ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】ヒーローに呪いは必要か?〜『スパイダーマン: スパイダーバース』〜

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アニメーション映画『スパイダーマン: スパイダーバース』を観てきました。スパイダーマンの映画は果たして何個目だ、というくらいにリブートの多い作品ですが、人気者の宿命といえばそれまでか。
徒然と感想書きます。


・素晴らしい映像
スパイダーマンの映画は、他のヒーロー映画やSF映画同様に常に最新の映像技術の博覧会のようなものとなるが、今作もまた最新CG映画の見本市の色合いが見て取れる。
詳しくはパンフレットを見ていないので分からないが、実写と見紛うばかりの風景と、その中にカートゥーンライクなキャラがいても全く浮いている感じがしない。恐ろしいほどに美しい色彩と、そこに矢継ぎ早に繰り出される二次元と三次元の架け橋のような演出、動き。
実写のように見えすぎることに意味はない、ということを百も承知の映像美は素晴らしいの一言。
この映画にお金を払う価値があるとすれば、まさしくその映像美だ。


・ベンおじさんの説教という呪い
スパイダーマンのリブートはファンに色々な感情を思い起こさせるが、その複雑さの一つには「またベンおじさんの説教を聞くのか」「時報(ベンおじさん)」という感情も含まれる。
ベンおじさんの教えはスパイダーマンという作品を、ただのおちゃらけてPOW!とか言いながら悪人を殴りつける作品から、大人まで魅了する暗さを持つ作品に昇華させた、最大の功労者と言える。
スパイダーマンの原作は明るい主人公とは対照的に暗く、陰鬱な部分が色濃い。その明るさすらも、影を濃くする効果を持っているほどに。それはベンおじさんの教えが、「力を使うことは、その対価を支払うこと」と言っていることに他ならないからだ。
つまり、この教えは、言ってしまえばスパイダーマンを「抑えつける」教えでもある。この教えは彼を解放せず、常に首筋に置かれたナイフのように彼の人生に影を落とす。スパイディの人生は、常にこの教えがあるために、自らの責任の代価を支払いながら、彼は傷だらけのままヒーロー稼業に勤しむ、という状態となっている。(『アメイジングスパイダーマン2』はそこを描ききった名作だと思うが、世間の評価は低い)
それに対し、今作の教えは「解放」だ。今作でも叔父が目の前で死ぬことで、マイルスはスパイダーマンになる。そこには同じ悲しみ、同じ痛みがある。(痛みの共有はマーベル映画では重要な概念だ)しかし、今際の際の叔父の言葉は、ベンおじさんとは真逆だ。錨のようにピーターパーカーの心に居座ったベンおじさんとは違い、今作のおじさんは「お前の好きなことをするんだ」と背中を押す。少なくとも、力の抑制を教えるのではない。
それを無責任と言うことはできる。ベンおじさんの教えはたしかに正しく、マイルスはその責任に対して未だ無自覚だ。いつかその責任を取る日がやってくる。ただ、それが今である必要はない、というのが今作の話だ。
「ヒーローは犠牲となる者」とすることは簡単だが、それはヒーローに対して求め過ぎなのではないか。彼らの傷の上に成り立つニューヨークは確かに美しい。だが、それはあまりにも残酷な徒花だろう。
今の世界は、おそらくは誰かを犠牲にすることに対して感じやすくなってしまった結果、目を閉ざそうとしているか、なんとか救おうとしているか、どちらかに別れているのかもしれない。それが移民の問題や、すべての問題に通じているのでは、と個人的には思う。そして、ヒーローとは誰よりも感じやすい人間なのだ。感じやすいからこそ、誰かを守らずにいられないような。たとえ、不格好で、傷ついたとしても。
今作は思想的にも現代的にブラッシュアップされた作品だった、と言える。


・スタン=リーのシーンは涙腺崩壊
スタン=リーが出てくるヒーローグッズ店のシーンは、もとより悲しい演出が施されていた。そして、悲しみを覆うほどのネタ要素も。しかし、今となってはそれすらも「スタン=リー節」に感じられ、涙を流さずにいられなかった。
もはや、全てのクリエイターに対して投げかけるようなそのセリフは、脚本家の意図を遠く投げ飛ばし、遺言のように感じた。
もちろん、ここで言っている「いつかはスーツに合うようになる」というセリフが、マイルスが後にスパイダーマンとして覚醒することの伏線となっているなど、物語上重要であることには変わりないのだが。(スーツと顔の反射がどの位置にあるかなど、小気味よい演出も悪くなかった。クドかったが)
ただ、人生はいつでも返品不可だし、いつだって自腹だ。


