ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】僕らがなりたい誰か~『ハードコア』を観て~

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 一人称視点映画として注目されていた(?)『ハードコア』を観てきました。

 個人的にFPS視点のゲームについては非常に苦手で、時々かじるくらいしか遊んでいないのですが、そんな自分でも予告編をひと目見て「これはFPS洋ゲーあるあるを詰め込んだだけの映画だろうな」と考えてしまうような、まぁ、オタクっぽい作品になってそうだな、と思いながら観に行きました。

 結果としては、まさしくその通りの映画になったと思います。しかし、凄く面白かったです。色々言いたいことはありますが、映画の始まりから終わりまで、ずっとハイテンションでジェットコースター気分を味わえるので、楽しいと言えば楽しい作品でした。

 以下、考えたことを連々と。

 

・基本的には洋ゲー

 物語、登場人物、全てが予想通りに洋ゲーのままでした。この映画は次から次に事態が進展し、飽きることがないばかりか逆に疲れるくらいですが、それはまさしくFPSゲームと同じだな、と思った。ヘイローにせよ、ハーフライフにせよ、物語をテンポよく進めていくと(ムービーシーンなどは入るが)基本的にはノンストップでゲームが進行してしまう。なので、ゲームに慣れれば慣れるほど、ある意味笑えるほどに物語の進行は早くなる。この映画を観ていて同じような感覚になった。

 

・大佐のようなキャラはよくいる
 あんまり死ななそうで、無駄に強いキャラで、なおかつ主人公の手助けをするようなキャラクターはよく洋ゲーで見る。主にギャグ要員として、ではあるが。フォールアウト3の最後らへんで味方になるゾンビとか強かった。

 

・人間の目はよくできている、という話
 この映画を観ていて、最後の方はかなり疲れてしまったのだが、その理由はなんだろうか。事態が次々と加速度的に進行していくことに加えて、人間が普段の生活で、ありのままに視界を処理してはいない、ということも理由なんだと思う。
 というのも、この映画の冒頭部分で喋れない主人公が首を振る(NOと伝える)シーンがあるが、僕達が首を振るときの視界は、あそこまで揺れてはいないように感じる。少なくとも、対話者がグラグラ揺れて見えるほどには。これはそこまで首を動かさない、というのもあるが、「そういう風に見えている」だけにすぎない、とも言える。つまりは、脳みそがあまり揺れていないようにそれ以外の焦点を外してしまっている、ということだ。
 普段、何気なく道を歩いているとき、人は自分の歩いている道の全てに焦点を当てている(パンフォーカス)わけではない。自分の注意が向いているものにしか焦点を当てないので、それ以外の情報は「見えているけど認識していない情報」となる。それは脳みそがフィルターをかけているということだ。そのフィルターを外すと、人間の脳みそがフル回転し、早い話がすごく疲れる。この映画で疲れる理由はそこだと思われる。
 特に、街なかでパルクールをするシーン(この映画のハイライトの一つ)があるが、そこがすごく疲れる。息もつかせないシーンであるだけでなく、様々な情報を脳みそが処理「してしまい」、かなり疲れる。どうすれば良いのか、と言うとあまり検討はつかないが、よりフォーカスをぼかすなどすればよいのかもしれない。あと、この作品で惜しいと思われる要素の一つに、急なカット切り替えがあった。いきなり暗転し、場面が少し変わっている、というような。パルクールの合間にもあったのは少し残念。技術やお金の問題もあり、非常に難しいとは分かっているが、これどうやってるんだろう、と思わせるような1カットをもっと残せたら、この作品は歴史的な一作になったかもしれない。今でも、十分怪作として名を残しそうではあるが。

 

・物語と映画の構造

 この映画は多分、そこまで脚本と映像に相乗効果をもたせようとは考えてなかったと思われるが、なんかメタ構造になってたように感じる。

 他の人造兵士に主人公の記憶を移して、言うことを聞くようにする、というものだ。つまりは、映画の観客者がそれに対応している。

 ただ、映画の内容としてはそれを若干否定している。自分というものを見失わず、自分の好きな自分になるべきだ、としている。

 となると、この映画自体を否定していることになるが、それはいいのだろうか。シンクロ率100%!とか言ってる割には、シンクロ自体を否定している。

 ただ、この映画の言いたいことを表してもいる。誰にそしりを受けようが、好きなものを好きなようにやる。例え、ゲームを実写でやっただけと言われようとも、やりたいことをやりきる。その精神は正しいし、今後も持ち続けてほしい。

 誰しもがなりたい自分にはなれないし、他の誰かをなりたい誰かにすることはできない。ただ、なりたい何かを目指してもがき続けるだけだ。

 たとえ、血を見る結果になるとしても。

 

【ネタバレ】お祭り感~『夜は短し歩けよ乙女』を観て~

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 森見登美彦原作の『夜は短し歩けよ乙女』を観てきました。監督はTVアニメ『四畳半神話大系』でも森見登美彦作品をアニメ化した湯浅監督。監督自身も言うとおり、「四畳半神話大系のご褒美的に作ることが決定した」との見方は正しいと思う。それくらい、今回の作品は湯浅成分が強めなのかもしれないな、と思いました。

 

 

