ボディロッキンで激ヤバ

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人の打算と善意の狭間~『ストレイト・アウタ・コンプトン』を観て~

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 映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』を観てきました。

 この映画は、まったくHIPHOPの知識がない人がみると、より面白いと思います。とにかく、N.W.Aについての下調べをすればするほど、「いい人達が多い」ことに少し首を傾げるような気がしました。シュグ・ナイトを除いて。

 ただ、そういう風に感じる反面、音楽活動をしている人間で、なおかつそれなりに成功している人間というのは、少なからず社会性を持っていなくてはならないことも事実。つまり、あまりにも残虐で冷酷な人間というのは、よほどの力を持っていない限り、限界がきやすいのではないか、とは思います。

 だから、「いい人が多い」というのは、あながち描き方としては間違っていないのかも知れない。

 今回のレビューに関しては、特にその面について書きたいと思う。と言うか、今作で一番好きなキャラクター「ジェリー」について書きたいと思う。ネタバレしかしないです、はい。

 

 

 ジェリー(実際にはジェリー・ヘラーという人らしい)の描き方が、僕はこの『ストレイト・アウタ・コンプトン』の最も好きな部分だ。この映画が映画として素晴らしい物になっている、と感じた理由の一つだからだ。

 ジェリーという人物は、重層的だ。この作品のトリックスターだ。悪人であるし、N.W.Aの理解者でもあるし、社会におけるマイノリティでもある。彼は、ある意味で言葉巧みにイージー・Eに近づき、自らの利益のためにクルーをだます。しかしながら、彼の功績無くしてN.W.Aが成功したかどうかは、非常に懐疑的だ。

 彼はそもそも、コネクションがあった。これは実際にそうだった。ジェリーの昔ながらのコネクションが、レコード会社との契約を持ってくる。あの破壊的なツアーの段取りも、ジェリーの功績だ。ホテルでの乱痴気騒ぎ、素晴らしいステージ、それもジェリーの力の一つだ。

 ジェリーは、いうなればN.W.Aの「産みの親」でもある、というわけだ。これは、映画でも明示的に描かれる。レコーディング中、屋外に出ていたN.W.Aクルーが警官にイチャモンをつけられるシーン。ティーザーにも挙げられているこのシーンは、映画冒頭のアイスキューブが警官に押さえつけられるシーンに似ている。その時、キューブの両親は家から飛び出し、父親が「俺達はお前の味方だ!」と叫ぶ。ジェリーはほぼ同じ態度をとる。「私のクライアントを、色で差別することは許さんぞ!」と叫びちらし、警官に真っ向から立ち向かう。

 このシーンは本当に素晴らしい。この時、ジェリーがどういう心理状態だったのか、非常に説明しづらい。レコーディングを終わらせるため、自分の利益のために叫んでいた、とも言える。ただ、後で映画内で言及されるが、彼自身もユダヤ人という社会のマイノリティなのだ。そんな彼が、差別を受けている人間を前にして、果たして打算だけで警官に立ち向かえたかどうかも疑問だ。思うに、何か一つだけが正解なのではなく、彼はこの時、すべての感情を引っくるめて叫び散らしていたようにみえる。そういう意味で、彼もN.W.Aの共犯者だったのだ。黒人とは別の形で戦うユダヤ人として、彼も戦っていたのだ。

 

 この時、もちろんジェリーはN.W.Aの親という立ち位置になるが、それはN.W.Aというよりもイージー・Eの親代わりでもある。主要メンバーの3人の内、この映画で全く親の影が描かれていないのは、イージーだけなのだ。実際のイージーの母親は学校の理事をしており、ある意味で厳格な両親だったのではないか、と思われる。その親から抜け出し、ハスリングライフを送るイージーにとって、ジェリーは親代わりのように寄り添う。

 イージーがシュグ・ナイトからの暴行を受けた後、ジェリーに会いに行くシーン。このシーンも凄く良かった。そもそも、ジェリーに会う、ということが感動した。レンでもイェラでもなく、ジェリーだったのだ。「シュグ・ナイトに報復を(殺しに行く)」と告白するのが、クルーではなくジェリーなのだ。それほどまで、ジェリーに信頼を寄せるイージー。そして、ここでジェリーがゆっくり諭す言葉も素晴らしい。ジェリーは、イージーに生きるよう説得する。今まで、イージーは、死のうが生きようが関係ない世界に生きていた。そして、自分自身を鉄砲玉へと追いやろうとするイージーに対して、ジェリーはそれこそ親のように、生きることに意味がある、と説得する。ジェリーらしい言葉のチョイスで。

 この時も、ジェリーは果たして打算だけで、そんな言葉を使ったのか。善意が全くなかったとは思えない。というよりも、彼自身にもわからないのではないか。ジェリーは、この後N.W.Aに関する自伝を出すほどには面の皮が厚い人物である。全く打算がないではなかったと思う。それでも、彼はそれも併せ持ったすべての感情を込めて振る舞った。

 

 ジェリーとの別れのシーン。ジェリーの言葉は軽薄だ。帳簿も全て、自分のためにやったのだ。全て事実だ。彼はそういう意味で悪人だし、自分のことしか考えていないようにも思う。そして、全部はクルーのためにやったと言う。これもある意味で事実なのだ。

 ここも、映画の冒頭を思わせる。ドレーの母親が、「全部お前のために」と言っていたことに似ている。ドレーの親は、子供のためと言いながら、家にお金を入れることを要求している。親とはそういうものなのだ。自分の打算と、子への思いが重層的に感情を織り成している。

 そして、子供に捨てられた親は、戻って来いと泣き叫ぶ。情けなく、あまりにも人間的だ。全ての感情がないまぜになり、彼はもう泣くしかないのだ。

 ここで、やっとイージーの両親が完成し、映画はクライマックスに向かう。イージーの死で、映画は終わる。この映画は、僕にとってはイージー・Eとジェリーの映画だった。

 

 この映画が描いていることは、ビジネスにおける打算と善意が交錯する瞬間だと思う。それはどの社会でもそうだと思う。

 社会貢献という偽善的なお題目でお金を稼ぐ人たちというものを嫌う人は多い。それが偽善的だからだ。しかし、偽善という言葉は少し違う。善と偽るというよりも、善も含まれる、という言い方が正しいように思う。自らも大金を稼ぎ、人を助けることもできる。そういう【含善的】な行為というものが、社会を形成しているように思う。もちろん、そのバランスは危うい。どちらかに転んでしまえば、破滅しかないからだ。

 

 

 映画としての出来は素晴らしいの一言。

 ただ、前述した通り、HIPHOPファンからすると、物足りない部分があるかも知れないな、と思いました。ただ僕は、ジェリーのキャラクター形成だけで凄く楽しめました。

 個人的には、80点です。