・音楽も素晴らしい
スパイダーマンはストリートのヒーローだ。そんな彼にはヒップホップが似合うのは当然か。とにかく、サントラは買う。


映像も思想も素晴らしく洗練された、まさに新しいスパイダーマンの世界に没頭できる良作だった。
スパイダーマン映画で一番、という人がいてもおかしくはない。

【ネタバレ】脳筋でいいのさ~『アクアマン』を観て~

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 DC映画の『アクアマン』を観てきました。

 DCのシネマユニバースといえば、基本的には駄作を量産する肥溜めと化していたわけですが、『ジャスティス・リーグ』以降の作品は必ずしもそうではない、という評価であり、今作も色々と言いたいことはあるが基本的には楽しく痛快で、映画館で見る価値のある良作になったといえます。

 以下、徒然。

 

・客が観たいものを提供するジェームス・ワン

 今までのDCの映画の問題点は「客が観たい映画ではなかった」の一言に尽きると思う。客が観たいのは「ヒーローが格好良く、敵をなぎ倒していく」映画が見たかったのに、ずっと悩むか、なぎ倒すのはビルばかりで敵は健在、みたいなものばかりであった。『マン・オブ・スティール』のことを言っている。今後も言っていく。

 もちろん、そういう映画が悪いわけではない。ただ、シリーズの(それも今後、いろいろと長く続いていく連作の)1作目にやることではない。3作目くらいにやって、シリーズを緩やかに終わらせる作品でやることだ。

 『アクアマン』では、そんなことはしない。客が観たいであろうアクションを多く見せ、その間につまらない政争劇や津波の大仰なシーンを見せる。まさしく「ワイルド・スピード」作品の監督だな、という印象そのままである。疑似ワンショットで大立ち回りを見せる美男美女(ニコール・キッドマン含む)が、屈強な敵をボコボコになぎ倒していく。その姿にポップコーンが進む。

 ただの大立ち回りの連続ではなく、例えばイタリアではワインを使った超能力など、客を飽きさせないバリエーションも用意する。海の中ではスーパーマンよろしく飛び回ることもあるが、一対一の対決なので『マン・オブ・スティール』のように見にくいこともなく、緊迫感も爽快感もある戦闘シーンだった。

 『アクアマン』という枠を出ない程度に、客層をきちんと理解し、何を観たがっているのかを調べ、提供する。まさしく職業作家として最高の仕事をしたと言える。

 

・予想よりも下を行くサービス精神

 サハラ砂漠に行くシーンでtotoの『アフリカ』が流れて来たときは「勘弁してくれ」と笑いそうになったが、そういう無意味なほどに分かりやすいものを詰め込むところがこの監督のらしさなのかもしれない。

 「太古の島!? そんなん恐竜おるにきまっとるやろ!」という短慮のすぎる頭で、トライデントのある島はジュラシックパークとなっていたが、それも観ていて「勘弁してくれ」となった。

  どこまでが真面目で悪ふざけなのかがつかみにくい監督だが、一言でまとめるなら”ヤンキー節”というのが近いかもしれない。とりあえず、ノリと勢いでやってみればなんとかなる、と思わせる何かがある。

  全てを過剰にしていく所はマイケル・ベイに近いものがある気もする。

 

 MCUの面白くない作品くらいなら太刀打ちできないくらいのレベルの作品にはなったと思う。

 次回作が楽しみ、とまでは思わないが、このノリで楽しませてくれるなら、別に映画館代は高くないと思う。

【ネタバレ】ロシアは未だに深淵~『クリード 炎の宿敵』を観て~

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・スポ根映画としてみたら十分面白い。何も考えず、楽しめる良作になったと言える。

 

ドルフ・ラングレンのロシア語を堪能できる。というのはさておき、ドラゴ側の話は良かった。ドラゴ親子の葛藤や交流、そしてラストの一緒に走り出していく姿は素直に感動した。

 

クリード1に比べると、やはり作品全体としてはジャンル映画化し、普遍的な良さはなくなった。

 前作は、それこそボクシング世界の縮図としての「アメリカの再生」を描いた作品だったと思う。ヨーロッパに蹂躙されたアメリカボクシング界の再生劇であり、最後の舞台がイギリスだったことも含めて、一種の親子の話でもあった。親がなし得た偉業を、子供はどのように受け継いでいくのか。また、受け継ぐ意味はあるのか。そういう事も含めた作品だったし、そんなところまで射程に含めながら、非常にコンパクトにまとめ上げることのできた、まさしく傑作だった。

 それに対して、今作ではその視座はない。あるとすれば、親子の関係だろうか。親から子に、一体何を受け継ぎ、そしてそれをどう受け止めるのか。

 例えば、アマーラの耳への障害が、この映画の中で何を意図しているかは難しい。良いものも悪いものも、受け継いだものすべてを受け止めて前進する、ということを言いたいのではないか、と考えるも、この映画ではそこには言及しない。ほのめかしすらもない。ただ与えられるだけで、あとは解釈のみが存在している。