・ぶっちゃけ四畳半の方が面白かった

 原作も含めて、という意味で。

 まず、TVアニメ版『四畳半神話大系』は個人的には大好きな作品で、近年のアニメの中では(もう7年前なのか)トップクラスに好きだし、傑作だと思う。何が傑作なのか、というと「あの森見登美彦の原作をここまでアニメとして成立させ、尚且つ湯浅監督の味を出し切ることができた絶妙なバランス感覚」が良かったのではないか、と考えている。

 そもそも、森見登美彦作品というのは映像化しにくい作品ではないか、というのがある。それは、物語の面白さというよりも、作品全体の文体や、その文体に非常にマッチした主人公の精神構造こそが面白いのであって(個人の感想です)、それは言うなれば「小説ならではの」面白さが詰まっている、とも言える。ぶっちゃけて言えば、文章が面白いから面白いのだ。つまり、文章が消えれば面白さの半分以上が消えると言って過言ではない。(前に書いた『虐殺器官』などと同じだが)

 それに対して、『四畳半神話大系』ではどうしていたのか。同作品の脚本を担当していた上田誠が、森見登美彦原作の『有頂天家族』の文庫版でそれについて「恐るべき体験」として解説している。

 

四畳半神話大系』は、その名の示すとおり、四畳半に暮らす冴えない大学3回生が主人公の小説であり、文章の大半は、飯を食う、猥雑図書を読む、悪友とじゃれあって過ごす、など、およそストーリーの展開には与しない、無意味な描写に費やされる。

(中略)

 となれば、それらを差っぴいて、物語の「核」を見い出せばいいのだとばかりに、そうした箇所を順番に落としていくと、物語はなんだかみるみるやせ細っていき、「大学生活をスマートに送る男子学生の話」といった風情の、模範的ではあるものの、原作の豊穣さとはまるで別のことになってゆく。そしてその一方では、割愛した瑣末なエピソードたちが、より集まって、なんだか妙なきらめきを湛えている。

森見登美彦著(2010)『有頂天家族幻冬舎文庫p.420)

  掻い摘んで言ってしまうと、最初は「物語の核」さえ掴んでしまえば、枝葉の部分は少し削ってしまっても問題なかろう、という風に考えていたが、そうすると全く物語が面白くならない。というよりも、核ではないと思われる部分こそ、核なのではないか、ということである。個人的には、核ではないと思われている部分は、本当に核ではないのだと思う。ただ、核であるからこそ面白い、というわけではないし、核でないから大事なものではない、というわけではないだけだろう。

 これはもはや、物語が面白いのではなく、作者が面白い類の作品なのだと思う。僕の友人曰く「昔のテキストサイト侍魂など)みたいで嫌い」との評価だったが、それはその通りだろう。

 かくして、あのアニメでは、まるで原作小説をただ読んでいるかのごとく、主人公の独白(小説の地の部分)を延々と30分間叩き込み続ける、という常軌を逸した作品になった。

 そして、その常軌を逸した作品を分かりやすく説明し、なおかつより引き込ませるために湯浅監督の、一見荒唐無稽ながらも直感的に物事を説明できるアニメ演出が組み合わさり、観たその瞬間に理解しながら、そして笑いながら観ることのできる素晴らしい作品になった、のだと思う。

 理解の補助としての演出、という意味で言うと、湯浅監督にはあまり似つかわしくない言葉にも思える。どちらかと言うと荒唐無稽なパースで視聴者を叩き伏せまくるのが得意技だと思っていた監督だが、どうやらそうではないらしい。能ある鷹は爪を隠すと言うが、それに近い何かしらがかの監督の今の名声と、そして奇妙な立ち位置を醸成したのであろう。というのが、僕の湯浅監督評であった。

 ともかく、そういった様々な要素が絡んでできあがった『四畳半神話大系』と比べて、『夜は短し歩けよ乙女』は少し小さくまとまった作品になった、という印象であった。

 

・夜という空間

 森見登美彦の作品における「夜」という存在は、不思議なものに感じられる。森見登美彦作品がファンタジー小説と言われている所以でもある。それは彼の描く夜が、非常に奇怪で、時には底知れぬ暗闇としての夜として現れるのではあるが、そこに出てくる人物たちは皆優しく(金貸しなどを除いて)、主人公たちを受け入れてくれる。

 様々な要素をまとめる存在としての「夜」は、確かに京都の祗園や木屋町には現実として存在している。それは森見登美彦作品に出て来る登場人物のようだ。彼らは、主人公や物語という側面だけでしか語られないが、確実に何か裏を感じさせるように描かれている。

 それをきちんと描ききった作品が『四畳半神話大系』であった。なので、『夜は短し歩けよ乙女』は、言うなれば『四畳半神話大系』のうちの一部分とも言える。あの連綿と続く四畳半の中の一つの物語にある、とも言える。というよりは、その後も続いていく森見登美彦サーガの一側面、と言うべきか。

 そういうこともあり、『夜は短し歩けよ乙女』が小粒に感じるのもあると思う。

 

・役者たちの技量

 これについては仕方ないとは思うのだが、星野源に『四畳半』の先輩役のような長回しのセリフは難しかったのだと思うし、そこを同じにしたら「四畳半と同じじゃねーか」となるので、やらないのは成功だったとは思う。

 

・街に認められること

 個人的にこの作品でよかったのは、全体の雰囲気、と言うに尽きる。これは森見登美彦作品に必ず存在する空気感なのだが、主人公は街に認められている、という感覚。この場合、主人公というのは黒髪の乙女のことでもあるし、先輩のことでもある。個人的に言えば、非常に世の中から阻害されていると感じている先輩もまた、この街の一部であり、彼も夜の中に入り込んで行けている。それは愛ゆえの行為ではあるが、彼の行動こそが、映画全体のテンションをきちんと上げている。そこは良かった。

