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ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

思いではいつもきれいだけど~『ガールズアンドパンツァー 劇場版』を観て~

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 『ガールズアンドパンツァー 劇場版』を観てきました。

 アニメは全く観ておりません。今回、なんだか暇だったので雪崩れ込んだ次第です。

 公開から日数もかなり経っており、今更ではありますが、感想文などを書かせていただきます。あと、映画と一緒に、最近のアニメについての私見なども。

 ネタバレ全開です。

 

 

 

 まず、大変面白かったです。

 ほぼ全編が戦闘シーンという作りで、なおかつその戦闘の種類が豊富で飽きさせない。どの戦闘をとっても、それぞれの戦車及びキャラクターの設定が活かされており、アニメを観ていない自分でもすんなりと楽しめました。アニメを観ていたら、より楽しめたことでしょう。

 観覧車のシーンは言わずもがな、個人的にはイタリアの戦車隊が好きです。ノリが良くて最高。エンディングで三人が歌ってる姿には和む。他には、スナフキンみたいな人たちも人生楽しそうだな、という感じでした。

 戦車映画というと、最近では『フューリー』が傑作でしたが、あの作品とこの作品には共通点があるなぁ、と観ていて感じました。

 それは「コミュニケーション」です。

 『フューリー』でも感じましたが、戦車というものは個人で動かすようなものではない、ということ。その隊の長の命令と、戦車内の長の命令、そこから砲撃手や操舵士が動かし、初めて戦車は動く。戦車内だけでも様々な役割が存在し、ワンマンプレーを許さない構造になっています。そこに生まれる連帯感などが、戦車映画では面白いんだろうなぁ、と感じます。

 また、『フューリー』では、それを擬似的な家族のように描いていましたが、本作での描き方は若干違います。と言うよりも、そこがこの作品を面白いものにしているのだと思います。

 思うに、『ガールズアンドパンツァー』での会話は、度を越して多い。はっきり言って、ずっと誰かがしゃべっているというか、映画と客のテンションが上がるに連れて、会話の分量が非常に多くなります。中盤、疎開地でのシーンでは、極端に会話が無くなる。というか、無いシーンも出てきます。そこから、大学生との戦いが始まり、作戦会議が行うときから、会話量はピークを迎えます。そして、遊園地の戦闘シーンに至っては、誰も彼もがずっと喋ってる状態です。非常に面白い。と言うよりも、最早日常的にすら思えます。そこらの中学生が、電車内でしゃべっているノリに近いです。

 最後の最後、敵ボス戦車との戦いでは、逆に会話は全く無い。緊張感を高め、今までの日常から、一気に非日常へと観客を叩き落とす。この落差も、それこそ、イタリア娘が乗っていたジェットコースターのようで面白かったですね。

 こういう演出がきちんと出来ているところからも、普通に観ていて面白い映画だと思います。

 あと、この手の萌系映画を観ていて感じる多幸感。気持ち悪いですが、これもあります。非常に大きいポイントです。この多幸感というのは、感じる人にとってはずっと観賞中感じることは出来ますが、感じない人にとっては気持ち悪いだけです。

 個人的には、80点です。

 

 

 ここからは、この作品を通じて感じた、日本のアニメに対する私見をツラツラ述べます。全部私見ですので、統計や数字を持ってきているわけではありませんので、悪しからず。また、多分どっかの誰かが同じようなことは既に言っていると思いますので、「新しいことをおもいついた!」というわけでもないです。

 感じたことは、「日常系アニメ」と「ノスタルジー」の類似です。

 

 まず「日常」という言葉ですが、面白い観念です。『日常』というアニメ(マンガも含む)がある意味露悪的にやっていたように思うのですが、この「日常系」という言葉は、普通の言葉の日常とは全く逆の概念です。

 「日常系」という風に銘打たれたアニメのこと如くが、実際には「日常」とは程遠く、それどころか「非日常」であるように感じることが多い、というのは結構普通に言われていることだと思います。これは、もちろんガルパンも同じです。

 個人的に、この「日常系」というのは、それまで流行っていた『新世紀エヴァンゲリオン』などの「セカイ系」への対立概念として浮上してきたのではないか、と思っていたのですが、「セカイ系」と「日常系」というものは対立概念ではなく、非常に密接に関わっている、ある意味で同種の概念なのではないか、というのが最近ふと思いついたことです。

 

 「セカイ系」というのは、主人公やヒロインたちの、ある意味で「日常的」な行為(恋愛が含まれることが多い)が、そのまま世界全体を巻き込んでしまう、という一種の中二病的な世界観ですが、それは誰しもが通る世界観です。アニメ『中二病でも恋がしたい!』でもそういう結論に達していましたが、誰しもが幼少期に万能感に浸る期間があるように、そういう時期があるのだと思います。これは、世界と自己の距離を測る時期でもあるわけです。世界において自分がどういう人間であり、どういう人間ではないか、を理解する時期に、中二病というのは発症すると思います。そして、それは克服されるというより、自己を理解することによって、自然となくなっていくものです。故に、もう二度とあの世界観には戻れないわけです。

