ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【雑感】人は時に、自分の一番長じたものをこそ疎ましく思う~紅白でRADWIMPSを観ながら~

 

 年末はだいたい格闘技を観ると決めているのだが、今年はRADWIMPSが出ていたのでそこだけは観た。

 そこで『君の名は。』の映像とともに『前前前世』を歌っていたわけで、やはりジンと来てしまったわけで、おいどんも男なわけで。

 

 というのも、自分が『君の名は。』に感じた感動というものの、7割位はRADWIMPSの曲によるものだったんだなぁ、と改めて考えたからだ。

 

・そもそも、RADWIMPSは4枚目までしか聞いていなかった

 つまり、別に大したファンではない。一応、映画を見た後に5枚目以降を聞き直したが、やはり良いと思えるのは4枚目以前まで。さらに言えば3枚目と4枚目だ。

 RADWIMPSについて、ざっくりとした分類は「ポスト・バンプオブチキン」で、バンプの歌が小学生の心情から見た恋愛観や社会への感想だったのに対し、RADは中学生くらいの恋愛観や社会批判だなぁ、と考えていた。ちなみに、それは今でもあまり変わっていないと思う。

 5枚目以降のRADWIMPSは、個人的には「中学生からの脱却をしようとして変なことをしてるけど、成功していない」という感想しかなかった。まぁ、変わった音楽をしようとして色々と試しているけど、あの気持ちよさがないなら聞く気にならない、というものだった。自分の良さを、自分の天性をこそ嫌いになる反抗期だったのかもしれない。

 そもそも、歌詞自体はそのままの幼さがあったので、曲自体をどれだけ変わったものにしようと、ゲテモノにしかならなかった、という感想。そういう意味ではロキノン的ではあるとは思うんだけど。

 

・『君の名は。』での先祖返り

 では、『君の名は。』ではどうだったのか。

 完全に、4枚目の頃の青臭さ、真っ直ぐさが帰ってきた、どころではなく、もはや「これバンプじゃね」と言われるほど、彼らの原点にまで先祖返りしていた。

 自分はわけもなくオープニングで涙腺に来たが、それは歌詞がそれについての言及に思えたからだ。

 オープニングの『夢灯籠』で、初っ端にこう歌っている。

 

 あぁ「願ったらなにがしかが叶う」 その言葉の眼をもう見れなくなったのは
一体いつからだろうか なにゆえだろうか

 

 ここが目に来た。

 その前に、イントロが始まった瞬間に「あれ、これって俺の好きな頃だったRADっぽいな」と思わせてからのこれはもう、まさにRADの今までの軌跡を一言で表しているように感じた。

 この言葉は単純に見えて、非常に複雑だ。なぜなら、彼らは自らの「子供っぽさ」を否定し、そこから脱出しようとしていたが、それこそがすでに「願ったなにがしか」でしかないのだ。つまり、彼らは子供っぽさから逃げられていないのだ。そもそも、子供らしさ、幼さから逃げ出すこと自体が非常に子供らしい。だからこそ、

 

 感情にハイタッチして 時間にキスを

 

 感情を捨て、ある意味で気持ち悪いキメラのような継ぎ接ぎの曲を作っていた人間が、自らが否定してきた感情にもう一度向かい合い、しかもその無駄にしてきたと思われるような時間にすら祝福を与える。

 

 5次元にからかわれて それでも君をみるよ

 

 周りには馬鹿にされるかもしれない。それでも、自分が決めたことをやるんだ、という子供らしさへの回帰。

 そして、君の名を今追いかけるよ、と言われた瞬間、僕は鼻をすすった。これはもう、RADWIMPSの主題歌じゃないか、と。

 彼らは、自分たちの今までの歩みを否定してはいない。逆に、今まで否定していたものをこそ、自分たちの一部なんだと受け入れ、認め、そこに帰ってきたのだ。

 物語の原型は元いた場所に帰ってくることだ、という話が最近有名になったが、このオープニングでRADWIMPSの物語が完成したようにすら感じる。

 

・歌詞での「君」とはもしかすると、彼らが忘れようとしていた幼さや、中学生っぽさだったのかなぁ、と考えると、非常に切ない歌にすら思える

 

 いつか消えてなくなる 君のすべてを
 この眼に焼き付けておくことは
 もう権利なんかじゃない 義務だと思うんだ

 

 何かがあげられると思う。もちろん、違うんだけど。

 ただ、基本的に彼らの世界観である厨二病的世界は、喪失をこそ物語の本質にしているので、幼児性や青臭さは代替可能な場合が多い。

 ただ、RADWIMPSがもしもそういった幼さを客観的に観ることができているとしたら、すごいいい歌詞をかけているのではないか、と思う。

 

 

・『人間開花』を聞いてみて

 正直、そんなに良くはなかった。ただ、帰ってきた感は強まった。英語で歌うのもそれを助長しているのかもしれない。

 

 

・『前前前世(original ver.)』で足された歌詞

 映画版と違い、途中に歌詞が足されているが、何故抜いていたのか。

 なんとなく考えたのは、あの部分が未来につながる歌詞だから、というものだ。これから歩いて行く、という部分は実は映画にはない。匂わせてはいるものの。

 それを映画の後に聞かせる、というのは良い演出だな、とは思う。そして、RADっぽいという意味ではこっちの歌詞が入っている方がらしいな、とも思う。

 

