ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】敬意をもって生きていこう~『ジョン・ウィック:チャプター2』を観て~

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 キアヌ・リーブス主演、大ヒットアクション映画の2作目『ジョン・ウィック:チャプター2』を観てきました。

 前作も楽しく観させてもらって、今作もすごく楽しめました。キアヌ・リーブスを始め、制作陣のほとんどが「楽しいB級映画を作ろう」というスタンスで挑んでいることが伺える、非常にエンタメに特化している作品だと思います。

 今作は、良い意味でのB級感に加えて、こういったジャンル映画の良さとは何か、ということを、いい具合に落とし込むことが出来ているのではないか、と思いました。

 以下、箇条書き。

 

・1作目からのブラッシュアップ

  1作目については色々な言い方で褒める人はいると思うが、個人的には「ババヤガ(ブギーマン)おじさん」と、やけに打ち込まれる字幕の2つが面白かった(両方共ババヤガおじさんのシーンやないか)。そして、それが今作にも生かされているのが笑えた。

 きちんと映画の最初の方で「ババヤガ」とか言ってくれるし、手話の敵役がいたことで、ずっと字幕が使える。ここまでして字幕を使いたいか、と笑ってしまった。カッコいいんだけどね。

 あとは、全体的な世界観の深みを、より説明していることで2作目として面白さの持続が出来ていることは感心した。世界観の作り込みは前作の良い点の一つだったが、今作はその部分を掘り下げ、発展させたことで、凡庸に終わらせる2作目とは違う、きちんとした脚本になっていると思う。その世界とは、殺し屋たちの世界であり、そしてその殺し屋たちを支える人間たちの世界だ。

 やはり、007シリーズでのQのように、殺し屋たちが使うおもしろガジェットや武器を開発、調達する人間は、それだけでキャラクターとして面白い。色々な幅(階級であったり、人種であったり)をもたせることができるし、演出の仕方も遊べるのだと思う。

 今作、ジョン・ウィックがローマで仕事を頼む、様々な人間たちはまさにその面白さに満ち溢れている。このシーンは、銃撃戦のシーン以上にワクワクさせる、この映画の白眉だと思うが、同時進行で色々な資材(武器、情報、防弾服)を調達する場面を見せているのだが、そのシーンに出てくるジョン・ウィックの相手が全員魅力的だ。例えば、1人は古ぼけた古書店?のオーナーであったり、1人は服屋か紡績工場のおばちゃんであり、更には高級テーラー。それぞれが隠語を使ってみせたり、それぞれの仕事の仕方、それぞれの流儀を感じさせることのできる、素晴らしい演出だと思う。

 そして、誰しもが最後にジョン・ウィックに声をかける。「良い狩りを」など。プロフェッショナルさがある。最後の方はギャグになるほど。

 

・これ一作で語ることはできないし、したくもない

 今作は、前作の『ジョン・ウィック』が予想以上に売れたことで作られた、言わば「ご祝儀」である。もちろん、今作なりの面白さはあるが、それもやはり前作の中にあった要素をクローズアップしたものであって、今作だけの良さかといえるかは微妙である。

 ジョン・ウィックをもう一度観たい、ジョン・ウィックのいる世界をもう一度味わいたい、というファンに向けたサービスであり、その世界観を作り上げた制作陣に対するボーナスであったように思う。

 

・『ジョン・ウィック』の魅力

 当たり前の話だが、この作品の面白さはジャンルムービーとしての面白さもあるとは思うが、やはり大きな魅力は、主演がキアヌ・リーブスである、という点にあると思う。

 というのも、『ジョン・ウィック』という作品が出る前(今でもそうかもしれないが)、キアヌ・リーブスという俳優の評価は高いものではなかった。『スピード』や『マトリックス』の成功があったにも関わらず、近年はビッグバジェット作品ではことごとく外し、演技もできない大根で、時々変わり者の一面でネットを賑わすくらいの俳優だった。それが、『ジョン・ウィック』の主人公と、面白いくらいにマッチした、ということだ。引退まではいかなくとも、俳優としての旬は過ぎた、と誰しもが考えていたわけだ。

 ジョン・ウィックというキャラクターの魅力は、そういったキアヌ・リーブスが「キアヌ・リーブスであり続けた」ということが全面に出てきてるが故の魅力である、と思う。これはもはや、セガールやジャン・クロード・ヴァンダムと同じ世界に片足を突っ込んでいると言える。ヴィン・ディーゼルも似たような存在で、そちらの方が似ているかもしれない。

 

・至高のドタドタ感

 例えば、映像的に非常に作り込まれている中で、実はそこまでキアヌ・リーブスの立ち居振る舞い自体は、洗練されたものではない。「ガン・フー」という名前で呼ばれる、銃と肉弾戦の組み合わせも、わりとドタドタしていて、格好良く敵を次々殺していくというよりも、なんとか頑張って大勢の敵をなりふり構わず倒している、という風に見える。それが悪いわけではなく、元ネタ?というか、銃撃戦と近接戦闘を組み合わせた戦闘術である「ガン=カタ」(『レベリオン』で出てきたトンデモ武術)と比べて、より泥臭く、よりリアルな戦闘スタイルは、確実にこの作品の良さにつながっている。

 このドタバタ感は、リアルさを出すことにも寄与しているし、ジョン・ウィックというキャラクターが一度は引退した人間である、ということを表現しているようにも見えるし、尚且つ、キアヌ・リーブスっぽさすら表現しているようにも思う。と言うより、今までのスタイリッシュな映像の中で、格好良く決めポーズをとっていたキアヌ・リーブスが、本当の姿を見せているのではないか、という感動がある。

 まぁ、実際の所どうだかは分からないのだが、色々と漏れ聞こえてくるキアヌ・リーブスの生活を総合すると、どう考えてもちょっと天然というか、どんくさそうな人だな、という感想を個人的には持っていた。なので、ジョン・ウィックのどんくさそうな動きは、すごくしっくりと来た。

 それが感動した、というのは1作目に対する個人的な評価だ。そして、2作目もそれは変わらない。

 ドタバタと、現実に対してなんとか対処していくその姿は、映画俳優キアヌ・リーブスの生き方と同じだからだ。

 

・物語としての面白さ

 この作品の根幹となるような言葉が、今回敵より出て来る。それは「ジョン・ウィックは、復讐をしたいだけだ」というものだ。ありがちながら、面白い話だ。そして、復讐するという精神は、動物には本能的に備わっているものだ。

