ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】僕らはどこにでもいけるが、決して自由ではない~『この世界の片隅に』を観て~

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 映画『この世界の片隅に』を観てきました。つれづれ書きます。

 

 

・人生はだいたい薄味だから、飲み込み易い

 この映画の映像は非常にファンタジックだが、行われている行為自体は平々凡々な戦争の日常。そのギャップが楽しい。

 

・すずとかいう最高の人物

 この映画で一番良いのは主人公のすずのキャラクター造形だと思うが、何が良いかというと、彼女が一番狂っているからだと思う。

 彼女は平凡な日常の象徴のように扱われているが、あの時代、あの生活の中で平凡な生き方、感じ方をする人間は逆に異常だ。すずだけがそれを可能だった。その理由は、彼女の現実の捉え方にあると思う。つまりは、彼女が描いていた絵が彼女の現実をそのまま写していたのではないか、と思う。

 冒頭の人さらい?のシーンにしても、彼女の落書き混じりの回想という体で説明されているが、彼女にとっての現実とは、アレに近いくらいの認識なのではないか。つまりは、本当に望遠鏡の先に夜の絵を書いたら人が眠った、という認識。そこまでではないかもしれないが、常人の思考ではない。

  すずにとって絵というものは現実の写実であると同時に、「こうであったらよかったもの」という現実からの逃避であった。だから、空から舞い降りてくる爆弾が炸裂する様を見ながら「ここに絵の具があったらよかったのに」と思い描く。彼女はあの場面、死ぬほど怖かったからこそ、現実から目を背け、絵に逃げようとしたのではないか。

 すずにとって絵が現実を投射する手段であったし、尚且つそれが逃避にもなっていたのだと思う。だから、彼女の右手が姪とともに吹き飛んだ後、すずは現実を受け止めざるを得なくなる。それどころか、今までの人生をやっと彼女は受け止めるようになったようにすら思える。今までの人生で「こうあってほしかったもの」が、まるで広島から飛んできた障子に描かれていたように、次第に消えていく。残ったものは、果たして何だったのか。

 そして、玉音放送の後、すずは憤る。ここの憤りについては、僕はあまりピンとこなかった。どちらかと言うと、その後の広島からやってきた被災者が、実は自分の息子だったという隣人の話のほうが胸に刺さった。もしくは、広島で原爆の被害にあった妹の手を優しく撫でるシーン。あの動きにこそ、涙ぐんだ。

 

・主題歌が良すぎる コトリンゴの主題歌が良すぎて思わずサントラを買ってしまった。

 

クラウドファウンディングの名簿を流した意味 実は、個人的に一番涙ぐんだのはエンディングのクラウドファウンディング名簿が流れているシーンだ。自分でもバカだと思うが、あの馬鹿正直に一人ひとりの名前を全てスクリーンに映し出す行為にこそ、この映画の主題があるのではないか、と思ったからだ。

 言ってしまえば、この映画は一人の女性が戦時中をいかに生きたか、というだけの、それだけをとってみればつまらない映画だ。(この映画を一言で説明する時、人が何も言えなくなるのはそれが理由ではないかと思う)

 ただし、それが人間というものだし、人生というものはそういうものだ。人生というのは平凡で、つまらないし、そしてその中で必死にもがき苦しむことはできるとしても、世界という大きな渦の中ではほとんど意味が無い。まるでタンポポの綿毛のように、風に乗って飛んで行くしかない。どこにでも行けるように見えて、僕らは不自由だ。タンポポはすずの比喩でもあるし、全ての登場人物の比喩でもある。また、この映画を見ている観客のことでもある。

 ただ、その不自由さの中でも生きるしかない。そして、生活を続けていくしかないのだ。

 その一つ一つの人生を賛歌し、肯定することがこの映画の主題なのではないか、とエンディングの名簿を見て思い至ったのだ。その瞬間、自分はどのシーンよりも涙が出た。この映画は、制作の仕方まで含めて芯の通った、素晴らしい映画だ。

 

 映画史に残るかどうかはわからないが、良い映画です。

 

 

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【ネタバレ】僕らはみんな欠けている~『ヒックとドラゴン』を観て~

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 メチャクチャ評判がいい作品なんで、食わず嫌いをしていた作品でした。

 しかしながら、見てみると最高にいい作品でした。個人的には85点です。

 以下、箇条書き。

 

 

・みんないい奴

 初期のヒックのクソ野郎っぷりが際立つほど、大人も子供もみんないい奴ばかり。特に父親が素晴らしい。威厳と優しさに満ち溢れていながら、不器用で子供にどう接していいかわからない。その塩梅が素晴らしすぎて、開始数分で涙腺が緩む。

