ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

ロッキーへのアンサーとしての物語と現実 ~『CREED』の感想~

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 『CREED』を観てきました。

 正直、泣きました。

 それは、映画に感動したから、というよりも、この映画にかけるバイブスというか、熱量にやられたからだと思う。

 ただ、それは旧作である『ロッキー』への熱き思いだけではなく、「ボクシング」というスポーツエンターテイメントに対しての思いだろう。正直、ロッキーファンからしてみれば、凡作に見えるかもしれない。

 

 この『CREED』という作品は、予想をはるかに超えて、現実のボクシングという競技に寄り添っている。というよりも、ボクシングの現状を映画に反映させている。そして、それこそが「ロッキー的な価値」に対して、強いアンサーだと感じた。

 

 例えば、主人公の闘いの現場の変遷。

 最初は汚いメキシコのリング。控室では、数分後に闘うであろう相手がセコンドと一緒に話している姿が目と鼻の先である。

 その次に闘うのは、アメリカの中くらいの会場。相手は地元の強豪で、ここでは先の闘いとは違い、控室は分けられている。

 そして、最後がイギリス・リバプール。巨大な会場。

 ここで、「なぜイギリス?」と思う人もいるかもしれない。「ボクシングといえばアメリカが本場じゃないのか?」と。

 その疑問は半分正解であり、半分間違いなのだ。現在のボクシングの勢力図というものを説明しておきたい。現在ボクシングの最高峰は御存知の通り、マジソン・スクエア・ガーデンである。もちろん、一番でかい興行はそこで行われる。しかし、少し前から急速に力をつけているのが、ヨーロッパでの興行である。クリチコ兄弟やコズロフなど、重量級の強豪ボクサーがヨーロッパに多く出現したことから、大きな会場で派手な演出を行う興行がヨーロッパでも頻繁に行われるようになっている。

 そして、イギリスもその流れに乗って大きな興行を打つようになってきた。そもそも、ナジーム・ハメドの頃からショー的な演出はやっていたし、今回のコンランのモチーフになったであろうリッキー・ハットンや、出演していたアンドレ・ウォードとも闘ったカール・フロッチ、クリチコを破ったタイソン・フューリーなど、いつの時代も強いボクサーを排出する「ボクシング発祥の地」としてのイギリスが最後の舞台になったのは、アメリカと同じくらい派手で大きな興行を魅せる上で現実的な話だったのだ。

 実際、今回のドニーくらいの戦績の親の七光りボーイが、MGMでメインは張れない。ただ、あまり小さい会場だと、カタルシスがない。そこで、敵地の大きな会場でやろう、という脚本は非常に現実的だ。なおかつ、敵地なので判定で負けることにも納得がいく。

 

 この勢力図の変化というのは、ある意味で「ロッキー的な価値」を追い求めるために起こっているとも言える。ここで言う「ロッキー的な価値」とは、【ハングリー精神】と言い換えてもらってもいい。

 つまり、アメリカという資本主義の勝ち組(もちろん、貧しい若者はいるが)の中から強いボクサーが生まれていないのは、他国の貧しいボクサーの方が【ハングリー精神】を持っていて、そのために激しい鍛錬を行い、結果としてアメリカンドリームをつかむ。これが、一般で言うところの「ロッキー的な価値」感だろう。(実際の映画『ロッキー』は、少し違うと思うのだが、それは別の話)

 それがヨーロッパの移民たち、イギリスの労働階級、そしてフィリピンの野良ボクサー達がボクシングでの成功を収めている理由だ、という意見がある。本当かどうかは分からない。それは、ある意味で物語だ。アメリカンドリームをつかむという、典型例としての物語。

 そして、この『CREED』はその物語に対してのアンサーに近いものを持っている。

 主人公は有名なボクサーを父に持ち、資産家の子供であり、大学も出ている、つまりは「ロッキー的な価値」を全く持っていない人間だ。IT機器を駆使し(この駆使している描写の拙さは『ロッキー』映画的だ)、パリっとしたトレーニングウェアで汗を流す。

