彼女(それだけが彼の全て)を両手に抱きしめながら、謝罪の日々を過ごすのだ。そして、そのまま過ぎていくだけの未来。それはもう絶望でしかない。

 しかもそれは、彼ではなく、政府の中央からの圧力が原因でもある。その構造は、資本主義の最果てと似ているなぁ、と感じた。

 彼は自分を責める。自分の弱さが彼女を苦しめ、この街へと自分を釘付けにしている。しかし、それは彼だけのせいではない。彼はそのことを知らないが。しかも、中央の決定により、その生命すら勝手に決められる。その動きも資本主義的だなぁ、と感じる。

 資本主義と社会主義は、大本は同じものだ。ただ、方法論が違うだけである。

 

・「俺よりも優秀だ」の意味

 ウォルトン・ゴギンズが主人公に語った最後の言葉は、結構いいなと思った

。「俺は好き勝手に動けないんだ」と言う彼は、結構好き勝手に動いているようにも見えたが、実際にはやらされているだけなのだ。これは主人公の街から出られないことと対応している。

 ここはもしかすると、彼にも自由意志がそれなりにあるのに、その責任を転嫁しているだけなのかもしれない。彼は人殺しを好きにやっているのに、それを「俺の頭をいじった奴らの命令でやってるんだ」とか言って、実は好き勝手やってただけなのかもしれない。

 主人公はそうではなく、全てを自分の責任として、自らの人生を背負った、とも言える。「僕は、僕が命令している」と責任を転嫁しない。だからこそ、ゴギンズよりも優秀な人間なのだ。

 

・しかし、それはあくまでも資本主義の話だ

 最後、本当のエージェントになったことでこの映画は、ダメな作品になったと思う。ただの楽しいだけの映画にしては重苦しい映画で、最後はヒーローになりましたよ、という感じで終わったが、それはシステムへの敗北でしかない。

 もしかすると、それも皮肉にしているのかもしれない。最後のアニメーションの残虐さは爽快さより、ただただ後味の悪さだけが残る。

 

ジョン・レグイザモとかいう無駄遣い

 いいですね。こういう映画にもでるのがいいところ。

 

【雑感】人は時に、自分の一番長じたものをこそ疎ましく思う~紅白でRADWIMPSを観ながら~

 

 年末はだいたい格闘技を観ると決めているのだが、今年はRADWIMPSが出ていたのでそこだけは観た。

 そこで『君の名は。』の映像とともに『前前前世』を歌っていたわけで、やはりジンと来てしまったわけで、おいどんも男なわけで。

 

 というのも、自分が『君の名は。』に感じた感動というものの、7割位はRADWIMPSの曲によるものだったんだなぁ、と改めて考えたからだ。

 

・そもそも、RADWIMPSは4枚目までしか聞いていなかった

 つまり、別に大したファンではない。一応、映画を見た後に5枚目以降を聞き直したが、やはり良いと思えるのは4枚目以前まで。さらに言えば3枚目と4枚目だ。

 RADWIMPSについて、ざっくりとした分類は「ポスト・バンプオブチキン」で、バンプの歌が小学生の心情から見た恋愛観や社会への感想だったのに対し、RADは中学生くらいの恋愛観や社会批判だなぁ、と考えていた。ちなみに、それは今でもあまり変わっていないと思う。

 5枚目以降のRADWIMPSは、個人的には「中学生からの脱却をしようとして変なことをしてるけど、成功していない」という感想しかなかった。まぁ、変わった音楽をしようとして色々と試しているけど、あの気持ちよさがないなら聞く気にならない、というものだった。自分の良さを、自分の天性をこそ嫌いになる反抗期だったのかもしれない。

 そもそも、歌詞自体はそのままの幼さがあったので、曲自体をどれだけ変わったものにしようと、ゲテモノにしかならなかった、という感想。そういう意味ではロキノン的ではあるとは思うんだけど。

 

・『君の名は。』での先祖返り

 では、『君の名は。』ではどうだったのか。

 完全に、4枚目の頃の青臭さ、真っ直ぐさが帰ってきた、どころではなく、もはや「これバンプじゃね」と言われるほど、彼らの原点にまで先祖返りしていた。

 自分はわけもなくオープニングで涙腺に来たが、それは歌詞がそれについての言及に思えたからだ。

 オープニングの『夢灯籠』で、初っ端にこう歌っている。

 

 あぁ「願ったらなにがしかが叶う」 その言葉の眼をもう見れなくなったのは
一体いつからだろうか なにゆえだろうか

 

 ここが目に来た。

 その前に、イントロが始まった瞬間に「あれ、これって俺の好きな頃だったRADっぽいな」と思わせてからのこれはもう、まさにRADの今までの軌跡を一言で表しているように感じた。

 この言葉は単純に見えて、非常に複雑だ。なぜなら、彼らは自らの「子供っぽさ」を否定し、そこから脱出しようとしていたが、それこそがすでに「願ったなにがしか」でしかないのだ。つまり、彼らは子供っぽさから逃げられていないのだ。そもそも、子供らしさ、幼さから逃げ出すこと自体が非常に子供らしい。だからこそ、

 

 感情にハイタッチして 時間にキスを

 

 感情を捨て、ある意味で気持ち悪いキメラのような継ぎ接ぎの曲を作っていた人間が、自らが否定してきた感情にもう一度向かい合い、しかもその無駄にしてきたと思われるような時間にすら祝福を与える。

 

 5次元にからかわれて それでも君をみるよ

 

 周りには馬鹿にされるかもしれない。それでも、自分が決めたことをやるんだ、という子供らしさへの回帰。

 そして、君の名を今追いかけるよ、と言われた瞬間、僕は鼻をすすった。これはもう、RADWIMPSの主題歌じゃないか、と。

 彼らは、自分たちの今までの歩みを否定してはいない。逆に、今まで否定していたものをこそ、自分たちの一部なんだと受け入れ、認め、そこに帰ってきたのだ。

 物語の原型は元いた場所に帰ってくることだ、という話が最近有名になったが、このオープニングでRADWIMPSの物語が完成したようにすら感じる。

 

・歌詞での「君」とはもしかすると、彼らが忘れようとしていた幼さや、中学生っぽさだったのかなぁ、と考えると、非常に切ない歌にすら思える

 

 いつか消えてなくなる 君のすべてを
 この眼に焼き付けておくことは
 もう権利なんかじゃない 義務だと思うんだ

 

 何かがあげられると思う。もちろん、違うんだけど。

 ただ、基本的に彼らの世界観である厨二病的世界は、喪失をこそ物語の本質にしているので、幼児性や青臭さは代替可能な場合が多い。

 ただ、RADWIMPSがもしもそういった幼さを客観的に観ることができているとしたら、すごいいい歌詞をかけているのではないか、と思う。

 

 

・『人間開花』を聞いてみて

 正直、そんなに良くはなかった。ただ、帰ってきた感は強まった。英語で歌うのもそれを助長しているのかもしれない。

 

 

・『前前前世(original ver.)』で足された歌詞

 映画版と違い、途中に歌詞が足されているが、何故抜いていたのか。

 なんとなく考えたのは、あの部分が未来につながる歌詞だから、というものだ。これから歩いて行く、という部分は実は映画にはない。匂わせてはいるものの。

 それを映画の後に聞かせる、というのは良い演出だな、とは思う。そして、RADっぽいという意味ではこっちの歌詞が入っている方がらしいな、とも思う。

 

 とまぁ、今年もなんかいい映画や音楽を聞きたいなぁ。