 とまぁ、今年もなんかいい映画や音楽を聞きたいなぁ。

【ネタバレ】ジェダイのいないSTAR WARS~『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』を観て~

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 話題作しか揃っていない2016年の中で、最後にやってきた話題作だと思います。アメリカ版の『GODZILLA』をきちんと作りきったギャレス・エドワーズの手腕もあるので、わりとのんびりとした気持ちで見に行きました。

 徒然と感想を書きます。

 

 

 

・戦闘シーンと音楽はマジでいい

 この映画の良い点は「戦闘」と「音楽」に尽きる。特に、戦闘シーンの爽快感だけで持っていると言っても過言ではない。

 ドニー・イェンの盲目戦士の強さはもうギャグを通り越して神話の世界に突入しているし、最後のダース・ベイダーのシーンは完璧の一言。暗闇の中、一瞬の静寂の後、ライトセイバーの刀身が伸びる音とともに現れるダース・ベイダーの姿。ゾクリとするほどの美しさの後、凄惨な殺戮劇が待っている。素晴らしい。

 音楽に関しては、元のSTAR WARSの音楽をリミックスしつつ、非常に高揚感のある曲展開で凄く良かった。いつもの曲かな、と思わせておいて、まさに希望に溢れながらも悲しさすらもある旋律が流れ、この映画の結末を暗示させている。

 

・地味にいいのが会話

 この映画、小気味よいギャグパートが多い。会話の端々に皮肉を詰め込んでいて、それを聞くのは楽しかった。特にロボットの、思ったことがそのまま出てくる感はC3POのようで良かった。

 

・ストーリーは詰め込みすぎ

 この映画の物語は簡単に言うと、主人公が道中、色んな人の助けを借りながら、デススターの設計図を手に入れ、それを反乱軍に命をかけて送り届ける、というもの。これだけ読めばシンプルなストーリーに思えるのだが、この映画、それだけの話をかなり難しく語ろうとする。

 特に序盤、帝国軍の強制労働収容所にいる主人公を助ける下りと、フォレスト・ウィテカーのシーンなどが複雑に絡まり合い、物語が頭に入ってこない。単純に情報量が多く、尚且つ整理できていないように感じた。

 また、フォレスト・ウィテカーを探しに行くシーンも、後から考えると要らなかったようにも感じる。というのも、あそこで主人公が父を亡くすことが、後になってあまり活きていないからだ。実の父と、育ての父を亡くしたことに対し、主人公はあまり心を割いているように見えない。というより、話がガンガン進行するので、それについていっているだけに見える。

 殺すなら、意味のある殺し方をするべきだし、その死によって主人公の感情を動かすべきだ。何の装置にもならないのなら、殺さないか、もしくはもう父親でもなんでもない人にしておけばよかったのではないか。ただ、どっかの星でパイロットを帝国に売ろうとする奴とか。パイロットを拷問するシーンも、別にいらなかったし、物語に何の意味も与えなかった。

 

・トレーラーであれほど格好良く言っていた「May the Force be with us」も映画内で聞くと全く印象が違う。

 というか、格好良く見せているのに「いや、べつに、そんなに、、、、」という風に感じる。

 なぜなら、別に主人公はその発言に対して特に嫌悪感を抱いている描写がないので、「なんか言ってる」だけにしか見えない。その前に、ドニー・イェンに対して「その言葉は嫌いよ」とでも言っておけばいいのに、その一言も無い。「フォースなんて大嫌い」という感情があれば、主人公がそのセリフを言うことに何かしらの意味や感動が生まれるが、映画本編では特にそれはない。

 

・そもそも、主要な登場人物が微妙に多い

 その割に、各々の見せ場をきちんと用意しているので、こちらとしては感情移入があまりできていない人物が、やけに情緒的に死んでいくなぁ、と感じる。あと二人くらい削れば、この分量でもちょうどいいと思う。パイロットはいらなかったのでは、と思う。もしくは、ロボットと合体させてしまっても良かったかもしれない。

 それぞれのキャラに魅力がないわけではない。ドニー・イェンだけでなく、ペアのチアン・ウェンのキャラも魅力だし、もちろんロボットもパイロットも魅力はあるし、見せ場がもっとあってもいいのに、と感じるくらいにはうまい描き方をしているとは思う。しかし、時間が圧倒的に足りない。魅力的だからこそ、足りない。ローグワン自体も、二部作くらいの情報量があるなぁ、と感じた。そう感じさせるのは、やはり情報の交通整理が足りていないからだと思う。

 

・魅力的なキャラが多いのは、立ち位置がしっかりしているから

 パイロットにせよ、キャシアンにせよ、STAR WARSの世界におけるバックボーンがしっかりしているから、少ない情報で深みのある人物を描くことに成功している。例えば、キャシアンの存在は、今まで善玉としてしか描かれていなかった同盟軍における暗部である。もちろん、帝国軍のような極悪非道の巨大組織に立ち向かうには、汚れ仕事を行う必要がある。では、誰が行うのか。