 つまり、彼こそはボクサーとして成功してはいけない存在なのだ。そして、それは『ロッキー』におけるアポロ・クリードという存在でもある。アポロ・クリードは、『ロッキー』において、アメリカン・ドリームをロッキーに与える存在として描かれる。巨大で、傲慢で、ユーモラスで、憎めない敵として。そして、資本主義の象徴として。つまりは、彼こそがアメリカだったのだ。そして、今作のドニーも、アポロと同じくアメリカを背負う。パンツだけでなく、今作の主役として。「ロッキー的な価値」を無くしたアメリカの比喩になったのだ。

 彼には闘う理由はない。アメリカン・ドリームは、既につかみきった後だ。巨大な邸宅、自動で開閉する門、プロジェクターでYOUTUBEを見て、真っ白なテーブルに着く。

 しかし、それはドニーが手に入れたものではない。そこにこそ、彼の「ロッキー的な価値」がある。実際、他人は彼に何かを持っている、と言う。しかし、彼は何も持っていないと感じる。

 ドニーこそが、ある意味で一番アメリカン・ドリームから遠い人間なのだ。

 だからこそ、彼はすべてを捨てる。そして、「お前はそれを既に手にしたはずだ」と言われるアメリカン・ドリームを自分の手でつかむため、一人でグローブをつけるのだ。

 

 

 この映画では「なぜボクシングなのか」という所は、示されていない。個人的に、そこは一回見ただけでは、これだというものを読み取ることはできなかった。名前を呼ばれたくないなら、それこそボクシングなんかしなければいいのに、とも思う。

 ただ、それがドニーには必要だった、とも言える。それはある意味で、地獄めぐりにも見える。そして、最後には彼はその名前をこそ誇りとし、新たな一歩を踏み出すようになる。その流れは『ロッキー』という作品の根幹だと思う。『ロッキー』は、アメリカン・ドリームの映画とは、若干違う。ロッキーは、もちろん名声や富は得たが、実はそんなものよりも大切なものを得た、ということが『ロッキー』という作品を名作にした理由なのだ。それは、明日を生きるため、何かを成し遂げる男の物語なのだ。

 ドニーはアメリカン・ドリームを得られたのだろうか。はっきり言って、『ロッキー』よりも、そこはドライに描かれている。『ロッキー』のような突き抜けるような感動ではなく、肩に置かれたスタローンの手のように、重たくのしかかる言葉だけがエンディングでは残る。

 

 

 

 映画として、万人にオススメはしませんが、僕は感動しました。ボクシング映画として、金字塔になりえる気がします。

 そもそも、ボクシング番組の質感をかなり忠実に表現しててすごかった。こう、名乗りを上げる時、後ろにベルトを掲げる時の角度とか、完璧でした。毎週WOWOWでこの角度見てるわ、と。

 アンドレ・ウォードをはじめ、普通にボクシングの著名人がオンパレードで、そこもボクシングファンとしては最高でした。ジェイコブ・デュランが結構出ずっぱりなのも笑えました。喋ってるぞ、と。演技してるというか、喋ってる。

 ドニーの動きも、本物のボクサーのようでした。というか、あんなボクサーいます。

 殴るときの動きなどは、わざとオーバーアクトにしているので、そこまで言い出すのはフェアじゃないかな、と。

 難点を言うなら、ボクシングオタク向けすぎるというか。PFPなんて、日常会話では使わないので、アレ分かるのか?とか。アンドレ・ウォードがPFP2位で出てきて、ドニーをボッコボコにするけど、ボクシングファンからしたら「いきなりPFP2位に勝てるはずないだろ」と思うので、ちょっと興ざめだし、知らない人からしても「なんか強そうな人に負けた」くらいで、よくわからないというか。

 そもそも、ドニーは強いのか強くないのか良く分からん、とか。平場がなんかダレるとか。映画としてどうなんだ、と思う所はありました。

 

 ともかく、ボクシング映画を観たいなら、オススメです。

 個人的には90点です。