ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】古典的安心感~『ワンダーウーマン』を観て~

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 DC映画の最新作『ワンダーウーマン』を観てきました。

 ジャスティスリーグ作品としては前作の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』であったり、DC映画としては最新の『スーサイドスクワッド』が「うん、まぁ」という出来だったので、今作も同じようなものだったら、という危惧はあったものの、海外の評価は概ね良かったので、若干安心した気持ちで観に行きました。

 ぶっちゃけると、今までのDCシネマティックユニバースと呼ばれる一連の作品群の中では一番面白く、一番普通のアメコミ映画になったのではないか、と思います。

 

 

・本当に普通のアメコミ映画です

 普通にワンダーウーマンが大活躍(アクション的にも頭脳的にも)して、普通にカッコいい音楽があって、普通に世間知らずギャグが織り込まれて、普通に楽しめる。そんな映画。しかも最後には、「愛が世界を救う」だ。

 ただ、そういう映画を作ることも、やはり簡単ではないことは承知しているので、そういう映画を作ったからと言って評価が下がるものではない。だから、今作については、正直本当に良かったと思う。映画館で観てよかったと思うし、ジャスティスリーグもこのノリで行ってくれたらな、と切に思う。

 ただ、DCらしさと言うべきか、最後の戦いは必ず夜だなぁ、という印象。今回も真っ暗闇の中、一面煉獄の炎みたいな感じだったので笑ってしまった。

 

・特に、戦友が増えてからが面白い

 男の戦友が増えていくにつれて、この映画の面白さは増す。それはワンダーウーマンへ「すげぇ!」と言う役者が増えるという意味でもそうなのだが、キャラがそれぞれ立っていることも良かった。サミーアとの絡みは全体的に良かったし、酋長も存在感があってよかった。チャーリーのキャラもすごく良かったが、もうちょっと踏み込んでも、と思うが、尺が足らなかった。

 

・普通のアメコミ映画って

 今までのDC映画は、おそらくは「DCって、大人向けでしょ」ということを考えてしまって、なんか変なことをしてたのではないか、と個人的には思っている。それこそ『スーサイドスクワッド』で監督をデヴィッド・エアーにしてみたりだとか。

 それはどういう勘違いかというと、「大人向け=分かりにくい、咀嚼しにくい」という勘違いだったと思う。正直それって凄い浅はかだと思う。もちろん、ビールの苦味みたいに一口目で「なにこれ」と思わせつつ、何度も試している内に楽しみ方が分かるような作品もあるにはある。ただ、それはハリウッドの超大作でやることではないし、そんな作品をアメコミ映画でやったところで、食合せが悪すぎて、誰も何度も楽しもうとは思わない。

 勘違いしてほしくないのは、所詮DCも「アメコミ」でしかなく、やっぱり大人が読んでたら「え、大の大人が漫画なんて読んでるの?」と言われるような対象だということだ。つまりは、子供向けなのだ。

 マーベルはそこに対しては、全く変なことは考えなかった。普通に子供向け(というか、子供が観ても楽しめるよう)に作っている。ただ、その中で語っている内容で、ちょっと深いところまで視野に入れて作っているだけだ。特に、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などは、(監督が良いということもあるが)あんなにバカっぽくて楽しい作品なのに、そこで語っている内容は「大人であれば、より心の琴線に触れる」ものに仕上がっている。そしてその威力は、飲み込んだ腹の中で炸裂するからこそ、最大限に発揮される。

 DC映画は全く逆で、飲み込みにくい割に、特に飲み込んでも炸裂するわけでもなく、何も残らない。「うん、苦かったね」で終わるだけだ。なんかもう、激辛料理食べる選手権みたいだ。

 それに対して、今作『ワンダーウーマン』はもう、そこら辺全てを取っ払って、ただのアメコミ映画に仕上げている。というか、それだけだ。特に深みはないし、明日へ生きる希望やなにか、というものは全く無い。ただもう、ガル・ガドットが美しく、アクションは豪快で、ワンダーウーマンのテーマソングは問答無用でテンション上がる。

 それ以上はない。ただ、それの何が悪いというのか。もちろん、そこにテーマ的なものを持たせて、物語や人物とのミックスアップを図ることができたら、傑作になっていたかもしれないが、そうでなくても映画として楽しめたら、お金払った意味はあると思う。『スーサイドスクワッド』はそうすべきだったし、そうしなかったのがより評価を下げたと思う。

 

・前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』との不適合

 ただし、別に言いたいことがないわけではない。

 例えば、今作のワンダーウーマンは完全に「神様の子供」である。これは結構、前作で語られていた「神 VS 人間」という構図を根本からぶち壊すものであり、前作でもワンダーウーマンが出てきた瞬間にテーマが音を立てて崩れ落ちたように、「あの作品って何だったんだろう」という思案を映画を観ている内に始めてしまった。

 しかも、スーパーマンは「神」とは言っても、「神(のような存在)」であって、ぶっちゃけると「宇宙人」なのだ。つまりは、今の人類が様々な宗教で象徴している神とは、少し毛色が違うのだ。神のような力を持っている宇宙人なのだ。ここには利点もある。つまりは、宗教的な色が薄いということだ。どういうことかというと、キリスト教の神やイスラム教の神でもないし、仏教の神でもない、ということだ。

 それに対して、ワンダーウーマンは完全にギリシャ神話の神であり、ギリシャ神話で語られていることが史実である、ということになってしまう。つまり、一番偉いのはギリシャ神話になってしまわないか、という危惧が浮かぶ。だからどうだ、という話ではないが。ただ、世界観的に大丈夫か?とは思ってしまう。そもそも、神様を殺したいならワンダーウーマン殺すようにすべきではなかったか、ジェシー・アイゼンバーグ。いや、調べてはいたのか。

 また、今作の終わり方だと、ワンダーウーマンは「人類は愛がある限り救うべきだ」という考えに至った、とのことだが、それって『ジャスティスの誕生』と違うくないか? 前作のワンダーウーマンは「人間なんて救う価値もないし、なんか近寄られると嫌だから関わらん」という態度だったはずだが、なんか色々人助けとかしてたんだろうか。

