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【ネタバレ】僕らはまっすぐ世界を見れるのか~『ペンギン・ハイウェイ』を観て~

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 森見登美彦原作『ペンギン・ハイウェイ』を観てきました。

 原作は読んでいないので、そういう意味では正しいレビューではないと思います。ただ、森見登美彦作品では『有頂天家族』をよく読んでおり、また『四畳半神話大系』は原作、アニメともに好きです。

 徒然と思ったことを書きます。

 

森見登美彦の映像化としては正解

 森見登美彦作品の面白さの半分は、その文体である。そう言ってしまっても問題はないと考えている。映画『夜は短し歩けよ乙女』が、映像作品としての面白さはあるものの、個人的に響かなかった理由はそこにある。逆に、アニメ版『四畳半神話大系』が大成功だった理由は、個人的にはその超高速独白を延々と全話続けたからに他ならないとも考えている。

 つまり、今作ではその映像的な美しさとは別に、主人公の独白が多くを占め、そして口調も基本的に、読みやすい文語体的な口調をそのまま使ったおかげで、面白さの半分は担保できている、と言っても過言ではない。

 というのも、森見登美彦作品における文体、独白というものは、それ自体が作者の、現実に対する距離を物語っているからだ。森見登美彦は、基本的には傍観者である。世界を批評的に見ているからこそ、その物語はどこか悲しく、幻想的であり、そして優しい。

 

・映像が素晴らしい

 オープニングから、個人的には心を鷲掴みにされた。近年、アニメでも流行っているのであろう、マーティン・スコセッシのような部屋の俯瞰に、アオヤマくんの代表的な独白が重なる始まりから、ペンギンと出会い、そして町から山の中へとペンギンが入り込んでいくシークエンスで、劇場版アニメーション作品としての尊厳のようなものを垣間見た。有り体に言えば、手間も金もかけている、ということをまざまざと見せつけられた、というところだ。

 キャラクターデザインも、オタク臭すぎず、かといって中村佑介的な色から離れすぎず、野暮ったくもなく、フレッシュなデザインだったと言わざるを得ない。全員の頬に朱が射している部分は少しあざとく見えたものの、すべてのキャラクターデザインが正解と言えるバランス感覚で作られている。正直、ここまでちょうどいいデザインは、思いつかない。正しい言い方ではないが、ガイナックス作品からオタク臭さを脱臭したような作りだと言える。

 

・アオヤマくんという子供

 主人公のキャラクターについては、森見登美彦作品の集大成のような人物像系だと思う。

 彼の美徳は、世界を肯定しているところだ。冒頭のいじめっ子との対比で、それは分かりやすく描かれている。ペンギンを「珍しくない」「つまらない」と断定するいじめっ子に対し、主人公は「そうではない」とはっきりと言い返す。主人公にとって、世界とは驚きに満ちあふれており、一つ一つは確かに日常的で、ありふれたものかもしれないが、その中に入り込むことで、世界はまだ見たこともない顔を見せつけてくる。

 初期の森見登美彦作品において、主人公はどちらかといえば、世界を否定していた。もしくは、否定するように世界に飼い慣らされた、とも言える。アオヤマくんのような少年の成れの果てこそが、森見登美彦作品における主人公であり、腐れ大学生であった。初期作品では、そういった青年たちが、自分たちの世界を肯定することに立ち返る作品が多かったと思われる。アニメ版『四畳半神話大系』などは、その性質をより際立たせる物語展開を行った。自分の灰色だと思っていた大学生活が、実はそれ自体が素晴らしく、かけがえのないものであった、と気がつく瞬間、彼は世界を肯定したのだ。

 対して、今作の主人公は、いわばその前身であり、なおまだ他人を否定することも知らない少年として描かれている。例えば、彼は幼い妹や、クラスメイトでドジっ子のウチダ君(この映画で一番可愛かった)を、文句も言わずに助ける。彼は、誰も蔑まず、否定しない。彼にとって世界とは肯定の対象でしかないのだ。そういった主人公だからこそ、まっすぐに世界を見つめ、そしてまっすぐにお姉さんへ向かっていくのだろう、という終わり方を見せている。

 

・世界のルール作りの曖昧さについて

 今作における一番のネックとは、お姉さんとはどういう存在で、ペンギンとは何で、結局“海”とは何だったのか、という風に、あまり答えのない事柄が多いことだと思われる。簡単な説明はあるが、明確に答えを言明しているわけではない。確かにそれはノイズであった。