 それこそ、同盟を組んだ様々な星の孤児などが、大義のために躾けられ、同盟の暗部として裏で働いていてもおかしくはない。

 そう思わせるだけの深みがSTAR WARSという物語には既にあるので、そこに光を当てることで、彼らの戦う理由についても一瞬にして理解できる仕組みになっている。彼らは彼らで、戦うことにしか生を見いだせない、悲しい存在なのだ。だからこそ、「ストーム・トルーパーと同じだ」という言葉が刺さるのだ。それは、ある意味で真実だからだ。彼らが大義と信じるものがなくなれば、彼らは帝国軍と変わらない。

 パイロットもまた、STAR WARSという物語の深みの中に存在する人物だ。あれだけの巨大な勢力の中、一人や二人、まさしく正義の心に目覚めるものがいてもおかしくはないし、そこら辺もリアルだ。だから、彼が善良な心に目覚め、反乱軍に入っていくのは、ある意味でキャシアンとの対比にもつながる。とは思うが、特に触れてはいなかった。

 

・戦争シーンも良かったが、あまり頭がいい感じがしない

 最後の戦艦に体当りするシーンも、頭悪いだけにしか見えない。「最初からやれよ」と思ってしまう。

 というのも、あのシーンを描くなら、ぶつかる前に「俺は死んでもいいから!」みたいなことをあの船の誰かが言うべきだし、艦隊の長も「そんなバカな真似はよせ!」とでも言えばいいのに「ワシにいい考えがある」って、日本の特攻みたいなことを良策みたいに扱ってて、ちょっと行き当たりばったりすぎるように感じた。

 そもそも、あのシーン自体が、この映画における根幹であるべきだ。フォースを持たない人間が、帝国という巨大な敵に向けて、いったい何ができるのか。それを表現している素晴らしいシーンなのに、描き方によっては間抜けにしか見えない。

 

ジェダイがいない、という物語としての整合性

 この映画の根幹というのは「ジェダイがいないSTAR WARS」だと思う。それは何かというと、「小さな力しか持たない普通の人間たちが、それぞれの出来る最大限の努力をしつつ、命をかけて、希望をつないでいく」という話なのだと思う。

 ジェダイがいれば、超能力で切り抜けられることも、普通の人間では出来ない。ならばどうするか。命をかけるしかない。もしくは、頭をつかうか、ある意味で非道なことをするしかない。

 だからこそ、船を敵艦隊にぶつけるという作戦はその最たるものであり、もっとクローズアップされるべきだった。あのシーンをより情緒的に描けば、この映画を作る意味もあったと思う。

 そういう意味では、キャシアンの存在がもっと前に出て欲しかった。彼の存在は、まさにジェダイがいないSTAR WARSにおいての、主役になってはいけない主役として、もっと輝くべきだった。まさしく、彼が一番フォースから遠い人間なのだ。

 物語の冒頭でキャシアンが、息を吸うように人を殺すシーンがある。あのシーンから連想されるような物語こそ、この作品には必要だったのではないか。そんな彼が、「フォースと共に」と呟くことのほうが、個人的には物語として自然に感じる。主人公よりも、キャシアンの方が「フォースなんか知るか」「こっちは汗水たらして、血反吐はきながら暗殺しとるんじゃ」という思いは強いはずなのだ。だが、そんな彼の中にも、言わばフォースの力は働いているし、それがSTAR WARSという世界を貫いているはずだ。

 それに比べると、主人公が持っている重いというのが軽く見えてしまう。もちろん、主人公は「希望を運ぶ」という役割を体現はしている。彼女の存在を、みんなが運んでいく、というそのプロット自体は悪いものではない。名作『トゥモロー・ワールド』における赤ん坊のような存在として。だとしたら、もっとそこにフォーカスすべきだったし、彼女が何を運んでいるのか、それについてもっと考えさせるような会話や、演出を盛り込むべきだった。

 自分が何者なのか、父親が何を残したのか、育ての親が何を言ったのか、そして自分を導く男たちは何を求めて戦っているのか、主人公はそれに対してあまりにも無頓着だったし、何かを考察する余裕もなく物語が進行しているように感じた。

 

 本当に、戦闘シーンについては凄いいいので、そこだけ観るなら凄くおもしろ映画だと思います。ただ、凄い面白いシーンだけにすると、20分くらいしか見どころのない映画になるような。

 まぁ、映画なんてそんなもんか。

【ネタバレ】手段が目的となる場合もあるが、やり切らないと意味が無い~『ミュージアム』を観て~

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 小栗旬主演の『ミュージアム』を観てきました。なんか、マンガも連載当時はちょっと話題になっていたように思いますが、最初のほうしか読んでません。結末も知りません。

 観て思ったことをつれづれ書いておきます。

 

 

 

・ショッキングな映像は少ない。

 セブンのパクリ、という評価そのもの。ただ、ショッキングな映像は日本に合わせて和らげている。妻と子の生首(偽物)を見せたのは良かったが、その後すぐに「偽物です」となったのは本当に残念。あそこは殺して食べさせたほうが良かったと思う。少なくとも、映画として振り切れたと思うし、別に生きてたからといって面白いわけでもない。逆に、犯人が何をしたいのか全くわからなくなった。

