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ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】誰が僕らを街に閉じ込めるのか~『エージェントウルトラ』を観て~

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 ジェシー・アイゼンバーグ主演の『エージェントウルトラ』をDVDで観ました。特にいい作品、とは聞いていませんでしたが、とりあえず楽に見れるものを観たいと思ったので借りました。

 考えたことをツラツラ書きます。

 

 

ジェシー・アイゼンバーグはいつも通り

 この役者好きなんだけど、いつも同じ役をやっているので、そろそろ変革が求められるんじゃないだろうか、といつも考えてしまう。『バットマンVSスーパーマン』でもそうだったし、別にそれが悪いわけではないんだけど、もっと幅が出てもいいのに、と思う。

 今作についても、結局はナイーブなヤク中といういつも通りなので、適役ではあるんだけど、そろそろその殻を破っていかないと、ヘイトを貯めるだけのような気がする。

 

・「街から出られない」ということの悲しみ

 数年前に流行った「マイルドヤンキー」という言葉は、今思うとすごく失礼であると同時に、本質を隠してしまう言葉だったなぁ、と考えてしまう。

 当時のマイルドヤンキーへの評価は、基本的には金稼ぎの対象でしかなかったわけだが、冷静に考えてみると彼らは「街から出られない人間」だったわけだ。それを都会の人間が冷笑的に名前をつけて、定義しなおし、金を吐き出す層として認識したわけだけど、その実はもっと切実な存在である。というよりも、社会的な構造が生み出した存在であり、もしかすると治癒すべき対象だったかもしれない、という認識が次第に広がっているように感じる。(この言い方もかなり失礼なので、うまい言い方が思い浮かばなくて申し訳ないが)

 ちょっと言い方を変えるなら、マイルドヤンキーは次第に「サイタマノラッパー」に認識を変えていっているように感じる。彼らは、悲しいが落伍者であり、才能も努力すらできないが、それでも生きている、という存在なのだ。それ自体を治癒するとかそういうものではないのかもしれないが、彼らを産んだのは資本主義社会であり、国道に立ち並ぶ商業施設達(ファミレスやドンキホーテなど)がその成果である。そして、そこの養分となるしかない人間たち。

 僕はこの映画の主人公に、似たような悲しさを感じた。たぶん、そんなことは描いていはいないはずなのだが、街から出られない主人公の姿は、結局はつまらない日常を空想(大麻付き)で埋め、愛する彼女(それだけが彼の全て)を両手に抱きしめながら、謝罪の日々を過ごすのだ。そして、そのまま過ぎていくだけの未来。それはもう絶望でしかない。

 しかもそれは、彼ではなく、政府の中央からの圧力が原因でもある。その構造は、資本主義の最果てと似ているなぁ、と感じた。

 彼は自分を責める。自分の弱さが彼女を苦しめ、この街へと自分を釘付けにしている。しかし、それは彼だけのせいではない。彼はそのことを知らないが。しかも、中央の決定により、その生命すら勝手に決められる。その動きも資本主義的だなぁ、と感じる。

 資本主義と社会主義は、大本は同じものだ。ただ、方法論が違うだけである。

 

・「俺よりも優秀だ」の意味

 ウォルトン・ゴギンズが主人公に語った最後の言葉は、結構いいなと思った

。「俺は好き勝手に動けないんだ」と言う彼は、結構好き勝手に動いているようにも見えたが、実際にはやらされているだけなのだ。これは主人公の街から出られないことと対応している。

 ここはもしかすると、彼にも自由意志がそれなりにあるのに、その責任を転嫁しているだけなのかもしれない。彼は人殺しを好きにやっているのに、それを「俺の頭をいじった奴らの命令でやってるんだ」とか言って、実は好き勝手やってただけなのかもしれない。

 主人公はそうではなく、全てを自分の責任として、自らの人生を背負った、とも言える。「僕は、僕が命令している」と責任を転嫁しない。だからこそ、ゴギンズよりも優秀な人間なのだ。

 

・しかし、それはあくまでも資本主義の話だ

 最後、本当のエージェントになったことでこの映画は、ダメな作品になったと思う。ただの楽しいだけの映画にしては重苦しい映画で、最後はヒーローになりましたよ、という感じで終わったが、それはシステムへの敗北でしかない。

 もしかすると、それも皮肉にしているのかもしれない。最後のアニメーションの残虐さは爽快さより、ただただ後味の悪さだけが残る。

 

ジョン・レグイザモとかいう無駄遣い

 いいですね。こういう映画にもでるのがいいところ。