ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】映画で語るべきは「嘘」と「本物」だけなのではないか~『万引き家族』を観て~

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・痛快な万引き劇はない

 タイトルからして、家族全員で万引きを行っているのかと思っていたが、そういう場面はない。万引きが家族の絆でとか、そういうのもない。

 万引きという言葉自体には、あまり大きな意味はない、とも言えるし、意味を読み取ろうと思えば読み取れなくもない。

 この家族自体が、自然と生まれいでたものではなく、どこかから盗んできたものの集まりだった、という意味にはできる。だからそう、というあれでもないが。

 

 

・何が「本物」だったのか

 映画というものは基本的には「フィクション」であり、実際に起こっているものを再現したとしても、それを作っている時点では本物ではない。だからこそ、映画という芸術には「嘘」が最初から含まれている。映画というよりも、演技という行為がふい組まれる芸術、というべきか。

 この映画もそのご多分にもれず、舞台設定は現実的ではない。この映画の構成要素を見て、「現代日本の縮図だ」「こういう奴らが日本の現実だ」と言うのには少し飛躍があると思う。現実の一側面をデフォルメ化しただけだろう。

 なので、高須クリニックの院長が「現実的でない、ファンタジーだ」ということにも真実はある。高須院長が「こんな奴らはいるはずがない」と言うことと、「こういう奴らはいる」という人間が、それぞれの現実を生きているだけに過ぎない。その会話の中ではどちらも「本物」であり、「嘘」なのはこの映画だけだ。

 なぜなら、この映画の本当の主役は「嘘」であり、またその裏返しである「本物」だったからだ。

 

 

・本物の家族

 この映画の最後まで行くと、観客は否応なく「本物の家族」という言葉に頭を殴られる。

 不幸で痛ましい本当の家族と、貧しいが慈しみのある偽物の家族、どちらがいいですか、という二者択一を図らずも考えてしまう。

 しかし、この映画が提示する答えは、その二者択一の向こう側だ。なぜなら、どちらも正しくはないからだ。(この映画の中において、という意味ではあるが)

 何故正しくないか。それは、どちらも嘘で成り立った関係だからだ。

 例えば、本物の家族のもとにいるのが幸せだ、という言説は嘘だし、本物の母親が必要、というのも嘘だ。リンが元の家族に戻らなくてはならない理由はすべてが思い込みの嘘っぱちでしかない。

 しかしその一方で、嘘の家族の元で暮らすことが正解ではない。なぜなら、彼らの優しさは(も、また)自己投影でしかないからだ。安藤サクラはリンに、リリー・フランキーは祥太に、自分を投影しているからこそ優しいのだ。その行先は、おそらくは元の家族とそう変わらないだろう。束縛と破滅しかない。

 この2つの家族は正反対のようで、実は利己的で他人を傷つけている面では変わらない。しかも、その利己性は「嘘」で塗り固められている。

 

 

・風俗という嘘の商売

 松岡茉優が演じている風俗嬢は、まさに嘘と本物の入り混じった職業だろう。風俗嬢は疑似恋愛という形で、収入を得ている。そして彼女はマジック・ミラーで自分を見るように、相手を覗き見る。相手に自分を投影しているように。

 

 

樹木希林と駄菓子屋の存在

 この映画内で、きちんと死が描かれている二人は、ある意味で旧時代のモラルを持っていた。そして、そのモラルが時代遅れであるからこそ、あの二人は退場したのだ。

 この映画は、映画が進んでいくとともに、不可逆の時間への意識付けも行っている。もう二度と戻らない時間、それは嘘だらけのこの映画において、唯一の真実だ。

 

 

・すべて計算されているのだろうか

 最後のバス停のシーンで、バスの窓にリリー・フランキーが写っている。あれはまさに、祥太に自分を写していたことを映像で見せているのだろう。彼は、まさに自分の子供時代のやり直しを、翔太に託していたのだ。

 そして、バスは無情にも走り出す。リリー・フランキーは情けなく追いすがるが、追いつくことはない。バスは時間と同じだ。決して止まらず、リリー・フランキーを置いていってしまう。

 ここで素晴らしいのは、リリー・フランキーの姿を映さないことだ。なぜなら、誰も時間に追いつくことはできないからだ。まして、引き返すこともできない。

 僕たちにできることといえば、振り返ることだけだ。バスの中で後ろをただ振り返っていた、祥太のように。

 

