ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

良い奴! アメリカ!~『ブリッジ・オブ・スパイ』を観て~

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 映画『ブリッジ・オブ・スパイ』を観てきました。近年のスピルバーグ監督作品としては非常に評価が高く、Rotten TomatoesやIMDBでもポップコーンが弾けまくってる作品です。

 作品の内容としても、この時代に流すべき主張を描いている大作です。

 ただ、個人的に言うと、今ひとつでした。色々とネタバレのことをぶつくさつぶやきます。

 

 

 

 

 まず言いたいのは、なんで主人公はスパイを助けるのか分からない。

 別に、理由が全くわからないわけじゃない。それで、人の命を救えるし、それが法律だからだ。主人公も映画で最初のほうで言ってる。「アメリカは法律が作ってるんだ」と。別にそれはいい。よく分かります。

 ただ、だからと言って、このトム・ハンクスがスパイを助ける理由にはならない。葛藤は少し描いていたけれども、基本的に主人公は家族のことも顧みず、勝つ見込みの無い弁護を引き受ける。(しかも勝ってしまったために、家に銃弾までぶち込まれる)

 それがなぜなのか。例えば、そういう、何か事件が過去にあったのか。それとも、揺るぎない信念があったのか。それとも、単にトム・ハンクスが良い人っぽくて、困ってる人を見たら、助けずにはいられない、草なぎ剛みたいな人なのか。この映画では全く描かない。

 多分、さっき言った、映画の冒頭に出てきた「ルールを守る」という信念が、彼をそうさせた、というのが答えなんですかね。そうだとすると、スパイを交換するのは、そういうルールはあるの? 戦争法みたいなので。あったら、主人公の出番は全く無いわけですよね。

 ここで主人公がとってる行動はルールとかどうでもよくて、人を助けることが一番大事なことだ、という自分の主義を持ってる、ということでしょう。だからドイツでも、学生を助けようとするわけでしょう。

 追い打ちを掛けるように、最後の最後、ニュースでスパイを交換したことを告げる時、聞き逃してはいけない言葉が出てくる。「大統領が特例で」と言っている。これはルール内の話なのか? それってだから、ルールなんてどうでもいいってことじゃないの?

 で、結局主人公がこの事件に巻き込まれた唯一の理由というのが、ただ彼が【良い人】だったから、に落ち着いてしまうんですよね。しかも、何の説明もなく。

 それで僕はもう、トム・ハンクスだから、こういう主人公なんですよ、みたいに感じたわけですよ。何も説明しないけど、トム・ハンクスが渋い顔で寒い中頑張ってたら同情するでしょ? とか、ソ連のスパイはおあつらえ向きに老人を用意して、可哀想でしょ? 好きな絵も書けないし、好きな音楽も聞けないし、みたいなノリで話を進める。で、こういういい人たちだから、助けなくちゃダメでしょ、みたいな。もちろんそれは否定しないし、そういう考えの人とは仲良くしていきたいけど、この映画ではただの甘えにしか見えないんですよね。

 

 まぁ、これぐらいなら、普通に面白くなかったな、で終わったと思います。特にブログにも書かなくて良いかな、と思いました。映像的にはすごい良いし、ソ連のスパイのおじいさんを含め、KGBのおじさんとか良い味出してる人がいっぱいいて、そこそこ楽しめるし。主人公も、人の良いおじさんが頑張ってドイツまで行って、色んな人を助けたいい話だね、で終わる話だと思います。

 一番気に入らなかったのは、東西のスパイの扱いの描写です。結構これはイラッとしました。

 と言うよりも、これのせいで、それまでは割と好意的に思えたこの作品が、すごく下品なものに思えました。

 早い話が、「なんだ、ただのアメリカ万歳映画じゃん」と思ったわけですよ。

 

 まず、ソ連で捕まったスパイやドイツで捕まった学生の待遇の酷さ。これは、たしかにそうだったと思います。あの時代、ソ連とかの拷問とかやばかったとは思いますし、あれ自体はありがちではありますが、捕虜の描写としては正しいと思います。

 ただ、アメリカで捕まったソ連のスパイは、全くそういう描写がありません。と言うよりも、されてない。ていうか、絵まで書いてる。絵の具もらってる。

 実際にそうだったのかどうか、というのは、はっきり言って誰にもわかりません。アメリカで捕まったスパイは、本当に裁判をきちんと受けて、勝てばきちんとした収容所で、刑期を全うできたのかもしれません。逆に、ソ連でつかまった人はもう寝る間も惜しんで拷問水攻めライトビカーで暖房設備も全く無い、いや本当にもう、同じ人間とは思えないような責めを与えるわけですよ。