 そして、人間だけがその復讐という本能を、社会との契約によって縛られている。野生の動物、群れを作る動物にももしかしたらあるのかもしれないが、人間は掟や法律を作ることによって、復讐の連鎖を終わらせようとしてきた。有名なハンムラビ法典などは刑法であった。目には目を、しかし、それ以上のことは許さないよ、というものだ。

 しかし、それが足かせになることもある。それは別に、社会全体からしてみると、その個人が我慢をすればいいことだ、とも言えるかもしれない。しかし、世の中には掟や法律では縛り切ることの出来ない「怒り」もある。それと同時に、そういった「怒り」を覚える相手も、存在するということだろう。

 『ジョン・ウィック』1作目が出た時の「犬でここまでやるかよ」という言葉は、それ自体はギャグだが、真面目に考えてみると、人が何を大事にしているかは、他人にはわからない、ということだ。例えば、今作の宣伝では「犬の次には家を焼かれた」とあるが、実は家ではなく、家の中にあった妻との写真であり、思い出を焼かれたことが復讐の動機となっている。今作冒頭の、車を強奪することも同じである。

 他人の心はわからない。だからこそ、一定の尊敬を誰に対しても持つべきだな、というのが個人的な感想だった。というか、こういう映画を見るたびに思う。『イコライザー』とか。マッコールさんに勝てるやつなどいないのだ。

【ネタバレ】ドラマで見たい~『SCOOP』を観て~

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 大根仁監督、福山雅治主演の『SCOOP』をDVDで観ました。観る前から評判自体は聞いていたので、安心して観た、ということではありましたが、予想を軽く裏切る終盤の展開に、本当に驚きました。

 リメイク元を観ていないので、リメイク元からあのラストだったのかは分からないのですが、結構唐突に打ち込まれたので、よくわかんないけどやられたな、という気分でした。

 以下、徒然と書きなぐります。

 

 

福山雅治は良かった

 いじわるな言い方をしてしまうと、二階堂ふみを除いて、役者陣は全て良かった。福山雅治は、ある意味でガリレオとか、ああいうキレイな役柄よりもこういった粗野な役の方が真実味があって良いと思うし、そもそも、これくらいの妙齢のイケメン役者たちには、シモネタ全開のおっさん役をやらせておけば、だいたいハマると思う。オバサマ方に「あのましゃが!」とか言わせておけば、まぁ、身も心もガッツリなんじゃないですかね。

 吉田洋さんも、そこまで変ではなかった。思い返すと、ちょっと大根だったようにも感じるけど、ああいう感じの人もいるよな、とは思う。

 と言うのも、二階堂ふみを除いて、大体の人物が、各々の鋳型とでも呼ぶべき人物造型がしっかりしていた、ということが良かった理由になると思う。それに対しての配役も同様に、しっかりと考えられていたと思われる。そのため、映画全体を通しての、人物像系の違和感というものはなかった。二階堂ふみを除いて。

 これはつまり、逆の意味になる。二階堂ふみだけが、ちょっと鋳型が歪んでたというか、あんまりきちんとした鋳型に入れてもらえなかったんじゃないだろうか、というのがあると思う。

 

・裏側を映さない

 この映画の良い所は、テンポが凄く良いところだと思う。映画というのは引き算の芸術なので、何を見せて、何を見せないか、というところに面白さの妙がある。近年、超大型テレビドラマが躍進を遂げているからこそ、その芸術性がクローズアップされているように思われる。どれだけ長くても、物語を3時間以内に、きれいにまとめ上げなくてはならない、ということだ。

 その点、大根監督はその資質は非常に高いように思う。各人物の人物造型をきちんとすることで、あまりその人物について深く語らなくても「多分この人はこういう人だよね」と観客に分からせることができる。チャラ源なんかは完璧にそうで、あの人自身が映画内で何をしているかは、全く明示されていないにも関わらず、観客は彼が情報屋で、だからこそあのキャラで、ということを了解する。お金の受け渡しの下りなど、人物描写として使い古されているからこそ、最短で観客に「あ、こういう人ね」と分からせることができる。(これはもちろん、お約束すぎてつまらない、という風にも言える。ただ、映画というのは、その性質上サンプリング的な手法が突き詰められていくのかな、とは思う。)

 吉田洋が首にタオルを巻いているのも、良い演出だなぁ、と思った。女性であれをしているだけで「あ、この人、現場っぽい」と勝手に観客が考えてしまうのだ。

 人物描写を最短で行った後、映画は小気味よく進む。ポンポンと事件を小気味よく起こし、矢継ぎ早に成功シーンを入れる様は、どこか『スカーフェイス』にも通じる。一種の成り上がり映画としては、やはりモンタージュを入れるとノリが格段に良くなる。非常に面白いし、見ていてテンションは上がる。

 しかし、ここでは反面として、本当の意味での人物描写というものは、少しおざなりになっている面もある。それは人物描写というよりも、内面描写である。

 例えば、今作の福山雅治のような人物はもちろんいる。世の中には、たぶん複数いる。しかしながら、彼らが皆同じか、というとそうではない。マクロ的に見たら似たり寄ったりに見える彼らも、ミクロで見てみると、やはりそれぞれの悩みがあり、葛藤があり、そして信念がある。そこについての言及をもう少ししても良かったのではないか、というのは今作に対する、ちょっとした不満である。テンポが良いゆえに、語りきれなかった部分でと思う。ただ、二階堂ふみについては、しなくてはならなかったのではないか、と思う。と言うのも、今作においては彼女こそがキーポイントであり、彼女がこの物語の舵取りをしているからだ。なので、彼女が舵を取る理由があやふやだと、焦点がぼやけた映画になってしまう。

 

二階堂ふみが何をしたかったのか

 彼女が何をしたかったのか、ということに対しての言及が少なすぎたことは、大きな不満である。彼女は、最初はファッション関係の記事を書きたくて記者になり、流れ流れて、パパラッチをするようになった、という人物である。そんな彼女が、強姦殺人犯に対して「わかんないけど、こいつこのままでいいんですか!?」と言うのが、少し分かりにくい。彼女はそういうことに対して、何かを考えているような人間だという描写は全く無いからだ。例えば、世間一般の意見としての義憤である、としたら、やっぱりそれは二階堂ふみの人物造型があやふやになるわけだな、と思われる。世間一般、という人間はいないからだ。