 村人たちも、バカにしながらも「こいつが死ぬのは嫌だなぁ」と思い、だからこそ主人公をドラゴン退治から遠ざけている。つまりは、彼らも主人公に対して凄く優しいのだ。

 ただ、だからこそヒックは、その優しさこそが嫌なのだ。優しくされるのは弱いことで、それは自分の欠点を見られているだけなのだ。

 だからこそ、彼はその欠点を否定すべく、他人の優しさを否定する。その時点では、ヒックこそがこの作品の悪役といえる。

 

 

父親の、母の兜

 この父親の存在が本当に良かった。

 特に、最後の戦いが終わった後、主人公の心臓の音を確かめるために兜を投げ捨てるシーンが胸に残る。

 あれは妻の鎧から作った兜であり、いわば彼の死者に対する思いを表したものだった。しかし、それをかなぐり捨て、今生きている息子の鼓動と真正面から向き合ったのがあのシーンなのだ。

 それは、ドラゴンを目の前にして兜を脱いだ主人公と被る。

 

・主人公とトゥースの関係性が良い

 主人公がある意味欠点だらけの存在として登場しつつ、トゥースもまた欠点を持った存在として登場する。翔べないドラゴンという欠点を持った存在として。

 そして、主人公もまた欠点を持った存在として、二人は出会う。

 この二人の関係性は、少し複雑だ。主人公はトゥースからドラゴンの習性を学び、トゥースは主人公がいることで食事にありつけ、尚且つ空も飛べる。ある意味、ここでは補完関係ができている。

 最後の戦いの後、主人公の片足が無くなって、初めてこの二人は対等になる。互いに互いを補い合うことができる、という見方がおそらく正しいのだとは思うが、個人的にはそれは可視化されたにすぎないのではないか、とも思う。

 主人公は、もともと何かが欠落していたように思われた。それは、自分を認めることが出来ない、という自己の欠如である。

 彼にとって、理想の自分でない今の自分は欠けている存在であり、理想の自分になるまでは自分を認めることが出来ない。理想の自分とはなにか、それは「ドラゴンを殺せる自分」である。果たしてその理想は、最後まで叶わない。それどころか、「僕はドラゴンを殺せない人間なんだ」と自覚するようになる。

 ここで重要なのは「だから、理想像を変更する」ことではない。この映画は「理想ではない自分を認め、許す」方向に動く。だからこそ、感動が生まれるのだ。

 そこでトゥースの存在が生きているように感じられた。トゥースから学ぶ様々なこと、ドラゴンとはなにか、自分たちが考えていたものとは全く違う現実が目の前に転がっている事に気が付き、主人公は理想(ドラゴンは殺すものという理想)自体を疑問視していく。それを教える存在としてトゥースの存在はある。そして、その存在は主人公の鏡なのだ。

 だから、ヒロインは主人公がトゥースに対して行った同じ疑問を投げかける。「なぜ殺さなかったんだ?」と。主人公はトゥースにそう聞き、ヒロインは主人公にそう聞く。主人公の言っていることは、ある意味で正しい。あの時殺しておけば、トゥースは理想的(ドラゴン的)な死に方をしていたのかもしれない。逆に、トゥースが主人公を殺していても、それは理想的(バイキング的)な死に方だったかもしれない。

 しかし、彼らは理想的にはなれず、結局は互いの弱さを前にして何も出来なかった。

 

・義足の意味

 映画のラストで主人公が義足になるシーンもこの映画の白眉と言える。もちろん、トゥースと支えあいながら歩くシーンは涙なしには見れなかった。

 ただ、このシーンの前からこの二人は支えあっていた。だからこそ、それが可視化されただけにも思える。ある意味、自然に二人が寄り添っているのは、前からずっと支えあっていたからなのだ。

 

 義手、義足のキャラクターとして出てくる先生もまた、この映画の重要なキャラクターだ。ある意味、一番重要かもしれない。彼こそがこの映画の答えだ。彼はもちろん、自分の体が欠如していることを自覚している。しかし、それをこそ武器に使い、なにも恐れることのない生き方をしている。その彼が言っている言葉こそが、この映画の肝だ。

「なりたいものではなく、なれるものになれ」

 結局、主人公は彼の言うとおりの存在になったといえる。主人公はドラゴンを殺せる人間ではないことに自覚し、最後にはドラゴンに乗り、ドラゴンとともに歩き、共に生きていく人間になる。それは彼の理想ではないが、主人公はそうするしか出来なかった。

 そして、そうせざるを得ない自分を許し、認めることができるようになった。それがこの映画で主人公が得た成長だろう。

 だから彼は、義足について最後に笑いながらこういったのだ。

「うん、もうちょっとだね」

 自分の欠点を認め、それを笑いながら見つめることができる。

 それが生きるという事なんだ。

【ネタバレ】時勢の変化で奇をてらうってのは難しい~『白い沈黙』を観て~

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 赤いスーツのイカスやつデッドプールに扮していたライアン・レイノルズが出演していたミステリー映画です。