 逆に、乙女はあまりにもキャラがのっぺりとしていて、そこまで魅力的には描かれていない。『四畳半神話大系』の明石さんとは大違いである。明石さんは、文系オタクの求める女性像としてあまりにもオーバーキルな感じが、もはやギャグでしかないとは思うが。ただ、彼女が街に溶け込み、認められ、練り歩いていくさまは観ていて気持ちが良い。

 

 映像も面白いし、悪くはないのだが、ファンディスク的な要素が強い作品だな、とは思った。

【ネタバレ】軍人対怪獣シリーズにして欲しかった~『キングコング: 髑髏島の巨神』を観て~

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 もう僕が生きてる間に数回映画化をしている「キングコング」の最新版です。前々から話に上がっている通り、ハリウッド版『GODZILLA』とつなげるために作った作品とのことで、まぁ、そういう感じの作品だな、と思いました。ていうかこれ、ギャレス・エドワーズは関係ないんですね。

 以下、箇条書き。

 

 

・面白くない訳じゃないが、凄く面白いわけでもない

 一応、コング以外にも変な怪物は出てくるし、物語に起伏はあるし、別に面白くないわけではない。

 ただ、凄く面白い要素があるかというと、別にそうでもない。そういう意味で、『GODZILLA』は凄く作りこまれていたと思う。

 

トム・ヒドルストンジョン・グッドマンというノイズ

 特に下調べをせずに観に行ったため、トム・ヒドルストンが出てきた時に「ロキじゃねーか」と口に出してしまい、一気に映画から距離をとってしまうという失態。今後は、役者だけでも必ず目を通そう、と固く誓った。

 あと、ジョン・グッドマンを「どこかでめちゃくちゃ見たことあるのに、どの映画か思い出せない」とやきもきし、最後のほうで「『ジョン・ウィック』のババヤガ歌ってたおじさんか!」と思いつくも、これは間違い。『10 クローバーフィールド・レーン』のサイコパスおじさん役だった。ぜんぜん違うわ。

 コーリー・ホーキンズについては「ドクター・ドレーだよね」としたり顔。

 ちなみに、登場人物全員とくに掘り下げられないまま物語が進む。結局、トム・ヒドルストンという役柄は何をしたかったのか分からない。一応はプロっぽいので別に問題はないんだけど。

 物語と人物の配置をうまくやりすぎてもご都合主義に見えるが、あまりにも関係ないと物語が薄味になる。何かの事件に巻き込まれる人物が、その事件と自分の人生に何かしらの接点を見出し、事件の解決とともに自分の人生を見つめなおし、変化していく、ということが物語においては王道だと思うのだが、それがうまくできていない作品は、途端に出汁がない味噌汁のように薄くなる。もちろん、怪獣映画にそんなものを求めるべきではないのだけど。

 

・軍隊の描き方は悪くない

 軍人たちの描き方は良かった。リアルかどうかはさておき、結束感があり、見ていて面白い。というか、一般人たちより軍人たちだけで島に乗り込んで欲しかった。その方が緊張感があったのではないか。

 そういう意味では、サミュエルL・ジャクソンとジョン・C・ライリーをもっと前に押し出して欲しかった。この二人の関係性をもっと面白く描けていたら、この映画は少し違う味の映画になったのではないか。

 ベトナム戦争の敗北(撤退)が、サミュエルL・ジャクソンに何を思わせたのか。それは「戦死者たち」と「敵」への思いだ。ある意味、この2つの存在は軍隊という組織を生み出す装置の表と裏だ。「戦死者たち」を生み出す「敵」がいないと、軍隊というものは存在しないからだ。戦場から離れる生活をできなくなった人間にとって、この概念のない日常生活こそが、最も恐れる世界になる。サミュエルL・ジャクソンは、最初の方はそういう描き方をされている。これからどうするんですか、という質問には何一つ答えられず、そのくせ最後の任務を与えてくれた上官には心からの感謝を示す。そして、部下たちを危険な任務に晒しておきながらも、そうなることで心の平穏を感じている。作中に示されていたように、サミュエルL・ジャクソンにとってキングコングもベトコンも同じなのだ。

 それに対し、ジョン・C・ライリーは敵と味方という概念を越えてしまった存在だ。彼は生き抜くために敵国の兵士と手を結び、ともに協力する道を選んだ。もしもサミュエルL・ジャクソンがそれを知れば、必ずなにか言うはずだ。「それでも軍人か」と。サミュエルL・ジャクソンにとって、軍隊とは「敵」を殺し、「戦死者たち」に報いる存在なのだ。

 だが、ジョン・C・ライリーは既に軍人ではない。軍人は、軍人でなくなることができるのだ。そういう世界に生きていくことができるのだ。

 そういう風にあの二人の関係を描けていたら、出汁の一つにはなったかもしれない。

 