 一応、福山雅治をきちんとした写真家に戻したい、という動機はなくもないのだが、だとしたら会議でああいう風に言い出す必要はないのではないか。あそこでは黙っておき、後で「もしかすると、あの事件がきっかけになるかも」と考えさせればいい。

 

・構成の見直しが必要だったのではないか

 この映画は、大きく分けて三部構成になる。一部はパパラッチ修行、二部は松永事件、三部はチャラ源、となる。

 新兵物、成り上がり物としての面白さは一部に集約されており、映画全体で観ると長すぎたようにも感じる。ここを少し短くしておいても良かったのではないか。

 そして第二部の松永事件への流れはスムーズではあったものの、上述した二階堂ふみの動機不明により、あんまり人物の考えがよくわかんないまま、映画自体は凄く盛り上がっていく。もちろん、それぞれの物語自体は凄く面白いし、実際に凄く楽しかったことは言うまでもない。

 そして、三部へのジャンプは、あんまりにもいきなりすぎて、結構驚いた。「え、こんな話にするの?」と、腰を浮かした。(リリー・フランキーのシャブ中演技については、実際のシャブ中の方を見たことがないのでうまいかどうかは分からないが、怪演という意味では、凄く良かったと思う。)

 この三部についても、二階堂ふみの動機不明と同じことが言えると思う。チャラ源の心理描写に時間を割いていないため、やばい奴がもっとやばくなって銃振り回した、というだけにしか見えない。

 はっきり言って、この状況自体は非常に凄惨な状況だと言える。特に福山雅治にとっては、人生の中に顕現した地獄のような瞬間だと思う。ただそれは、身の危険という意味ではなく、自分の恩人であり、親友である人間が、もはや自分の知っている存在とかけ離れてしまったのではないか、という瞬間である。ここまでの状況じゃなくても、普通に生きている中で、旧友の変貌した姿を見て同じような状況になる人間も現実にいると思う。

 それは福山雅治の物語である。そしてそれは裏返せば、そこまで落ちていってしまうチャラ源の物語も、たしかに存在しているのだ。そこについての言及が少ないから、「なんか分かんないんですけど」となってしまう。別れた妻の話とか、もっとしてほしかったな、と。

 

・ドラマでやったらちょうどいいんじゃない

 映画にする上で、あまりにも要素が多すぎたのではないか、と個人的には思う作品だ。二部までのもので、二時間半で作れば、もっと良かったのではないかな、とは思う。チャラ源のところまでやるなら、1クールのドラマでやったほうが良かったのではないか、と感じた。そうすれば、人物描写もきっちりできて、尚且つ類型化されない人物として二階堂ふみも描けたのではないか、と思う。

 

 

・道徳的な週刊誌の意義

 この作品では道徳的な物語は全く語られないし、滝藤賢一が「犯人にも人権はあるんだよ!」と叫んだが、それに対する答えはないままだ。加害者の人権というものについてどういう風に考えるかは、観客個々人の問題ではあるが、あまりにもそれについての言及がないのはどうだろうか、と思う。(語っていないわけではないんだけど)

 最後の福山雅治が撃たれる写真を使うかどうかも、正直言って「写真家としての尊厳は」みたいなこと言い出してたけど、正直それで説き伏せられる方もどうかと思う。だったら、もっとちゃんとしたとこに持っていけや、とは思った。週刊誌の紙面に飾っていいものかどうか、という話だ。

 ここでは抜けているのは、週刊誌というメディアがどういう立ち位置をとるべきか、という問題だ。それについて語っている部分もある。各記者が「昔は事件とかについてもよく記事にしていたし、編集長も賞をとってた」と、口々に過去の栄光を話していた。それに対して滝藤賢一が「今の読者が求めているのはグラビアで袋とじなんだ」と、ある意味で自嘲気味に吐き捨てる。で、これについて吉田羊は、なんか皮肉を言うし、二階堂ふみは、何を思ってるかも分からない。(個人的には、グラビアの方が、パパラッチよりもマシな気がする。女性の権利的な意味で言えば、グラビアが道義的に正しいとは思わないが、他人のプライバシーを有名人だからという理由で隠し撮りし、公衆の面前で公開し、複数の人間の人生をメチャクチャにして金を儲けていることに比べればマシに感じる。こればかりは個人の嗜好にもよるが)

 最近、文春であったりが色々と特ダネを引っ張ってきたりしているが、彼らのやっていることがジャーナリズムというものかは疑問だ。じゃぁ、重大事件の犯人の顔をすっぱ抜く、ということがジャーナリズムなのか、というとこれもまた疑問だ。罰を与えるのは、あくまで司法であり、それ以外の人間が、社会的に加害者を罰することがまかり通ってしまうと、社会的にはよろしくない。というより、それは私刑でしかない。その片棒を担うことがジャーナリズムなのか、という話だ。そして、それで金を稼ぐ。ということがどういうことなのか。

 もっと踏み込んで言うと、告発という行為自体が、ただの正義と言う言えない領域に存在している。

 それについては、『凶悪』という映画で、より大きなテーマとして描かれている。あれもリリー・フランキーが加害者として出てくるわけだが。

 『凶悪』という作品、及び原作においては、週刊誌という媒体の利点も明記されている。それは、新聞と比べてフットワークが軽い、という点である。新聞記者は、基本的には「起きているかどうかもわからない事件」は、追跡することはできない。それに対して、週刊誌というものは(会社の判断はあるにせよ)「どうやら事件っぽい」というものを取材し、記事にすることもできる。また、『凶悪』という作品は、獄中の殺人犯が告発する、という内容でもあったため、週刊誌でないと話も聞いてくれない、という状況はあったのだと思う。

  しかし、『凶悪』で主人公が行った告発は、ある意味で正義であった、とも言える。しかしながら、それをしたことで、彼もまた一種の加害者になったのだ。それに対して、主人公は苦悩する。自分が行ったこと、それが果たして正義なのか。それとも、ただの自己満足でしかないのか。

 二階堂ふみや、福山雅治は、そういった悩みを全く持っていない。ただ数字として、発行部数が職場に貼り出され、大塚愛を熱唱する。もちろん、そうすることで、この業界の欺瞞を浮き彫りにしている、とも言えるが。

 

 ただ、そういう裏を勘ぐらずに、普通に楽しんで見る映画としては、全然悪くない映画だと思います。

 ましゃの汚い演技も最高だったし、なによりも二階堂ふみの濡れ場(下着着用)もある。これ以上に言うことはない。

【ネタバレ】僕らの行いと僕らの解釈~『ハクソー・リッジ』を観て~

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 メル・ギブソン監督、アンドリュー・ガーフィールド主演『ハクソー・リッジ』を観てきました。非常に楽しみにしていた作品です。