 娘が誘拐されて、それをお父さんが探し続ける、という作品ですが、そこで問われる謎が「娘がどこか」ではない、というところが面白いところです。

 以下、箇条書きで思いついたことを書きなぐります。

 

 

・この映画の特徴は、「時勢をバラバラに見せて、今見ているのがどの時期の話か分からなくさせる」というもの。ただ、それが特に面白いわけではない、というのも特徴。

 なぜなら、本当にわからないから。というか、色合いも服装も何もかも、時代ごとに分けていないので、よく分からないまま終わる。というか、特に分けていなかったのか? 今となってはよく分からない。

 

・最初はコロンボ的な話かな、とも思ったが、そういうのもなかった。

 娘が誘拐される部分の謎も特に謎でも何でもなかった。ライアン・レイノルズの「誘拐される前の時間何をしていたか」という伏線らしきものも特に回収されず。アレ無意味というか、なんだったんだ。

 

・白人の倶楽部文化

 DJとかのクラブという意味ではなく、ロリコンの集団的な意味での倶楽部文化は、アカデミー賞をとった映画『スポットライト』でも取り上げられていたが、昔から白人の中に育まれているようにも思われる。秘密結社みたいにも感じる。会員は秘密を厳守し、その恩恵を授かる。日本でも似たような世界はあるのではないか。

 ただ、白人はそこになにかより深い世界があるようにも思える。その片鱗として、友会の被害者である家族を眺める、という新しい変態の形というのは、実は前からあったりするのかもしれない。

 

・木で道案内してたのはなんだったんだ

 あのシーンはなんか笑ってしまった。どう考えてもおかしいというか、目撃者いるだろ。

 

・誘拐された女の子が生きてるっていう設定は面白いと思ったけど、結局は物語に緊迫感がなかった。

 

 

 

 

【ネタバレ】「生きること」を手伝うという意味~映画『聲の形』を観て~

 

 

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 映画『聲の形』を観てきたので、ネタバレしながらも、考えたことをただ書きなぐります。

 

 

 

・聾唖あるあるではない

 この映画を観た人はたいがいそう思うと思いたいが、この映画が描いているのは、ヘレン・ケラーの話ではない。眼と耳で違うとかそういう意味でなしに。

 この映画は、コミュニケーションとその結果の話。つまりは関係性とはなにか、という話だと自分には感じられた。そのため、普遍的な話に落とし込めている。

 いじめの話が主題であり、耳が聞こえないことに大した重さは置かれていない。ある意味、障害があることでいじめの重さを軽減してあるようにすら感じる。

 

・『君の名は。』と時期的に比べられることは分かるが、ある意味対極の作品。

 どちらもいいが、こちらは上品な作品。ファンタジー要素はないが、世の中をファジーな認識で写す分、こちらのほうがファンタジーに感じる人もいるかもしれない。

 また、コミックの要素を詰め込みまくっているせいか、かなり駆け足。物語自体は一本道でつながっているが、心情の流れはかなり複雑で、見ていて疲れる部類だと思う。

 

・優しさこそが人を傷つける、という人間関係の難しさを描いた良作。

 ある意味、植野が一番優しいキャラなのかもしれない。彼女だけが本音をぶつけ、自らの意志として人を傷つけていた。誰しもが自分勝手な中で、彼女は自分が自分勝手であることに唯一自覚的だった。あの川井が一番クソなこともそれに拍車をかけている。中盤から出てきた真柴の存在意義はかなり薄いようにも思えるが、顔も良く、性格もよく、いつも人の中心にいるああいうやつは確かにいるな、とは思う。それに、彼には彼の大事なポジションがあるとも思える。

 この映画の不思議な魅力は、全ての登場人物が生きているところにもあると思う。情報量が多いのに、どれが欠けても物語の大事なピースが抜け落ちているように感じる。

 

・この映画を贖罪の映画として見ることはできるが、その答えは一つも出ていない。

 それはヒロインと主人公の関係が恋仲になってしまったからだ。あの関係が冷淡なままであれば、より贖罪の話になったのではないか。

 主人公が入院した後、誰しもが謝りながら互いを傷つけ合うシーンがあるが、あのシーンこそこの映画の白眉であり、この映画を贖罪の一つ向こう側の作品にしている。

 人は他人を思うことですら、人を傷つけてしまうことを表している。

 主人公の母親の足にすがりつきながら嗚咽をもらすヒロインに、自分は思わず泣いてしまった。ヒロインは死ぬことすらもできない自分が情けなく、言葉が喋れたとしても、もはや何も言えなかったに違いない。自分の存在そのものが他人を傷つけている、ということに自覚的な人間であるからこそ、彼女は誰よりも傷ついているのだ。そして、自分を傷つけることと同じように、他者も傷つけている。