【ネタバレ】帰る国とは~『キングスマン ゴールデン・サークル』を観て~

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・正直、前作よりも楽しい。

 キングスマンの一作目は、実は大好きな作品ではない。と言うのも、キック・アスが最高すぎて、思想的なものを軽く排除したキングスマンはそこまで感動を覚えなかったからだ。ただ、娯楽作品として見れば素直に楽しく、また現代のスパイアクション映画として興味深い作品であったことは確かだったと思う。

 今作は、その楽しさをより増しており、スパイあるあるも大量に詰め込んだ、最高の娯楽作品になったと思う。

 

長回しのアクションは脱帽

 もちろん、擬似的なワンカットだとは思うが、長回しの戦闘シーンが素晴らしく、正直感動すら覚えた。

 すごいのは、一対一の戦いではなく、一対多数の、しかも息のあった長回しの戦いであり、その場にある地形の応用であったり、もはや他の追随を許さぬほどに洗練されたアクションシーンだと思う。

 

・より明確な、選民思想への反対表明

 マシューヴォーン作品で必ず扱われるテーマだが、今回も健在だ。前作と比べて、その意見は過激になっている感すらある。

 それは、恣意的な選民思想に対する、選ばれない者によるカウンターである。

 キングスマン一作目で言われる「マナーが人を作る」という言葉が示す通り、誰しもが自ら高貴な存在になれる。つまりは、他人が勝手に選んだ高貴な人間というものは間違いである、ということだ。ちなみに、「キック・アス」では「高貴な人間」は、「スーパーヒーロー」に言い換えることができる。ヒーローとは、他人に認められてなるものではない。自らそうなり得るべく、努力し、勝ち取る者なのだ。だから、「キック・アス」において主人公は真のヒーローになったのだ。自らが何者であるか、を真に獲得したからこそ、彼はヒーローにもなれたし、また普通の人間にもなれた。

 キングスマン一作目では、その基準を決めようとするのは貴族であり、または億万長者だ。アーサーが敵に寝返るのは当たり前というか、彼は最初から敵とほぼ同じ存在であったと言える。何故なら、彼もまた他人を恣意的な基準で選別していたにすぎないのだから。

 今作で、それはより過激な方向にシフトした。今作の真なる敵は、実は麻薬王ではなく、そして大統領ですらない。それは、普通の人々の持っている偏見だ。今作における合衆国政府は、皮肉な存在だ。彼の行なっている行為は、恐らくは一部の(そして多数)の人間にとっては正しく見えるに違いないし、民主主義でいうところの正しい行いだ。彼らは民衆の中のマジョリティを代弁した存在でしかなく、非常に空疎な存在として描かれている。恐らくは、数字で見た麻薬中毒者の犯罪率も高いのかもしれない。しかし、それは人間を数値に貶める行為だ。そして、その数値上での線引きこそが、恣意的な線引きに他ならない、と言うことだ。

 前作は、例えば逆の線引きもしてしまう。貴族階級だから、人を恣意的に選別してしまう、という、これもまた誤った線引きだ。今作で言いたいのは、生まれは関係なく、人は時に誤った線引きをしてしまう、ということだ。

 民主主義は間違いを犯す。そして、その間違いが殺すのはマイノリティーである。麻薬中毒者の症状の推移は面白い。始めは色がつくだけだが、そのうち踊り始め、最後には静かになり、死ぬ。昨今の、よくネットで馬鹿にされている対象によく似ている。彼らは声を上げて抗議すれば馬鹿にされ、最後には静まり返り、人知れず息をひきとるだろう。

 では、そうさせているマジョリティにその覚悟があるか。果たしてどうだろうか。正しいことを行なっているはずの政府は、何故か中毒者たちを隔離し、人目から隠す。まるで、恥ずべき行いのように。

 マシューヴォーンは、人々の恥部に目を向けさせる。面白おかしく。

 もちろん、マジョリティに言い分がないわけではないし、全てが間違っているわけではない。ただ、全てを数値化した瞬間、なくなるものもある、と言うことだ。

 

 