 個人的に今作の終わり方としては、「ワンダーウーマンは男や世界に裏切られて、前作のワンダーウーマンにつながるんだろうな」というものを予想していた。というか、前作のワンダーウーマンにつなげるなら、そうするしかない、と考えていた。それはつまり、終わり方はスカッとしたものになるはずはない、と考えていたのだが、そうはならなかった。

 これって、もしかすると前作や『スーサイドスクワッド』の批判を受けて、「一作くらいはスカッとした作品つくるか」となったのではないか、と邪推したくなるほどの矛盾っぷりである。もしもそうなのだとしたら、『スーサイドスクワッド』で気がついてほしかったな、というのが正直なところではあるが。

 

・戦友との別れ

 クリス・パインは戦死したのでアレだったが、他の生きている戦友との死別は描いても良かったように思う。ワンダーウーマンというキャラクターは寿命が長いので、そういった人類との交流というものは別れの連続になるしかない。そこを描けていたら、もうちょっと前作に繋がったかも、とは思う。どれだけ愛しても、私を残して去っていく存在、という人類に対して「救う(愛する)価値があるのか」と苦悩するなら、繋がったのではないか、とは思う。そしてこの悩みは、神的な悩みでもある。

 

・ラスボス

 なんか、人間の時の見た目がね、あんまり好きじゃない。ジョンブルすぎ。

【ネタバレ】僕らはあの頃のように走り続けることができるのか~『ベイビードライバー』を観て~

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 エドガー・ライト監督作『ベイビードライバー』を観てきました。予告だけを観てたら「ちょっと明るい『Drive』かなぁ」という感じだったんですが、エドガー・ライト的なユーモアと落とし所があって、全く違う作品になっていました。まぁ、監督としての味が全く違うので当然ですが。

 『Drive』が「美しい映画」なら、本作は「楽しい映画」であり、娯楽映画として誰が観ても楽しく、最後には感動する作品になったのではないか、と思います。

 つらつら思ったことを書きます。

 

・カーチェイスシーンは、少ないが熱い

 本作の主人公ベイビーは「逃がし屋(ゲタウェイドライバー)」なので、もちろんアクションシーンは車を使っての逃走劇、カーチェイスになるわけだが、実はその数自体は少ない。ワイルド・スピードのように車で延々とアクションをしまくる、というわけではない。ただ、出て来るアクションそのものは密度が濃く、よく考えられていてカッコいい。

 また、車のアクション以外でのアクション自体もベイビーのなめらかな動きも相まって凄く良い。実は、この俳優さんの出ている映画は初めて観たのだが、こんなに滑らかでダンスのキレがある役者だとは知らなかったので、驚いたと同時に好きになってしまった。

 

・音楽とのマッチがいい

 これはもう、映画が始まった瞬間、車で強盗犯を待っているベイビーの待ち方からして最高だった。軽快な音楽とともに、色々なものを叩きながらリズムを取り、音楽に埋没している姿にこちらも自然と顔がほころぶ。しかしながら、警察や周りの動きには敏感に反応する。

 ベイビーという名前のとおり、まだ子供なんだな、という印象を与えつつも、確実に仕事をこなす冷徹な大人の側面を織り交ぜる最初のシーンは、この映画の全てを説明しているシーンでもある。

 子供のまま大人の世界に投げ込まれ、そして成長をしきれないまま大人になれと強要される。これは、映画で見ると特殊な事例になってしまうが、現実の世界でもそれほど変わらないとも言える。日本人などは学校を卒業していく過程で、社会というものに慣れ、染まっていくと考えられてはいるが、現実は大学を卒業しても人間としては成長過程であり、言ってしまえばまだ子供である。そして、そのままに大人であることを強要され、そして大人になろうともがく。子供らしさを揶揄されながら。

 ベイビーにとっての音楽とは、子供らしさの象徴である。だから、今の音楽ではなく、昔の音楽を聴く。子供の頃の曲を。

 

・「古典的な理想」と「いまそこにある現実」

 ベイビーとデボラが初めて話すシーンも、個人的にはグッと来た。彼らが話す「車で20号線をぶっ飛ばしたい」という理想は、それこそ昔の若者が映画いていた理想だ。だが、それは現実が許してくれない。このシーンが、大人の言う「昔は良かった」という台詞を聞き続けた若者に、自分には思えた。決して手に入れることの出来ない、だが過去には存在したという理想像。それをそのままサンプリングしたかのような白黒描写。悲しい現実を生きている全ての人間が、ここに共感せざるを得ない。

 

・登場人物の合わせ鏡としての主人公

 この映画の面白い部分に、ベイビーの成長の仕方があると思う。

 ベイビーは映画が進むに連れ、様々なことを学んでいくようだった。そのままではなく、彼なりの解釈をして。それはまるで、人の言葉をサンプリングし、それを加工し、トラックに落とし込むように。周りの大人達から貪欲に吸収していく。

 そう考えると、ベイビーがこんな家業をしていながら純粋さを保てていた理由はなんだろうか。それは育ての親であるジョーとドクという、二人の父親の影響が大きいのではないか。

 映画のラスト、ドクという存在がベイビーにとってどういう存在だったのか分かる。彼もまた、ベイビーを守護していたのだ。ベイビーがジョーに「俺が守るから」と言っている裏では、ジョーが精神的に、そしてドクが身体的に守っていた。

 

・ベイビーは大人になれるか? もしくは、大人とは?