 

・生きることを手伝う、という言葉の重さ。

 ポスター等でも使われている、この映画の主題となる言葉。この言葉自体は綺麗事だが、作品を通して聞くと、全く意味が変わってくる。

 障害やイジメの贖罪とは違う意味で、すべての人間が何か欠陥を抱えていて、それを許しながら生きていく。それは他人を許すことだけではなく、自分を許すことも含まれている。川井が叫んでいるその言葉は果てしなく軽いが、ある意味でそれこそが生きることなのだ。何言ってんだ、こいつ、と思わせながらも、彼女もまたその弱さと戦い、生きている。そして、自分を許すことは、優しい人間であるからこそ難しい。その手伝いをしてほしい、という呼びかけはか細く、それだからこそハッとさせる。

 

 償いとは何か。

 植野自分を慰めるために、イジメの相手に優しくすることを否定していたが、果たしてそれで自らを満足させることができるのか。あらゆる行為(距離を置くことですら)がしこりを残す中、誰しもが被害者であり、加害者である。途中退場しかけていた佐原ですら、逃げられなかったのだ。

 贖罪とは他人から許してもらうための行為であるが、自分を許すことこそ、自らを肯定することが贖罪の先にあることではないのか。

 ただ、この映画はそれが答えだとは明示しない。それはもちろん、それが答えではないからだ。この映画は何が答えかを言わないし、そもそも答えなどない。この映画はただ、主人公がこれから始まる剥き身の世界と触れ合ったところで終わる。美談のようであり、これは悲しい結末でもある。世界の汚らしさ、世界の痛みを、今まで以上に受け止めて生きていかなくてはならない。ただ、その世界は残酷で痛みにあふれていながらも、やはり美しいのだ。

 

 

・この世界に出てくる大人たちもまた、身勝手で優しい。

 主人公の母親やヒロインの母親もまた、それぞれに自らの葛藤を抱えながら、間違えながら生きている。ただ、大人たちは子供を肯定し、それを生きる糧にしている。特に主人公の母親の存在は、この映画のどこをとっても清涼剤で癒やしだった。それはヒロインの祖母とも対応した関係だ。惜しむらくは、ヒロインの祖母と主人公の母親の対比が描けていれば。

 

 

aiko歌は削れなかったのか?

 この映画は恋愛だけの映画じゃなく、もっと深い話までできる。もちろん、あの二人のラブストーリーではあるが、その愛とは高校生のただの恋愛だけに終わらない、人生を肯定する話だと思う。

 あの二人の恋愛感情は、確かに彼らを救った。ただ、本当にそれが救いなのかどうかまでこの映画では語れたのではないか、と思う。

 

 

・思想面での『君の名は。』との違い。

 『君の名は。』もまた、肯定の物語である。

 存在の肯定であり、新海誠の美しい世界観は、それこそが世界の肯定であると言える。ただ、君の名は。』は、その部分を映画ではなくRADWIMPSの曲に託しているのではないか、と個人的には感じた。

 あの映画が卑怯であり、それでも感動できるのは、野田洋次郎が持っている底抜けた自己肯定感と、そこからやってくる世界の肯定が鍵なのだと個人的には思う。

 例えば、前前前世』では、ずっと前から君を探しているが、自分が果たして探しに行ってもいいのか?」「探すことが許されているのか?という過程が君の名は。』にはない。それは野田洋次郎の自己肯定感と曲の疾走感で対処している。もしくは、運命というもので必ず出会う誰か、というものを想定している。

 『聲の形において、その問は問われたままだ。答えなど出ていない。ただ、主人公やヒロインに襲いかかってくる現実を、「これでいいのか?」と自らに問いかけながら、必死に対処しているに過ぎない。

 そもそも、耳が聞こえず、しゃべれないことも、いじめの罰として孤独になったことも、すべてどうしようもない現実だ。映画の中盤、植野がこう問いかける。「あの子(ヒロイン)がいなかったら、私たちこんな風にならなかったよね」と。もちろん、そうだったかも知れない。ただ、現実はそうではない。それこそ、ヒロインの耳が聞こえていたら、こんなことにはならなかったかも知れない。主人公と一緒に同じ高校に行って、普通に恋愛をして、普通に生きていたのかもしれない。

 ただ、現実はそうではないのだ。

 だからこそ、主人公は何も言わなかった。彼は現実を味わってきた。その結果、彼もまた耳を閉じて生きてきたのだ。それは世界から自分を守るための逃避だった。そして、彼は何度も自分に問いかけていた。これでいいのか、と。自分の行っていることは、本当にやっていていいことなのか、と。