 

 もっとも、ロッキーですらも、1以降はただのスポ根映画になっていたことを考えると、それ以上を求めるのは最初から酷である、とも言える。

 

・ロシアサイドの描き方はどうだったか

 クリード1がボクシングの世界の縮図であったとしたら、その中におけるロシア(旧ソ連)はどのような存在になるだろうか。ボクシングファンからすると、それは現代ボクシングの頂きに君臨している、という答えになると思われる。

 長かったクリチコ政権が終わりを告げ、アメリカにも久方ぶりのヘビー級王者が生まれたとはいえ、未だにPFP最強と呼ばれるのはロマチェンコであり、その少し前はゴロフキンだった。

 そんな世界から見ると、ドラゴ親子の描き方はあまりにも古臭く、残念と言わざるを得ない。さらに言えば、ロッキー4よりも退化している面ですらある。

 ロッキー4のドラゴはアマチュア出身の強いボクサーだった。現在、ボクシング界を支配しているのは五輪でメダルを取った猛者たちだ。その観点からすると、ドラゴというキャラクターは非常に現代的な存在だったと言える。ロマチェンコなど、プロになって3戦で世界王者になったところはドラゴの現実版にすら見える。

 何が言いたいかというと、ボクサーとしての描き方が現実から乖離しすぎている、ということだ。ドラゴのボクシングスタイルはパワー偏重で、荒削り、ということだったが、それは現在のロシア系ボクサーとは少し違う。現代のヨーロッパのボクサーはアマチュア上がりの技術力を全面に押し出し、そこにパワーを加えた攻防一体のボクサーであり、その技術力でアメリカのボクサーを圧倒している。また、ただのテクニック偏重なのではなく、体幹を鍛え上げ、少ない動きで大きなパンチ力を出すこともできるなど、現代スポーツの申し子たちでもある。あのゴロフキンですら、防御テクニックはアマチュア出身らしく高いものがある。

 ドラゴは、息子もアマチュアに進ませるべきだったし、そこを「一度大きく負けたから」という理由で除け者にはしないはずだ。除け者にするにしても、ロシア内でドラゴがのし上がる過程を見せるべきだったと思う。実力で黙らせる野獣、ということであれば、まだ納得はいくものの、いきなり出てきて、となると「他に強いやつはいなかったのか」と疑問に思ってしまう。

 これも、1の脚本が良すぎたせいであり、ここまで求めるのは間違っているとは思う。ある意味、ただの言いがかりなので、この作品を貶める要素にはならないとは思う。

 

・4のドラゴって、最後は良いやつだった気がする

 うろ覚えながら、あのドラゴは、何だったのか。「俺は負けたから、何もかも失った」って言ってたけど、その前に歯向かったからでは。まぁ、歯向かったから干しても良いわけではないが。

 

 

 

 

 

 

 

【ネタバレ】僕らはまっすぐ世界を見れるのか~『ペンギン・ハイウェイ』を観て~

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 森見登美彦原作『ペンギン・ハイウェイ』を観てきました。

 原作は読んでいないので、そういう意味では正しいレビューではないと思います。ただ、森見登美彦作品では『有頂天家族』をよく読んでおり、また『四畳半神話大系』は原作、アニメともに好きです。

 徒然と思ったことを書きます。

 

森見登美彦の映像化としては正解

 森見登美彦作品の面白さの半分は、その文体である。そう言ってしまっても問題はないと考えている。映画『夜は短し歩けよ乙女』が、映像作品としての面白さはあるものの、個人的に響かなかった理由はそこにある。逆に、アニメ版『四畳半神話大系』が大成功だった理由は、個人的にはその超高速独白を延々と全話続けたからに他ならないとも考えている。

 つまり、今作ではその映像的な美しさとは別に、主人公の独白が多くを占め、そして口調も基本的に、読みやすい文語体的な口調をそのまま使ったおかげで、面白さの半分は担保できている、と言っても過言ではない。

 というのも、森見登美彦作品における文体、独白というものは、それ自体が作者の、現実に対する距離を物語っているからだ。森見登美彦は、基本的には傍観者である。世界を批評的に見ているからこそ、その物語はどこか悲しく、幻想的であり、そして優しい。

 

・映像が素晴らしい

 オープニングから、個人的には心を鷲掴みにされた。近年、アニメでも流行っているのであろう、マーティン・スコセッシのような部屋の俯瞰に、アオヤマくんの代表的な独白が重なる始まりから、ペンギンと出会い、そして町から山の中へとペンギンが入り込んでいくシークエンスで、劇場版アニメーション作品としての尊厳のようなものを垣間見た。有り体に言えば、手間も金もかけている、ということをまざまざと見せつけられた、というところだ。