 登場人物の中で、一番大人だったのは誰なのだろうか。それはジョーとドクだろう。それ以外の人間は、それぞれどこか大人になれきれていないのではないだろうか。バッツやバディもベイビーに色々と教えはするが、彼らも大人ではない。

 では、大人とは何なのか。誰かを守れるような存在だろうか。それは古典的な大人の理想像なのかもしれないが、それは現実では難しいのではないだろうか。

 娯楽作品でありながら、そんなことを考えてしまうようなこともあったりなかったりする、そんな作品でした。

 

【ネタバレ】小さなことからコツコツと〜『メアリと魔女の花』を観て〜

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  米林宏昌監督作品の『メアリと魔女の花』を観てきました。

 『思い出のマーニー』は割と面白かったというか、ジブリでこんなことするんやな、という感じだったので、そんな人が魔女物をやったらどうなるか、と思って観に行きました。

 ツラツラ書きます。

 

・子供向けであり、大人向けではない

 ジブリの作品は大人でも鑑賞できるような内容が多かったが、今作品は子供向けであり、大人の観賞には耐えられるものではないと思う。少なくとも、脚本自体はご都合主義というか、あまり筋道立てて考えずに作ったな、という印象。

 

・メアリの表情や仕草がかわいい

 キャラクターの魅力という点では、主人公メアリは可愛かった。特に、絵柄はジブリっぽいのに、表情は今までのジブリ映画には見られない感じのものが出るときなどは、可愛さが増しているように思えた。

 

・映像はきれい

 ジブリらしい背景などすばらしかった。終わり付近の実写のような草木に、ジブリらしい絵柄が被っていくところなど、実験的でもあるが良かった。

 

・忘れられたメアリの成長

 この映画を見ていて残念に思ったことは、メアリがこの事件で何を得たか不明瞭である、という点に尽きる。

 元々メアリは、自分の赤毛を毛嫌いし、それを挽回すべく色々なことに手を出し、失敗していた。一見、そこにあるのは自己嫌悪に思えるが、それは逆だ。彼女は自己愛にまみれている。メアリは自分が、現状の評価よりも高い評価を得るべきだと考えている。だからこそ、理想的でない自分が許せないのだ。そんな彼女に、変身できる魔法は魅力的だったろう。

 その証拠に、彼女は謝ってはいるものの非常に自分勝手に振る舞っている。例えば、黒猫に対してすら「あんたも不幸よね」と失礼極まりない言葉を投げかけていた。その言葉自体は子供らしい身勝手さとも言えるが、そこから成長し、自分自身であるということを誇るようになる、ということがこの映画で語られるべきではなかったか、と個人的には思う。

 多くの子供は成長するにつれ、大きな自己愛から脱却するものだ。そして、他人との相対的な世界に生きていく。その中で、自分さらに獲得していく。そういう要素がないのなら、ここ物語でメアリが得たものは何だったのか、という話になる。

 

 ・魔法は悪者か?

 この映画で更に気に障ったのは、魔法に対する扱いの浅薄さだ。そもそも、魔法世界の描き方が足りない。

 あの魔法大学という所でさえ、出てきた教員は二人だけだ。しかも校長と化学の教師だけ。もっと出さないと、大学と言うにはお粗末すぎるように感じる。学生の数は多いのに、あの二人だけで回しているのだろうか。

 一応、他にも魔法大学は存在して、この大学は特に「変身魔法」について研究が盛んである、という趣旨にはしている。しかし、その理由はあまり明かされていない。というより、最初の「不法侵入者は変身させる」という文言のためだけにやってるように見える。正直、そんな大事な分野なら罰則に使うのはどうかと思うが。

 例えば、あの大学を作った魔法使いが「変身魔法は、必ずや世界を良くする」みたいな精神を持っていて、だからこその大学を作った、とかなら分かる。それくらいにしてくれたらよく分かる。

 ここで自分が何を言いたいかというと、「魔法は使い方によっては便利で役に立つ」ということであり、そこを蔑ろにしたらこの映画そのものが無意味なものにならないか、というものである。

 この映画で目指すべきラストは「魔法世界から、現実世界へメアリが帰っていくこと」であり、そんなことは分かりきっている。問題は、何を持ち帰ってくるか、ということに尽きる。

 メアリがラスト付近で「魔法なんかいらない!」と叫ぶシーンがある。この発言は「魔法がなくてもやっていける!」という意味なのだと思うが、正直あった方が良いに決まってる。ピーターは母親の手伝いをよりできるようになるし、メアリも変身魔法で見た目を変えられるかもしれない。そもそも、メアリが魔法世界から家に帰るためには魔法の杖がないと帰れないのだ。それなのに魔法はいらないなんて、よっぽど子供らしい恥知らずなセリフだと思う。

 別に、このセリフが悪いのではない。このセリフを言わせる準備が足りないことが問題なのだ。

 このセリフを言うためには、メアリやピーターが現実世界を認め、そこで生きていく決意をしなくてはならない。魔法があれば、全てがうまく行くかもしれない、しかし、それでも私は現実の世界を、この赤い髪のまま生きていく、という、決意が必要なのだ。この映画にはそれがない。ただ一方的に魔法を悪者扱いして終わらせている。だが、それは違う。

 確かに、教授や校長は悪人だったかもしれないが、彼らは彼らなりに、世界をより良くしようとしていたことがうかがえる。花の力を使えば、ピーターやメアリでも魔法が使えるようになるのだ。そして、その研究をしていけば「世界が変わる」と言ったのだ。それ自体が悪いことだとは思えない。

 その方法を間違えただけだ。そして、彼らは悪くとも、魔法自体は悪いものではないのだ。というかそうしないと、現実世界へ帰るという選択肢の重さが失われる。

 

・校長と教授の悪の置き方は悪くない。

 常道だと思う。「世界を変えたい」という願いは、ある意味でメアリの写し鏡だからだ。メアリもまた、一歩間違えればそうなっていたかもしれない、という意味で。だからこそ、「彼らを打倒する」=「世界を変えず、自らを変える(魔法無しで)」という物語は分かる。ただし、そこの書き込みがあまりにも足りないというか、分かりにくい。

 

・「大きな力には大きな責任が…」と言いたいのだろうか

 ラストのシーンは、おそらくは原子力発電所の事故を思い起こさせる意図があったのだと思うが、そこまで盛り込んだら分かりにくさが増すだけではなかったろうか。入れるなとは言わないが、もっと入れないといけない話を捨ててまで入れると「いや、逆効果なんですけど」と思ってしまう。

 この話はもっと卑近なものだ。というより、矮小なものだ。一人の女の子が、自分の髪の色を気に入る/許すまでの話だ。そこを蔑ろにして、ベンおじさんのあれはないと思うが。

 