 それこそ、中島義道が言うところの倫理的な人間だ。彼は善い行いをしているのか、常に自らに問いかけ、悩みながら、答えを出せないまま、そして最後にヒロインを探し始める。そこにすら、自己の肯定はない。彼は告白の時ですら、自分が無様で格好悪く、間違っていると感じた。そして、そうやって生きていくのだ。

 『君の名は。』とくらべて、こちらの方が複雑で、楽しみ方の違う作品だと思う。『君の名は。』で楽しめなかった人も、『聲の形』なら楽しめるかもしれない。

 

 個人的には90点。

【ネタバレ】ある意味で別の次元からの襲来者~『スーサイドスクワッド』を観て~

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 アメリカでも好成績と賛否両論?を巻き起こしている『スーサイドスクワッド』を観てきました。

 かなり長い間CMしてたなぁ、という印象ですが、やっと観ることができました。マーベルの映画ではまだこういう「敵が組んだチーム」というものはなかったんじゃないかな、と思います。『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』がそれっぽいかな?

 どういう作品に仕上がったのかなぁ、と楽しみに観てきました。

 

 

 

 率直に言うと、60点ですね。

 正直、そんなに面白くないです。「凄く面白くなかった」というほど悪くはないですけど、最終的に思いついた言葉は「ティーザーのほうが面白かったな」でした。というか、ティーザーに使われていた場面も、ティーザーのほうがかっこよかったですね。

 

 何がダメだったかというと、脚本の練り不足しかないというか、「これ、一回通しで映画観たのかなぁ」と不安に思うほどのテンポの悪さでした。

 この映画、一個一個のシーンは笑えるし、カッコいいです。ただ、それをつなげた時に凄く不格好に見えました。特に、魔女が逃げ出すシーンを二回も挟んでいて「いや、それは最初の分いらないよね」と思いました。

 あと、最初にスクワッドの面々を捕らえるシーンが入ります。あのシーンそれぞれは面白いし、キャラクターの説明としては悪く無いと思いますが、長いんですよね。映画の冒頭ですよ。こっちとしては「早いところこの面々が集う場面が観たい」と思ってきてるのに、なかなか始まらない。製作者も途中でそう考えたのか、キラークロックなんかものすごい端折られてる感が出てましたね。電気バチーで昏倒、みたいな。

 もうそこら辺、全部抜いてしまって、戦っているシーンでキャラ説明しても良かったんじゃないかな、と思いました。これを観ると、本当に『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』ってよく考えられた作品だったんだなぁ、と感心します。

 カタナっていう女の剣士はほとんど説明もなく、下手な日本語ブン回しながらちょっとした立ち回りでキャラの説明出来てた辺り、なんかよくわからないですね。みんなカタナくらいの説明で充分だったと思いますよ。ハーレークインだけは時間割くとか。ただ、カタナはそもそもキャラクターがブレブレというか、最初は軍人の用心棒という役割だったのにスクワッドの面々と酒飲みに行ったり、なんかもう「お前はどっちサイドなんかはっきりせいや」と首を傾げてしまいましたね。

 ていうか、あんな酒場のシーンなんかいらんでしょ。なんであんな危ない場所で酒盛り始めるのか全然意味がわからない。あの、ディアブロのキャラも話しも悪く無いですよ。あの人のしゃべっている内容は、ある意味でこの物語の根幹にもなることができたと思います。自分たちは悪人で、その運命から逃れることは出来ない、だからこそ我々はスクワッドを組むことで、何かの意味を見つけることができるのではないか、という方向に持って行くことも出来たと思います。まぁ、そんなことにはなりませんでしたが。

 口先だけで「仲間」とか言いまくってて、ちょっと驚きましたね。「いや、君ら特に仲良くなる場面なかったやん。酒飲んだらもう仲間かいな」と首を傾げました。

 

 色々言いましたけどね、挙げてったらきりがないんですよね。

 キラークロックははっきり言って全然出てこなかったし、ブーメランの奴はなんで仲間裏切るやつなのに最後まで味方でいたのかとか、あの危ない場所で要人を救い出すのになぜヘリなのか、ハーレークインがモロに携帯出してるのに気づいているのはデッドショットだけとか、犠牲になったディアブロへのフォローが全く無いとか。

 もうね、おかしいことのオンパレードなんですよ。

 で、それでもアクションが良ければ、そんなことはまだ許せると思うんですよ。『SPAWN』なんてそうだと思いますけど、格好いいシーンがいっぱいあって、それだけでも「観てよかった」と思わせられるなら良かったんですけどね。