 別にそれ自体が悪いわけではない。日本的な怖さというより、ハリウッド的な映画を目指しているように感じた。ただ、雨のシーンが多いならもっと日本的な怖さにしたらいいのに、とは思った。日本にしかできない『セブン』リメイクという企画なら、ある意味意欲的でいいとは思うが、そうではない。あまり意欲的とは思わなかった。10年遅いくらい。

 

・基本的に気にかかることが多くて映画に集中できない。

 冒頭から3つ挙げると

 

 一番最初の現場シーン。

 すごく雨が降っているのに、登場人物たちは普通の声量で話している。もっと大声で話すとかにしないと、オーバーダブで声を被せてるように見える。そもそも、小栗旬は口と声があってないように見えるシーンが有る。もしかして本当にオーバーダブなのではないか。

 

 被害者の彼氏に、若い刑事が詰め寄られるのを止めるシーン。

 小栗旬はなぜか若い刑事の肩に手を置いて止めた。アレは何だったのか。あれだろうか、若い刑事が相手を殴り飛ばそうとするのを抑えたのだろうか。ゴルゴ13みたいに、触れたものをぶん殴る性格だったのか。あまりにも異様だったので何かの伏線かと思ったが、全く何も無かった。

 

 若い刑事が「まだ眠れないんですか?」と聞くシーン。

 この映画は小栗旬が寝てるシーンから始まってる。一体なんで寝てないってことになるんだろうか。そもそもこのセリフが出てくるということは、なにか眠れないほどのトラウマになるような事件が映画よりも前の時系列で存在していないと出てこないが、そんなことは語られない。「不眠症、治りませんか?」とかならまだいいかもしれないが、現場で吐いてる新米にそんなこと言われたらぶん殴るだろう。

 

 こんな小さい事件が結構立て続けに起こるので、座席から腰が浮いてしまう。ちょっとずつ、セリフを削るなり、雨を弱めるなりしてくれたら問題なかった。と言うか、基本的に映画の本筋と関係ないところなので、何回か読みなおして削ってしまえばよかったと思う。

 

・犯人の人格造形が浅い。

 何かしらの、典型的な快楽殺人者的なものにしてしまっているせいか、ありきたりで魅力がない。『セブン』には聖書のモチーフがあり、それに沿った狂信者として描くことが出来た。今となってはありきたりにも見えるが、当時としては新しかったし、何よりもバックボーンがしっかりしていて、深みがあった。少なくとも、当時の社会に対しての何かしらの風刺の役割は担えた。

 それに比べて、今回の犯人には全く背景はないし、ただ自分の楽しみのためだけの殺人を行っていて、特に魅力はない。そもそも、表現として行っているはずの殺人に魅力がない。それは、かなり行き当たりばったりの殺し方しかしていないからだと思う。『セブン』は、罪の選び方に犯人なりの美意識や目的があったが、今作の犯人は罪人選びから面白みもないので、美意識がない。というよりも、目的がない。それでいながら、手段にもそれほど美意識を感じない。

 それこそ、最初に行ったとされる幼児を樹脂に詰めた殺人は、まだ芸術的な意味合いがあったので、あの方向性でずっとやるならまだ良かったと思う。あれ以降は血みどろで、全く美しくない。しょうもなく見える。

 そもそも、なにをしたいのか、何をもって芸術なのか全く見えない。主人公の妻と子供を殺さなかったことも謎だし、それで最後に妻と子供どっちをとるか、なんてそれまでの殺人でもやっていないことをいきなり持ち出したり、脚本自体が陳腐。小栗旬を閉じ込めて以降の話は、おそらくは『SAW』をパクったんだろうけど、だったら最初っからパクればいい。中途半端すぎるし、ここら辺でもう犯人に対して、ただの狂人として描くことしか考えてないように思える。犯人の目的がないことがそこに見て取れる。

 この犯人への意識の低さが、この映画の最もしょうもないラストにもつながっていると思う。もっと、この映画の真の主役として、この犯人に対して愛情を注ぐべきだったと思う。単なる敵ではなく、何かしらの社会の風刺として描くことができていたなら、映画館から出た後も何かを考える切っ掛けになったと思う。

 

・ラストの息子が新たな殺人鬼に?的なノリは不快。

 深いわけではなく 不快。

 なんか、主人公の息子も太陽アレルギーになったので、また新たな殺人鬼になるかもね、という感じの終わらせ方だけど、それは本当に紫外線アレルギーの人に失礼だと思う。

 つまり、作者は紫外線アレルギーの人は殺人鬼になるって言いたいのか? あの妻夫木みたいにカエルみたいな見た目になって、人を殺したくなる、と。冗談じゃないというか、全く違うというか、言葉が見つからない。

 そこに関してはフォローを入れているとしたら、犯人の妹が「そのアレルギーは心因性で、ちゃんとした環境なら治るよ」と言っていたことが、一応フォローになると思うんだけど、そう言いながら犯人をその手で殺すという、あまりにもなフォローの仕方。

 これは多分、きちんとした愛のある夫婦のもとで育った子供じゃないと、子供は不幸になりますよ、と言いたいんだろうけど、ちょっと伝わりにくい。というか、伝わらない。それは、犯人の描き方が浅かったからだと思う。犯人をもう少しでもきちんと描く努力をしていたら、最後のアレももう少しマシになったんじゃないのか、とも思うけど、それにしても不快であることには変わりないというか、もはや差別でしかない。そういう面についても、意識が低いと思う。