・悪役は凡庸と言うよりも、前作が魅力的すぎた。

 個人的な意見だが、前作の悪役は近年見たどの映画の悪役よりも輝いていたし、あの二人組は前作の白眉だった。

 サミュエルとガゼルの関係性は、一言で言えば共犯者だった。しかし、ガゼルの果たした役割はそれ以上だろう。ある時は恋人のように、ある時は母のように、そして仲間のように、なによりも用心棒のように。ガゼルというキャラクターがあったればこそ、サミュエルL・ジャクソンの奔放で憎めないキャラクターに深みが出た。

 今作の麻薬王も、チャーリーと同じような関係にしようとしたのかもしれない。しかし、チャーリーというキャラ自体にそこまで魅力はなく、残念ながら関係性としても中途半端に終わったと思われる。

 

 

・何故ハリーは敵に気づいたのか

 それは誰にもわからないのだ、、、、、、

 

 

 

【ネタバレ】ダルシム待望論~『カンフーヨガ』を観て~

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 ジャッキー・チェン主演の『カンフーヨガ』を観てきました。ジャッキー・チェンと言えば、海外では昨年公開された『The Foreigner 』の方が観たかったのですが、正月らしいメデタイ気分には丁度いいか、と思い鑑賞してきました。

 後は徒然。

 

・結構面白い

 粗だらけというか、正直に言うと普通の映画としての面白さはないと思う。終始、トンチンカンな映像のオンパレードであり、映像全体の情報量が多かったり(悪役の登場シーンは本当に面白かった。貴族的な服装をした鷲鼻の男が、ワシを手に馬に乗って砂漠を走っている)、時には全く意味のないシーン(カーチェイスシーンでは、ジャッキーの車にライオンが乗っているのだが、ジャッキーとライオンの顔が同期する意外には全く意味がなかった)なども入ってくる。ただし、それらは「ボリウッド的」という魔法の言葉によって緩和され、「まぁ、こういう映画なんだろうなぁ」と流される、また、映画も次々と展開が変わるので、あまり細かいことにこだわってもいられない。

 観客は常に映画に置き去りにされつつ、怒涛の展開の中で繰り出されるジャッキー・チェンの妙技を味わいつつ、ニヤニヤしながら映画を楽しめる。

 はっきり言ってそんなに悪い体験ではない。よく「頭を空っぽにしたら面白い」という文句があるが、この映画の場合その必要はない。ほっておいても頭は空っぽになる。

 

ボリウッド的なハリウッド映画

 インドで生産されているボリウッド映画的なテイストを、ハリウッド的なスケールでやったらこうなるんだろうな、と随所に感じさせる演出があり、個人的にはそこをこそ楽しめた。時折、わざとスローモーションのコマ送りがガタついたりと、わざとボリウッドの技術にまで落としたりする所も面白かった。

 最後のダンスシーンも、ボリウッド的なものではなく、よりハリウッド的な見せ方をしているためか、割と普通に良い映像に見える。

 また、主演の女優たちがおしなべて美しく、インド的な美人ではなく世界的に受けそうな美人を持ってくるあたりは、意識して人選をしているのではないかと思わせる。

 

・それでも残念な所

 別に、残念な所だらけの映画なので特に言うことでもないが、それでもこうしてほしかった、と思わずにはいられないことが2つある。

 

 一つ目は、ジャッキー・チェンの格闘シーンをもっと遅くしてほしかった、ということ。特に、格好良く闘うシーンは、もっと遅くても構わなかったように思う。そうすることで、ジャッキーがカンフーを使うまで、敵はジャッキーを舐める、という状態になる。「考古学者で、しかもチビのおっさんが、何もできやしない」と言う風に。しかし、観客は知っている。一度ジャッキーが構えを取れば、その時、奴らは中国四千年の歴史をその身をもって味わうことになる、ということを。これが、カタルシスを産む。

 最初の朝食シーンでカンフーを見せるのでも構わないが、その場合も、あまり早くなく、ヘロヘロな動きにとどめておけばなお良かった。

 雪原のシーンでカンフー教室をした理由は、恐らくは観客の中だるみを嫌ってのことだとは思うが、正直つまらない時間を長引かせただけに思える。製作者側に我慢がなかったのではないか。

 