 そこがね、この映画、暗いシーンで闘ってばかりでアクションが見えにくいんですよ。

 敵の大きいやつの口撃がスピード早すぎて見えにくいし、敵の兵士は、多分グロテスクすぎて明るい場所で見せると問題が合ったのか、ほぼ顔が見えない。

 

 まぁ、こういうふうな感じですけど、良いところもありました。

 この映画の一番いい所は、役者です。

 ウィル・スミスはアウトローだけどいい人って役回りは当たり役ですね。というか、良い人過ぎて「どこが極悪人だよ」と思ってしまいました。まぁ、頑張ってはいましたけどね。

 あとは、マーゴット・ロビーに尽きると思います。エロくて可愛くて、スタイルも最高。この人がいなかったらこの映画もっと悲惨な目になっていたと思います。アニメとかゲームのハーレークインってこんなに可愛かったか?と思ってしまうほど可愛い。『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』で出てた時も「こんなエロいだけの存在が世の中にはいるのか」と驚きましたが、その時を思い出させました。演技なんていらんのですよ、ケツだけ振っていれば。

 ジャレッド・レトジョーカーに関してはもう、頑張っていた、ということでいいと思います。そもそも、映画版のジョーカーは、ジャック・ニコルソンに勝つことは誰もできないと思います。だからこそ、ヒース・レジャージョーカーはこれほどまでに評価が高いんです。負けてないから。あのジョーカーに全然負けてないから。

 それに対して、今回のジョーカーは、マジで頑張ってました。笑い声とか含めて。ただ、ハーレークインへの愛情であったりはアニメなんかでも描かれていたので、今作での描き方も悪くないと思います。

 その他にも、出演陣は本当に頑張っていたと思います。ただもう、脚本というか、なんか整理する人が悪かったともいます。

 そもそも、こんなお祭り映画ならこうなることは当然とも言えます。はっきり言って、あんなにお祭状態なのにきちんと成り立っているマーベル作品が異常なんです。

 それを思うと、この作品は「ダメだったアベンジャーズ」というIFの存在なのかもしれません。

 まぁ、今後DCがどういう風に映画を作っていくのか、楽しみではあります。

 こんなところで。

【ネタバレ】夜明け告げる朝に夕焼けを見せたげたい~映画『君の名は。』を観て~

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 新海誠監督の『君の名は。』を観てきました。

 前評判があまりにも良かったので、「面白いのはわかってるけど、好きじゃなさそうだな」と思いつつ、ミュータント・ニンジャ・タートルズの口直しに観てきました。

 結果として、すごい良かったです。

 この映画、めちゃくちゃ好きです。

 

 

 良い点は、きちんと王道を見せつつ、観客に嫌な思いをさせない配慮がきちんとされている、というところです。

 この作品の紹介文だけを読んだ時に僕が考えたのは、

「ああ、男女入れ替わりの文化ギャップギャグ物ね」

 というものでした。

 思春期の男の子と女の子が入れ替わって、その文化(生態)の違いをネタにギャグにするのかな、と思っていたわけです。でもそれって、結構普通に今までの映画でもあったと思うんです。アニメでもあったと思います。

 でも、僕はそういうの苦手なんです。あの、主人公が恥をかくシーンがメチャクチャ苦手で、そう言うの連発されるんだろうなぁ、と暗い気持ちで観に行った次第です。しかし、この映画はそういう部分がほとんど描かれません。最初にちょこっと描くだけで、後のそれに類似した部分はなんとRADWIMPSの軽快な曲でぶっ飛ばします。このドライブ感がすごい良いです。

 そもそも、最初の導入が素晴らしいですね。入れ替わった時間を、間接的に知っていく、というシークエンスは凄く良かったです。大体、普通の作品であれば、あそこの入れ替わってる場面こそが、本筋であり、一番笑いを取りに行くシーンでもあります。そこをブツギリにするというこの流れは良かったです。早い話が、この映画はそこで笑いを取るつもりはないというか、そこは別に「描きたいものではない」ところということなんでしょう。

 途中まで、この二人の関係というのは、何もない空間越しの喧嘩を交えながらも、非常に良いものでした。それは映画全体のノリも軽快で、心地よいものに変えていました。

 

 最初は心地よく、気持ちいいということは、中盤からこの映画は牙をむく、ということです。

 この映画、途中からちょっと違う映画に変わります。最初は男女入れ替わりラブコメで、互いの長所を生かし合って、最後には結ばれるのかな、と思っていたら、なんとこの映画、『バタフライ・エフェクト物』に変わります。

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 もちろん、ここまで過去に行き来するわけではありませんが、空間だけではなく、「時間」まで違っていた、と分かるわけです。ここでもう、「おっと」と思って、今までの映画の過ごしていた心地良い二人の掛け合いが、それだけで愛おしいものに変わっていく。

