ボディロッキンで激ヤバ

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【ネタバレ】僕らはどこにでもいけるが、決して自由ではない~『この世界の片隅に』を観て~

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 映画『この世界の片隅に』を観てきました。つれづれ書きます。

 

 

・人生はだいたい薄味だから、飲み込み易い

 この映画の映像は非常にファンタジックだが、行われている行為自体は平々凡々な戦争の日常。そのギャップが楽しい。

 

・すずとかいう最高の人物

 この映画で一番良いのは主人公のすずのキャラクター造形だと思うが、何が良いかというと、彼女が一番狂っているからだと思う。

 彼女は平凡な日常の象徴のように扱われているが、あの時代、あの生活の中で平凡な生き方、感じ方をする人間は逆に異常だ。すずだけがそれを可能だった。その理由は、彼女の現実の捉え方にあると思う。つまりは、彼女が描いていた絵が彼女の現実をそのまま写していたのではないか、と思う。

 冒頭の人さらい?のシーンにしても、彼女の落書き混じりの回想という体で説明されているが、彼女にとっての現実とは、アレに近いくらいの認識なのではないか。つまりは、本当に望遠鏡の先に夜の絵を書いたら人が眠った、という認識。そこまでではないかもしれないが、常人の思考ではない。

  すずにとって絵というものは現実の写実であると同時に、「こうであったらよかったもの」という現実からの逃避であった。だから、空から舞い降りてくる爆弾が炸裂する様を見ながら「ここに絵の具があったらよかったのに」と思い描く。彼女はあの場面、死ぬほど怖かったからこそ、現実から目を背け、絵に逃げようとしたのではないか。

 すずにとって絵が現実を投射する手段であったし、尚且つそれが逃避にもなっていたのだと思う。だから、彼女の右手が姪とともに吹き飛んだ後、すずは現実を受け止めざるを得なくなる。それどころか、今までの人生をやっと彼女は受け止めるようになったようにすら思える。今までの人生で「こうあってほしかったもの」が、まるで広島から飛んできた障子に描かれていたように、次第に消えていく。残ったものは、果たして何だったのか。

 そして、玉音放送の後、すずは憤る。ここの憤りについては、僕はあまりピンとこなかった。どちらかと言うと、その後の広島からやってきた被災者が、実は自分の息子だったという隣人の話のほうが胸に刺さった。もしくは、広島で原爆の被害にあった妹の手を優しく撫でるシーン。あの動きにこそ、涙ぐんだ。

 

・主題歌が良すぎる コトリンゴの主題歌が良すぎて思わずサントラを買ってしまった。

 

クラウドファウンディングの名簿を流した意味 実は、個人的に一番涙ぐんだのはエンディングのクラウドファウンディング名簿が流れているシーンだ。自分でもバカだと思うが、あの馬鹿正直に一人ひとりの名前を全てスクリーンに映し出す行為にこそ、この映画の主題があるのではないか、と思ったからだ。

 言ってしまえば、この映画は一人の女性が戦時中をいかに生きたか、というだけの、それだけをとってみればつまらない映画だ。(この映画を一言で説明する時、人が何も言えなくなるのはそれが理由ではないかと思う)

 ただし、それが人間というものだし、人生というものはそういうものだ。人生というのは平凡で、つまらないし、そしてその中で必死にもがき苦しむことはできるとしても、世界という大きな渦の中ではほとんど意味が無い。まるでタンポポの綿毛のように、風に乗って飛んで行くしかない。どこにでも行けるように見えて、僕らは不自由だ。タンポポはすずの比喩でもあるし、全ての登場人物の比喩でもある。また、この映画を見ている観客のことでもある。

 ただ、その不自由さの中でも生きるしかない。そして、生活を続けていくしかないのだ。

 その一つ一つの人生を賛歌し、肯定することがこの映画の主題なのではないか、とエンディングの名簿を見て思い至ったのだ。その瞬間、自分はどのシーンよりも涙が出た。この映画は、制作の仕方まで含めて芯の通った、素晴らしい映画だ。

 

 映画史に残るかどうかはわからないが、良い映画です。

 

 

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