 二つ目は、敵の格闘方法がカンフー的なものではなく、もっと別のものにしてほしかった、というもの。

 今回の敵は王子であるが、インドの歴史や伝統などは意味がなく、富こそが意味がある、という思想なのであれば、もっと近代的な(西洋的な)戦い方にしても良かったのではないか。ボクシングや、それこそMMAなどの動きが多ければ、説得力があった気もする。

 もしくは逆に、「殺人ヨガ」のようなものを勝手に作ってしまっても良かったのではないか。この映画の無数にある欠点の一つに「ヨガ要素が後半ほとんど無い」というのもあるが、それを払拭するために、王子にはヨガをモチーフにした殺人拳法でジャッキーに襲いかかってもらいたかった。口から火を吹いたり、遠距離から柔らかい体を活かしたパンチを放ってみたり、第三の目を開いてテレポートしたり。

 姫が「そんなものはヨガではありません!」と叫ぶ。しかし王子は「否! これこそ我らの伝統だ! この血に汚れたヨガマットこそが、我らの王家たる証!」と聞かない。そこへ、ヨガマットを瞬時に引きずるジャッキー。足を取られ、よろけたその隙に、蛇の頭のような連撃を叩き込む。まいった!との声とともに、姫が駆け寄る。「私が間違っていました。あなたの存在も、また私達の歴史」と手を取り合う。笑顔でジャッキーが手を合わせ、横にあったイスに腰掛ける。その後、ダンスが始まる。

 これでよかったのではないか。

 

 とまぁ、阿呆みたいな話を思いついて友だちと話す分には悪くない作品だと思う。

 

 

【ネタバレ】本当に良かったよ~『ジャスティス・リーグ』を観て~

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 DC映画の最新作『ジャスティリーグ』を観てきました。

 DC映画の作品群は、もちろん全部見ているのですが(ドラマは除く)、それぞれに言いたいことはたくさんあり、『スーサイドスクワッド』を一番下にして、『ワンダーウーマン』が最高峰だったのですが、今回はそれを凌ぐというか、きちんと大作アクション映画として作られていて良かったと思います。

 正直、全く期待していなかったのですが、本当に普通におもしろい映画になったので安心しました。レイトショーで観ると決めた日は仕事中も「俺はこの大変な仕事を終えた後、クソみたいな映画を観させられるのではないか」と、人生について深く考えたりしていましたが、その疲れも吹き飛ぶほどでした。

 あとは徒然。

 

 

・と、言うほどでもない

 面白かった理由の大半は「ワンダーウーマンを除く、他のDC作品の体たらくぶり」という前提があったためと考えられる。なので、正直普通の映画としてみた時に言いたいことがないではない。

 例えば、オープニングの「スーパーマンがいなくなった世界」という感じで、希望をなくした世界をわかりやすく映し出すシーンがあるが、それがあまりにも矮小すぎて「これは危なそうだ」と覚悟を決めた。なんか八百屋?で喧嘩だか犯罪だかが行われていたり、ホームレスのおじいちゃんを情感たっぷりに映したりなど、正直「スーパーマンには全く関係がないのでは」ということを情感たっぷりに描かれても、こちらとしては鼻白んでしまう。

 スーパーマンを蘇らせるシーンのグダグダも「お、ここから来てしまうのか?」とちょっと不安になったのだが、スパッと解決したので事なきを得た。ただ、ここら辺のヒーロー対ヒーローの図式は「アベンジャーズ意識してるんだな」と思っていたら、編集にジョス・ウィードンが参加していた。

 

・映画の時間が短かった

 これは功績というか、無駄に長くせず、スパッと小気味よく編集した結果、映画としてのノリが軽くなって楽しめる作品になったと思う。前作『バットマンvsスーパーマン』で描かれた神話的な話では、ザック・スナイダークリストファー・ノーランの悪いところを凝縮して出してしまった、という無駄に長い映画になっていたのだけど、今回はもうキャラが矢継ぎ早に出てきてドッタンバッタンの大騒ぎを繰り返すという、最高のストーリー進行。

 ステッペン・ウルフの登場シーンなど、「こいつ誰だよ」と思った瞬間に戦闘が始まるので「あ、こいつは悪いやつなんだ」「強いんだ」「なんか怖いんだ」と小学生並みの感想だけで話を観ることができる。

 その結果としてアクアマンのキャラが掘り下げがほぼ無かったり「急に仲良くなってるな」という感覚はあったが、正直アクションが楽しく、ギャグの小気味が良かったら問題に思えなくなる。