 

・やりたいことをやり切る映画なら、カルト的な評価は得られる。

 パクリばかりの映画は、全体の評価自体は低いかもしれないが、やりたいことが明確な分、一部のコアな評価も得られると思う。例えば、金城武主演の『リターナー』という映画があるが、あれはハリウッドアクション映画を予算数十分の一でパクろうとした映画だが、それでやりきろうと頑張っていた。それは映画体験としては、別に悪いものじゃない。製作陣はゲラゲラ笑いながらパクってたんだろうし、撮ってる間は凄い楽しかったんだろうな、と思いながらみる映画は、もちろん出来はひどくても、観た後そう悪い気持ちにはならない。それは、製作陣が本気でパクろうとしたからだ。この映画は、あんまり本気ではないと思う。少なくとも、ショッキングシーンの少なさ、パクリの底の浅さ、そこら辺から、本気度はいかほどだったのか、疑問に思わざるをえない。

 良い映画というのは、「この手段を使って、こういう映画を録りたい」という目的意識を持つものだが、「この手段を使いたい!」だけの映画だって、楽しみ方はある。ただ、やりきってもらわないと、こちらは楽しめない。

 

【ネタバレ】僕らはどこにでもいけるが、決して自由ではない~『この世界の片隅に』を観て~

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 映画『この世界の片隅に』を観てきました。つれづれ書きます。

 

 

・人生はだいたい薄味だから、飲み込み易い

 この映画の映像は非常にファンタジックだが、行われている行為自体は平々凡々な戦争の日常。そのギャップが楽しい。

 

・すずとかいう最高の人物

 この映画で一番良いのは主人公のすずのキャラクター造形だと思うが、何が良いかというと、彼女が一番狂っているからだと思う。

 彼女は平凡な日常の象徴のように扱われているが、あの時代、あの生活の中で平凡な生き方、感じ方をする人間は逆に異常だ。すずだけがそれを可能だった。その理由は、彼女の現実の捉え方にあると思う。つまりは、彼女が描いていた絵が彼女の現実をそのまま写していたのではないか、と思う。

 冒頭の人さらい?のシーンにしても、彼女の落書き混じりの回想という体で説明されているが、彼女にとっての現実とは、アレに近いくらいの認識なのではないか。つまりは、本当に望遠鏡の先に夜の絵を書いたら人が眠った、という認識。そこまでではないかもしれないが、常人の思考ではない。

  すずにとって絵というものは現実の写実であると同時に、「こうであったらよかったもの」という現実からの逃避であった。だから、空から舞い降りてくる爆弾が炸裂する様を見ながら「ここに絵の具があったらよかったのに」と思い描く。彼女はあの場面、死ぬほど怖かったからこそ、現実から目を背け、絵に逃げようとしたのではないか。

 すずにとって絵が現実を投射する手段であったし、尚且つそれが逃避にもなっていたのだと思う。だから、彼女の右手が姪とともに吹き飛んだ後、すずは現実を受け止めざるを得なくなる。それどころか、今までの人生をやっと彼女は受け止めるようになったようにすら思える。今までの人生で「こうあってほしかったもの」が、まるで広島から飛んできた障子に描かれていたように、次第に消えていく。残ったものは、果たして何だったのか。

 そして、玉音放送の後、すずは憤る。ここの憤りについては、僕はあまりピンとこなかった。どちらかと言うと、その後の広島からやってきた被災者が、実は自分の息子だったという隣人の話のほうが胸に刺さった。もしくは、広島で原爆の被害にあった妹の手を優しく撫でるシーン。あの動きにこそ、涙ぐんだ。

 

・主題歌が良すぎる コトリンゴの主題歌が良すぎて思わずサントラを買ってしまった。

 

クラウドファウンディングの名簿を流した意味 実は、個人的に一番涙ぐんだのはエンディングのクラウドファウンディング名簿が流れているシーンだ。自分でもバカだと思うが、あの馬鹿正直に一人ひとりの名前を全てスクリーンに映し出す行為にこそ、この映画の主題があるのではないか、と思ったからだ。

 言ってしまえば、この映画は一人の女性が戦時中をいかに生きたか、というだけの、それだけをとってみればつまらない映画だ。(この映画を一言で説明する時、人が何も言えなくなるのはそれが理由ではないかと思う)

 ただし、それが人間というものだし、人生というものはそういうものだ。人生というのは平凡で、つまらないし、そしてその中で必死にもがき苦しむことはできるとしても、世界という大きな渦の中ではほとんど意味が無い。まるでタンポポの綿毛のように、風に乗って飛んで行くしかない。どこにでも行けるように見えて、僕らは不自由だ。タンポポはすずの比喩でもあるし、全ての登場人物の比喩でもある。また、この映画を見ている観客のことでもある。

 ただ、その不自由さの中でも生きるしかない。そして、生活を続けていくしかないのだ。

 その一つ一つの人生を賛歌し、肯定することがこの映画の主題なのではないか、とエンディングの名簿を見て思い至ったのだ。その瞬間、自分はどのシーンよりも涙が出た。この映画は、制作の仕方まで含めて芯の通った、素晴らしい映画だ。