 キャラクターデザインも、オタク臭すぎず、かといって中村佑介的な色から離れすぎず、野暮ったくもなく、フレッシュなデザインだったと言わざるを得ない。全員の頬に朱が射している部分は少しあざとく見えたものの、すべてのキャラクターデザインが正解と言えるバランス感覚で作られている。正直、ここまでちょうどいいデザインは、思いつかない。正しい言い方ではないが、ガイナックス作品からオタク臭さを脱臭したような作りだと言える。

 

・アオヤマくんという子供

 主人公のキャラクターについては、森見登美彦作品の集大成のような人物像系だと思う。

 彼の美徳は、世界を肯定しているところだ。冒頭のいじめっ子との対比で、それは分かりやすく描かれている。ペンギンを「珍しくない」「つまらない」と断定するいじめっ子に対し、主人公は「そうではない」とはっきりと言い返す。主人公にとって、世界とは驚きに満ちあふれており、一つ一つは確かに日常的で、ありふれたものかもしれないが、その中に入り込むことで、世界はまだ見たこともない顔を見せつけてくる。

 初期の森見登美彦作品において、主人公はどちらかといえば、世界を否定していた。もしくは、否定するように世界に飼い慣らされた、とも言える。アオヤマくんのような少年の成れの果てこそが、森見登美彦作品における主人公であり、腐れ大学生であった。初期作品では、そういった青年たちが、自分たちの世界を肯定することに立ち返る作品が多かったと思われる。アニメ版『四畳半神話大系』などは、その性質をより際立たせる物語展開を行った。自分の灰色だと思っていた大学生活が、実はそれ自体が素晴らしく、かけがえのないものであった、と気がつく瞬間、彼は世界を肯定したのだ。

 対して、今作の主人公は、いわばその前身であり、なおまだ他人を否定することも知らない少年として描かれている。例えば、彼は幼い妹や、クラスメイトでドジっ子のウチダ君(この映画で一番可愛かった)を、文句も言わずに助ける。彼は、誰も蔑まず、否定しない。彼にとって世界とは肯定の対象でしかないのだ。そういった主人公だからこそ、まっすぐに世界を見つめ、そしてまっすぐにお姉さんへ向かっていくのだろう、という終わり方を見せている。

 

・世界のルール作りの曖昧さについて

 今作における一番のネックとは、お姉さんとはどういう存在で、ペンギンとは何で、結局“海”とは何だったのか、という風に、あまり答えのない事柄が多いことだと思われる。簡単な説明はあるが、明確に答えを言明しているわけではない。確かにそれはノイズであった。

 ただ、それに関して擁護をするならば、その答え、ないしはスタンスをアオヤマ君が考えたくなかったから、だと言える。

 この映画の物語を押し進めるのは、様々な謎だ。それはペンギンであったり、“海”であったり、お姉さんの能力であったりする。それらの謎を解明し、答えを見つけることが物語の目的であった。しかし、実はその答えよりも大事なものがお姉さんであった、という物語に、急激にシフトチェンジしてしまう。

 例えば、夜、妹が「お母さんが死んでしまう」と主人公に泣きつくシーンが有る。それは単に、「“いつかは”お母さんは死んでしまう」という事実に妹が気がついただけであった。主人公は冷静に「命とはそういうものだから」と諭す。しかしながら、お姉さんに関しては、冷静ではいられなかった。彼は「お姉さんの喪失」という可能性に対しては、いついかなる時も可能性に蓋を閉め、答えを出さないようにしようとしてきた。最後になっても、彼は答えを口にしないように努力をした。

 しかしながら、最後は現実が彼とお姉さんを引き裂いた。命とはそういうものであり、世界とはそういうものなのだから。彼ははからずも、自らの言葉を証明してしまった。

 

・「言わない」という関係性

 『有頂天家族』などでも描かれていたが、森見登美彦作品において、「言わなくとも伝わる」という関係性は、非常に重要なものとして描かれる。例えば、『有頂天家族』の主人公と、師匠である天狗の関係性はそれを如実に表している。

 横暴な師匠と、それに不承不承つきあう弟子、という体裁を彼らはとっているものの、実のところ、互いに(それぞれにとって可能な範囲ではあるが)敬愛しあっている。それを弟に見破られても「恥ずかしいから言うなよ」と口を封じる。

 また、父を殺したのは自分かもしれぬ、という後悔で蛙になってしまった次兄のことを、「恐らくはそうではないか」と気がつきつつも、優しく受け入れる母なども、同じく「言わなくとも伝わる」関係性と言えるだろう。(そもそも、『有頂天家族』という作品は、狸鍋となった父を介した、伝えることのできない思いの交錯する様を描いた作品だったとも言える)

