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【ネタバレ】この世は地獄~『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』~

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テリー・ギリアムドン・キホーテ』を観てきました。

 以下、徒然

 

 

・単純に面白い

 個人的に、話の作りが非常に面白いと思った。元の脚本では、なぜかタイムスリップした現代人が、ドン・キホーテ本人にサンチョ・パンサとして連れ回される、というものだったそうだが、それを逆転し、ドン・キホーテを(擬似的に)現代にタイムスリップさせる、という転回は素晴らしいと思った。おそらくは、スケジュールや予算的な都合もあったのではないか、という邪推もあるが、物語として効果的だったと思う。

 というのも、物語をドン・キホーテアダム・ドライバーにフォーカスすることに成功していたからだ。また、本物のドン・キホーテではなく、狂人のドン・キホーテを設置することによって、物語はまさに狂気の世界に入り込んでいく。

 

・前半はほぼホラー映画

 今作のドン・キホーテは、紛れもない狂人だ。たとえ、最期に「私は気がついていた」と言ったとしても、狂人のふりをして大路を走る人間は、狂人でしかない。

 しかも、それは主人公が作り出した狂人なのだ。しがない靴職人だった老人を、役柄に入り込ませるために洗脳し、その結果として狂った世界のまま十年を過ごした狂人。これはもはやホラー映画だ。

 途中、何度も主人公はドン・キホーテから逃げようと試みるも、その度に失敗に終わる。スマホもなく、財布はあるが周りに助けのない荒野が広がる中で、彼は何度も「これは夢だ」とつぶやく。それは、たとえ過去にタイムスリップしていなくても、この世界は常に理解不能で解決不可能な部分を備えている、ということを示唆してくれている。そして、その狂った世界は、自分が作ったまやかしによって顕現したのだ。まるで、そんなつもりもないのに悪魔を呼び出してしまったようだ。

 逃れることのできない「この世の地獄」を、主人公はスペインで過ごすことになる。いや、彼が処女作を撮影したときから、この地獄は続いていたのだ。そう思うと、より恐怖は増す。僕たちは、知らぬ間に誰かを悪魔にしているのかもしれない。地獄は見えない背後から、いつしか僕たちに追いつき、そして、逆に僕たちを引きずり回すようになる。

 映画『悪の法則』などで語られているように、世界は気づいたときには変化し、終わってしまっている。

 

・しかし、どこかコミカル

 恐怖を感じさせないのは、やはりすべてがスケッチのようにコミカルで軽妙だからだ。

 途中、宿泊した施設(経験なキリスト教?の集落)に異端審問の騎士が現れるところなど、完全にスペイン宗教裁判だったのがツボだった。まさに誰も予期していなかった。そして、テリー・ギリアムがやっていた部分もきちんと再現されており、映画に来る観客の層を的確に捉えているな、と感心した。まぁ、あまりそういうことをする人ではなかったので、歳のせいかな、とも思ったが。

 とにかく、主人公とドン・キホーテの掛け合いがギャグでしかなく、(個人的にはそれすらも恐怖ではあるが)ちぐはぐで全く噛み合わない会話が、物語を埋め尽くしていた。

 正直、その会話がきちんと物語に活きていたかというと、そうではない。この映画の難しい部分はそこにある。この映画は、ドン・キホーテの言葉を伝える映画ではなく、生き方を伝える映画だからだ。

 

・伝わりにくい主題

 そもそも、この映画の大きな弱点は「なぜドン・キホーテなのか」が問われず終わっている点だ。

 なぜ、主人公は学生映画として「ドン・キホーテ」を撮ろうと考えたのか。

 なぜ、この映画はドン・キホーテを使わなくてはならなかったのか。

 なぜ、現代にドン・キホーテを蘇らせたのか。

 この映画では描けていない。そもそも、テリー・ギリアムがそういう作家ではないし、原作からしてそうだからだ。

 

・物語の中で、誰も改心しない

 ドン・キホーテという物語は、作中で誰か(市井の人々)を啓発することはない。基本的に、ドン・キホーテ一行が訪れる場所でバカをやらかし、終いには石つぶてを投げられ、ほうほうの体で逃げ出す、ということを繰り返しているようなものだ。

 ドン・キホーテが改心させた人物がいたとすれば、それは読者くらいのものだろう。しかし、その読者ですら、ドストエフスキーや著名人らが解説をしないと、ドン・キホーテの精神性に気づくことはなかったのだ。およそ200年という長い年月を、ただ笑われる存在としてドン・キホーテは過ごした。そして、ドストエフスキーやその他の作家が褒め称えた、という理由だけで、「世紀の大傑作」や「不朽の名作」として語られているに過ぎない。

 結局、ドン・キホーテは、彼一人の手では誰の目も啓くことはなかったのだ。

 そんな物語を映画にしたところで、たしかに誰の目も啓くことはできないのではないか、と思われる。

 ただ、同じような境遇の人間には、彼の生き方がまだに描くべき主題だと思われるのかもしれない。そういう意味では、テリー・ギリアム本人にとって、まさに撮らねばならない映画だったのだと思う。

 

・狂人はどこへ行くのか

 物語の最後、主人公は愛したはずの女をサンチョ・パンサとして、狂ったままドン・キホーテの生き方を継承する。このエンディングは、物語の作りとしてはツイストした終わりだと言える。

 一番美しい物語の作りを、元いた場所に帰ること、だとするならば、主人公はCM監督に戻らなくてはならない。もしくは、映画監督だ。ただ、この映画はそうならない。彼は狂人の遺志を継ぎ、自らも狂人となる。

 これはつまり、物語が終わらない、ということを示している。ドン・キホーテの物語は未来永劫続いていく。これを素晴らしいことだ、と受け止めることもできる。しかし、これはつまり終わらない地獄を生きることにほかならない。

 テリー・ギリアムにとっての理想郷とは、もしかするとそこなのかもしれない。ただ、普通の人間にとって、そこは地獄でしかない。

 一体、主人公はどこへ向かうのか。結局は、現実に打ちのめされるだけではないのか。テリー・ギリアムにも、おそらくはわからないのではないか。

 ただ、彼が幸せそうなことだけで、今は良しとするしかない。