キングコングの出方は悪くない

 いきなり登場する、というのは嫌いじゃない。そもそも、CMで普通に登場している怪物を出さないでいると、「まだ出てこないのか」とか「体の一部だけしか見えなくてまだるっこしい」という風に感じてしまう。『GODZILLA』くらいのネームバリューになるとそれもいいのだが、『キングコング』でそれをやってしまうと、物語がだれてしまう。今作は、いきなり顔のドアップが出てきたかと思えば、もう普通に夕日をバックに立っていたりとなかなか威勢がいい。なか卯松屋に来た気分にはなるが。まぁ、映画の出来もなか卯松屋の料理くらいのレベルだったとは思う。全然まずくはないし、お金を払って食べる価値はあるので問題はないが。

 

・良くも悪くも昔の特撮映画っぽい

 というのは、コングとの距離感がそう思わせたのだと思う。コングと人間は、いつも結構近くにいる。そのくせ、登場人物が巨大な生き物の近くにいる、という演技や演出を余りしない(鼻息に目を閉じるとか、髪が巻き上がるとか)ので、なんか凄い作られた絵感が出てくる。それが悪いわけではなく、オールドスクールな作りにしたい、という思いがあったのかもしれない。あと、ヒロインの横でヘリコプターがコングの手より落とされ、爆発炎上するシーンがあるが、ヒロインは微動だにしない。爆風で倒れたりしないんだ、と思った。

 昔のきぐるみのように、巨大な何かがここにあるわけではない、という感覚を久しぶりに味わえて面白かった。

 あと、島が狭いからか、しょっちゅうコングが出てくるのも、昔の『ゴジラキングコング』っぽくて面白いな、と思った。なんか距離感が短いというか、小さいというか。

 

・最後はアレは何?

 なんか、あの状態でヘリが来たら「あいつらまた来やがって!」とブチ切れてヘリ落としそう。

 もしくは、あのヘリの人達からしたら「やべーやつがいる! 攻撃しないと!」となるから、主人公たちはよく帰れたものだ。

 

 

 まぁ、大きい画面でアトラクション的には楽しめるので、面白く無い訳じゃない。でも、考えぬいてできた作品ではなさそう。

 今後も色々な怪獣を出すつもりらしいけど、ちょっと厳しいかな、という印象。

【ネタバレ】夢追い人への祝杯~『ラ・ラ・ランド』を観て~

 

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 『ラ・ラ・ランド』を観てきました。

 後半はずっと泣いてました。というか、『シティ・オブ・スターズ』を二人でデュエットするシーン以降は、もう涙を止めておくことは難しかったです。

 

・ダンスシーンが格好良すぎて泣いた

 この映画は、一応はミュージカル映画なので、全編的にダンスが用いられているわけだが、どれもが格好良すぎて涙が出そうになる。というか、本当の最初の渋滞シーンでドラム隊が出てきた瞬間、格好良さと多様性入り交じるハリウッド的美意識に打ちのめされて、本当に泣いてしまった。

 最初のあのシーンは、人種も文化もすべてをぶつける場所としてのハリウッドが描かれている。誰しもが夢を見られる場所。その説明として、すごく豪快で、すごく現代的であり、そしてなによりも格好良かった。

 

・二人とも成功してはいる

 この物語の興味深いところは、二人とも映画の最初に抱いていた夢は叶えている、というところだ。ライアン・ゴズリングはジャズクラブを開き(名前は違うが)、エマ・ストーンは女優となった。もしもこの二人が出会わず、恋に落ちなかったら、こんな苦いハッピーエンドになることはなかったのだ。

 ただし、この二人が出会わなかったら、二人とも成功していなかった可能性も高い。ライアン・ゴズリングエマ・ストーンがいなければ、あんなポップスバンドに入ることはなかったろうし、エマ・ストーンも一人芝居をすることはなかった。二人とも互いの人生に多大な影響を与えているのに、まるで歴史に語られることのない敗北者のように、それぞれの人生から除外されている。成功しているのにもかかわらず。

 

・少しずつ勇気が足りなかった

 映画のラスト、ライアン・ゴズリングのピアノに合わせながら、二人が「もしかするとこうなっていたかも知れない」二人の人生を描く回想シーンは、もう思い出すだけで涙が出てくるのだが、あそこに描かれている荒唐無稽で、都合がよく、二人にとってはかなりエゴイスティックでありながら、それでも優しいシーンこそ、この映画の白眉だ。そして「こうなっていたかも知れない」ということは、「現実はこうではない」ということの裏返しなのだ。

 なぜ、こうならなかったのか。回想シーンで幾度も描かれる、現実とは違う選択をとる二人。ライアン・ゴズリングは出会って速攻エマ・ストーンにキスし、ポップスバンドを反故にする。エマ・ストーンは一人芝居を大成功させ、女優の近道を蹴り、それでも二人が大成功する、都合の良すぎる夢物語。

 そうならなかったのはなぜか。それはつまり、二人ともに少しずつ勇気が足りなかった、ということなのだ。二人にもう少しだけ勇気があれば、こうなっていたかも知れない、という甘すぎる認識。勇気とは、自分を信じる、ということだ。自分の才能にもっと自惚れる人間であれば、こうなっていたかも知れない。しかし、二人はともにそうではなかったし、彼らは彼らなりに精一杯生きた結果として、あのジャズ・クラブで再会したのだ。『かもめ』のようにボロボロな姿を見せ合うこともなく。

 その部分において、この映画は本当に夢を追う人たちを讃えている。それと同時に、愚かでもあると言っている。その両面性こそが、典型的な夢追い人であるし、だからこそ涙がでるほどに愛おしいのだ。

 

