【ネタバレ】進化とは~EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション~
『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観てきました。
思い起こせば、初代のアニメ版を観てからすでに15年経っているということに驚きました。
正直なところ、初代のアニメ版以降の作品にはそれほどの思い入れはないのですが、ここまできたら全部見よう、という心持ちで見に行きました。
思ったことをつらつらと書きます。
- 正直、3回位泣きそうにはなった
流石に古参?のせいか、ところどころで泣きそうにはなった。これはシン・エヴァンゲリオンを観ていたときにも感じたが、積み重ねてきたものがあるので、正直もうすぐ終わるのか、という感傷で涙は出る。
- エウレカってお母さんでもあったよね
自分でもわりと忘れていたのだけど、初代アニメのときは孤児を引き取っていたよね、と思い出した。一種のギャップ演出にもなっていたけど、キャラクターの深みの部分としても機能していたので、すごくよかった。
- 贖罪というもともとのキャラクター造形
レントン大好きキャラ、という部分がクローズアップされがちになった昨今だが、よく考えたらエウレカの初期設定として”贖罪”があったように思う。それは孤児をひきとり、育てていた部分にもつながるのだが、そういう罪と罰を設定し、そこにどう答えを出していくか、というのは初期のエウレカのキャラ設定としては存在したし、また、それはオタクには非常に刺さる設定でもある。ヴァイオレットちゃんも似たとこあるよね。
そもそも、感情のない少女が戦闘マシーンになるってオタクには大好物なんだよな、という中二病の症例を思い出さずにはいられない。
ともかく、そういった贖罪のキャラクターを久しぶりに出してきたのはすごく良かった。
ただ、エウレカの責任で生まれたブルーアースの人類が差別的な扱いを受けるものの、自分にはどうすることもできない、という贖罪がもっとメインテーマになっていても良かったように思う。そうしなかったのは、それだと話が全然スイングしないからなんだろうな、とは思う。わからんが。
- ”軍人と(少年)少女”という鉄板の組み合わせ
”無骨な職人キャラ”と”純粋な子供”という組み合わせはハリウッドのド定番作劇。昨今だと、ちょっと違うけど『ROGAN』とかもそういう部分が大きかったし、『LEON』だってそう。また、ロードムービーに非常にマッチする。
今作で一番面白いのはロードムービー部分であり、そこにエウレカの一種の成長(軍人として、どのようにこの世界に順応してきたのか)と、純粋な子供の反駁、元々は同じ能力を持っていた存在としての同情など、様々な感情が絡み合い、セリフ一つ一つに重みを加えながら物語が進行する。
だからこそ、アイリスが連れ去られた後、改めて自分の罪に直面するエウレカの慟哭こそ、この物語のハイライトシーンだと思う。自分の好き勝手で世界を壊し、更には最愛の人間ですらも救えず、また失敗する。
そしていじけてからの、アネモネとの会話シーンは、ハイエボリューションをやってよかったと言える部分だろう。終始、アネモネとエウレカのいちゃいちゃシーンはすごく良かった。アネモネの服装にもっとバリエーションが合っても良かったとは思うが。
あと、おばさんネタはもう使い古されすぎているのでやめてほしい。
- グリーンとブルーとか言うくらいなら、もっと色で分けてほしかった。
今回の劇場版、なんとなく話が飲み込みづらかった。というのも、最初に説明がされるのだが、それがかなり情報量が多く、しかも陣営が込み入っているのでよくわからない。
問題としては、グリーンアースとブルーアースが「敵対関係にはないけど緊張関係にある」という飲み込みにくい状態であること。作劇として、きっちりと敵対させてたほうが良かったとは思う。リアルじゃない、ということでそうはしなかったんだろうけど、結局お前はどっちなんだ、という風に思う。
せめて色調とかを緑と青で分けるとか、そういう風にデザインで対処できなかったのか。
あと、名前をカタカナにするなら、もっと変な名前にするとか? ボダラとかあるじゃない。
そう考えると、ガンダムというのは実にわかりやすい。デザインもそうだが、”連邦”と”ジオン”だ。漢字とカタカナで分けている。めちゃくちゃ分かりやすい。星界の紋章だってそうだった。
- アイリスとかいう全くキャラのないキャラ
それ自体を悪いとは言わないが、あまりにも特徴がなくてビビる。こう、なんというか、子供という外形を着込んだ虚無のような存在だな、と思った。ただ、コーラリアンやしそんなもんか、という気もしたし、そのサンプリング感がたまらなくエウレカって感じだ!とも思わなくもない。
初っ端から「そのブローチ、そんな可愛いか?」と思わせたり、物語を推進させることしか念頭に置いてないキャラ造形は、ある意味で好感が持てた。潔い。
- ところどころ、作画崩壊?が目についた
これは本当に驚いたのだが、割と目立つ作画崩壊があって驚いた。一つは、森の中でエウレカとアイリスが口喧嘩をしながら歩くシーンだが、デフォルメにしてもやりすぎじゃないか、というくらいにデフォルメされていた。あそこまで行くと不安になる。
その前にも、貸し金庫から偽造パスポートや紙幣、銃を取り出し、かばんに詰め込むシーンでも、どこかコマ落ちのような動きをエウレカがしていた。もしかすると、入れるべきコマを入れ忘れていたのではないか。そう思うような動きだった。
突貫で作ったんだろうか、と少し不安になった。
- もっとロボットの戦闘があっても良かったかな? というか、ロボット対ロボットの戦闘がほぼなかったような。
エウレカセブンは一応ロボットアニメなので、もう少しあってもよかったのでは、とも思った。最初のホランドとの戦いも尻切れトンボと言うか、あそこをああいう終わらせ方をするなら、最後までに一回はきちんと戦うシーンを入れても良いとは思う。
ロボットのデザインについて批判する声も聞くが、そもそも格好いい戦闘シーンがないから良いも悪いも言えない。無である。
ニルヴァーシュほどの思い入れがないにしても、もう少しなんとかならなかったのか。アムロのリ・ガズィでももう少し戦ってなかったか? いや、あんなもんだったか?