【ネタバレ】敬意をもって生きていこう~『ジョン・ウィック:チャプター2』を観て~

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 キアヌ・リーブス主演、大ヒットアクション映画の2作目『ジョン・ウィック:チャプター2』を観てきました。

 前作も楽しく観させてもらって、今作もすごく楽しめました。キアヌ・リーブスを始め、制作陣のほとんどが「楽しいB級映画を作ろう」というスタンスで挑んでいることが伺える、非常にエンタメに特化している作品だと思います。

 今作は、良い意味でのB級感に加えて、こういったジャンル映画の良さとは何か、ということを、いい具合に落とし込むことが出来ているのではないか、と思いました。

 以下、箇条書き。

 

・1作目からのブラッシュアップ

  1作目については色々な言い方で褒める人はいると思うが、個人的には「ババヤガ(ブギーマン)おじさん」と、やけに打ち込まれる字幕の2つが面白かった(両方共ババヤガおじさんのシーンやないか)。そして、それが今作にも生かされているのが笑えた。

 きちんと映画の最初の方で「ババヤガ」とか言ってくれるし、手話の敵役がいたことで、ずっと字幕が使える。ここまでして字幕を使いたいか、と笑ってしまった。カッコいいんだけどね。

 あとは、全体的な世界観の深みを、より説明していることで2作目として面白さの持続が出来ていることは感心した。世界観の作り込みは前作の良い点の一つだったが、今作はその部分を掘り下げ、発展させたことで、凡庸に終わらせる2作目とは違う、きちんとした脚本になっていると思う。その世界とは、殺し屋たちの世界であり、そしてその殺し屋たちを支える人間たちの世界だ。

 やはり、007シリーズでのQのように、殺し屋たちが使うおもしろガジェットや武器を開発、調達する人間は、それだけでキャラクターとして面白い。色々な幅(階級であったり、人種であったり)をもたせることができるし、演出の仕方も遊べるのだと思う。

 今作、ジョン・ウィックがローマで仕事を頼む、様々な人間たちはまさにその面白さに満ち溢れている。このシーンは、銃撃戦のシーン以上にワクワクさせる、この映画の白眉だと思うが、同時進行で色々な資材(武器、情報、防弾服)を調達する場面を見せているのだが、そのシーンに出てくるジョン・ウィックの相手が全員魅力的だ。例えば、1人は古ぼけた古書店?のオーナーであったり、1人は服屋か紡績工場のおばちゃんであり、更には高級テーラー。それぞれが隠語を使ってみせたり、それぞれの仕事の仕方、それぞれの流儀を感じさせることのできる、素晴らしい演出だと思う。

 そして、誰しもが最後にジョン・ウィックに声をかける。「良い狩りを」など。プロフェッショナルさがある。最後の方はギャグになるほど。

 

・これ一作で語ることはできないし、したくもない

 今作は、前作の『ジョン・ウィック』が予想以上に売れたことで作られた、言わば「ご祝儀」である。もちろん、今作なりの面白さはあるが、それもやはり前作の中にあった要素をクローズアップしたものであって、今作だけの良さかといえるかは微妙である。

 ジョン・ウィックをもう一度観たい、ジョン・ウィックのいる世界をもう一度味わいたい、というファンに向けたサービスであり、その世界観を作り上げた制作陣に対するボーナスであったように思う。

 

・『ジョン・ウィック』の魅力

 当たり前の話だが、この作品の面白さはジャンルムービーとしての面白さもあるとは思うが、やはり大きな魅力は、主演がキアヌ・リーブスである、という点にあると思う。

 というのも、『ジョン・ウィック』という作品が出る前(今でもそうかもしれないが)、キアヌ・リーブスという俳優の評価は高いものではなかった。『スピード』や『マトリックス』の成功があったにも関わらず、近年はビッグバジェット作品ではことごとく外し、演技もできない大根で、時々変わり者の一面でネットを賑わすくらいの俳優だった。それが、『ジョン・ウィック』の主人公と、面白いくらいにマッチした、ということだ。引退まではいかなくとも、俳優としての旬は過ぎた、と誰しもが考えていたわけだ。

 ジョン・ウィックというキャラクターの魅力は、そういったキアヌ・リーブスが「キアヌ・リーブスであり続けた」ということが全面に出てきてるが故の魅力である、と思う。これはもはや、セガールやジャン・クロード・ヴァンダムと同じ世界に片足を突っ込んでいると言える。ヴィン・ディーゼルも似たような存在で、そちらの方が似ているかもしれない。

 

・至高のドタドタ感

 例えば、映像的に非常に作り込まれている中で、実はそこまでキアヌ・リーブスの立ち居振る舞い自体は、洗練されたものではない。「ガン・フー」という名前で呼ばれる、銃と肉弾戦の組み合わせも、わりとドタドタしていて、格好良く敵を次々殺していくというよりも、なんとか頑張って大勢の敵をなりふり構わず倒している、という風に見える。それが悪いわけではなく、元ネタ?というか、銃撃戦と近接戦闘を組み合わせた戦闘術である「ガン=カタ」(『レベリオン』で出てきたトンデモ武術)と比べて、より泥臭く、よりリアルな戦闘スタイルは、確実にこの作品の良さにつながっている。

 このドタバタ感は、リアルさを出すことにも寄与しているし、ジョン・ウィックというキャラクターが一度は引退した人間である、ということを表現しているようにも見えるし、尚且つ、キアヌ・リーブスっぽさすら表現しているようにも思う。と言うより、今までのスタイリッシュな映像の中で、格好良く決めポーズをとっていたキアヌ・リーブスが、本当の姿を見せているのではないか、という感動がある。

 まぁ、実際の所どうだかは分からないのだが、色々と漏れ聞こえてくるキアヌ・リーブスの生活を総合すると、どう考えてもちょっと天然というか、どんくさそうな人だな、という感想を個人的には持っていた。なので、ジョン・ウィックのどんくさそうな動きは、すごくしっくりと来た。

 それが感動した、というのは1作目に対する個人的な評価だ。そして、2作目もそれは変わらない。

 ドタバタと、現実に対してなんとか対処していくその姿は、映画俳優キアヌ・リーブスの生き方と同じだからだ。

 