・特にライアン・ゴズリングに共感

  僕が男ということもあるだろうが、ライアン・ゴズリングの動き、振る舞いが心に刺さった。

 タップダンスのシーンで、すぐ近くに停めてある車を無視してエマ・ストーンと車を探しに行くシーン、映画館でチケットを二枚持ってヤキモキするシーン、そして最後に強がりも含めた笑顔。すべてのシーンが刺さり過ぎた。「分かる!」の連続だ。あるあると言うにはあまりにも辛いシーンばかりではあるが。

 ただ、それらすべてを含めて、最後の笑顔は自己肯定の笑顔であるようにも思えた。そして同時に、エマ・ストーンへの肯定も含めていたのではないだろうか。まさに夢の世界から戻ってきた後、ビターな現実に辿り着いてもなお、「まぁ、この人生も悪いわけじゃないんだよ」と、誠実な笑顔を覗かせる。

 

エマ・ストーンは写し方によっては絶世の美女

  『アメイジングスパイダーマン』のときは「美人か、この人?」と若干思っていましたが、『バードマン』を観て「こんな美人やったか?」となり、今作で「こんなきれいな人いるか?」となる。

 目が大きいので、なんか睨みつけたりするとすごく怖くなるのですが、角度を変えると魔法をかけたみたいにきれいになる。そら売れますわ。

 恋人のアンドリュー・ガーフィールドも良い役に出まくっており、スゴイカップルだなぁ、と思うのだが、二人とも大作に出ながらも変な役も出るので、仲良さそう。このまま末永く幸せになって欲しい二人である。

 

・ライブシーンが素晴らしい

  この映画はダンスシーンが全編素晴らしいので、それだけで何故か泣きそうになったのだが、個人的にはポップスバンドのライブシーンがすごく面白かった。ギャグシーンとして。

 ライアン・ゴズリングが顔をしかめながら弾いてるのとか、エマ・ストーンが「思ってたのとなんか違う」感をすごい出してるのとか、歌詞がもうコテッコテなのとか、全部含めて笑える。何を燃え上がらせるつもりなんだ。

 このライブシーンもそうだが、あまり本意でない演奏を終わらせたときのライアン・ゴズリングの仕草も「はい、おわったよ~」というわざとらしさがあって素晴らしい。

 

 そらアカデミー賞とりまくるよね、という作品。

 楽しくて悲しくて、映画館から出た後は踊りたくて仕方なくなる、そんな映画。

 

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【ネタバレ】忘れられた男たち~『ナイスガイズ』を観て~

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 面白かったです。

 どうでもいいこと書きます。

 

 

ラッセル・クロウのキャラがカッコいい

 太っているのにカッコいい。それは、短い説明で深みまで教えてくれるその人物造型が素晴らしいからだ。

 彼の部屋がやけに象徴的だ。彼の私生活についてはあまり描写されない。妻の不倫により離婚したらしいシーンや、酒だけを箱買いしている以外、彼の私生活は出てこない。寂しさや孤独を表象するような彼の部屋は、ブレーカーをそのまま切って部屋を後にする。部屋のブレーカーこそが、言わば彼のスイッチなのだろう。

  彼の見た目はだらしなく、肥満で、老眼だ。そして、見た目に反して神経質であり、何故か女子供には優しい。しかしその優しさも、どこか狂気をにじませる。

 人の役に立つことが心地よい、と言いつつ、彼がやっていることは暴力そのものだ。もちろん、それ以外にできることがないから、という言い訳も立つだろうが、それはやはり異常だ。主人公の娘に優しい言葉を投げかけるときですら、その裏に怖さを感じる。父親の腕を折った後、その娘に対して全く悪びれる態度を取らないその姿はサイコパスのそれだ。

 この映画は、ただの娯楽映画であると同時に、このサイコパス的な人生を送っているラッセル・クロウ人間性を取り戻していく映画でもある。孤独で非人間的な暴力マシーンが、暴力以外の生き方を再獲得していく映画だ。

 

ライアン・ゴズリングはこういうキャラができるから仕事がもらえる

 エドワード・ノートンとは違うのはそこだと思うのだが、なんとなく、二代目エドワード・ノートン的な存在とはそもそも全く違う人なんだろうな、と思う。

 まぁ、よく考えるまでもなく、『きみに読む物語』で出てきた人なんだから、その通りなんだろうけど。

 エドワード・ノートンも糞野郎を演じさせたら凄い人だが、ライアン・ゴズリングの糞野郎は違う種類の糞野郎ということだろう。キザでニヒルで糞野郎。最高だ。『マネーショート』の役も当たり役だったといえる。

 

・キャラ同士の補完関係

 クズでどうしようもない奴だが、娘には優しく、頭の回転も早いライアン・ゴズリングと、女子供には優しく、一見常識人にも見えるがやはり狂ってるラッセル・クロウ。そして、その間を束ねるアンガーリー・ライスの存在。このトライアングルが生み出す空気感、関係性の心地良さが、この映画をただのB級映画から少し上等なものにしている。

 

・役者たちの素晴らしい演技

 特にアンガーリー・ライスの素晴らしい演技。二代目エマ・ワトソンと言える強気と弱さの融合具合。大人びているものの、純粋さをなくしていない。あまりにも純粋であれば、ラッセル・クロウは離れてしまったに違いない。どこか危なっかしく、生意気なのに、最後の最後には弱さと純真さをのぞかせる。

 

 