 メル・ギブソンらしい過剰なまでの残酷描写と、その中にある人間の優しさというか、気高さというか、悲哀に満ちた一作だと思います。物語自体は一本道なのですが、語っているテーマ自体は非常に分かりにくいというか、多種多様な語りが可能になるのではないかと思いました。僕は凄く楽しかったです。

 後は徒然、書きなぐります。

 

・戦争シーンに関しては言うことはない

 映画館で見て本当に良かった、と思える映画は多い。それは2つの意味があって、「この映画、映画館で見てるからまだ面白いな」というものと「この映画、映画館で見たら、家で見るより最高だぜ!」の2つだ。

 この映画はもちろん後者だし、それこそ爆音上映とかで見てみたい。『プライベート・ライアン』を越えた、という宣伝については、言い過ぎかどうかは分からないというか、ああいう言い方はあまり好みではない。ただ、メル・ギブソンが撮った映画には、必ず地獄のシーンがある。それは人によってこの世に顕現した地獄だ。この映画は、その地獄のシーンが長いだけだ。感覚が麻痺してくるほどに。

 

ヒューゴ・ウィービングは好きです

 個人的には、『V・フォー・ヴェンデッタ』での怪演というか、超絶演技が大好きな役者である。今回も、その声の演技が随所に見られて気持ちよかった。メガトロン様でもあるし。

 

・みんな優しい

  この映画に出てくる軍人たちは皆優しく、ドスを心の底からは憎んではいないように見えた。ドスに対して厳しく当たるときですら、どこか優しさの片鱗を匂わす。例えば、ブートキャンプ中にスミッティが「俺を殴れよ」と頬を差し出す時、そこには「早く仲間になれよ」という、一種の勧誘の意識すら見えた。周囲の軍人たちも「なぐっちまえよ!」と言いつつ、ドスを否定せずに、仲間へと勧誘している。また、重労働を課すように命令されている軍曹は、その悲壮な姿に感化される。

 ある意味で、ここの演出は戦争映画的ではない。戦争の非常さを描く上での、軍人同士の友情は、基本的には艱難辛苦を共にしたことによって生まれる連帯感を指す事が多いからだ。そこには、もちろん皮肉も含まれている。人間的でなくなったものたちが、人間的な何かを求めている、という皮肉である。しかしながら、ドスはそれを否定している。ここから分かるように、この映画は戦争映画の皮を被った宗教映画であって、言うなれば『パッション』を戦争映画でやり直した、とも言える。

 

・ドスは狂人だが、狂人でないものなどいない

 ドスは「神の声なんて聞こえない。俺は狂ってない」と言い切っているが、もちろん彼は彼で狂っている。ただ、狂い方が他の人間とは違うだけだ。

 戦争というものは、国家であったり、個人であったり、色々なものを狂わせていく。それは、ドスの父親も同じだろう。彼もまた、戦争によって狂ってしまった人間の一人なのだ。そしてもちろん、軍人たちも狂っている。

 ただ、ドスは戦争によって狂ったのかというと、じつは少し違う。ドスはその前から狂人であった。言うなれば、狂信者だろうか。

 冒頭の車事故の現場での対応や、その後の立ち居振る舞いは、正しいことをしているはずなのに、どこかその行いに狂気が滲んでくる。ここでアンドリュー・ガーフィールドの演技が本当に素晴らしい。その演技は、どこかメル・ギブソンを彷彿とさせる狂った演技だ。どこかが先天的に抜けてしまっている、天使のような狂い方を、過剰なまでの笑顔で表せている。

 

・宗教的、哲学的に生きるということ

 「人は哲学を教えることはできない、哲学することを教えうるのみである」というのはカントの言葉だが、カントの哲学はキリスト教に深く根ざしている。宗教において、非常に重要な要素となるのが「行い」であることは、当然過ぎて言うまでもないことだが、それが一番忘れられていることでもある。というよりも、「行い」というものを一義的に見すぎる、ということが問題になると思われる。

 この映画に出てくる言葉と行為は、非常に重層的だ。「殺す」ことが、女子供を「守る」ことだと言うし、人を「殺さない」ということは、仲間を「殺す」ことになる。ここで分かることは、どちらも正しいということであり、それを分けるのは解釈でしかない、ということだ。そして、それを決める人間は皆狂人であるのが世の常だ。ジョージ・オーウェルの世界が、この世界と地続きである証拠でもあるが。

 それはまさに、映画の最初にふざけて崖の上で遊んでいた子供が、成長してからは崖の上で恋人とキスをし、そして人を助けるために奔走する、という ことと同じだ。

 崖の上で何かを行っている。そしてそれを見上げる人が「狂ってる」と言うか、「人を命がけで助けている」と観るか、どちらかでしかないのだ。

 そして、当のドス本人にとって、戦場で彼がとった「行い」とはなんだったのか。この映画はそこに大きな余白を残している。彼はただ、命を救おうとしただけだ。崇高な信念があったといえるかもしれないが、彼の行った行為は、血みどろになり、生き残るかどうかもしれない人間たちを崖からおろしただけだ。彼にとっては人の命を助ける、ということが宗教的な行いであり、生き方であったにすぎなかった、とも言える。

 わかりきっていることだが、「行い」自体に善悪はない。例えば、ドスが助けようとした人間は、全員が助かったわけではない。また、助かったとしても、五体満足で帰れない者もいた。不具の余生を過ごさせることを呪う者も出てくるかもしれない。また、五体満足な兵士は、再び戦場へ投下され、誰かを殺すことになる。つまりは、新たな死者をドスが産んだことになる。

 それを理由に、彼を偽善者だと罵ることは、可能である。可能か否か、と問われれば可能である。しかしながら、「行い」というものはそういうものだ。この映画において、ドスは大事なことは何一つ口にしない。彼自身、自分の「行い」に対しての答えなど持ち合わせていないからだ。ドスにできることは、ただ自分の信念を曲げること無く、生きることでしかない。そして、誰かに「それは間違っていないか?」と聞かれた時、ドスのように迷うこともまた、大事なことだ。それこそまさしく、宗教的に生きる、ということなのかもしれない。迷うことができるからこそ、生きる事ができるのだ。そして、宗教的に生きるということは、難しいことであるが、誰にでも開けている、ということだ。

 