 

 映画史に残るかどうかはわからないが、良い映画です。

 

 

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【ネタバレ】僕らはみんな欠けている~『ヒックとドラゴン』を観て~

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 メチャクチャ評判がいい作品なんで、食わず嫌いをしていた作品でした。

 しかしながら、見てみると最高にいい作品でした。個人的には85点です。

 以下、箇条書き。

 

 

・みんないい奴

 初期のヒックのクソ野郎っぷりが際立つほど、大人も子供もみんないい奴ばかり。特に父親が素晴らしい。威厳と優しさに満ち溢れていながら、不器用で子供にどう接していいかわからない。その塩梅が素晴らしすぎて、開始数分で涙腺が緩む。

 村人たちも、バカにしながらも「こいつが死ぬのは嫌だなぁ」と思い、だからこそ主人公をドラゴン退治から遠ざけている。つまりは、彼らも主人公に対して凄く優しいのだ。

 ただ、だからこそヒックは、その優しさこそが嫌なのだ。優しくされるのは弱いことで、それは自分の欠点を見られているだけなのだ。

 だからこそ、彼はその欠点を否定すべく、他人の優しさを否定する。その時点では、ヒックこそがこの作品の悪役といえる。

 

 

父親の、母の兜

 この父親の存在が本当に良かった。

 特に、最後の戦いが終わった後、主人公の心臓の音を確かめるために兜を投げ捨てるシーンが胸に残る。

 あれは妻の鎧から作った兜であり、いわば彼の死者に対する思いを表したものだった。しかし、それをかなぐり捨て、今生きている息子の鼓動と真正面から向き合ったのがあのシーンなのだ。

 それは、ドラゴンを目の前にして兜を脱いだ主人公と被る。

 

・主人公とトゥースの関係性が良い

 主人公がある意味欠点だらけの存在として登場しつつ、トゥースもまた欠点を持った存在として登場する。翔べないドラゴンという欠点を持った存在として。

 そして、主人公もまた欠点を持った存在として、二人は出会う。

 この二人の関係性は、少し複雑だ。主人公はトゥースからドラゴンの習性を学び、トゥースは主人公がいることで食事にありつけ、尚且つ空も飛べる。ある意味、ここでは補完関係ができている。

 最後の戦いの後、主人公の片足が無くなって、初めてこの二人は対等になる。互いに互いを補い合うことができる、という見方がおそらく正しいのだとは思うが、個人的にはそれは可視化されたにすぎないのではないか、とも思う。

 主人公は、もともと何かが欠落していたように思われた。それは、自分を認めることが出来ない、という自己の欠如である。

 彼にとって、理想の自分でない今の自分は欠けている存在であり、理想の自分になるまでは自分を認めることが出来ない。理想の自分とはなにか、それは「ドラゴンを殺せる自分」である。果たしてその理想は、最後まで叶わない。それどころか、「僕はドラゴンを殺せない人間なんだ」と自覚するようになる。

 ここで重要なのは「だから、理想像を変更する」ことではない。この映画は「理想ではない自分を認め、許す」方向に動く。だからこそ、感動が生まれるのだ。

 そこでトゥースの存在が生きているように感じられた。トゥースから学ぶ様々なこと、ドラゴンとはなにか、自分たちが考えていたものとは全く違う現実が目の前に転がっている事に気が付き、主人公は理想(ドラゴンは殺すものという理想)自体を疑問視していく。それを教える存在としてトゥースの存在はある。そして、その存在は主人公の鏡なのだ。

 だから、ヒロインは主人公がトゥースに対して行った同じ疑問を投げかける。「なぜ殺さなかったんだ?」と。主人公はトゥースにそう聞き、ヒロインは主人公にそう聞く。主人公の言っていることは、ある意味で正しい。あの時殺しておけば、トゥースは理想的(ドラゴン的)な死に方をしていたのかもしれない。逆に、トゥースが主人公を殺していても、それは理想的(バイキング的)な死に方だったかもしれない。

 しかし、彼らは理想的にはなれず、結局は互いの弱さを前にして何も出来なかった。

 

・義足の意味

 映画のラストで主人公が義足になるシーンもこの映画の白眉と言える。もちろん、トゥースと支えあいながら歩くシーンは涙なしには見れなかった。

 ただ、このシーンの前からこの二人は支えあっていた。だからこそ、それが可視化されただけにも思える。ある意味、自然に二人が寄り添っているのは、前からずっと支えあっていたからなのだ。

 

 義手、義足のキャラクターとして出てくる先生もまた、この映画の重要なキャラクターだ。ある意味、一番重要かもしれない。彼こそがこの映画の答えだ。彼はもちろん、自分の体が欠如していることを自覚している。しかし、それをこそ武器に使い、なにも恐れることのない生き方をしている。その彼が言っている言葉こそが、この映画の肝だ。

「なりたいものではなく、なれるものになれ」

 結局、主人公は彼の言うとおりの存在になったといえる。主人公はドラゴンを殺せる人間ではないことに自覚し、最後にはドラゴンに乗り、ドラゴンとともに歩き、共に生きていく人間になる。それは彼の理想ではないが、主人公はそうするしか出来なかった。