・車社会の暗部と、その輝かしさ

 この映画はバカみたいな陰謀論物ではあるが、アメリカの持っている車社会に対してのアンビバレントな考えを表出している。

 この映画は車会社を悪役にしているが、主人公たちが乗っている車は常にきらびやかで、カッコいい。特にライアン・ゴズリングはシーンが変わる度に新しい車に乗り換えているようだ。

 アンガーリー・ライスを助けに行くシーンもそうだ。ライアン・ゴズリングは真っ赤なスポーツカーに乗り込み、さっそうと(それこそヒーローのように)走りだす。そして、アンガーリー・ライスを助けるのは主人公ではなく、どこの誰が乗っているかもしれない、通りすがりの車なのだ。ブルーフェイスを殺したのはラッセル・クロウだが、娘を助けたのは、謎の車であった。それは、何かを暗示しているのかもしれない。

 結局、アメリカを作り上げたのは車なのだ。デトロイトであり、その中で汗水を流して働いてきた男たちなのだ。そして、彼らは忘れられた。

 最後に、結局は車は来るぞ、と言い残す悪役言葉は、その通りだった。

 今のアメリカ社会は、デトロイトの男たちによる革命なのか。忘れるな、という叫びなのか。

 

 

【ネタバレ】僕らの戦争~『虐殺器官』を観て~

 

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 伊藤計劃原作の『虐殺器官』を観てきました。原作は結構前に知り合いに教えてもらって読み、『ハーモニー』や『屍者の帝国』も原作を読み、映画も観てきました。

 連々思ったこと書きます。

 

・別に悪い映画ではない

 原作の面白さの一つである「軍事ガジェット物」としては面白かった。原作でも随所に散りばめられている「そんなんあるの?」と思わせるテクノロジーの数々が描写されてカッコいい。

 ただ、それは原作を読んでいるからこそ分かる部分でもあると思う。原作では地の文(主人公の独白)で語られているため、そのガジェットがどういうものであるかまで分かるが、映像だけになった瞬間、逆に情報量が増えているようにも感じる。情報量ではなく、情報処理量が増えるというべきか。なので「今の何?」と思っている内にストーリーは進んでしまうので、結構取り残されてしまうのではないか、という不安はあった。

 そこを完全に無視して物語に没入しても悪く無いとは思う。この映画の面白さの一部ではあるが、全体ではない。

 

・自由の対価としての平穏という時代に合ったテーマ

 原作は911の時に書かれたものだが、現在でも通じるテーマである。特に、トランプ政権が発足し、欧州でも右翼政権が天下を取る可能性がある現状、こういう一種のディストピア的選択がなされる可能性はある。自由との対価に平穏を求める。そこには一種の正しさがある。そして、そこに対する抵抗も、一理ある。それは作中でも語られる通り、バランスの問題なのだ。

 それ以上に感じ入るのは、こういったビッグブラザー的な平和というものは、便利さを介在して人々に認められるものなのだな、という事実だ。原作では「デリバリーピザ(ドミノピザ)が届く世界」という言い方をしているが、それは管理されるが便利な世界と、不便だが管理のない世界、というものだ。どちらも相応の不自由さがあるのだ。そこで何を対価に便利さを得るか、という天秤をかける時に、人は便利さを選ぶことが多い、というのは現実だ。少なくとも、社会契約論などもそういう見方はできる。

 オーウェルの『1984年』ではあまりその面は語られなかったが、おそらくは就職に便利とか、そういう社会の構造的な面での便利さというものは、意外と人の選択を誘導できるものだ。

 

虐殺器官というものものしい名前と、その正体の理論的正しさ

 正しさというよりも、「正しいっぽさ」とでも言うべきか。この理論自体が正しいかどうかはさておき、少なくとも主人公たちの精神的調整が可能な理由として出て来る限り、物語の中での整合性は保たれている。また、伊藤計劃の作品を貫いている思想でもあるので、ある意味この作品から読まないと『ハーモニー』も、また円城塔による『屍者の帝国』も感動が薄れると思う。

 

・しかしそれは、原作の半分でしかない

 この作品が、少なくとも日本で今のような評価を得ているのは、ガジェットが目新しかったわけでも、テロとの戦争の新しい時代設定が現実的だったからでも、破滅的なエンディングが良かったから、というだけではない。

 この原作が日本で認められた理由は、それらを説明する主人公がオタクだから、という部分だったと思う。というか、それが発明だった、と思う。軍事オタクが戦争に飛び込んでみたらどうなるか、という話をそれなりのレベルでやれた作品だった、ということだと思う。そこに新し目の(MSGっぽい)ガジェットと、SF的な要素が組み合わさることで、説得力を増すことに成功したというより、そういう仕組みがあることを発見したといえる。

 個人的にこの作品が面白い理由は、実はその部分だった。詳し目に言うなら、テクノロジーの発達にともなって、人間は精神的な成熟を経ることなく大人の一員として社会に溶けこむことが出来るようになるが、それが何を生み出すのか、という部分である。

 実は映画ではこの部分がすっぽりと抜け落ちている。というより、原作では地の文そのものが成熟していない青年としての主人公を浮き彫りにしていたのに対して、映画ではそれが出来なかった、とも言える。

 

・母親と父親はカットすべきではなかった

 また、この作品の主人公が成熟していない要因として母親への葛藤があったと思われる。父親の自殺と、母親への安楽死、この2つの要素がそもそもこの主人公には重たくのしかかっていたはずだ。それを全て消し飛ばした後、それでも主人公がカタストロフを起こす要因が見当たるかといえば、特に見当たらなかった。