・物語としての面白さ

 この作品の根幹となるような言葉が、今回敵より出て来る。それは「ジョン・ウィックは、復讐をしたいだけだ」というものだ。ありがちながら、面白い話だ。そして、復讐するという精神は、動物には本能的に備わっているものだ。

 そして、人間だけがその復讐という本能を、社会との契約によって縛られている。野生の動物、群れを作る動物にももしかしたらあるのかもしれないが、人間は掟や法律を作ることによって、復讐の連鎖を終わらせようとしてきた。有名なハンムラビ法典などは刑法であった。目には目を、しかし、それ以上のことは許さないよ、というものだ。

 しかし、それが足かせになることもある。それは別に、社会全体からしてみると、その個人が我慢をすればいいことだ、とも言えるかもしれない。しかし、世の中には掟や法律では縛り切ることの出来ない「怒り」もある。それと同時に、そういった「怒り」を覚える相手も、存在するということだろう。

 『ジョン・ウィック』1作目が出た時の「犬でここまでやるかよ」という言葉は、それ自体はギャグだが、真面目に考えてみると、人が何を大事にしているかは、他人にはわからない、ということだ。例えば、今作の宣伝では「犬の次には家を焼かれた」とあるが、実は家ではなく、家の中にあった妻との写真であり、思い出を焼かれたことが復讐の動機となっている。今作冒頭の、車を強奪することも同じである。

 他人の心はわからない。だからこそ、一定の尊敬を誰に対しても持つべきだな、というのが個人的な感想だった。というか、こういう映画を見るたびに思う。『イコライザー』とか。マッコールさんに勝てるやつなどいないのだ。

【ネタバレ】ドラマで見たい~『SCOOP』を観て~

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 大根仁監督、福山雅治主演の『SCOOP』をDVDで観ました。観る前から評判自体は聞いていたので、安心して観た、ということではありましたが、予想を軽く裏切る終盤の展開に、本当に驚きました。

 リメイク元を観ていないので、リメイク元からあのラストだったのかは分からないのですが、結構唐突に打ち込まれたので、よくわかんないけどやられたな、という気分でした。

 以下、徒然と書きなぐります。

 

 

福山雅治は良かった

 いじわるな言い方をしてしまうと、二階堂ふみを除いて、役者陣は全て良かった。福山雅治は、ある意味でガリレオとか、ああいうキレイな役柄よりもこういった粗野な役の方が真実味があって良いと思うし、そもそも、これくらいの妙齢のイケメン役者たちには、シモネタ全開のおっさん役をやらせておけば、だいたいハマると思う。オバサマ方に「あのましゃが!」とか言わせておけば、まぁ、身も心もガッツリなんじゃないですかね。

 吉田洋さんも、そこまで変ではなかった。思い返すと、ちょっと大根だったようにも感じるけど、ああいう感じの人もいるよな、とは思う。

 と言うのも、二階堂ふみを除いて、大体の人物が、各々の鋳型とでも呼ぶべき人物造型がしっかりしていた、ということが良かった理由になると思う。それに対しての配役も同様に、しっかりと考えられていたと思われる。そのため、映画全体を通しての、人物像系の違和感というものはなかった。二階堂ふみを除いて。

 これはつまり、逆の意味になる。二階堂ふみだけが、ちょっと鋳型が歪んでたというか、あんまりきちんとした鋳型に入れてもらえなかったんじゃないだろうか、というのがあると思う。

 

・裏側を映さない

 この映画の良い所は、テンポが凄く良いところだと思う。映画というのは引き算の芸術なので、何を見せて、何を見せないか、というところに面白さの妙がある。近年、超大型テレビドラマが躍進を遂げているからこそ、その芸術性がクローズアップされているように思われる。どれだけ長くても、物語を3時間以内に、きれいにまとめ上げなくてはならない、ということだ。

 その点、大根監督はその資質は非常に高いように思う。各人物の人物造型をきちんとすることで、あまりその人物について深く語らなくても「多分この人はこういう人だよね」と観客に分からせることができる。チャラ源なんかは完璧にそうで、あの人自身が映画内で何をしているかは、全く明示されていないにも関わらず、観客は彼が情報屋で、だからこそあのキャラで、ということを了解する。お金の受け渡しの下りなど、人物描写として使い古されているからこそ、最短で観客に「あ、こういう人ね」と分からせることができる。(これはもちろん、お約束すぎてつまらない、という風にも言える。ただ、映画というのは、その性質上サンプリング的な手法が突き詰められていくのかな、とは思う。)

 吉田洋が首にタオルを巻いているのも、良い演出だなぁ、と思った。女性であれをしているだけで「あ、この人、現場っぽい」と勝手に観客が考えてしまうのだ。

 人物描写を最短で行った後、映画は小気味よく進む。ポンポンと事件を小気味よく起こし、矢継ぎ早に成功シーンを入れる様は、どこか『スカーフェイス』にも通じる。一種の成り上がり映画としては、やはりモンタージュを入れるとノリが格段に良くなる。非常に面白いし、見ていてテンションは上がる。

 しかし、ここでは反面として、本当の意味での人物描写というものは、少しおざなりになっている面もある。それは人物描写というよりも、内面描写である。

 例えば、今作の福山雅治のような人物はもちろんいる。世の中には、たぶん複数いる。しかしながら、彼らが皆同じか、というとそうではない。マクロ的に見たら似たり寄ったりに見える彼らも、ミクロで見てみると、やはりそれぞれの悩みがあり、葛藤があり、そして信念がある。そこについての言及をもう少ししても良かったのではないか、というのは今作に対する、ちょっとした不満である。テンポが良いゆえに、語りきれなかった部分でと思う。ただ、二階堂ふみについては、しなくてはならなかったのではないか、と思う。と言うのも、今作においては彼女こそがキーポイントであり、彼女がこの物語の舵取りをしているからだ。なので、彼女が舵を取る理由があやふやだと、焦点がぼやけた映画になってしまう。

 