 

・フラッシュが良かった

 全員キャラが立っているわけだが、特にバリー・アレンが良かった。各キャラクターの接着剤として、コミカルでありながら重要なキャラだったのだと思われる。

 特に、新人で戦闘は苦手な若者が、まさに「ヒーローへと成長していく」というところを描くのに、爽やかな描き方が出来ていたと思う。1人を助けろ、という命令に対し「まだもう一人いける」と戦いに入っていくシーンもあっさりと良い感じに描けていたと思う。

 サイボーグもそういう役どころなのだが、ただの便利な人にしかなっていないのは残念だった。ガル・ガドットとの会話などは、ガル・ガドットの母性を活かすことも出来たので良かった。

 

・人間の戦闘シーンはザック・スナイダーの得意分野

 バットマンワンダーウーマン、アクアマンの戦闘シーンは、どっちかというと『300』での手法も使えるので、ザック・スナイダーの得意分野だろう。『ワンダーウーマン』では監督は違ったが、正直「これならザック・スナイダーはいけるんじゃね」と思っていたのだが、今作での戦闘シーンはまさにザック・スナイダー節全開でよかった。特に、ステッペン・ウルフとの戦闘シーンは、全部似たようなものになってしまっていたけれど、ステッペン・ウルフの斧の軌跡の美しさも相まって、非常にかっこいい。

 

・「無駄なところがない」は映画として最高の賛辞

 今作、全く無駄がないではないけれど、少なくとも無駄な部分をたくさん削り、面白い所だけを残したということは、映画として最高の褒め言葉だと思う。

 とりあえず観たいものをすべて入れて、その結果として面白い作品になったのだとしたら、それは映画の芸術としては本懐だろう。

 

【ネタバレ】変化球~『ダンケルク』を観て~

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 クリストファー・ノーラン監督作品『ダンケルク』を観てきました。二回観ました。

 

 

・ただの戦争「映画」ではない

 どちらかと言うとアトラクションとして楽しむ作品に思える。効果音やハンス・ジマーの音楽、終始鳴り響く時計の音など、基本的には見ている人間を戦争の中に没入させようとする意思を感じさせる。

 音響設備に力が入っている映画館で観ると、より良い感想を覚えるのではないかと思う。

 特に、ダンケルクでのシーンは素晴らしい絶望感で、今まで見てきた戦争映画と並び称されることとは思う。少なくとも、不条理に人が死ぬ、という一点においては優れた映画だと思われる。

 

 

 

 

・ストーリーのある映画ではない

 今作は、物語として楽しむのではなく、どちらかと言えばアトラクションとして樂しむような作品なのだと思う。

 意図的にそうしているのかは分からないが、少なくとも登場人物への感情移入がしやすい作品ではない。また、その時代の常識や戦場での常識などへの説明も無いため、そういった知識が不足した観客は読解力や類推力が求められる。つまりは、いちいち考えなくてはならないので、映画に入りにくい。

 ここはもう、ファンタジー世界を見るくらいの気持ちで見てていいのではないかと思う。

 

 

・時制の変化が変化球すぎる

 ノーラン作品といえば『メメント』だが、それにも似た時制のランダム配置が行われている。その為、二回目に見た時は「あ、ここにつながるのね」と面白く感じたが、一回目はよくわからなかった。

 

 

チャーチルの演説は感動的だが

 予告編では絶望的な引用をされていたチャーチルの演説を、本編ではクライマックスに配置し、感動的なスピーチとしていたが、あの内容で戦場に行っていた兵士が喜んでいたのか疑問だ。

 命からがら国に戻ってきて「まだ戦うぞ」と言われて「よっしゃー!」となる人が多いものだろうか。しかも、今作の絶望的な状況の一つに、軍(国)からの支援があまりなかった、というものもある。そして、その国のトップが(女王はいるが)スピーチの主だ。

 これは、この時代、この国に生きている人間には響く言葉なのかもしれないので、個人的にはこう思った、というだけではあるが。

 

 