 主人公は、外面を取り繕ってはいるが、中身はただのマザコンに近い精神構造であるし、自らを成長させるような父親も若くして亡くしている。そして、自らを見続けていると思っていた母親のライフログの中身に自分の姿を見受けられなかった時、主人公にとってこの世界はどう映ったのか。その結果としてのカタストロフである、というのが原作の流れだ。

 映画では、なぜ主人公が災厄を犯したのか、よく分からない。それこそ、ちょっと好きになった美人にほだされて、位にしか見えないというか、それにも見えない。というか、カタストロフを起こしていないのか。映画では結局、最後は曖昧なまま終わっていた。

 

・そもそも、原作自体にムラがある

 ぶっちゃけてしまうと、個人的にこの原作小説は大好きではあるが、名作ではないと考えている。

 というより、伊藤計劃の作品全てに言えることなのだが、結局は主人公は伊藤計劃そのものであり、彼自身が面白いから作品が面白いのだ。彼自身が何を感じ、どういう風に考えたか、があの小説だ。それは『インディファレンス・エンジン』でもそうだし、果ては『蛮族』でもそうだ。

 また、原作では時折飛び出てくるオタク的な引用(ときメモイニシャルDなど)についても、あれは一種の恥ずかしがり屋の伊藤計劃節でしかないが、アレがないということは、作品に伊藤計劃がいないということだ。それでは、クラヴィスシェパードとは何者なのか。あんな人間はいないのだ。あれは伊藤計劃なのだ。

 しかしもちろん、それらこそがこの作品を通俗的で、オタク的で、一言添えないと評価しにくいものにしていると思う。はっきり言って、車が藤原豆腐店のものである必要はないのだ。それが物語の導入として主人公に漢字について語らせる要因になるとしても、必要か否かで言えば必要ない。

 ただ、それがなぜ物語に出てきたかというならば、伊藤計劃には必要だったからなのではないか、と思う。早い話が、そういう人間だった、ということだろう。色紙に「童貞バンザイ(DTB)」と書くような人間が書いた小説である、という意味では、そういうネタを入れないわけにはいかなかったのだと思う。

 つまり、そういう部分なしにこの作品を映画化すること自体が、すこしばかり無茶だったのだと思う。原作には幾度と無く出てくる死の国の幻視など、映画化するにはネックになったと思われる部分こそが、この作品の面白さであり、それを無くしたことで、作品としての面白みの大半を失うことになったと思う。

 

 ・ただ、それでも面白い部分はある

 思想的なものを除いても、それなりの作品に仕上げることができるんだなぁ、というのが最終的な感想だ。

 それはブレード・ランナー(原題『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)にも同じことが言える。原作を読んでみて驚いたのは、あの原作は人間の存在証明や哲学、宗教に至るまで全ての要素が渾然一体となった名作小説だということだ。映画の『ブレード・ランナー』にもその要素がないではないが、どちらかと言うと映像や雰囲気の作品に思われる。それでも好きだが。

 映画ならではの雰囲気物として、またガジェットいっぱいの戦争アクションアニメとしてなら、それなりに深みもあって面白い、と思う人がいるのではないか、と思う。

 もしも気に入ったなら、原作を読むのが良いと思う。だいぶ印象が変わるはずだ。

 

 

【ネタバレ】爆弾でハッピーになったら、次は黒澤映画だ~『マグニフィセント・セブン』を観て~

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 デンゼル・ワシントン主演、アントワン・フークア監督の『マグニフィセント・セブン』を観てきました。

 ボケっと観ながら考えたことを書いていきます。

 

 

・気分はもう西部劇全盛期

 この映画のすごい所はたくさんあると思うが、実際に馬を走らせ、建物を焼き払い、人を沢山一つの画面に出していることが既に凄い。というより、本当に昔の西部劇と同じことをやっている。そして尚且つ、こんなに金をかけてるのに説教臭くない。素晴らしい。

 一応、勧善懲悪という物語の骨子はあるものの、この監督らしいというべきか、それだけでは済まさない何かがある。それはもちろん、この映画の原案でもある『七人の侍』という作品がそうであったからではあるが。

 

・四の五の言わないで戦闘だけ見とけばいい

 この映画の大きな弱点は「主人公たちの動機が薄い」に尽きる。これは『七人の侍』も実はそうなんだけど、そこには大きなギミックがあるからだ。『七人の侍』という作品に出てきたあの七人は、もちろん浪人ではあるが、言わばもともとは侍だったわけで(一人を除く)、つまりは何か(主君)を信奉し、仕える存在を求めていたとも言える。だからこそ、食い扶持を稼ぐため、という目的以上に、自分たちを戦へと駆り立てる絶対的な存在をどこか求めていたのではないか。それが次第に村を救うという動機につながっていく。これは、あの時代の日本という社会構造だからこそ作れる物語だ。だから、あの映画は不朽の名作になっていると個人的には思う。

 それに対して、『荒野の七人』や『マグニフィセント・セブン』にはこの社会的な構造がない。軍隊出身者を置いてそういう風にすることも出来なくはないが、おそらくはアメリカではそういう人は少なかったのだと思われる。みんな根っからの自由主義なのだろう。