 メル・ギブソンらしい、豪快で残虐ながらも、それでも人生の大事なことは何か、と考えさせてくれる良作。

【ネタバレ】褒めるところしかないはず~『メッセージ』を観て~

 

 

 ドニ・ヴィルヌーブ監督作品『メッセージ』を観てきました。同監督作品の『ボーダーライン』がかなり重厚で、現実的な部分とエンタメ部分の融合が非常にハマっていた事に対し、今作はそもそもSF作品ということで、どうなるのか気になっていました。そもそも、原作からして「よく面白い小説にできたな」という感想を持ってしまったような題材を、今度は映画化(しかもハリウッドの大作!)すると聞いたときは「血迷ったか」と本気で心配しました。

 結果としては、エンターテイメントとしても、そしてSF作品としても高い水準でまとまった、面白い作品になったと思います。

 以下、徒然。

 

 

・音の圧

 前作『ボーダーライン』でも顕著だったが、マッシブな低音や、一種の不協和音をBGMに置いていることで、場面場面の緊迫感が異様になっている。また、ヘプタポッドの音声も同じ方向性の音のため、ずっと見られている感というか、とにかく緊張感がずっと持続している。物語の序盤から中盤にかけて、非常に疲れる要因。

 

・原作と比べてエンタメ要素を増やした

 良いのかどうかは別として、エンタメ作品として楽しめるように工夫されてた。そして、個人的には良かったと思う。原作はどこか牧歌的であり、基本的には科学者の宇宙人交流日記的に感じられる。そこからいきなり娘の死や、叙述トリックをぶちこまれて「ほわーー」となったので、それはそれで良かった。ただ、それで3時間保たせるのは無理だと思うので、今回の改変は悪いことじゃなかった。

 ただ、これみよがしなタイムリミット設定や、なんかよく分からないC4爆薬設営など、「ちょっと過剰接待じゃないか」と思ってしまう部分もあるにはあった。

 

 

・娘の死因という、実は重要な改変

 原作と映画の一番大きな改変は「主人公が未来を変えれるか否か」というものだったと思う。

 その改変は、この映画のタイムパラドックス的なクライマックスを演出するためであり、なおかつ主人公が娘を産むことへの決意をより強めるために改変されたと思える。主人公は、言わば神にも等しい存在だ。彼女がその気になれば、大体の不幸は避けることができる。原作ではロッククライミングで死んだ娘だが、そんなことは映画版では起こるはずもない。なぜなら、その未来を知った瞬間(主人公はずっと知っているわけだが)、主人公は止めることができるからだ。だからこそ、彼女が救うことのできない死因を用意した。そして、それでも娘との出会い、娘との生活、生き方を選ぶことが、この映画の素晴らしい感動を生む。

 個人的に、この作品の根幹となるテーマは、最後にジェレミー・レナーが言っていたセリフに集約されている。「不幸な未来を知ってしまったとしたらどうする?」というという疑問に対して、彼は「その時間、一瞬一瞬を大事にしたい」というものであり、映画版では確かにそこが強調されている。

 それに対して、原作ではどうか。主人公は未来を変えれるかもしれないが、変えない。娘はロッククライミングで滑落し、久方ぶりに会った夫と検死を行う。そして、それが娘(あなた)の物語の終わりだ。

 これは原作者であるテッド・チャンの哲学というか、宗教観がそうさせているように思われる。原作、というより原作が入っている短編集をよめば、それがよく分かる。特に、テッド・チャンが神という存在に対してどういう捉え方をしているか、という部分を考えれば、原作の意図が見えてくると思う。

 テッド・チャンにとって神とは、天災や、その逆の思わぬ行幸など、人間にはどうしようもない事象全般を表現しているに過ぎない。つまりは、人間の解釈にしか過ぎない。それは、この映画の宇宙人のようなものである。原作においての宇宙人は、結局来訪の目的が分からないままなのだ。ただ現れて、質問に答えてコミュニケーションをするが、途中で急に消える。理由など分からない。ただ、神とはそういうものだ。

 そして神から得た異能に対して、主人公はただ受け入れるだけだ。夫と離婚することも、娘が簡単に死ぬことも、そしてそれを知ってしまいながらも、どこか客観的に世界を見続けていることも。すべてを受け入れ(しかも原作ではこうなったのは彼女だけではなく、またその未来予知を完璧にすることはできないだろう、という諦めまで吐露している)、それでも生きなくてはならない。しかし、それこそが生きるということなのだ。地獄ではない、この世界で生きる、ということなのだ。

 

 映画版では、テッド・チャンの宗教観はオミットされた。だからと言って、駄作になったのではなく、別の形で良作に変身できたと思う。

 ただ、たまには原作の牧歌的であり、どこか優しい8本足の巨人のことも思い出してあげてください。

【ネタバレ】上品であった~『美女と野獣』を観て~

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 ディズニーの実写版 『美女と野獣』を観てまいりました。

 ディズニー作品の中でも、やはり不朽の名作と言ってもいい作品だと思いますし、そもそも名曲が多い。子供の頃にVHSでよく観ていたこともあり、未だに曲を口ずさめたりすることもあり、楽しみに観に行きました。

 非常に面白かったです。

 以下、箇条書き。

 

 

・これ以上を求めるべきか

 良くも悪くも、ほぼアニメ版の枠をはみ出さず、きっちりとまとめ上げてきたな、という印象。アニメ版と変わっている所は、現代的解釈というよりは辻褄合わせのように感じた。特に、アニメ版では魔女の呪いから10年という月日が流れ、その結果として城が忘れられた、という説明であったが、10年位で忘れるもんでもないだろう、ということで「魔法によって記憶が改ざんされた」という、結構思い切った改変をしていた。それがエンディングでも忘れられずに解消されていたり、若干の伏線にもなっていたので、悪いものではないかな、とは思う。

 また、人種への配慮も完璧であり、もはやあざとさすら感じる。

 城の中のデザインが、なんか時空がゆがんでる感じがあって、おどろおどろしさが増しており、それ自体は凄く良かった。個人的には、FF8アルティミシア城っぽいなぁ、と思って笑ってしまったが。

 

・名曲はやはり名曲

 『朝の風景』から、『強いぞ、ガストン』、そして『ひとりぼっちの晩餐会』など、名曲はやはり名曲だし、最新のCGを駆使した『ひとりぼっちの晩餐会』を始め、アニメ版よりも趣向を凝らした『強いぞ、ガストン』など、音楽シーンについては大満足。というより、『朝の風景』が始まった瞬間、アニメを思い出して泣きそうになるという軽い誤爆