・人物の内面が描けていない

 というより、描く暇く暇がなかったのだろう。ただ、カットしなくてもいい部分をカットしたせいか、人物への感情移入はできなくなっている。

 ダンケルクの兵隊たちは死への恐怖があることは簡単にわかるので感情移入はし易いが、旅客船の人間たちの説明がないので、彼らへの感情移入は凄く難しい。彼らが何故ダンケルクに向かっているか、というのが表層的にしか分からない。

 何度も観れば分かるのだが、初回ではわかりにくく、またノイズに感じてしまう。

 更に兵隊たちについても、命からがら生き残ったのに「帰ったら叩かれるぜ」という心配。分からなくもないが、いきなりすぎて帰ってきた余韻が消えてしまった。そうやっておいて、実はみんな歓待しましたよ、というのをやりたいのは分かるのだが、あまりにも性急にやりすぎているように感じた。

【ネタバレ】古典的安心感~『ワンダーウーマン』を観て~

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 DC映画の最新作『ワンダーウーマン』を観てきました。

 ジャスティスリーグ作品としては前作の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』であったり、DC映画としては最新の『スーサイドスクワッド』が「うん、まぁ」という出来だったので、今作も同じようなものだったら、という危惧はあったものの、海外の評価は概ね良かったので、若干安心した気持ちで観に行きました。

 ぶっちゃけると、今までのDCシネマティックユニバースと呼ばれる一連の作品群の中では一番面白く、一番普通のアメコミ映画になったのではないか、と思います。

 

 

・本当に普通のアメコミ映画です

 普通にワンダーウーマンが大活躍(アクション的にも頭脳的にも)して、普通にカッコいい音楽があって、普通に世間知らずギャグが織り込まれて、普通に楽しめる。そんな映画。しかも最後には、「愛が世界を救う」だ。

 ただ、そういう映画を作ることも、やはり簡単ではないことは承知しているので、そういう映画を作ったからと言って評価が下がるものではない。だから、今作については、正直本当に良かったと思う。映画館で観てよかったと思うし、ジャスティスリーグもこのノリで行ってくれたらな、と切に思う。

 ただ、DCらしさと言うべきか、最後の戦いは必ず夜だなぁ、という印象。今回も真っ暗闇の中、一面煉獄の炎みたいな感じだったので笑ってしまった。

 

・特に、戦友が増えてからが面白い

 男の戦友が増えていくにつれて、この映画の面白さは増す。それはワンダーウーマンへ「すげぇ!」と言う役者が増えるという意味でもそうなのだが、キャラがそれぞれ立っていることも良かった。サミーアとの絡みは全体的に良かったし、酋長も存在感があってよかった。チャーリーのキャラもすごく良かったが、もうちょっと踏み込んでも、と思うが、尺が足らなかった。

 

・普通のアメコミ映画って

 今までのDC映画は、おそらくは「DCって、大人向けでしょ」ということを考えてしまって、なんか変なことをしてたのではないか、と個人的には思っている。それこそ『スーサイドスクワッド』で監督をデヴィッド・エアーにしてみたりだとか。

 それはどういう勘違いかというと、「大人向け=分かりにくい、咀嚼しにくい」という勘違いだったと思う。正直それって凄い浅はかだと思う。もちろん、ビールの苦味みたいに一口目で「なにこれ」と思わせつつ、何度も試している内に楽しみ方が分かるような作品もあるにはある。ただ、それはハリウッドの超大作でやることではないし、そんな作品をアメコミ映画でやったところで、食合せが悪すぎて、誰も何度も楽しもうとは思わない。

 勘違いしてほしくないのは、所詮DCも「アメコミ」でしかなく、やっぱり大人が読んでたら「え、大の大人が漫画なんて読んでるの?」と言われるような対象だということだ。つまりは、子供向けなのだ。

 マーベルはそこに対しては、全く変なことは考えなかった。普通に子供向け(というか、子供が観ても楽しめるよう)に作っている。ただ、その中で語っている内容で、ちょっと深いところまで視野に入れて作っているだけだ。特に、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などは、(監督が良いということもあるが)あんなにバカっぽくて楽しい作品なのに、そこで語っている内容は「大人であれば、より心の琴線に触れる」ものに仕上がっている。そしてその威力は、飲み込んだ腹の中で炸裂するからこそ、最大限に発揮される。

 DC映画は全く逆で、飲み込みにくい割に、特に飲み込んでも炸裂するわけでもなく、何も残らない。「うん、苦かったね」で終わるだけだ。なんかもう、激辛料理食べる選手権みたいだ。