というか書いててふと思い出したけど、ニルヴァーシュにも大した思い入れを感じなかった。搭乗するシーンはもう少しなんかあっても良かったんじゃないか?
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みんな特攻は、話的には分からなくもないけど、やるんならそういう説明をしてもいいのかもしれないな、とは思いました。彼らが自発的に、作られた虚構の世界を救おうとしていることは説明しても良いかもしれない。
みんな特攻しまくるシーンは、ある意味で正しいというか、つまりはデューイの言っている「自ら死を選ぶことが自分という存在の証」に対して、世界を守るという意思を表明し、存在証明をした、という話なんだとは思うんだけど、それでいいのか?とも思わなくもない。それはつまり、デューイが正しかった、という話にならないか?
デューイが正しいかどうかは問題ではないかもしれないが、少なくとも、彼自身を改心させないのであれば、彼のキャラクターを立てた意味が薄れる気はした。
彼自身は、結局は「エウレカに作られた自分が本当に自意識があるか」を問題としていたので、それへのアンチテーゼは「自由意志があることは無意味」とするくらいにしないと意味ない気はする。
というか、最終的には自死しても自由意志があるかはわからない、みたいな納得の仕方してたような(うろ覚え)。じゃ、物語的にも無駄死にでは?
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一番の本筋として、レントンのいない世界を肯定する、という話にしていたんだろうけど、だったらその世界で生きて行くのもいいのでは、とは思ったが、、、、
終わらせ方は、まぁエウレカの最後としてはいいんだとは思うんだけど、お前の十年は何だったの?という気分にはなった。十年をこの世界で過ごしてきて、まぁ大事なこともなにも作らないで、ただひたすら筋トレして酒飲んでました、にしてしまうのはどうなんだろう、とは思った。
贖罪の話にするのであれば、やはりブルーアースの代表としてなんか頑張る、とか、少なくとも対立している二国間の間でもっと頑張っているように描いても良かったんじゃないだろうか。
そのためには、ある意味十年なんてスパンをおいた事自体がやりすぎだった気はする。
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ラストは、ニルヴァーシュの不思議パワーじゃなくて人間的な力で勝ってほしかった。
別の方の考察ブログを読ませてもらって、めちゃくちゃ良い内容だったんだけど、「エウレカとアイリスの関係は偽物が本物を鼓舞する関係」って言ってて「これはクリードと同じ話だ!」とウヒョーってなっていたんだけど、だったら最後はニルヴァーシュの不思議パワーじゃなくて、なんとか人間的な特攻精神で言ってほしかったな、という気はする。これじゃ、結局エウレカも本物じゃね?と。
- そもそも、エウレカセブンとはなにが良かったのか
エウレカセブンの良さというのは、個人的には2つあって、一つは「片思いの成就」と、もう一つは「二度と手に入らない青春」だと思う。ある意味、『ハチミツとクローバー』と物語の推進の仕方は同じなのかな、と思う。
元々、レントンとエウレカの関係性はレントンの片思いで、さらに言えばホランドの片思いでもある。レイとチャールズのレントンに対する思いも一種の片思いだ。
エウレカセブンには各種多様な片思いがあり、それを成就させていくときにカタルシスがある。
「バレエ・メカニック」が名作と言われる理由は、まさにドミニクの片思いが成就したからだし、SUPERCARの『ストーリーライター』が鳴り響く中、レントンとエウレカが抱き合うシーンで涙するのは、やはり片思いが報われたからだ。それが、たとえ物語の進め方が少し変でも、たとえキャラクターの説明が薄くても盛り上がる理由だ。そこの熱量を高める手腕にかけては、凄まじいものがあったと思う。
逆に、そのあとに残るのは悲しさだ。チャールズは圧倒的にスペックで勝っているはずの機体なのに、ニルヴァーシュに追いつけない。なぜなら、チャールズにはもう二度と手に入らない青春が、今そこにあるからだ。
そして、青春は一度手からこぼれ落ちると、もう二度と同じものは手には入らない。
だが、エウレカセブンのアニメ版では、それをやりきった。レントンとエウレカはその青春のまま、遠くに飛び立ち、二度と帰ってこなかった。だから、彼らには誰も手を出すことはできなくなった。
だからこそ、あのラストは最高のラストだったのだ。二度と追いつかない青春の残滓だけを見上げながら、胸の中でなにかくすぶり続けるような、そんな終わり方だったのだ。
ある意味、僕たちのようなファンは、あの頃のエウレカセブンにずっと片思いをしているのかもしれない。だから、性懲りもなく新作が出れば見てしまう。そして、げんなりして帰る。
ただ、その一連の行為こそが、あのチャールズのように、二度と追いつけない青春を追いかけることと同じなのだとしたら、また僕たちは劇場に足を運ぶに違いない。