二階堂ふみが何をしたかったのか

 彼女が何をしたかったのか、ということに対しての言及が少なすぎたことは、大きな不満である。彼女は、最初はファッション関係の記事を書きたくて記者になり、流れ流れて、パパラッチをするようになった、という人物である。そんな彼女が、強姦殺人犯に対して「わかんないけど、こいつこのままでいいんですか!?」と言うのが、少し分かりにくい。彼女はそういうことに対して、何かを考えているような人間だという描写は全く無いからだ。例えば、世間一般の意見としての義憤である、としたら、やっぱりそれは二階堂ふみの人物造型があやふやになるわけだな、と思われる。世間一般、という人間はいないからだ。

 一応、福山雅治をきちんとした写真家に戻したい、という動機はなくもないのだが、だとしたら会議でああいう風に言い出す必要はないのではないか。あそこでは黙っておき、後で「もしかすると、あの事件がきっかけになるかも」と考えさせればいい。

 

・構成の見直しが必要だったのではないか

 この映画は、大きく分けて三部構成になる。一部はパパラッチ修行、二部は松永事件、三部はチャラ源、となる。

 新兵物、成り上がり物としての面白さは一部に集約されており、映画全体で観ると長すぎたようにも感じる。ここを少し短くしておいても良かったのではないか。

 そして第二部の松永事件への流れはスムーズではあったものの、上述した二階堂ふみの動機不明により、あんまり人物の考えがよくわかんないまま、映画自体は凄く盛り上がっていく。もちろん、それぞれの物語自体は凄く面白いし、実際に凄く楽しかったことは言うまでもない。

 そして、三部へのジャンプは、あんまりにもいきなりすぎて、結構驚いた。「え、こんな話にするの?」と、腰を浮かした。(リリー・フランキーのシャブ中演技については、実際のシャブ中の方を見たことがないのでうまいかどうかは分からないが、怪演という意味では、凄く良かったと思う。)

 この三部についても、二階堂ふみの動機不明と同じことが言えると思う。チャラ源の心理描写に時間を割いていないため、やばい奴がもっとやばくなって銃振り回した、というだけにしか見えない。

 はっきり言って、この状況自体は非常に凄惨な状況だと言える。特に福山雅治にとっては、人生の中に顕現した地獄のような瞬間だと思う。ただそれは、身の危険という意味ではなく、自分の恩人であり、親友である人間が、もはや自分の知っている存在とかけ離れてしまったのではないか、という瞬間である。ここまでの状況じゃなくても、普通に生きている中で、旧友の変貌した姿を見て同じような状況になる人間も現実にいると思う。

 それは福山雅治の物語である。そしてそれは裏返せば、そこまで落ちていってしまうチャラ源の物語も、たしかに存在しているのだ。そこについての言及が少ないから、「なんか分かんないんですけど」となってしまう。別れた妻の話とか、もっとしてほしかったな、と。

 

・ドラマでやったらちょうどいいんじゃない

 映画にする上で、あまりにも要素が多すぎたのではないか、と個人的には思う作品だ。二部までのもので、二時間半で作れば、もっと良かったのではないかな、とは思う。チャラ源のところまでやるなら、1クールのドラマでやったほうが良かったのではないか、と感じた。そうすれば、人物描写もきっちりできて、尚且つ類型化されない人物として二階堂ふみも描けたのではないか、と思う。

 

 

・道徳的な週刊誌の意義

 この作品では道徳的な物語は全く語られないし、滝藤賢一が「犯人にも人権はあるんだよ!」と叫んだが、それに対する答えはないままだ。加害者の人権というものについてどういう風に考えるかは、観客個々人の問題ではあるが、あまりにもそれについての言及がないのはどうだろうか、と思う。(語っていないわけではないんだけど)

 最後の福山雅治が撃たれる写真を使うかどうかも、正直言って「写真家としての尊厳は」みたいなこと言い出してたけど、正直それで説き伏せられる方もどうかと思う。だったら、もっとちゃんとしたとこに持っていけや、とは思った。週刊誌の紙面に飾っていいものかどうか、という話だ。

 ここでは抜けているのは、週刊誌というメディアがどういう立ち位置をとるべきか、という問題だ。それについて語っている部分もある。各記者が「昔は事件とかについてもよく記事にしていたし、編集長も賞をとってた」と、口々に過去の栄光を話していた。それに対して滝藤賢一が「今の読者が求めているのはグラビアで袋とじなんだ」と、ある意味で自嘲気味に吐き捨てる。で、これについて吉田羊は、なんか皮肉を言うし、二階堂ふみは、何を思ってるかも分からない。(個人的には、グラビアの方が、パパラッチよりもマシな気がする。女性の権利的な意味で言えば、グラビアが道義的に正しいとは思わないが、他人のプライバシーを有名人だからという理由で隠し撮りし、公衆の面前で公開し、複数の人間の人生をメチャクチャにして金を儲けていることに比べればマシに感じる。こればかりは個人の嗜好にもよるが)

 最近、文春であったりが色々と特ダネを引っ張ってきたりしているが、彼らのやっていることがジャーナリズムというものかは疑問だ。じゃぁ、重大事件の犯人の顔をすっぱ抜く、ということがジャーナリズムなのか、というとこれもまた疑問だ。罰を与えるのは、あくまで司法であり、それ以外の人間が、社会的に加害者を罰することがまかり通ってしまうと、社会的にはよろしくない。というより、それは私刑でしかない。その片棒を担うことがジャーナリズムなのか、という話だ。そして、それで金を稼ぐ。ということがどういうことなのか。

 もっと踏み込んで言うと、告発という行為自体が、ただの正義と言う言えない領域に存在している。

 それについては、『凶悪』という映画で、より大きなテーマとして描かれている。あれもリリー・フランキーが加害者として出てくるわけだが。

 『凶悪』という作品、及び原作においては、週刊誌という媒体の利点も明記されている。それは、新聞と比べてフットワークが軽い、という点である。新聞記者は、基本的には「起きているかどうかもわからない事件」は、追跡することはできない。それに対して、週刊誌というものは(会社の判断はあるにせよ)「どうやら事件っぽい」というものを取材し、記事にすることもできる。また、『凶悪』という作品は、獄中の殺人犯が告発する、という内容でもあったため、週刊誌でないと話も聞いてくれない、という状況はあったのだと思う。