 今作においてもそれは同様だ。主人公はお姉さんへの思いを、最後まで本人には言わない。本人どころか、周囲にも言わない(胸部への飽くなき興味は断言するが)。だからこそ、最後に「お姉さんにもう一度会って、どれだけ好きだったかを伝える」という決意が、大きな感動を生むのだ。空き地に帰ってきたペンギン号を見つけ、主人公は目を輝かせた。ペンギンはお姉さんとのつながりであり、そして、いつしか自分もまた、このペンギン号と同じことをするのだ、という決意のようでもあった。

 個人的には、そこは良いと思う半面、やはり言葉にすること、行動にすることも別の感動を生む、と考えている。アニメ『フリクリ』や『エヴァンゲリオン破』などのガイナックス作品は、逆に伝える方向にシフトチェンジした。個人的には、その方が好みではある。

 しかし、森見登美彦らしい、という意味では問題はない。

 

・大きな問題点は、お姉さんの登場時間

 途中に大きな断絶があるため、登場時間が短く感じる。

 “海”の研究をしている間、お姉さんがあまり出てこないものだから、映画だけで見るとお姉さんとの交流は少なく、どちらかと言えばハマモトさんのほうがヒロインのように見える(さらに言えば、ウチダ君は徹頭徹尾ヒロインのようであった)。そのため、原作未読者には「お姉さんのどこが好きなのか」「胸がでかいからじゃないか」という認識になるのでは、と感じた。

 と言うより、出ずっぱりにしてもらえないものだろうか、とは思った。蒼井優の棒っぽい演技も相まって、お姉さんは魅力的だった。ペンギンを整列させ、突撃していく様は痛快でありながら可愛く、確かに少年にとっては刺激の強い女性である。

 

宇多田ヒカルの曲は素晴らしい

 エンドロールは曲の良さで泣きそうになった。しかも映画にあっている。

 おやすみ、という言葉はお姉さんへの鎮魂歌のようでもあるし、お姉さんからアオヤマくんに伝えているようでもある。

 謎は終わらない、ということは、この世界はずっと続いていき、その細部は複雑になり続ける、ということだ。その度、世界の複雑さ、奇妙さに驚くことだろう。そしてその驚きは、つまりはお姉さんに対する驚きだ。世界とは驚くほどに美しく、そして訳もなく好きなのだ。

 そういったまっすぐさを持った映画であり、ぜひ腐れ大学生や、そのまま大人になってしまった不純な人間こそ、夏の終わりに見るべき作品だと思われる。

【ネタバレ】良い映画だがチグハグ~映画『フローズン・タイム』を観て~

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 アマゾンプライムで映画『フローズン・タイム』を観ました。

 結構前評判が良かったので安心していましたが、考えていた以上に良い映画だったので驚きました。ジャケットがあまり映画とあっていないので、なんとかして変えたほうが良いのでは。

 SF、というべきかファンタジーと言うべきか、ジャンルとしてはヒューマンドラマと呼ぶべき作品。

 

・基本的には笑える映画

 この映画は一本道のストーリーではあるものの、主人公が何かしらの目的を持って行動しているわけではないので、途中までは非常に無軌道に見える。

 例えば、主人公は恋人に振られた(と言うよりは、その後目の前でイチャツカれたりした)ショックで不眠症となっているが、それを苦しんでいる素振りは少ない。と言うよりも、そうなっていることで恋人を忘れないようにしている、とすら読める。つまり、この映画の主軸は不眠症の治癒ではない。

 では、フローズン・タイムという名前が示す能力(というべきか、なんというべきかわからないが)を使った、楽しいエンターテインな人生を送ることが主題歌と言うと、そうでもない。主人公はその能力を使い倒して楽しむでもなく、ただひたすら絵を書くことばかりに使う。(少なくとも、映画で描写する範疇では)

 ヒューマンドラマと呼ばれるジャンル映画によくあることだが、この無軌道っぷりを覆い隠すために、この映画では随所に笑いを散りばめている。そして、その笑いは冷たいものではなく、温かみに溢れた、人とのふれあいの中の笑いだ。そこがこの映画を良い映画にしているところだと思われる。

 この映画は、本当にとりとめもない笑いを、これでもかと散りばめている。悪友二人の馬鹿なやり取りだけでなく、突拍子もなく出てきたカンフーマニアや、幼馴染の下ネタ。すべてが抱腹絶倒、というわけではないが、テンポよく運び込まれるネタの嵐を前に、くだらなすぎて笑えてしまう。

 ただ、それが物語を進めているわけではないことは事実だ。この映画の悪い点の一つとして、やはり無軌道すぎる点が挙げられると思う。ギャグを重ねても、物語への興味を持続させることは難しい。

 

