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ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】僕らの戦争~『虐殺器官』を観て~

 

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 伊藤計劃原作の『虐殺器官』を観てきました。原作は結構前に知り合いに教えてもらって読み、『ハーモニー』や『屍者の帝国』も原作を読み、映画も観てきました。

 連々思ったこと書きます。

 

・別に悪い映画ではない

 原作の面白さの一つである「軍事ガジェット物」としては面白かった。原作でも随所に散りばめられている「そんなんあるの?」と思わせるテクノロジーの数々が描写されてカッコいい。

 ただ、それは原作を読んでいるからこそ分かる部分でもあると思う。原作では地の文(主人公の独白)で語られているため、そのガジェットがどういうものであるかまで分かるが、映像だけになった瞬間、逆に情報量が増えているようにも感じる。情報量ではなく、情報処理量が増えるというべきか。なので「今の何?」と思っている内にストーリーは進んでしまうので、結構取り残されてしまうのではないか、という不安はあった。

 そこを完全に無視して物語に没入しても悪く無いとは思う。この映画の面白さの一部ではあるが、全体ではない。

 

・自由の対価としての平穏という時代に合ったテーマ

 原作は911の時に書かれたものだが、現在でも通じるテーマである。特に、トランプ政権が発足し、欧州でも右翼政権が天下を取る可能性がある現状、こういう一種のディストピア的選択がなされる可能性はある。自由との対価に平穏を求める。そこには一種の正しさがある。そして、そこに対する抵抗も、一理ある。それは作中でも語られる通り、バランスの問題なのだ。

 それ以上に感じ入るのは、こういったビッグブラザー的な平和というものは、便利さを介在して人々に認められるものなのだな、という事実だ。原作では「デリバリーピザ(ドミノピザ)が届く世界」という言い方をしているが、それは管理されるが便利な世界と、不便だが管理のない世界、というものだ。どちらも相応の不自由さがあるのだ。そこで何を対価に便利さを得るか、という天秤をかける時に、人は便利さを選ぶことが多い、というのは現実だ。少なくとも、社会契約論などもそういう見方はできる。

 オーウェルの『1984年』ではあまりその面は語られなかったが、おそらくは就職に便利とか、そういう社会の構造的な面での便利さというものは、意外と人の選択を誘導できるものだ。

 

虐殺器官というものものしい名前と、その正体の理論的正しさ

 正しさというよりも、「正しいっぽさ」とでも言うべきか。この理論自体が正しいかどうかはさておき、少なくとも主人公たちの精神的調整が可能な理由として出て来る限り、物語の中での整合性は保たれている。また、伊藤計劃の作品を貫いている思想でもあるので、ある意味この作品から読まないと『ハーモニー』も、また円城塔による『屍者の帝国』も感動が薄れると思う。

 

・しかしそれは、原作の半分でしかない

 この作品が、少なくとも日本で今のような評価を得ているのは、ガジェットが目新しかったわけでも、テロとの戦争の新しい時代設定が現実的だったからでも、破滅的なエンディングが良かったから、というだけではない。

 この原作が日本で認められた理由は、それらを説明する主人公がオタクだから、という部分だったと思う。というか、それが発明だった、と思う。軍事オタクが戦争に飛び込んでみたらどうなるか、という話をそれなりのレベルでやれた作品だった、ということだと思う。そこに新し目の(MSGっぽい)ガジェットと、SF的な要素が組み合わさることで、説得力を増すことに成功したというより、そういう仕組みがあることを発見したといえる。

 個人的にこの作品が面白い理由は、実はその部分だった。詳し目に言うなら、テクノロジーの発達にともなって、人間は精神的な成熟を経ることなく大人の一員として社会に溶けこむことが出来るようになるが、それが何を生み出すのか、という部分である。

 実は映画ではこの部分がすっぽりと抜け落ちている。というより、原作では地の文そのものが成熟していない青年としての主人公を浮き彫りにしていたのに対して、映画ではそれが出来なかった、とも言える。

 

・母親と父親はカットすべきではなかった

 また、この作品の主人公が成熟していない要因として母親への葛藤があったと思われる。父親の自殺と、母親への安楽死、この2つの要素がそもそもこの主人公には重たくのしかかっていたはずだ。それを全て消し飛ばした後、それでも主人公がカタストロフを起こす要因が見当たるかといえば、特に見当たらなかった。

 主人公は、外面を取り繕ってはいるが、中身はただのマザコンに近い精神構造であるし、自らを成長させるような父親も若くして亡くしている。そして、自らを見続けていると思っていた母親のライフログの中身に自分の姿を見受けられなかった時、主人公にとってこの世界はどう映ったのか。その結果としてのカタストロフである、というのが原作の流れだ。

 映画では、なぜ主人公が災厄を犯したのか、よく分からない。それこそ、ちょっと好きになった美人にほだされて、位にしか見えないというか、それにも見えない。というか、カタストロフを起こしていないのか。映画では結局、最後は曖昧なまま終わっていた。

 

・そもそも、原作自体にムラがある

 ぶっちゃけてしまうと、個人的にこの原作小説は大好きではあるが、名作ではないと考えている。

 というより、伊藤計劃の作品全てに言えることなのだが、結局は主人公は伊藤計劃そのものであり、彼自身が面白いから作品が面白いのだ。彼自身が何を感じ、どういう風に考えたか、があの小説だ。それは『インディファレンス・エンジン』でもそうだし、果ては『蛮族』でもそうだ。

 また、原作では時折飛び出てくるオタク的な引用(ときメモイニシャルDなど)についても、あれは一種の恥ずかしがり屋の伊藤計劃節でしかないが、アレがないということは、作品に伊藤計劃がいないということだ。それでは、クラヴィスシェパードとは何者なのか。あんな人間はいないのだ。あれは伊藤計劃なのだ。

 しかしもちろん、それらこそがこの作品を通俗的で、オタク的で、一言添えないと評価しにくいものにしていると思う。はっきり言って、車が藤原豆腐店のものである必要はないのだ。それが物語の導入として主人公に漢字について語らせる要因になるとしても、必要か否かで言えば必要ない。

 ただ、それがなぜ物語に出てきたかというならば、伊藤計劃には必要だったからなのではないか、と思う。早い話が、そういう人間だった、ということだろう。色紙に「童貞バンザイ(DTB)」と書くような人間が書いた小説である、という意味では、そういうネタを入れないわけにはいかなかったのだと思う。

 つまり、そういう部分なしにこの作品を映画化すること自体が、すこしばかり無茶だったのだと思う。原作には幾度と無く出てくる死の国の幻視など、映画化するにはネックになったと思われる部分こそが、この作品の面白さであり、それを無くしたことで、作品としての面白みの大半を失うことになったと思う。

 

 ・ただ、それでも面白い部分はある

 思想的なものを除いても、それなりの作品に仕上げることができるんだなぁ、というのが最終的な感想だ。

 それはブレード・ランナー(原題『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)にも同じことが言える。原作を読んでみて驚いたのは、あの原作は人間の存在証明や哲学、宗教に至るまで全ての要素が渾然一体となった名作小説だということだ。映画の『ブレード・ランナー』にもその要素がないではないが、どちらかと言うと映像や雰囲気の作品に思われる。それでも好きだが。

 映画ならではの雰囲気物として、またガジェットいっぱいの戦争アクションアニメとしてなら、それなりに深みもあって面白い、と思う人がいるのではないか、と思う。

 もしも気に入ったなら、原作を読むのが良いと思う。だいぶ印象が変わるはずだ。