 ただ、それに関して擁護をするならば、その答え、ないしはスタンスをアオヤマ君が考えたくなかったから、だと言える。

 この映画の物語を押し進めるのは、様々な謎だ。それはペンギンであったり、“海”であったり、お姉さんの能力であったりする。それらの謎を解明し、答えを見つけることが物語の目的であった。しかし、実はその答えよりも大事なものがお姉さんであった、という物語に、急激にシフトチェンジしてしまう。

 例えば、夜、妹が「お母さんが死んでしまう」と主人公に泣きつくシーンが有る。それは単に、「“いつかは”お母さんは死んでしまう」という事実に妹が気がついただけであった。主人公は冷静に「命とはそういうものだから」と諭す。しかしながら、お姉さんに関しては、冷静ではいられなかった。彼は「お姉さんの喪失」という可能性に対しては、いついかなる時も可能性に蓋を閉め、答えを出さないようにしようとしてきた。最後になっても、彼は答えを口にしないように努力をした。

 しかしながら、最後は現実が彼とお姉さんを引き裂いた。命とはそういうものであり、世界とはそういうものなのだから。彼ははからずも、自らの言葉を証明してしまった。

 

・「言わない」という関係性

 『有頂天家族』などでも描かれていたが、森見登美彦作品において、「言わなくとも伝わる」という関係性は、非常に重要なものとして描かれる。例えば、『有頂天家族』の主人公と、師匠である天狗の関係性はそれを如実に表している。

 横暴な師匠と、それに不承不承つきあう弟子、という体裁を彼らはとっているものの、実のところ、互いに(それぞれにとって可能な範囲ではあるが)敬愛しあっている。それを弟に見破られても「恥ずかしいから言うなよ」と口を封じる。

 また、父を殺したのは自分かもしれぬ、という後悔で蛙になってしまった次兄のことを、「恐らくはそうではないか」と気がつきつつも、優しく受け入れる母なども、同じく「言わなくとも伝わる」関係性と言えるだろう。(そもそも、『有頂天家族』という作品は、狸鍋となった父を介した、伝えることのできない思いの交錯する様を描いた作品だったとも言える)

 今作においてもそれは同様だ。主人公はお姉さんへの思いを、最後まで本人には言わない。本人どころか、周囲にも言わない(胸部への飽くなき興味は断言するが)。だからこそ、最後に「お姉さんにもう一度会って、どれだけ好きだったかを伝える」という決意が、大きな感動を生むのだ。空き地に帰ってきたペンギン号を見つけ、主人公は目を輝かせた。ペンギンはお姉さんとのつながりであり、そして、いつしか自分もまた、このペンギン号と同じことをするのだ、という決意のようでもあった。

 個人的には、そこは良いと思う半面、やはり言葉にすること、行動にすることも別の感動を生む、と考えている。アニメ『フリクリ』や『エヴァンゲリオン破』などのガイナックス作品は、逆に伝える方向にシフトチェンジした。個人的には、その方が好みではある。

 しかし、森見登美彦らしい、という意味では問題はない。

 

・大きな問題点は、お姉さんの登場時間

 途中に大きな断絶があるため、登場時間が短く感じる。

 “海”の研究をしている間、お姉さんがあまり出てこないものだから、映画だけで見るとお姉さんとの交流は少なく、どちらかと言えばハマモトさんのほうがヒロインのように見える(さらに言えば、ウチダ君は徹頭徹尾ヒロインのようであった)。そのため、原作未読者には「お姉さんのどこが好きなのか」「胸がでかいからじゃないか」という認識になるのでは、と感じた。

 と言うより、出ずっぱりにしてもらえないものだろうか、とは思った。蒼井優の棒っぽい演技も相まって、お姉さんは魅力的だった。ペンギンを整列させ、突撃していく様は痛快でありながら可愛く、確かに少年にとっては刺激の強い女性である。

 

宇多田ヒカルの曲は素晴らしい

 エンドロールは曲の良さで泣きそうになった。しかも映画にあっている。

 おやすみ、という言葉はお姉さんへの鎮魂歌のようでもあるし、お姉さんからアオヤマくんに伝えているようでもある。

 謎は終わらない、ということは、この世界はずっと続いていき、その細部は複雑になり続ける、ということだ。その度、世界の複雑さ、奇妙さに驚くことだろう。そしてその驚きは、つまりはお姉さんに対する驚きだ。世界とは驚くほどに美しく、そして訳もなく好きなのだ。

 そういったまっすぐさを持った映画であり、ぜひ腐れ大学生や、そのまま大人になってしまった不純な人間こそ、夏の終わりに見るべき作品だと思われる。