・善人だらけのスーパーマーケット

 この映画の大きな部分を占めるスーパーマーケットは、日常そのものを描いている。基本的には退屈で、時間の進みのない場所だ。ただ、そこに息づく人たちはくだらないことに知恵を絞り(時計を隠すなど)、くだらない笑いを見つけ出し(悪友二人組)、そして、その日常を楽しんでいる。

 フローズン・タイムというタイトルではなく、原題のキャッシュバックという意味で言うと、主人公はこの日常の中から、お金以上の何かを取り戻した、ということになる。それは新しい恋人、という意味でも正解だろう。画家としての成功も正解だ。しかし、実際には彼が取り戻したのは日常だったのかもしれない。

 

・店長というキャラ

 本作中で一番の悪人として描かれている店長ですら、どこか優しく、憎めない。彼の描き方はこの映画の白眉と言える。厚顔無恥であり、自信家であり、誰よりもエゴイストな彼だが、周囲の人間を嫌わないことにこそ、その美徳はある。問題しかない従業員を信頼し、チームワークを説き、果てはパーティーにまで呼ぶ。

 なぜ彼が他人を信頼するか、という謎への答えは簡単だ。全ては、彼のエゴイズムから来ている。彼は自身が素晴らしい人間であることを疑わないがゆえに、他人も自分を愛していることを信じて疑わない。そして、自らを愛する者を、彼は愛しているのだ。

 この馬鹿げたキャラクターは、馬鹿げているがゆえに魅力的だ。

 

フローズン・タイムにはルールがあったほうが良かった

 主人公の時間停止能力は、この映画の主軸ではない。それゆえに、ほぼ説明もない。ただ、それでは本当に謎しか残さないため、人によっては「結局、これは何なの?」というブレーキにしかならない時もあるのでは、という危惧がある。

 また、主人公の独白が大半を占めるこの映画で、能力についての分析があまりないのも気になった。これだけ四六時中、様々な事を考えている主人公が、なぜこんな面白い事象を簡単に受け入れてしまうのか。

 やはり、こういう荒唐無稽なものに対しては、一定の主人公のスタンスを示すべきではないか、というのは感じた。主人公の中で「おそらくはこうだろう」というルールを設けるべきだったのではないか。

 

・そもそも、能力が暗示しているものが不透明

 この時間停止能力には、様々な理由が考えられるが、個人的には以下の3点かな、と推測していた。

 

①スージーと恋人に戻りたいという時間逆行への願望(そこから転じて、恋人がほしいという願望)

不眠症が突き進んだ結果、時間の進行が極限まで遅くなった

③主人公の妄想

 

①が一番ありえた、とは思うのだが、結局は最後も時間を止めており、そうではないらしい。

②については、不眠症が治ったはずが、その後で時を2日も止めている。ジョースター家の血でも入っていたのか。

③は、絵であったり、店長への実際の被害もあったので、おそらくは違う。

 

というように、映画の主軸がないために、時間停止能力もそこに関与したものとならない。

 この映画の大きな問題点はここにある。主題が定まっていないことだ。普通のヒューマンドラマで、特に時が止まらないのであれば、別にこの映画は何も問題がないように思う。もしくは、時間停止がただの妄想であり、主人公の願望を演出として見せているだけなのだとしたら、この映画は普通のヒューマンドラマとして成立したと考えられる。(最後の演出も、二人だけの世界に入りました、みたいな感じで納得できよう)

 時間停止のような荒唐無稽なものを出すのであれば、それはなにかの言い換えであったほうが映画的な主題を強化する装置になる。

 例えば、①の場合であれば、二度出てくる「時間は巻き戻せない」という言葉が、非常に大きな意味を持つ。つまりは、彼の持っている能力は、彼の本当の望みを叶えることができない。そして、二人の恋人を失い、彼がそれでも何かを『キャッシュバック』したとしたら、それは何か、という話に持っていくことができる。この場合は、バッドエンドを描くことになるかもしれないが、能力が映画の主題を説明する装置になる。

 主題がない映画が悪い、というわけではない。この映画は、装置の食い合わせが悪い、ということだ。少なくとも、時間停止は演出だけにとどめておけばよかったと思う。もちろん、それが面白くないのであれば、主題を明確にすれば良かった。

 

 例えば、この映画は何度も過去の話が挿入される。(その挿入のシームレスさは良かった。この映画の美点の一つ)

 もう二度と戻らない、馬鹿げていたが楽しく、美しい日々。それらは時間の不可逆性を演出するのに一役買っていた。さらに、その登場人物がまた現実に出てくることで、その閉鎖性を打ち破り、未来がある演出にもなっていた。(その後、付き合っていないのには閉口したが)