 では、「日常系」はどうなのか。

 「日常系アニメ」という名前は、先述の通り、全く「日常的」ではなく、それどころか現実には存在しないような世界観を持っていることが多いです。『らき☆すた』にせよ、『けいおん!』にせよ、日常という形容には程遠い、ある意味でファンタジー世界をヒロインたちは過ごしています。この世界は、ぶっちゃけると「セカイ系」で夢破れた人間たちの楽園です。

 例えば、『けいおん!』は女子高生達による軽音楽部の日常を描いている、というお話ですが、軽音楽部の練習風景などはほぼ描かれず、女の子たちの可愛いいちゃこらをずっと眺める作品になっています。もちろん、何かしらの成長のようなものが描かれますが、基本的にはコミュニケーションそのものを楽しむ作品になります。そして、それは何故だか「日常」と捉えられています。実際にそんなことが日常的かどうかは、ここでは問題ではなく、極度に人生のストレスを無くし、生活の摩擦を全て0に換算した世界に思えます。つまり、そこで「完結した世界」を作っているわけです。それは、「セカイ系」での中二病的な世界とあまり変わっていません。「セカイ系」の世界は自分たちの決断や選択が世界を動かしますが、「日常系」の世界は非常に箱庭化され、どんな風に動いても破滅もしない世界。そこには、生活が存在していないのではないか、と思います。

 そう、「日常系アニメ」や「セカイ系」と呼ばれるものには、「生活」が抜けているように思えます。そして、そのために、「日常系アニメ」のキャラクター達は、成長をしているように見えながら、その実全く成長していない事が多いように思います。『けいおん!』などは、その最たるもので、結局は卒業後も高校時代と同じ世界を大学でも形成している。

 そして、その点で「ノスタルジー」という概念とよく似ているなぁ、と感じるのです。

 「ノスタルジー」とは、過ぎ去った時代を懐かしむ心のことです。昔にあったこと、経験したこと、そして今では感じることが出来ないものに対して、喪失感を感じるこ と。と、思われることですが、経験したことのないものについてもなぜか感じるのが「ノスタルジー」です。これは、非常に見分けにくい観念でもあると思いま す。

  「ノスタルジー」とは、言ってしまえば昔の映像や昔の出来事を、その時の生活を排除して(もしくは、その生活を美化して)、良かったものとして眺めることで生まれるものだと思います。あの頃は良かった、あの頃は希望に満ち溢れていた、という心情はよく分かります。個人的には、大好きです。ただこれは、その時代の未来を切り離して、箱庭化した見方です。未来を知っているからこそ、それを切り離している。

 これは「日常系アニメ」を観ていることに似ています。「日常系アニメ」では汚い社会を意図的に切り離し、この世界は良い、萌え~、と愛でるための箱庭化した世界を観ることが「日常系アニメ」だと思います。「ノスタルジー」は、苦く、つらい21世紀の生活を切り離し、もっと素晴らしい未来を夢見ている昭和世界を眺めているのだと思います。

  しかも、そこには、まるで自らが大人になったような錯覚も含まれます。「日常系アニメ」を観ていると、まるで親になって小さい子供たちを見守っているように感じる、という人を見たことがあります。それは、自分たちのほうが社会の苦さを知っていて、アニメの女の子達はそれを知らない無垢な存在。だから、それを見守っている。という構図になるわけです。それは、ノスタルジーも同じです。現在の苦さを知っているからこそ、ああ、この時代の人達はこうなることも知らないで、純粋に夢見ているんだな、というある意味で上から目線で見ているわけです。それこそ、自分はただこの時代に生まれただけなのに。これほど簡単な自慰的行為もないです。

 個人的に、ノスタルジーにひたるのは嫌いではないですが、あまり過度にひたるのはやめたほうが良いかな、というのが感想です。

 ここら辺を描いている名作は、『クレヨンしんちゃん モーレツオトナ帝国の逆襲』でしょう。あまりにも名作過ぎて、何を今更、と思われるかもしれませんが、この映画もノスタルジーへの耽溺と、そこからの成長が描かれています。この作品では、大人たちがオトナ帝国に言ってしまうと、街の機能が停止します。つまりは、生活の機能がすべて無くなるわけです。ノスタルジーというものが、生活を蔑ろにした概念だという表現がされています。

 この作品の敵、ケンとチャコの描き方は、凄い良い描き方だと思います。彼らは唯一、ノスタルジーの世界での大人であり(青年?)、ノスタルジーそのものとして描かれています。この二人は最後、死ぬことも出来ずに何処かへ消えていきます。そして、ひろしが「あの二人はどこかで生きていくさ」という言葉。これは、ノスタルジーというものは消えることはない、ということです。今の生活の中で、時々思い出すくらいならいいんじゃない、という感じですね。

 

 長々とあれでしたが、ガルパンの多幸感を見ながら、たまにはいいけれど、こういうのばかりを観るのは自重しなくてはいけないな、と思って書いた感想でした。

 失礼しました~。