 それに対して、今作『ワンダーウーマン』はもう、そこら辺全てを取っ払って、ただのアメコミ映画に仕上げている。というか、それだけだ。特に深みはないし、明日へ生きる希望やなにか、というものは全く無い。ただもう、ガル・ガドットが美しく、アクションは豪快で、ワンダーウーマンのテーマソングは問答無用でテンション上がる。

 それ以上はない。ただ、それの何が悪いというのか。もちろん、そこにテーマ的なものを持たせて、物語や人物とのミックスアップを図ることができたら、傑作になっていたかもしれないが、そうでなくても映画として楽しめたら、お金払った意味はあると思う。『スーサイドスクワッド』はそうすべきだったし、そうしなかったのがより評価を下げたと思う。

 

・前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』との不適合

 ただし、別に言いたいことがないわけではない。

 例えば、今作のワンダーウーマンは完全に「神様の子供」である。これは結構、前作で語られていた「神 VS 人間」という構図を根本からぶち壊すものであり、前作でもワンダーウーマンが出てきた瞬間にテーマが音を立てて崩れ落ちたように、「あの作品って何だったんだろう」という思案を映画を観ている内に始めてしまった。

 しかも、スーパーマンは「神」とは言っても、「神(のような存在)」であって、ぶっちゃけると「宇宙人」なのだ。つまりは、今の人類が様々な宗教で象徴している神とは、少し毛色が違うのだ。神のような力を持っている宇宙人なのだ。ここには利点もある。つまりは、宗教的な色が薄いということだ。どういうことかというと、キリスト教の神やイスラム教の神でもないし、仏教の神でもない、ということだ。

 それに対して、ワンダーウーマンは完全にギリシャ神話の神であり、ギリシャ神話で語られていることが史実である、ということになってしまう。つまり、一番偉いのはギリシャ神話になってしまわないか、という危惧が浮かぶ。だからどうだ、という話ではないが。ただ、世界観的に大丈夫か?とは思ってしまう。そもそも、神様を殺したいならワンダーウーマン殺すようにすべきではなかったか、ジェシー・アイゼンバーグ。いや、調べてはいたのか。

 また、今作の終わり方だと、ワンダーウーマンは「人類は愛がある限り救うべきだ」という考えに至った、とのことだが、それって『ジャスティスの誕生』と違うくないか? 前作のワンダーウーマンは「人間なんて救う価値もないし、なんか近寄られると嫌だから関わらん」という態度だったはずだが、なんか色々人助けとかしてたんだろうか。

 個人的に今作の終わり方としては、「ワンダーウーマンは男や世界に裏切られて、前作のワンダーウーマンにつながるんだろうな」というものを予想していた。というか、前作のワンダーウーマンにつなげるなら、そうするしかない、と考えていた。それはつまり、終わり方はスカッとしたものになるはずはない、と考えていたのだが、そうはならなかった。

 これって、もしかすると前作や『スーサイドスクワッド』の批判を受けて、「一作くらいはスカッとした作品つくるか」となったのではないか、と邪推したくなるほどの矛盾っぷりである。もしもそうなのだとしたら、『スーサイドスクワッド』で気がついてほしかったな、というのが正直なところではあるが。

 

・戦友との別れ

 クリス・パインは戦死したのでアレだったが、他の生きている戦友との死別は描いても良かったように思う。ワンダーウーマンというキャラクターは寿命が長いので、そういった人類との交流というものは別れの連続になるしかない。そこを描けていたら、もうちょっと前作に繋がったかも、とは思う。どれだけ愛しても、私を残して去っていく存在、という人類に対して「救う(愛する)価値があるのか」と苦悩するなら、繋がったのではないか、とは思う。そしてこの悩みは、神的な悩みでもある。

 

・ラスボス

 なんか、人間の時の見た目がね、あんまり好きじゃない。ジョンブルすぎ。

【ネタバレ】僕らはあの頃のように走り続けることができるのか~『ベイビードライバー』を観て~

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 エドガー・ライト監督作『ベイビードライバー』を観てきました。予告だけを観てたら「ちょっと明るい『Drive』かなぁ」という感じだったんですが、エドガー・ライト的なユーモアと落とし所があって、全く違う作品になっていました。まぁ、監督としての味が全く違うので当然ですが。