 その話もまた、与太話の一つでしかなく、あまり映画の進行に寄与していることはなかった。

 映画は無駄なことを語れば語るほど、主題が見えなくなり、結果としては茫洋な映画になる。

 良い映画ではあったが、今の評価はたしかに適当だと思われた。

【ネタバレ】映画で語るべきは「嘘」と「本物」だけなのではないか~『万引き家族』を観て~

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・痛快な万引き劇はない

 タイトルからして、家族全員で万引きを行っているのかと思っていたが、そういう場面はない。万引きが家族の絆でとか、そういうのもない。

 万引きという言葉自体には、あまり大きな意味はない、とも言えるし、意味を読み取ろうと思えば読み取れなくもない。

 この家族自体が、自然と生まれいでたものではなく、どこかから盗んできたものの集まりだった、という意味にはできる。だからそう、というあれでもないが。

 

 

・何が「本物」だったのか

 映画というものは基本的には「フィクション」であり、実際に起こっているものを再現したとしても、それを作っている時点では本物ではない。だからこそ、映画という芸術には「嘘」が最初から含まれている。映画というよりも、演技という行為がふい組まれる芸術、というべきか。

 この映画もそのご多分にもれず、舞台設定は現実的ではない。この映画の構成要素を見て、「現代日本の縮図だ」「こういう奴らが日本の現実だ」と言うのには少し飛躍があると思う。現実の一側面をデフォルメ化しただけだろう。

 なので、高須クリニックの院長が「現実的でない、ファンタジーだ」ということにも真実はある。高須院長が「こんな奴らはいるはずがない」と言うことと、「こういう奴らはいる」という人間が、それぞれの現実を生きているだけに過ぎない。その会話の中ではどちらも「本物」であり、「嘘」なのはこの映画だけだ。

 なぜなら、この映画の本当の主役は「嘘」であり、またその裏返しである「本物」だったからだ。

 

 

・本物の家族

 この映画の最後まで行くと、観客は否応なく「本物の家族」という言葉に頭を殴られる。

 不幸で痛ましい本当の家族と、貧しいが慈しみのある偽物の家族、どちらがいいですか、という二者択一を図らずも考えてしまう。

 しかし、この映画が提示する答えは、その二者択一の向こう側だ。なぜなら、どちらも正しくはないからだ。(この映画の中において、という意味ではあるが)

 何故正しくないか。それは、どちらも嘘で成り立った関係だからだ。

 例えば、本物の家族のもとにいるのが幸せだ、という言説は嘘だし、本物の母親が必要、というのも嘘だ。リンが元の家族に戻らなくてはならない理由はすべてが思い込みの嘘っぱちでしかない。

 しかしその一方で、嘘の家族の元で暮らすことが正解ではない。なぜなら、彼らの優しさは(も、また)自己投影でしかないからだ。安藤サクラはリンに、リリー・フランキーは祥太に、自分を投影しているからこそ優しいのだ。その行先は、おそらくは元の家族とそう変わらないだろう。束縛と破滅しかない。

 この2つの家族は正反対のようで、実は利己的で他人を傷つけている面では変わらない。しかも、その利己性は「嘘」で塗り固められている。

 

 

・風俗という嘘の商売

 松岡茉優が演じている風俗嬢は、まさに嘘と本物の入り混じった職業だろう。風俗嬢は疑似恋愛という形で、収入を得ている。そして彼女はマジック・ミラーで自分を見るように、相手を覗き見る。相手に自分を投影しているように。

 

 

樹木希林と駄菓子屋の存在

 この映画内で、きちんと死が描かれている二人は、ある意味で旧時代のモラルを持っていた。そして、そのモラルが時代遅れであるからこそ、あの二人は退場したのだ。

 この映画は、映画が進んでいくとともに、不可逆の時間への意識付けも行っている。もう二度と戻らない時間、それは嘘だらけのこの映画において、唯一の真実だ。

 

 

・すべて計算されているのだろうか

 最後のバス停のシーンで、バスの窓にリリー・フランキーが写っている。あれはまさに、祥太に自分を写していたことを映像で見せているのだろう。彼は、まさに自分の子供時代のやり直しを、翔太に託していたのだ。

 そして、バスは無情にも走り出す。リリー・フランキーは情けなく追いすがるが、追いつくことはない。バスは時間と同じだ。決して止まらず、リリー・フランキーを置いていってしまう。

 ここで素晴らしいのは、リリー・フランキーの姿を映さないことだ。なぜなら、誰も時間に追いつくことはできないからだ。まして、引き返すこともできない。

 僕たちにできることといえば、振り返ることだけだ。バスの中で後ろをただ振り返っていた、祥太のように。

 