 だから、主人公たちはやはり荒くれ者でしかなく、社会構造的な話は少しピント外れになってしまう。『荒野の七人』では、『七人の侍』とほぼそのままに、「最後に勝ったのは農民だ」という趣旨の発言をする。また、途中で「俺はお前のおやじのように、土を耕し、何年も我慢することは出来ない」という、言わば農民への礼賛を口にさせるが、やはり日本における武士と農民との関係と比べると、いじめっ子といじめられっ子の関係のようにしか見えない。

 今作に至っては、その構造への言及すら省いている。ここは英断だと思うし、個人的には賞賛に値する部分である。

 その代わりにこの映画が用意したのは、大量の火薬と血だ。

 この映画は本当に戦闘シーンが楽しい。それに尽きる。7人全員にそれぞれの見せ場がきちんと用意されているし、しかも飽きさせない。

 こういった映画では、必ず最初の大きな闘いは圧勝で終わるものだが、そのシーンでどれだけ観客を引き寄せられるかに勝負がかかっている。この映画はその点でも圧勝だ。イ・ビョンホンがナイフで切り刻み、インディアンは恐ろしい威力の矢を放ち、そして熊のような狩人が、何故か担いでいる銃を使わずに体当たりで相手をブチ殺していく。

 銃を放てば相手は吹き飛び、ナイフを投げれば壁に釘付けにされ、そしてクリス・プラットは妖艶に笑う。それだけで最高の映画だ。時代背景も時代考証もいらない。そういうのが見たければ、黒澤映画を見たらいい。それも最高の映画だから問題ない。

 

イーサン・ホークの魅力

 出演者が全員良かったと言えるが、中でもイーサン・ホークが本当に良かった。と言うよりも、イ・ビョンホンとの、もはやホモセクシュアルな関係すら感じさせる中の良さが本当に見ていて良かった。最後の銃撃戦で、叫びながら塔から銃を撃っている時、楽しさの中に悲哀が感じられた。

 イーサン・ホークを主役にしても良かったくらいだ。ある意味、彼の演じていた人物こそがあの時代に、なにか自分の信じるべきものを求めていた人物なのではないか。戦争が終わり、敗残した後、彼には人殺しの名誉だけが残っている。尊敬と畏怖の念を陰のように従えて、耳元には人を殺した因果がつきまとう。その中で、何も言わず付き従うイ・ビョンホンのような仲間こそが、彼の余生を救ったに違いない。

 そしてそんな人間が、本当に誰かのために、そして自分のために再び銃を握り、戦うというのであれば、それこそがアメリカにおける『七人の侍』になり得たように思う。彼らが信じていた正義、彼らが守ろうとしていた街、全てが終わった後で残されたものが果たして何だったのか。そういう話にもしもしていたら、『荒野の七人』は超えていたかもしれない。というか、デンゼル・ワシントンをそういう話に持って行かなかったのは、個人的には大きな不満。まぁ、私怨の復讐でした、というのはそれで悪くはないし、もはやそこら辺はどうでもいいか、とは思ったが。

 そもそも、『荒野の七人』の主人公も軍人という設定を使う予定だったらしい。なぜ変えたのかよくわからないが、やはりアメリカには合わない精神なのかもしれない。

 

・やはり『七人の侍』って、本当に素晴らしい脚本ですね

 前述した通り、『七人の侍』は不朽の名作であり、あの時代の日本だからこそ生まれた悲しい物語なのだ。それは言い換えれば日本的な作品ということなのだと思う。

 そもそも、あの村を襲った野伏というのも、もとは武士なのだ。つまりは、主人公たちと変わらない存在なのだ。そこについては『荒野の七人』も同じだ。彼らと主人公を分けるものは何なのか。それは「正義」や「大義」と言ってしまえば簡単だが、そう簡単なものではない。自らの持っている信条であったり、哲学であったり、色々なものがあり、その結果として彼らは浪人と野伏にわかれたに過ぎない。そしてどちらも、言わば自分たちが仕えるべき存在を求めているのだ。野伏の場合は、それは本能や、頭目という仮の君主なのかもしれない。主人公たちは、そうなれなかった、言わば半端者たちだったのかもしれない。しかし、その半端な存在(浪人)だからこそ、彼らは人を助けることが出来たのだ。

 そして、どれだけ頑張ってみても『荒野の七人』には出せなかった人物が菊千代だろう。彼の存在は、『七人の侍』の社会問題を大きく取り上げる一因だ。彼はもちろん、武士を容赦なく叩く。偉そうにしやがって、何が武士様だ、と言ってのける。しかし返す刀で、「農民だって卑怯者だ。奴らは自分たちが食う分の米を絶対に持ってるし、蔵を漁れば落ち武者からぶんどった刀や槍をもってやがる」と、これまた農民までこき下ろす。そして、最後には泣き出す。彼が叫んでいたのは、人間という存在が持っている両面性であり、醜くも汚いが、それが生きているということだ、ということに他ならない。これはそのまま、主人公たちと野伏との関係にも似ている。それは人間の弱さであり、同しようもない部分なのだ。

 ただ、その中でも、自分を顧みず、他者のために戦うのもまた人間なのだ。

 『マグニフィセント・セブン』は、残念ながらそこまでの深い作品にはなっていなかった。ただ、それができていたなら、間違いなく歴史的な作品になってしまうので、出来ないのが普通ではある。

 悪くない映画だし、映画館で2017年に西部劇を観るのも一興だとは思う。