 そして、そうせざるを得ない自分を許し、認めることができるようになった。それがこの映画で主人公が得た成長だろう。

 だから彼は、義足について最後に笑いながらこういったのだ。

「うん、もうちょっとだね」

 自分の欠点を認め、それを笑いながら見つめることができる。

 それが生きるという事なんだ。

【ネタバレ】時勢の変化で奇をてらうってのは難しい~『白い沈黙』を観て~

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 赤いスーツのイカスやつデッドプールに扮していたライアン・レイノルズが出演していたミステリー映画です。

 娘が誘拐されて、それをお父さんが探し続ける、という作品ですが、そこで問われる謎が「娘がどこか」ではない、というところが面白いところです。

 以下、箇条書きで思いついたことを書きなぐります。

 

 

・この映画の特徴は、「時勢をバラバラに見せて、今見ているのがどの時期の話か分からなくさせる」というもの。ただ、それが特に面白いわけではない、というのも特徴。

 なぜなら、本当にわからないから。というか、色合いも服装も何もかも、時代ごとに分けていないので、よく分からないまま終わる。というか、特に分けていなかったのか? 今となってはよく分からない。

 

・最初はコロンボ的な話かな、とも思ったが、そういうのもなかった。

 娘が誘拐される部分の謎も特に謎でも何でもなかった。ライアン・レイノルズの「誘拐される前の時間何をしていたか」という伏線らしきものも特に回収されず。アレ無意味というか、なんだったんだ。

 

・白人の倶楽部文化

 DJとかのクラブという意味ではなく、ロリコンの集団的な意味での倶楽部文化は、アカデミー賞をとった映画『スポットライト』でも取り上げられていたが、昔から白人の中に育まれているようにも思われる。秘密結社みたいにも感じる。会員は秘密を厳守し、その恩恵を授かる。日本でも似たような世界はあるのではないか。

 ただ、白人はそこになにかより深い世界があるようにも思える。その片鱗として、友会の被害者である家族を眺める、という新しい変態の形というのは、実は前からあったりするのかもしれない。

 

・木で道案内してたのはなんだったんだ

 あのシーンはなんか笑ってしまった。どう考えてもおかしいというか、目撃者いるだろ。

 

・誘拐された女の子が生きてるっていう設定は面白いと思ったけど、結局は物語に緊迫感がなかった。

 

 

 

 

【ネタバレ】「生きること」を手伝うという意味~映画『聲の形』を観て~

 

 

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 映画『聲の形』を観てきたので、ネタバレしながらも、考えたことをただ書きなぐります。

 

 

 

・聾唖あるあるではない

 この映画を観た人はたいがいそう思うと思いたいが、この映画が描いているのは、ヘレン・ケラーの話ではない。眼と耳で違うとかそういう意味でなしに。

 この映画は、コミュニケーションとその結果の話。つまりは関係性とはなにか、という話だと自分には感じられた。そのため、普遍的な話に落とし込めている。

 いじめの話が主題であり、耳が聞こえないことに大した重さは置かれていない。ある意味、障害があることでいじめの重さを軽減してあるようにすら感じる。

 

・『君の名は。』と時期的に比べられることは分かるが、ある意味対極の作品。

 どちらもいいが、こちらは上品な作品。ファンタジー要素はないが、世の中をファジーな認識で写す分、こちらのほうがファンタジーに感じる人もいるかもしれない。

 また、コミックの要素を詰め込みまくっているせいか、かなり駆け足。物語自体は一本道でつながっているが、心情の流れはかなり複雑で、見ていて疲れる部類だと思う。

 

・優しさこそが人を傷つける、という人間関係の難しさを描いた良作。

 ある意味、植野が一番優しいキャラなのかもしれない。彼女だけが本音をぶつけ、自らの意志として人を傷つけていた。誰しもが自分勝手な中で、彼女は自分が自分勝手であることに唯一自覚的だった。あの川井が一番クソなこともそれに拍車をかけている。中盤から出てきた真柴の存在意義はかなり薄いようにも思えるが、顔も良く、性格もよく、いつも人の中心にいるああいうやつは確かにいるな、とは思う。それに、彼には彼の大事なポジションがあるとも思える。

 この映画の不思議な魅力は、全ての登場人物が生きているところにもあると思う。情報量が多いのに、どれが欠けても物語の大事なピースが抜け落ちているように感じる。

 

・この映画を贖罪の映画として見ることはできるが、その答えは一つも出ていない。

 それはヒロインと主人公の関係が恋仲になってしまったからだ。あの関係が冷淡なままであれば、より贖罪の話になったのではないか。

 主人公が入院した後、誰しもが謝りながら互いを傷つけ合うシーンがあるが、あのシーンこそこの映画の白眉であり、この映画を贖罪の一つ向こう側の作品にしている。

 人は他人を思うことですら、人を傷つけてしまうことを表している。

 主人公の母親の足にすがりつきながら嗚咽をもらすヒロインに、自分は思わず泣いてしまった。ヒロインは死ぬことすらもできない自分が情けなく、言葉が喋れたとしても、もはや何も言えなかったに違いない。自分の存在そのものが他人を傷つけている、ということに自覚的な人間であるからこそ、彼女は誰よりも傷ついているのだ。そして、自分を傷つけることと同じように、他者も傷つけている。

