読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】爆弾でハッピーになったら、次は黒澤映画だ~『マグニフィセント・セブン』を観て~

www.youtube.com

 デンゼル・ワシントン主演、アントワン・フークア監督の『マグニフィセント・セブン』を観てきました。

 ボケっと観ながら考えたことを書いていきます。

 

 

・気分はもう西部劇全盛期

 この映画のすごい所はたくさんあると思うが、実際に馬を走らせ、建物を焼き払い、人を沢山一つの画面に出していることが既に凄い。というより、本当に昔の西部劇と同じことをやっている。そして尚且つ、こんなに金をかけてるのに説教臭くない。素晴らしい。

 一応、勧善懲悪という物語の骨子はあるものの、この監督らしいというべきか、それだけでは済まさない何かがある。それはもちろん、この映画の原案でもある『七人の侍』という作品がそうであったからではあるが。

 

・四の五の言わないで戦闘だけ見とけばいい

 この映画の大きな弱点は「主人公たちの動機が薄い」に尽きる。これは『七人の侍』も実はそうなんだけど、そこには大きなギミックがあるからだ。『七人の侍』という作品に出てきたあの七人は、もちろん浪人ではあるが、言わばもともとは侍だったわけで(一人を除く)、つまりは何か(主君)を信奉し、仕える存在を求めていたとも言える。だからこそ、食い扶持を稼ぐため、という目的以上に、自分たちを戦へと駆り立てる絶対的な存在をどこか求めていたのではないか。それが次第に村を救うという動機につながっていく。これは、あの時代の日本という社会構造だからこそ作れる物語だ。だから、あの映画は不朽の名作になっていると個人的には思う。

 それに対して、『荒野の七人』や『マグニフィセント・セブン』にはこの社会的な構造がない。軍隊出身者を置いてそういう風にすることも出来なくはないが、おそらくはアメリカではそういう人は少なかったのだと思われる。みんな根っからの自由主義なのだろう。

 だから、主人公たちはやはり荒くれ者でしかなく、社会構造的な話は少しピント外れになってしまう。『荒野の七人』では、『七人の侍』とほぼそのままに、「最後に勝ったのは農民だ」という趣旨の発言をする。また、途中で「俺はお前のおやじのように、土を耕し、何年も我慢することは出来ない」という、言わば農民への礼賛を口にさせるが、やはり日本における武士と農民との関係と比べると、いじめっ子といじめられっ子の関係のようにしか見えない。

 今作に至っては、その構造への言及すら省いている。ここは英断だと思うし、個人的には賞賛に値する部分である。

 その代わりにこの映画が用意したのは、大量の火薬と血だ。

 この映画は本当に戦闘シーンが楽しい。それに尽きる。7人全員にそれぞれの見せ場がきちんと用意されているし、しかも飽きさせない。

 こういった映画では、必ず最初の大きな闘いは圧勝で終わるものだが、そのシーンでどれだけ観客を引き寄せられるかに勝負がかかっている。この映画はその点でも圧勝だ。イ・ビョンホンがナイフで切り刻み、インディアンは恐ろしい威力の矢を放ち、そして熊のような狩人が、何故か担いでいる銃を使わずに体当たりで相手をブチ殺していく。

 銃を放てば相手は吹き飛び、ナイフを投げれば壁に釘付けにされ、そしてクリス・プラットは妖艶に笑う。それだけで最高の映画だ。時代背景も時代考証もいらない。そういうのが見たければ、黒澤映画を見たらいい。それも最高の映画だから問題ない。

 

イーサン・ホークの魅力

 出演者が全員良かったと言えるが、中でもイーサン・ホークが本当に良かった。と言うよりも、イ・ビョンホンとの、もはやホモセクシュアルな関係すら感じさせる中の良さが本当に見ていて良かった。最後の銃撃戦で、叫びながら塔から銃を撃っている時、楽しさの中に悲哀が感じられた。

 イーサン・ホークを主役にしても良かったくらいだ。ある意味、彼の演じていた人物こそがあの時代に、なにか自分の信じるべきものを求めていた人物なのではないか。戦争が終わり、敗残した後、彼には人殺しの名誉だけが残っている。尊敬と畏怖の念を陰のように従えて、耳元には人を殺した因果がつきまとう。その中で、何も言わず付き従うイ・ビョンホンのような仲間こそが、彼の余生を救ったに違いない。

 そしてそんな人間が、本当に誰かのために、そして自分のために再び銃を握り、戦うというのであれば、それこそがアメリカにおける『七人の侍』になり得たように思う。彼らが信じていた正義、彼らが守ろうとしていた街、全てが終わった後で残されたものが果たして何だったのか。そういう話にもしもしていたら、『荒野の七人』は超えていたかもしれない。というか、デンゼル・ワシントンをそういう話に持って行かなかったのは、個人的には大きな不満。まぁ、私怨の復讐でした、というのはそれで悪くはないし、もはやそこら辺はどうでもいいか、とは思ったが。

 そもそも、『荒野の七人』の主人公も軍人という設定を使う予定だったらしい。なぜ変えたのかよくわからないが、やはりアメリカには合わない精神なのかもしれない。

 

・やはり『七人の侍』って、本当に素晴らしい脚本ですね

 前述した通り、『七人の侍』は不朽の名作であり、あの時代の日本だからこそ生まれた悲しい物語なのだ。それは言い換えれば日本的な作品ということなのだと思う。

 そもそも、あの村を襲った野伏というのも、もとは武士なのだ。つまりは、主人公たちと変わらない存在なのだ。そこについては『荒野の七人』も同じだ。彼らと主人公を分けるものは何なのか。それは「正義」や「大義」と言ってしまえば簡単だが、そう簡単なものではない。自らの持っている信条であったり、哲学であったり、色々なものがあり、その結果として彼らは浪人と野伏にわかれたに過ぎない。そしてどちらも、言わば自分たちが仕えるべき存在を求めているのだ。野伏の場合は、それは本能や、頭目という仮の君主なのかもしれない。主人公たちは、そうなれなかった、言わば半端者たちだったのかもしれない。しかし、その半端な存在(浪人)だからこそ、彼らは人を助けることが出来たのだ。

 そして、どれだけ頑張ってみても『荒野の七人』には出せなかった人物が菊千代だろう。彼の存在は、『七人の侍』の社会問題を大きく取り上げる一因だ。彼はもちろん、武士を容赦なく叩く。偉そうにしやがって、何が武士様だ、と言ってのける。しかし返す刀で、「農民だって卑怯者だ。奴らは自分たちが食う分の米を絶対に持ってるし、蔵を漁れば落ち武者からぶんどった刀や槍をもってやがる」と、これまた農民までこき下ろす。そして、最後には泣き出す。彼が叫んでいたのは、人間という存在が持っている両面性であり、醜くも汚いが、それが生きているということだ、ということに他ならない。これはそのまま、主人公たちと野伏との関係にも似ている。それは人間の弱さであり、同しようもない部分なのだ。

 ただ、その中でも、自分を顧みず、他者のために戦うのもまた人間なのだ。

 『マグニフィセント・セブン』は、残念ながらそこまでの深い作品にはなっていなかった。ただ、それができていたなら、間違いなく歴史的な作品になってしまうので、出来ないのが普通ではある。

 悪くない映画だし、映画館で2017年に西部劇を観るのも一興だとは思う。