【ネタバレ】帰る国とは~『キングスマン ゴールデン・サークル』を観て~

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・正直、前作よりも楽しい。

 キングスマンの一作目は、実は大好きな作品ではない。と言うのも、キック・アスが最高すぎて、思想的なものを軽く排除したキングスマンはそこまで感動を覚えなかったからだ。ただ、娯楽作品として見れば素直に楽しく、また現代のスパイアクション映画として興味深い作品であったことは確かだったと思う。

 今作は、その楽しさをより増しており、スパイあるあるも大量に詰め込んだ、最高の娯楽作品になったと思う。

 

長回しのアクションは脱帽

 もちろん、擬似的なワンカットだとは思うが、長回しの戦闘シーンが素晴らしく、正直感動すら覚えた。

 すごいのは、一対一の戦いではなく、一対多数の、しかも息のあった長回しの戦いであり、その場にある地形の応用であったり、もはや他の追随を許さぬほどに洗練されたアクションシーンだと思う。

 

・より明確な、選民思想への反対表明

 マシューヴォーン作品で必ず扱われるテーマだが、今回も健在だ。前作と比べて、その意見は過激になっている感すらある。

 それは、恣意的な選民思想に対する、選ばれない者によるカウンターである。

 キングスマン一作目で言われる「マナーが人を作る」という言葉が示す通り、誰しもが自ら高貴な存在になれる。つまりは、他人が勝手に選んだ高貴な人間というものは間違いである、ということだ。ちなみに、「キック・アス」では「高貴な人間」は、「スーパーヒーロー」に言い換えることができる。ヒーローとは、他人に認められてなるものではない。自らそうなり得るべく、努力し、勝ち取る者なのだ。だから、「キック・アス」において主人公は真のヒーローになったのだ。自らが何者であるか、を真に獲得したからこそ、彼はヒーローにもなれたし、また普通の人間にもなれた。

 キングスマン一作目では、その基準を決めようとするのは貴族であり、または億万長者だ。アーサーが敵に寝返るのは当たり前というか、彼は最初から敵とほぼ同じ存在であったと言える。何故なら、彼もまた他人を恣意的な基準で選別していたにすぎないのだから。

 今作で、それはより過激な方向にシフトした。今作の真なる敵は、実は麻薬王ではなく、そして大統領ですらない。それは、普通の人々の持っている偏見だ。今作における合衆国政府は、皮肉な存在だ。彼の行なっている行為は、恐らくは一部の(そして多数)の人間にとっては正しく見えるに違いないし、民主主義でいうところの正しい行いだ。彼らは民衆の中のマジョリティを代弁した存在でしかなく、非常に空疎な存在として描かれている。恐らくは、数字で見た麻薬中毒者の犯罪率も高いのかもしれない。しかし、それは人間を数値に貶める行為だ。そして、その数値上での線引きこそが、恣意的な線引きに他ならない、と言うことだ。

 前作は、例えば逆の線引きもしてしまう。貴族階級だから、人を恣意的に選別してしまう、という、これもまた誤った線引きだ。今作で言いたいのは、生まれは関係なく、人は時に誤った線引きをしてしまう、ということだ。

 民主主義は間違いを犯す。そして、その間違いが殺すのはマイノリティーである。麻薬中毒者の症状の推移は面白い。始めは色がつくだけだが、そのうち踊り始め、最後には静かになり、死ぬ。昨今の、よくネットで馬鹿にされている対象によく似ている。彼らは声を上げて抗議すれば馬鹿にされ、最後には静まり返り、人知れず息をひきとるだろう。

 では、そうさせているマジョリティにその覚悟があるか。果たしてどうだろうか。正しいことを行なっているはずの政府は、何故か中毒者たちを隔離し、人目から隠す。まるで、恥ずべき行いのように。

 マシューヴォーンは、人々の恥部に目を向けさせる。面白おかしく。

 もちろん、マジョリティに言い分がないわけではないし、全てが間違っているわけではない。ただ、全てを数値化した瞬間、なくなるものもある、と言うことだ。

 

 

・悪役は凡庸と言うよりも、前作が魅力的すぎた。

 個人的な意見だが、前作の悪役は近年見たどの映画の悪役よりも輝いていたし、あの二人組は前作の白眉だった。

 サミュエルとガゼルの関係性は、一言で言えば共犯者だった。しかし、ガゼルの果たした役割はそれ以上だろう。ある時は恋人のように、ある時は母のように、そして仲間のように、なによりも用心棒のように。ガゼルというキャラクターがあったればこそ、サミュエルL・ジャクソンの奔放で憎めないキャラクターに深みが出た。

 今作の麻薬王も、チャーリーと同じような関係にしようとしたのかもしれない。しかし、チャーリーというキャラ自体にそこまで魅力はなく、残念ながら関係性としても中途半端に終わったと思われる。

 

 

・何故ハリーは敵に気づいたのか

 それは誰にもわからないのだ、、、、、、