 新曲として入った『Evermore』についても、個人的には凄い名曲だと思う。製作者もそう考えたのか、エンドロールですら流れている。この曲を元に映画を作り直してもいいくらいだ。ただそうなると、全く別の作品になってしまうのではないか、という危惧すら感じた。それくらいの力のある曲だし、文句無しで名曲だ。そもそも、かなり情けない(褒め言葉)歌詞に、ちょっとウルッと来た。

 また、この歌詞にある「ドアを開けて待っている」ということが、後の襲撃への無防備さすらも説明しており、新曲として浮くこともなく、凄く考えられた作品であることも分かる。

 

エマ・ワトソンは良い

 『ラ・ラ・ランド』を蹴って、本作に出演したという話(本人はブチギレ)だが、確かに歌の感じなどは『ラ・ラ・ランド』に出ていても違和感なかったかも、と思った。たしかに、ハーマイオニーツンデレであった。

 最近の、なんか才女っぽい雰囲気で忘れていた。そして、ベルも若干ツンデレである。

 

 基本的に、古典作品を最新映像技術を駆使して作り直した作品としては、そこまで変なことをしているわけではないので、十分アニメファンも楽しめるのではないか、と思う。

 以下は、重箱の隅をつつくような話ばかりであれだが、気になった点の箇条書き。

 

 

・ベルの発明好きはあんまりいらなかった

 少なくとも、魔法側の人間にするんだったら、洗濯機の描写は不必要だったと思われる。

 この描写を入れてしまったことで、文明の進歩に対して開けているはずのベルが、魔法というものに対してすんなりと受け入れすぎているような気がした。

 あの時代に、科学的進歩を信じる、というのは、言ってしまえば新しい宗教を信じていることと同じだ。当時の人達にとって、科学と錬金術、そして魔術の違いなどあまりない。どちらも「異端」だからだ。それは科学を信じていない人間も、信じている人間も、どちらも同じだ。

 原作は、どちらかというと剣や魔法、おとぎ話の世界に夢中であって、新しい科学や女性の社会進出などは関係なかった。だから、どちらかと言うと、村の人達のほうが現実的であり、ベルの方が夢ばかりみている阿呆な娘、というノリであった。

 

・コグスワースの「時計に戻してくれ」発言は微妙

 ああいうギャグを入れることは悪いわけじゃないのだが、ここに来て「見た目で判断している」演出を入れるのはどうかと思われる。この話の土台である、見えない心にこそ美は宿る、という意味で言うならば、あそこはもうシンプルに「みんな良かったね」でよかったのではなかろうか。

 そもそも、心に美が宿るんだったら野獣のままでええやんけ、とは思うのだが。一応「ヒゲ生やすのもええんちゃう」というエマ・ワトソンのフォローはあったか。

 

 

・ル・フウを中心にしたら、とかいう妄想

 彼をゲイとして描きなおしたことは、素晴らしいチョイスだった。物語のアクセントになったし、ただの子分というよりも、彼がなぜガストンに付き従ったのか、という物語の仕掛けとしてよく機能していた。

 そして、彼の描き方も現在のLGBT問題に配慮した、非常に上品な描き方だったと思う。ただのガストンに心酔していながらも、心根は善良であり、物語の後も生きていくキャラクターとしては、そう悪いものではないと思った。

 しかしながら、僕が少し古い人間ということもあってか、もう少し踏み込んでみても良かったのではないか、という思いも浮かんだ。つまり、もう一人の怪物はガストンではなく、ル・フウにすべきではなかったか、という思いである。

 本来、この物語は「中身」の物語だ。人間とは見た目ではなく、その心の美しさこそを問題とすべきだ、というテーマについて語っている物語だ。それがディズニーによって作り直された『美女と野獣』という物語だ。そこでは、野獣とガストンが対比される二者として描写されている。見た目は良いが、中身はガサツで醜いガストンと、見た目は獣だが、実は繊細で教養もある野獣。この二人の対比が物語のテーマと関わっている。

 しかし、この物語を「異端を主軸においた」物語とするならば、ル・フウこそが「異端」であり、街の中で孤独を感じるていて然るべき人間だ。呪われた城で家来に囲まれながらも孤独に過ごす野獣と、明るい村で友人たちと過ごしながらも孤独に過ごす同性愛者のル・フウは、非常に似通った存在だ。どちらも、本当の意味で満たされていないからだ。

 また、どちらも変身願望を持っている。野獣は元の姿に戻りたいと願い、そしてル・フウはガストンのような男になりたい、と願っている。そして、二人ともその願いがかなわない。

 ル・フウの見た目も、超美男子に変えてしまっても良かったな、と思う。もちろん、アニメ準拠のぽっちゃりにすることで、ゲイらしさを強めることは出来ていたが、ここはもうガストンと全く別の、華奢な美男子にするのも良かったのではないか。そうすることで、ル・フウがガストンの真似をする時の悲しさは、笑えないレベルに達する。どうやっても、あの獣のような男の真似ができない。

 この考えに至った理由は、劇中の『強いぞ、ガストン』の時のル・フウの仕草による。彼はその時、アニメとは少し違う挙動を入れている。それは、「お金を払っている」動きだ。彼は、酒代であったり、チャンバラに参加する男や、楽器隊にお金を払っている。おそらくは、それは身銭を切っているのだ。そこまでして、ル・フウはガストンを元気づけている。これはつまり、ガストンのパトロン的なポジションにいるということだ。

 ガストンとル・フウが登場する初めのシーンで、ル・フウはフランス語の諺にも通じていることが明かされている。もしかすると、良い家の出なのか、と思わせるほどに。

 そんな彼が、なぜガストンを好きなのか。それは、ガストンこそが自分とは全く正反対の存在だからだ。教養も、繊細な心もない、ただ腕っ節と男らしさで、村の王のように君臨している彼に、ル・フウはベルとは対象的に惹かれていた。ベルが自分と同じ属性の人間を求めていたことに対して、ル・フウは逆だ。ル・フウは自分にないものをこそ求めた。しかし、それは異端の想いではある。