  しかし、『凶悪』で主人公が行った告発は、ある意味で正義であった、とも言える。しかしながら、それをしたことで、彼もまた一種の加害者になったのだ。それに対して、主人公は苦悩する。自分が行ったこと、それが果たして正義なのか。それとも、ただの自己満足でしかないのか。

 二階堂ふみや、福山雅治は、そういった悩みを全く持っていない。ただ数字として、発行部数が職場に貼り出され、大塚愛を熱唱する。もちろん、そうすることで、この業界の欺瞞を浮き彫りにしている、とも言えるが。

 

 ただ、そういう裏を勘ぐらずに、普通に楽しんで見る映画としては、全然悪くない映画だと思います。

 ましゃの汚い演技も最高だったし、なによりも二階堂ふみの濡れ場(下着着用)もある。これ以上に言うことはない。

【ネタバレ】僕らの行いと僕らの解釈~『ハクソー・リッジ』を観て~

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 メル・ギブソン監督、アンドリュー・ガーフィールド主演『ハクソー・リッジ』を観てきました。非常に楽しみにしていた作品です。

 メル・ギブソンらしい過剰なまでの残酷描写と、その中にある人間の優しさというか、気高さというか、悲哀に満ちた一作だと思います。物語自体は一本道なのですが、語っているテーマ自体は非常に分かりにくいというか、多種多様な語りが可能になるのではないかと思いました。僕は凄く楽しかったです。

 後は徒然、書きなぐります。

 

・戦争シーンに関しては言うことはない

 映画館で見て本当に良かった、と思える映画は多い。それは2つの意味があって、「この映画、映画館で見てるからまだ面白いな」というものと「この映画、映画館で見たら、家で見るより最高だぜ!」の2つだ。

 この映画はもちろん後者だし、それこそ爆音上映とかで見てみたい。『プライベート・ライアン』を越えた、という宣伝については、言い過ぎかどうかは分からないというか、ああいう言い方はあまり好みではない。ただ、メル・ギブソンが撮った映画には、必ず地獄のシーンがある。それは人によってこの世に顕現した地獄だ。この映画は、その地獄のシーンが長いだけだ。感覚が麻痺してくるほどに。

 

ヒューゴ・ウィービングは好きです

 個人的には、『V・フォー・ヴェンデッタ』での怪演というか、超絶演技が大好きな役者である。今回も、その声の演技が随所に見られて気持ちよかった。メガトロン様でもあるし。

 

・みんな優しい

  この映画に出てくる軍人たちは皆優しく、ドスを心の底からは憎んではいないように見えた。ドスに対して厳しく当たるときですら、どこか優しさの片鱗を匂わす。例えば、ブートキャンプ中にスミッティが「俺を殴れよ」と頬を差し出す時、そこには「早く仲間になれよ」という、一種の勧誘の意識すら見えた。周囲の軍人たちも「なぐっちまえよ!」と言いつつ、ドスを否定せずに、仲間へと勧誘している。また、重労働を課すように命令されている軍曹は、その悲壮な姿に感化される。

 ある意味で、ここの演出は戦争映画的ではない。戦争の非常さを描く上での、軍人同士の友情は、基本的には艱難辛苦を共にしたことによって生まれる連帯感を指す事が多いからだ。そこには、もちろん皮肉も含まれている。人間的でなくなったものたちが、人間的な何かを求めている、という皮肉である。しかしながら、ドスはそれを否定している。ここから分かるように、この映画は戦争映画の皮を被った宗教映画であって、言うなれば『パッション』を戦争映画でやり直した、とも言える。

 

・ドスは狂人だが、狂人でないものなどいない

 ドスは「神の声なんて聞こえない。俺は狂ってない」と言い切っているが、もちろん彼は彼で狂っている。ただ、狂い方が他の人間とは違うだけだ。

 戦争というものは、国家であったり、個人であったり、色々なものを狂わせていく。それは、ドスの父親も同じだろう。彼もまた、戦争によって狂ってしまった人間の一人なのだ。そしてもちろん、軍人たちも狂っている。

 ただ、ドスは戦争によって狂ったのかというと、じつは少し違う。ドスはその前から狂人であった。言うなれば、狂信者だろうか。

 冒頭の車事故の現場での対応や、その後の立ち居振る舞いは、正しいことをしているはずなのに、どこかその行いに狂気が滲んでくる。ここでアンドリュー・ガーフィールドの演技が本当に素晴らしい。その演技は、どこかメル・ギブソンを彷彿とさせる狂った演技だ。どこかが先天的に抜けてしまっている、天使のような狂い方を、過剰なまでの笑顔で表せている。

 

・宗教的、哲学的に生きるということ

 「人は哲学を教えることはできない、哲学することを教えうるのみである」というのはカントの言葉だが、カントの哲学はキリスト教に深く根ざしている。宗教において、非常に重要な要素となるのが「行い」であることは、当然過ぎて言うまでもないことだが、それが一番忘れられていることでもある。というよりも、「行い」というものを一義的に見すぎる、ということが問題になると思われる。

 この映画に出てくる言葉と行為は、非常に重層的だ。「殺す」ことが、女子供を「守る」ことだと言うし、人を「殺さない」ということは、仲間を「殺す」ことになる。ここで分かることは、どちらも正しいということであり、それを分けるのは解釈でしかない、ということだ。そして、それを決める人間は皆狂人であるのが世の常だ。ジョージ・オーウェルの世界が、この世界と地続きである証拠でもあるが。

 それはまさに、映画の最初にふざけて崖の上で遊んでいた子供が、成長してからは崖の上で恋人とキスをし、そして人を助けるために奔走する、という ことと同じだ。

 崖の上で何かを行っている。そしてそれを見上げる人が「狂ってる」と言うか、「人を命がけで助けている」と観るか、どちらかでしかないのだ。

 そして、当のドス本人にとって、戦場で彼がとった「行い」とはなんだったのか。この映画はそこに大きな余白を残している。彼はただ、命を救おうとしただけだ。崇高な信念があったといえるかもしれないが、彼の行った行為は、血みどろになり、生き残るかどうかもしれない人間たちを崖からおろしただけだ。彼にとっては人の命を助ける、ということが宗教的な行いであり、生き方であったにすぎなかった、とも言える。