 それでね、この青春とファンタジーの取り合わせに、RADWIMPSは合うんですよ。ていうか、アニメ世代の現実感をそのまま歌っているアーティストとして、合うのは当たり前なんですよね。

 僕、RADWIMPSは好きっちゃ好きなんですけど、「臭いなぁ」と思う時もあるんですよね。ただ、この映画はもう途中からRADWIMPSかかる所で大泣きですよ。

 彗星からの救助シーンでヒロインが役所に走る所でRADWIMPSがかかる時はもう、清い涙がね、しとどって感じでした。

 あの前に主人公同士が初めて出会うシーンはね、胸の話しをそこで出すかっていうのはアレでしたが、あれはもう日本のアニメのお約束みたいなもんなんでいいんですけどね。いや、あそこも良かったです。ただ、ここら辺の演技は完全に演劇の演技になってましたね。ちょっと気になりました。もしかすると、神楽とか、神事的な要素を入れるためにそうしたのかもしれませんが。あの場所が、幽世(かくりよ)ということもあるからかな、と。

 

 

 最後も、良かったです。

 僕ね、絶対この二人は二度と会わないと思ってたんですよ。新海誠だし、バタフライ・エフェクトだし、会わないでしょう、と。もしくは、こう振り向きそうになって映画が暗転、みたいなね。そこでかかるわけですよ。

www.youtube.com  完全にバタフライ・エフェクトじゃねーかっていう。どんだけ好きなんだ。

 

 ところがね、きちんと会うんですよ。

 泣くんですよ。

 名前を聞くんですよ!

 あのね、この王道感はね、やっぱりくらわされますよ(山本小鉄感)。

 恥ずかしがらずに王道で、最後はハッピーエンドで終わるってのはね、やっぱり良いです。こういうのがあるから、そうじゃない作品も生きるんですよ。

 こういう、多くの人に向けた作品ってのはこうあって欲しいな、と思いました。それくらい凄くいいおわらせ方でした。

 

 重箱の隅つついたらね、何個か言いたいことはあるんですよ。

 例えば、やっぱりあの救助シークエンスのうまく行き過ぎ感は、ちょっとあまりにもオーバーすぎてちょっと引いちゃうところとか。

 あの、市役所に行った時になんでおばあちゃんとか妹がいるのか、とか。あの人らは何してたんだろう。

 そもそも選挙の話は最後の救助シークエンスのためだけにしか機能してないんじゃないか、とか。

 

 あと、これは全く違う作品にはなっちゃうんだけど、そもそもギャップギャグのシークエンスを無くしたことによる弊害としては、主人公たちが好き合う理由が薄まってしまったことがあると思います。

 あの二人がなんでああまでして惹かれ合うか、という理由付けというのは、実はあの早足で飛ばしていたシークエンスこそが重要だったと思います。

 それはあの二人がそれぞれの家庭環境であったり、生活であったりの違いから不足していた部分を二人が補いあい、それぞれ喧嘩しながらも認め合うという、心の交流のシーンでもあったわけです。だからこそ、いろんな作品で、その部分はギャグでありながらも、最重要なシーンとして扱われてきたわけです。

 だから、その部分をなくしてしまった結果、「この二人はなんでこんなに好きになったんだろう」という人が出てくるんじゃないかなぁ、と思いました。そこら辺が、ちょっと事務的すぎたかな、とは思います。「主人公たちはもう、くっつくもんなんで」という感じがしましたね。

 

 ただ、なんでこうなっちゃったかというと、そもそも新海誠監督って、別にこの二人がくっつくかどうかってあまり気にしてなかったんじゃないかなぁ、とも個人的には思います。

 というのも、この人って、多分テーマとか物語とかよりも、絵的な何かから出発して映画を作っているんじゃないかな、と個人的には思うからです。つまり、書きたい題材があって、そこからそれにあった物語を作ってる気がする、ということです。今回の場合だと、あの糸守の町並みとか、彗星とかじゃなかったんじゃないの、と。

 そこから、「じゃ、今回の話はこういう話にしよっか。この話ならこの絵書けるでしょ」という感じで話し進めてるような気がするなぁ、と。

 これってなんか、凄いジブリっぽいというか、宮﨑駿っぽいなぁ、とも思います。『魔女の宅急便』なんて、スカートが風に吹かれてるの描きたいなぁ、から始まったみたいな話も聞いたことありますし。(クソうろ覚えなんで、間違ってるかもしれませんが)

 細田守ジブリの後釜にあんまりなれていないのは、あの人って絵的な何かからよりも、テーマとか物語から作品を作ってるようなきがするんですよね。もちろん、細田守には細田守の良さがあるし、あの人の作品も大好きですけど、ジブリっぽさという意味では、実は新海誠の方が近いのかな、と個人的には思います。今回の作品では、特にその部分を狙っていた、とも思えますが。