 そんなル・フウが、ガストンの求めを拒否し、野獣に思いを寄せるベルを見たら、果たしてどのような感情を浮かべるであろうか。

 おそらくは、嫉妬と怒りではないだろうか。社会の通年に合わせ、自らを欺いてきたル・フウにしてみれば、自由に人生を謳歌しているベルは、羨ましくもああるが、もはや嫉妬の対象でしかないであろう。しかも、自分の最愛の人間を棄て、こともあろうに野獣などに惹かれている。これはつまりは、ガストンへの侮辱であり、ガストンを愛しているル・フウへの侮辱でもある。(なお、アニメ版ではないフランス民話の『美女と野獣』において、「嫉妬」は非常に重要な要素である。民話の話には、なんとベルには姉がおり、城に戻らねば野獣が死ぬ、という時に、嫉妬にかられた姉二人によって邪魔をされるのだ。)

 ならばどうするか。それはもう、ベルの愛している世界を壊すしかない。父親を精神病院送りにし、城を焼き、そして野獣を殺す。そうした所で、ル・フウの思いは届くことはないが、そうするしかない。

 野獣との決闘の末、転落するガストン。息絶える野獣と愛を口にするベル。その光景を目の当たりにして、ル・フウは気がつく。そうだ、自分は彼に愛している、と伝えたことなどないのだ、と。そして、この行為に意味などないのだ、と。

 燃え盛る野獣の城の屋根から、ル・フウはガストンの元へ身を投げる。まるで、落ちていく最後の薔薇の花のように。もはやベルも野獣も、そんなことは知ったことではない。ガストンのいない世界で生きていくことなど、彼にはできないのだ。

 

 

 と、まぁ、ル・フウを漫画の典型的な同性愛者にしたら、こうなるのではないだろうか、という妄想をぶち込んでみた。

 正直、こういう妄想をすること自体が同性愛者の方々に失礼だろうし、今作での描き方のほうが上品だと思う。

【ネタバレ】隠されたテーマを探しに~『GHOST IN THE SHELL』を観て~

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 スカーレット・ヨハンソン主演の『GHOST IN THE SHELL』を観てきました。原作の漫画『攻殻機動隊』や、押井守監督作品の『GHOST IN THE SHELL』を、何も見直さず、省みず、ただただ頭を真っ白にして観に行ってまいりました。

 正直、全然面白くなかったです。

 

 

・映像はすごくきれい

 ここに関しては本当にすごかったので、これだけは映画館で観てよかったな、と心の底から思っている。なんというか、家で観たらもっとひどい映画だと思っていたと考えられるので。

 ただ、街の映像は押井守の『GHOST IN THE SHELL』ではなく、『ブレードランナー』に近い、ホログラムを多用したサイバーパンク表現だったことは、少し残念。というか、アメリカ人はあれ好きなんだろうか。押井守の表現していた街は、どちらかと言うと、現在の地続きとしての東京と多国籍文化のハイブリットだったと思うのだが、そういうのはアメリカだとうけないのか、もはや日常的すぎるのか。

 

・やりたいことは分かる

 映像もそうだし、オープニングの義体構築シーンや、最後のシーンで少佐の義体が壊れていくシーンなど、押井守版を原題の実写映像でリメイクした映像などを観ると「こういうのがしたかったのね」と、納得はする。原作ファンへのラブレターというところだと思う。その文面が響いたかどうかはわからない。あまりにも内面を無視した、表層的な恋文に原作ファンがブチ切れないか不安になった。

 最後のクゼ(原作で言う人形使い)との決別も、ある意味ハリウッド娯楽作品として完成させるなら、「そうするよね」とは納得できる。ただ、それだとしたら本当に他の作品と全く変わらないので、「この原作を映画にした意味は無いよね」と冷静になってしまった。全体を通して「俺が押井守版を見た時に感じた感動を共有できない人が作った映画だな」と思った。

 

・これはSF作品として、ちょっと程度が低い

 押井守版と原作は、SF作品である。SFというのはどういう作品かというと、「何かしらの革新的な技術が、人間の世界・思考・構造すらも変えてしまった場合、何が起こるか」ということを表現している作品である。ただ単にカッコいいガジェットがでてきて、楽しい! というだけではない。もちろん、そういうのもないではないけど。

 例えば、この映画がひたすらオマージュを捧げている『ブレードランナー』だって、レプリカント(アンドロイド)という、人間に酷似し、なおかつ意思すらも持つような存在が生まれた時、果たしてどうなるか。そういう思考実験の一つの形であり、そういった作品群の一つなわけだ。そして、原作はそこに「人間とは何か」というテーマ(それは共感できる、ということである、と)も入れていた。映画はそこまで語ることは難しかったが、確実にそのテーマを咀嚼した形で提示しようとはしていた。娯楽作品として昇華するために、レプリカントの長台詞があったりした。もちろん、『ブレードランナー』の映画において、ビジュアル面の功績がなかったとは言わない。しかし、確実に思想面の功績もあった。そしてSF作品というのは、思想面が薄くなるということは致命的になる。

 押井守版にせよ原作にせよ、この点は十二分にカバーしているというか、ここの大きさがあまりにも大きすぎる。ネットという存在と、地続きの先に義体化や電脳化というものがあり、そしてその先に「ネットに生まれる自我」というものであったり、だからこその「ゴースト」という概念が重要になってくる。ここまでくると、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と同じ問題が浮かび上がってくる。「人間とは何か」「何をもって人間とするか」という。

 今回の『GHOST IN THE SHELL』で一番の問題は、その問題を全くなしにして、なんかただの企業の悪性であったりに落とし込んで、本来この作品が語るべきというか、語ってもいい問題を蔑ろにしている点にあると思う。はっきり言って、原作が出たのは1989年である。もはやこの作品で語られてることなど、陳腐化していると言っていい(今でも面白い題材ではあるが)。なので、現在の作品群は、そこから更なるひねりを入れて語ることが求められてしまう。しかしながら、原作を忠実に再現する、という目論見で作るなら、そこが甘くみてもらえる。そこまでの捻りを必要としない。だから、衒いなくやってしまえばよかったと思う。

 それでいながら、街にいっぱい出てるホログラムみたいに「これ原作に忠実な見た目ですよ」「こんなの、押井守版にありましたよね!」とか出されても、「この人、あの作品をそういう風にしか観てなかったんだな」となってしまう。ていうか、そもそも押井守版しか観てないんじゃないか。

 

・普通の映画としてみてもレベル低いよ

 じゃ、普通のハリウッド映画として観て面白いか、というとそれも別に面白くない。

 例えば、バトーの義眼も、別にあそこで目を焼かれて義眼にする必要が全くない。最初から義眼でもいいし。何故なら、別に後になって彼の義眼が、物語に影響を一つも与えていないから。