 わかりきっていることだが、「行い」自体に善悪はない。例えば、ドスが助けようとした人間は、全員が助かったわけではない。また、助かったとしても、五体満足で帰れない者もいた。不具の余生を過ごさせることを呪う者も出てくるかもしれない。また、五体満足な兵士は、再び戦場へ投下され、誰かを殺すことになる。つまりは、新たな死者をドスが産んだことになる。

 それを理由に、彼を偽善者だと罵ることは、可能である。可能か否か、と問われれば可能である。しかしながら、「行い」というものはそういうものだ。この映画において、ドスは大事なことは何一つ口にしない。彼自身、自分の「行い」に対しての答えなど持ち合わせていないからだ。ドスにできることは、ただ自分の信念を曲げること無く、生きることでしかない。そして、誰かに「それは間違っていないか?」と聞かれた時、ドスのように迷うこともまた、大事なことだ。それこそまさしく、宗教的に生きる、ということなのかもしれない。迷うことができるからこそ、生きる事ができるのだ。そして、宗教的に生きるということは、難しいことであるが、誰にでも開けている、ということだ。

 

 メル・ギブソンらしい、豪快で残虐ながらも、それでも人生の大事なことは何か、と考えさせてくれる良作。

【ネタバレ】褒めるところしかないはず~『メッセージ』を観て~

 

 

 ドニ・ヴィルヌーブ監督作品『メッセージ』を観てきました。同監督作品の『ボーダーライン』がかなり重厚で、現実的な部分とエンタメ部分の融合が非常にハマっていた事に対し、今作はそもそもSF作品ということで、どうなるのか気になっていました。そもそも、原作からして「よく面白い小説にできたな」という感想を持ってしまったような題材を、今度は映画化(しかもハリウッドの大作!)すると聞いたときは「血迷ったか」と本気で心配しました。

 結果としては、エンターテイメントとしても、そしてSF作品としても高い水準でまとまった、面白い作品になったと思います。

 以下、徒然。

 

 

・音の圧

 前作『ボーダーライン』でも顕著だったが、マッシブな低音や、一種の不協和音をBGMに置いていることで、場面場面の緊迫感が異様になっている。また、ヘプタポッドの音声も同じ方向性の音のため、ずっと見られている感というか、とにかく緊張感がずっと持続している。物語の序盤から中盤にかけて、非常に疲れる要因。

 

・原作と比べてエンタメ要素を増やした

 良いのかどうかは別として、エンタメ作品として楽しめるように工夫されてた。そして、個人的には良かったと思う。原作はどこか牧歌的であり、基本的には科学者の宇宙人交流日記的に感じられる。そこからいきなり娘の死や、叙述トリックをぶちこまれて「ほわーー」となったので、それはそれで良かった。ただ、それで3時間保たせるのは無理だと思うので、今回の改変は悪いことじゃなかった。

 ただ、これみよがしなタイムリミット設定や、なんかよく分からないC4爆薬設営など、「ちょっと過剰接待じゃないか」と思ってしまう部分もあるにはあった。

 

 

・娘の死因という、実は重要な改変

 原作と映画の一番大きな改変は「主人公が未来を変えれるか否か」というものだったと思う。

 その改変は、この映画のタイムパラドックス的なクライマックスを演出するためであり、なおかつ主人公が娘を産むことへの決意をより強めるために改変されたと思える。主人公は、言わば神にも等しい存在だ。彼女がその気になれば、大体の不幸は避けることができる。原作ではロッククライミングで死んだ娘だが、そんなことは映画版では起こるはずもない。なぜなら、その未来を知った瞬間(主人公はずっと知っているわけだが)、主人公は止めることができるからだ。だからこそ、彼女が救うことのできない死因を用意した。そして、それでも娘との出会い、娘との生活、生き方を選ぶことが、この映画の素晴らしい感動を生む。

 個人的に、この作品の根幹となるテーマは、最後にジェレミー・レナーが言っていたセリフに集約されている。「不幸な未来を知ってしまったとしたらどうする?」というという疑問に対して、彼は「その時間、一瞬一瞬を大事にしたい」というものであり、映画版では確かにそこが強調されている。

 それに対して、原作ではどうか。主人公は未来を変えれるかもしれないが、変えない。娘はロッククライミングで滑落し、久方ぶりに会った夫と検死を行う。そして、それが娘(あなた)の物語の終わりだ。

 これは原作者であるテッド・チャンの哲学というか、宗教観がそうさせているように思われる。原作、というより原作が入っている短編集をよめば、それがよく分かる。特に、テッド・チャンが神という存在に対してどういう捉え方をしているか、という部分を考えれば、原作の意図が見えてくると思う。

 テッド・チャンにとって神とは、天災や、その逆の思わぬ行幸など、人間にはどうしようもない事象全般を表現しているに過ぎない。つまりは、人間の解釈にしか過ぎない。それは、この映画の宇宙人のようなものである。原作においての宇宙人は、結局来訪の目的が分からないままなのだ。ただ現れて、質問に答えてコミュニケーションをするが、途中で急に消える。理由など分からない。ただ、神とはそういうものだ。

 そして神から得た異能に対して、主人公はただ受け入れるだけだ。夫と離婚することも、娘が簡単に死ぬことも、そしてそれを知ってしまいながらも、どこか客観的に世界を見続けていることも。すべてを受け入れ(しかも原作ではこうなったのは彼女だけではなく、またその未来予知を完璧にすることはできないだろう、という諦めまで吐露している)、それでも生きなくてはならない。しかし、それこそが生きるということなのだ。地獄ではない、この世界で生きる、ということなのだ。

 

 映画版では、テッド・チャンの宗教観はオミットされた。だからと言って、駄作になったのではなく、別の形で良作に変身できたと思う。

 ただ、たまには原作の牧歌的であり、どこか優しい8本足の巨人のことも思い出してあげてください。