 

・生きることを手伝う、という言葉の重さ。

 ポスター等でも使われている、この映画の主題となる言葉。この言葉自体は綺麗事だが、作品を通して聞くと、全く意味が変わってくる。

 障害やイジメの贖罪とは違う意味で、すべての人間が何か欠陥を抱えていて、それを許しながら生きていく。それは他人を許すことだけではなく、自分を許すことも含まれている。川井が叫んでいるその言葉は果てしなく軽いが、ある意味でそれこそが生きることなのだ。何言ってんだ、こいつ、と思わせながらも、彼女もまたその弱さと戦い、生きている。そして、自分を許すことは、優しい人間であるからこそ難しい。その手伝いをしてほしい、という呼びかけはか細く、それだからこそハッとさせる。

 

 償いとは何か。

 植野自分を慰めるために、イジメの相手に優しくすることを否定していたが、果たしてそれで自らを満足させることができるのか。あらゆる行為(距離を置くことですら)がしこりを残す中、誰しもが被害者であり、加害者である。途中退場しかけていた佐原ですら、逃げられなかったのだ。

 贖罪とは他人から許してもらうための行為であるが、自分を許すことこそ、自らを肯定することが贖罪の先にあることではないのか。

 ただ、この映画はそれが答えだとは明示しない。それはもちろん、それが答えではないからだ。この映画は何が答えかを言わないし、そもそも答えなどない。この映画はただ、主人公がこれから始まる剥き身の世界と触れ合ったところで終わる。美談のようであり、これは悲しい結末でもある。世界の汚らしさ、世界の痛みを、今まで以上に受け止めて生きていかなくてはならない。ただ、その世界は残酷で痛みにあふれていながらも、やはり美しいのだ。

 

 

・この世界に出てくる大人たちもまた、身勝手で優しい。

 主人公の母親やヒロインの母親もまた、それぞれに自らの葛藤を抱えながら、間違えながら生きている。ただ、大人たちは子供を肯定し、それを生きる糧にしている。特に主人公の母親の存在は、この映画のどこをとっても清涼剤で癒やしだった。それはヒロインの祖母とも対応した関係だ。惜しむらくは、ヒロインの祖母と主人公の母親の対比が描けていれば。

 

 

aiko歌は削れなかったのか?

 この映画は恋愛だけの映画じゃなく、もっと深い話までできる。もちろん、あの二人のラブストーリーではあるが、その愛とは高校生のただの恋愛だけに終わらない、人生を肯定する話だと思う。

 あの二人の恋愛感情は、確かに彼らを救った。ただ、本当にそれが救いなのかどうかまでこの映画では語れたのではないか、と思う。

 

 

・思想面での『君の名は。』との違い。

 『君の名は。』もまた、肯定の物語である。

 存在の肯定であり、新海誠の美しい世界観は、それこそが世界の肯定であると言える。ただ、君の名は。』は、その部分を映画ではなくRADWIMPSの曲に託しているのではないか、と個人的には感じた。

 あの映画が卑怯であり、それでも感動できるのは、野田洋次郎が持っている底抜けた自己肯定感と、そこからやってくる世界の肯定が鍵なのだと個人的には思う。

 例えば、前前前世』では、ずっと前から君を探しているが、自分が果たして探しに行ってもいいのか?」「探すことが許されているのか?という過程が君の名は。』にはない。それは野田洋次郎の自己肯定感と曲の疾走感で対処している。もしくは、運命というもので必ず出会う誰か、というものを想定している。

 『聲の形において、その問は問われたままだ。答えなど出ていない。ただ、主人公やヒロインに襲いかかってくる現実を、「これでいいのか?」と自らに問いかけながら、必死に対処しているに過ぎない。

 そもそも、耳が聞こえず、しゃべれないことも、いじめの罰として孤独になったことも、すべてどうしようもない現実だ。映画の中盤、植野がこう問いかける。「あの子(ヒロイン)がいなかったら、私たちこんな風にならなかったよね」と。もちろん、そうだったかも知れない。ただ、現実はそうではない。それこそ、ヒロインの耳が聞こえていたら、こんなことにはならなかったかも知れない。主人公と一緒に同じ高校に行って、普通に恋愛をして、普通に生きていたのかもしれない。

 ただ、現実はそうではないのだ。

 だからこそ、主人公は何も言わなかった。彼は現実を味わってきた。その結果、彼もまた耳を閉じて生きてきたのだ。それは世界から自分を守るための逃避だった。そして、彼は何度も自分に問いかけていた。これでいいのか、と。自分の行っていることは、本当にやっていていいことなのか、と。

 それこそ、中島義道が言うところの倫理的な人間だ。彼は善い行いをしているのか、常に自らに問いかけ、悩みながら、答えを出せないまま、そして最後にヒロインを探し始める。そこにすら、自己の肯定はない。彼は告白の時ですら、自分が無様で格好悪く、間違っていると感じた。そして、そうやって生きていくのだ。

 『君の名は。』とくらべて、こちらの方が複雑で、楽しみ方の違う作品だと思う。『君の名は。』で楽しめなかった人も、『聲の形』なら楽しめるかもしれない。

 

 個人的には90点。