 例えば、(面白いかはしらないけど)そこを元に、スカヨハとバトーとの恋愛というか、仲良くさせるキッカケとかにしても良かったはずだ。ていうか、映画の前の話としてそういう事件があって、二人の関係が「ただの職場の仲間以上」とかになってた方がスムーズだったし、犬の餌やりも、なんかもっと良い感じに描けたんじゃないの?(そもそも、あそこの犬が押井守犬っぽいのも、逆にオタクをイラッとさせるポイントじゃないか? 袈裟まで憎い状態になってしまってるかもしれない)

 あと、そういうことでもない限り、スカヨハが現世に残る意図がよく分からない。あの娘、なんか今の世界でなんか良いことあったか? 「私はここで生きていくわ」とか言われても「え、なんで?」となる。だって別に、スカヨハのこの作品内での人生を考えてみても、特に残る理由がない。母親くらい。でも、あのままで母親とずっと暮らすのかよ、と驚いてしまった。

 あと、あの会社と公安9課(section 9って言ってたけど、一応警察でいいの?)の関係は、なに?

 どういった関係か全くわからなかったので、最初は私警察か何かな、と思ったけど、いきなり首相とかの話出てきたから「あ、公の組織なんだ」と。じゃ、あの関係は、なに?

 観に行った僕の頭があまり良くなかったせいで、多分読みきれなかったのでしょう。そこら辺は、多分最初のトグサのセリフからしても、分かる人には分かる、ということなんだと思う。

 トグサ「お前、なんか変わったな」

 黒人「わかる? 肝臓変えたんだ」

 それ、見た目で分かるか? 俺は絶対にわからないと思うんだけど。

 まぁ、でもそういう人なら、この映画の隠されたテーマをきちんと見つけられると思いました。

【ネタバレ】僕らがなりたい誰か~『ハードコア』を観て~

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 一人称視点映画として注目されていた(?)『ハードコア』を観てきました。

 個人的にFPS視点のゲームについては非常に苦手で、時々かじるくらいしか遊んでいないのですが、そんな自分でも予告編をひと目見て「これはFPS洋ゲーあるあるを詰め込んだだけの映画だろうな」と考えてしまうような、まぁ、オタクっぽい作品になってそうだな、と思いながら観に行きました。

 結果としては、まさしくその通りの映画になったと思います。しかし、凄く面白かったです。色々言いたいことはありますが、映画の始まりから終わりまで、ずっとハイテンションでジェットコースター気分を味わえるので、楽しいと言えば楽しい作品でした。

 以下、考えたことを連々と。

 

・基本的には洋ゲー

 物語、登場人物、全てが予想通りに洋ゲーのままでした。この映画は次から次に事態が進展し、飽きることがないばかりか逆に疲れるくらいですが、それはまさしくFPSゲームと同じだな、と思った。ヘイローにせよ、ハーフライフにせよ、物語をテンポよく進めていくと(ムービーシーンなどは入るが)基本的にはノンストップでゲームが進行してしまう。なので、ゲームに慣れれば慣れるほど、ある意味笑えるほどに物語の進行は早くなる。この映画を観ていて同じような感覚になった。

 

・大佐のようなキャラはよくいる
 あんまり死ななそうで、無駄に強いキャラで、なおかつ主人公の手助けをするようなキャラクターはよく洋ゲーで見る。主にギャグ要員として、ではあるが。フォールアウト3の最後らへんで味方になるゾンビとか強かった。

 

・人間の目はよくできている、という話
 この映画を観ていて、最後の方はかなり疲れてしまったのだが、その理由はなんだろうか。事態が次々と加速度的に進行していくことに加えて、人間が普段の生活で、ありのままに視界を処理してはいない、ということも理由なんだと思う。
 というのも、この映画の冒頭部分で喋れない主人公が首を振る(NOと伝える)シーンがあるが、僕達が首を振るときの視界は、あそこまで揺れてはいないように感じる。少なくとも、対話者がグラグラ揺れて見えるほどには。これはそこまで首を動かさない、というのもあるが、「そういう風に見えている」だけにすぎない、とも言える。つまりは、脳みそがあまり揺れていないようにそれ以外の焦点を外してしまっている、ということだ。
 普段、何気なく道を歩いているとき、人は自分の歩いている道の全てに焦点を当てている(パンフォーカス)わけではない。自分の注意が向いているものにしか焦点を当てないので、それ以外の情報は「見えているけど認識していない情報」となる。それは脳みそがフィルターをかけているということだ。そのフィルターを外すと、人間の脳みそがフル回転し、早い話がすごく疲れる。この映画で疲れる理由はそこだと思われる。
 特に、街なかでパルクールをするシーン(この映画のハイライトの一つ)があるが、そこがすごく疲れる。息もつかせないシーンであるだけでなく、様々な情報を脳みそが処理「してしまい」、かなり疲れる。どうすれば良いのか、と言うとあまり検討はつかないが、よりフォーカスをぼかすなどすればよいのかもしれない。あと、この作品で惜しいと思われる要素の一つに、急なカット切り替えがあった。いきなり暗転し、場面が少し変わっている、というような。パルクールの合間にもあったのは少し残念。技術やお金の問題もあり、非常に難しいとは分かっているが、これどうやってるんだろう、と思わせるような1カットをもっと残せたら、この作品は歴史的な一作になったかもしれない。今でも、十分怪作として名を残しそうではあるが。

 

・物語と映画の構造

 この映画は多分、そこまで脚本と映像に相乗効果をもたせようとは考えてなかったと思われるが、なんかメタ構造になってたように感じる。

 他の人造兵士に主人公の記憶を移して、言うことを聞くようにする、というものだ。つまりは、映画の観客者がそれに対応している。

 ただ、映画の内容としてはそれを若干否定している。自分というものを見失わず、自分の好きな自分になるべきだ、としている。

 となると、この映画自体を否定していることになるが、それはいいのだろうか。シンクロ率100%!とか言ってる割には、シンクロ自体を否定している。

 ただ、この映画の言いたいことを表してもいる。誰にそしりを受けようが、好きなものを好きなようにやる。例え、ゲームを実写でやっただけと言われようとも、やりたいことをやりきる。その精神は正しいし、今後も持ち続けてほしい。

 誰しもがなりたい自分にはなれないし、他の誰かをなりたい誰かにすることはできない。ただ、なりたい何かを目指してもがき続けるだけだ。

 たとえ、血を見る結果になるとしても。