 『Drive』が「美しい映画」なら、本作は「楽しい映画」であり、娯楽映画として誰が観ても楽しく、最後には感動する作品になったのではないか、と思います。

 つらつら思ったことを書きます。

 

・カーチェイスシーンは、少ないが熱い

 本作の主人公ベイビーは「逃がし屋(ゲタウェイドライバー)」なので、もちろんアクションシーンは車を使っての逃走劇、カーチェイスになるわけだが、実はその数自体は少ない。ワイルド・スピードのように車で延々とアクションをしまくる、というわけではない。ただ、出て来るアクションそのものは密度が濃く、よく考えられていてカッコいい。

 また、車のアクション以外でのアクション自体もベイビーのなめらかな動きも相まって凄く良い。実は、この俳優さんの出ている映画は初めて観たのだが、こんなに滑らかでダンスのキレがある役者だとは知らなかったので、驚いたと同時に好きになってしまった。

 

・音楽とのマッチがいい

 これはもう、映画が始まった瞬間、車で強盗犯を待っているベイビーの待ち方からして最高だった。軽快な音楽とともに、色々なものを叩きながらリズムを取り、音楽に埋没している姿にこちらも自然と顔がほころぶ。しかしながら、警察や周りの動きには敏感に反応する。

 ベイビーという名前のとおり、まだ子供なんだな、という印象を与えつつも、確実に仕事をこなす冷徹な大人の側面を織り交ぜる最初のシーンは、この映画の全てを説明しているシーンでもある。

 子供のまま大人の世界に投げ込まれ、そして成長をしきれないまま大人になれと強要される。これは、映画で見ると特殊な事例になってしまうが、現実の世界でもそれほど変わらないとも言える。日本人などは学校を卒業していく過程で、社会というものに慣れ、染まっていくと考えられてはいるが、現実は大学を卒業しても人間としては成長過程であり、言ってしまえばまだ子供である。そして、そのままに大人であることを強要され、そして大人になろうともがく。子供らしさを揶揄されながら。

 ベイビーにとっての音楽とは、子供らしさの象徴である。だから、今の音楽ではなく、昔の音楽を聴く。子供の頃の曲を。

 

・「古典的な理想」と「いまそこにある現実」

 ベイビーとデボラが初めて話すシーンも、個人的にはグッと来た。彼らが話す「車で20号線をぶっ飛ばしたい」という理想は、それこそ昔の若者が映画いていた理想だ。だが、それは現実が許してくれない。このシーンが、大人の言う「昔は良かった」という台詞を聞き続けた若者に、自分には思えた。決して手に入れることの出来ない、だが過去には存在したという理想像。それをそのままサンプリングしたかのような白黒描写。悲しい現実を生きている全ての人間が、ここに共感せざるを得ない。

 

・登場人物の合わせ鏡としての主人公

 この映画の面白い部分に、ベイビーの成長の仕方があると思う。

 ベイビーは映画が進むに連れ、様々なことを学んでいくようだった。そのままではなく、彼なりの解釈をして。それはまるで、人の言葉をサンプリングし、それを加工し、トラックに落とし込むように。周りの大人達から貪欲に吸収していく。

 そう考えると、ベイビーがこんな家業をしていながら純粋さを保てていた理由はなんだろうか。それは育ての親であるジョーとドクという、二人の父親の影響が大きいのではないか。

 映画のラスト、ドクという存在がベイビーにとってどういう存在だったのか分かる。彼もまた、ベイビーを守護していたのだ。ベイビーがジョーに「俺が守るから」と言っている裏では、ジョーが精神的に、そしてドクが身体的に守っていた。

 

・ベイビーは大人になれるか? もしくは、大人とは?

 登場人物の中で、一番大人だったのは誰なのだろうか。それはジョーとドクだろう。それ以外の人間は、それぞれどこか大人になれきれていないのではないだろうか。バッツやバディもベイビーに色々と教えはするが、彼らも大人ではない。

 では、大人とは何なのか。誰かを守れるような存在だろうか。それは古典的な大人の理想像なのかもしれないが、それは現実では難しいのではないだろうか。

 娯楽作品でありながら、そんなことを考えてしまうようなこともあったりなかったりする、そんな作品でした。