 あと、細田守よりも性的なものに忌避感がない、というのもそうかもしれません。細田守作品の特徴として、女性があまり性的なシンボルとして描かれていない、というのがあると思います。『おおかみこどもの雨と雪』は子供を生んでいますが、それは性的なシンボルをすっ飛ばして母性になっちゃってて、ちょっとちがうかな、と。まぁ、これは原画のせいでもあるのかな。エヴァの人の絵って、あんまり性的な肉感はないですしね。

 それに対すると、新海誠作品は(オタク的な意味で)女性にきちんと性としての価値観があるかな、とは思います。ただ、凄い記号的な価値でしかないので、そこは少し鼻につく部分でもあります。胸もみまくるシーンとか、走ってる時にパンチラぶち込むとか。こういう後になってじわじわくるサービスシーンとか、オタクっぽいなぁ、とは思います。

 

 

 色々書きましたが、とにかく凄く良かったです。

 個人的には、85点です!!!

【ネタバレ】製作者「オタクなんてこんなもんでいいでしょ」~映画『ミュータント・ニンジャ・タートルズ 影<シャドウズ>』を観て~

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 観てきました。

 前作はマイケル・ベイが監督し、あの一世を風靡した映画版ミュータント・ニンジャ・タートルズを、あまりにもベイっぽく、それでいてやはりベイっぽくリブートした佳作だったと思います。

 今作は、一言で言うなら、「別に作らなくても良かった作品」ですね。僕は面白くなかったです。

 たぶん、お金がなかったのか、なんか途中で映画がブチ切れてましたね。

 

 ダメな部分は、大きく分けて2つあります。

 先ず、色々細かい部分で「あれ? この話どういう話なの?」「このキャラってどういうキャラなの?」と思ってしまうしかない部分が多すぎる。

 例えば、ケイシー・ジョーンズが「僕も巡査なんで!」とか言ってる場面、ジョーンズは制服すら着ていないし、車も自分の車に乗ってる始末で「いや、全く説得力がないんですけど」と思ってしまいます。もちろん、それが狙いだと思うんです。”破天荒な巡査”ってことで押したいんでしょうけど、それにしても「いや、それはさすがに、、、」というくらい変てこ。

 大体、シュレッダーってのはものすごい大悪人で、絶対に逃してはいけない奴なんですよ。そいつの輸送にこんな奴当てるかよ、と思っちゃいますね。これはこのケイシー・ジョーンズがダメってわけじゃなくて、こいつに「任せたぞ」なんて言ってた上司すら無能を通りすぎて”破天荒すぎる”ってことになりますね。そこでもう「なんかこの映画、あんまり真面目に作ってないんじゃ?」という疑惑が。

 別に、ふざけた映画であっても面白い映画はあります。ただ、良い映画ってのは、そこに対してきちんとした筋は通してると思うんですよ。少なくとも、ケイシー・ジョーンズは有能であるべきでしょう。有能だから、その後の二人の囚人を探しだすシーンにも意味が出てくるし。

 万事、こういう感じで「あれ?」って思う部分が多いんですよ。映画に乗っていけない。これはもう脚本の段階であんまり考えてないからですよね。「オタク相手だしこんくらいでいいか」って感じで作ってるんじゃないですかね。

 あと、兄弟の仲が悪くなった後、再び仲良くなる部分の書き込みがあまりにも少なすぎて「あれ、俺途中で寝てたか?」と思ってしまいました。薬品ぶつけて割っただけじゃん。あれね、もう少し書かないと。アレだけで済ますんなら仲悪くしなければいいじゃん。その分物語が重くなるんだから、それをなくしてハチャメチャでメチャクチャなアクション作品にしちゃったほうがまだ面白かったんじゃないですかね?

 

 もう一つが、設定の漏れ。なんかいきなり宇宙人が出てきて「あ、そんな話だったよね」と思い出したんですが、要塞が出てきた時、ドナテロが全く慌てる様子もなく「これは宇宙人の要塞で、こういう感じの能力があって」ってとか普通に説明してるんですけど、アレっておかしくないですか? なんでお前そんな宇宙人に詳しいんだよって。

 これって、原作がどういう風に対処してたか分かんないんですけど、あまりにも客を置いてけぼりにしているというか、これも「オタク相手だしこんくらいでいいか」っていう風に作ってるようにしか見えないんですよ。

 

 

 とまぁ、何から何までアレな作品でした。個人的には60点です。

 

 ほめられる部分としては

WWEのシェイマスが馬鹿っぽい役で普通に出てたこと。

ミーガン・フォックスはベイっぽくてイイ女優。

・perturbatorのI am the nightのリミックスが最初のバスケットボールの試合会場で使われてたこと。これは名曲。

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