 もちろん、本当だったかもしれませんよ? でもそれって、ハリウッド映画でやっちゃうと、もの凄いプロパガンダ臭がしませんか? というか、すごい下品だと思いました。

 これって、早い話が「アメリカは凄い民主的で良い国で、他の国は利己的でひどいです」って言ってるようにしか見えないんですよね。

 もちろん、主人公に対しての激烈なバッシングとかで、アメリカの暗い部分を見せてる、とも言えるかもしれません。ただその考えって、あの頃のアメリカだったら普通ですよね。銃弾打ち込むかどうかはあれですけど。しかもそれって、主人公が勝手に裁判で勝ってしまったから起こってることじゃないですか。スパイとかは、国が個人を蔑ろにした結果捕虜になってるわけでしょ。意味合いが違うと思います。しかも、ソ連の捕虜への扱いも、普通だと思うんですよ。戦時中なら。

 でも、捕虜の扱いの一点だけ、えらいアメリカを美化してるんですよ。これは相殺できないですよ。何回も言うように、本当にそうだったから描いているんだとしても、アメリカがそれをそういう風に描くのは、フェアじゃないんですよ。死体に蹴り入れまくってるようなもんなんですよ。

 ぼくはもっと、おじいちゃんをボコボコにしたらいいのに、と思いました。凄いひどい発言だとは思いますけど。それでやっとイーブンだと思うんですよ。特にハリウッドの映画なんだから、それくらいやらないと、ホームアドバンテージ?みたいなのあるじゃないですか。そこのさじ加減間違うと、プロパガンダ映画になってしまう。

 で、なんでこの話がイラッとしたかって言うと、僕は上述した、トム・ハンクスの言葉が気に入っていたからです。トム・ハンクスは、スパイの弁護人としてCIAにこう聞かれるわけです。「あいつはなにか喋ったか」と。それに対して、弁護士のルールとして、依頼人との話は他言できない、と答える。CIAは「戦争中なんだから、ルールなんかどうでもいいだろう?」と言う。そこで、トム・ハンクスは逆に質問をする。「お前の親はどこの国から来たんだ?」と。そして、自分もアイリッシュだと言い、何がアメリカ人を決めるか、という所で「ルールがこの国を作ったんだ」と諭す。だから、ルールを破ることは出来ない、と。

 僕はこのシーンだけなら、100点満点です。大好きですし、この話はこの時代にこそ求められている答えだと思ったからです。

 異文化を許容し、すべての人にできるだけ平等であろうとする、という信念があると思ったからです。それがこの映画の根本なんじゃないかな、と思ったんですよ。

 なのに、ですよ。やってることはルール関係ないって感じだし、スパイの扱いの描写に関して言えば、アメリカ以外はダメダメですよ、という感じですよ。

 

 そういう意味で言うと、最後の結末もひどいですよね。

 だって、あのおじいさんKGBに殺されますよ。「ハグしてもらえるか、黙って後部座席に座らされるかで分かる」という言葉をそのままで受け取るなら、ですけど。

 で、それに対して、主人公は全く何の葛藤もないんですよね。アメリカ人を救うために、心通わせたはずの老人を断頭台に送っておきながら、主人公は全く悪びれず、「これで故郷に帰れるよ」なんて言うわけですよ。KGBに「彼の帰国後の処遇は?」なんて聞いてましたけど、結局は何の意味もない質問でした。なんか、「処遇がひどそうなら、返さないでおこうかなぁ」とかいうのも無いですよ。

 いや、故郷で死にたいっていう気持ちも分からんでもないですけど、そこはもっと丁寧に描写しても良かったんじゃないのか、と思います。だって見ず知らずのアメリカ人パイロットと、少しでも話したおじいさんとで、そんな簡単に天秤にかけれますか? それをただの美談にするってのはすごく不謹慎だと思いますよ。こう、アメリカ人を救うために、死んでくれっていうシーンは必要じゃないんですか。

 それって本当に【良い人】なんですかね。

 で、アメリカ人二人を救って、それをニュースや新聞で大々的に報道して(ニュースで流すか?って思いましたね)、アメリカ人で一番の嫌われ者だった主人公の面目躍如、という感じで終わりましたけど、あれも裏を返せば「アメリカ人を助けたから」みんなから好かれたのであって、それって異文化の許容とは全く逆ですよね。それ自体は美談じゃなくて、アメリカ人として恥ずべき部分じゃないんですかね。わからないですけど。

 それで、これみよがしにフェンスを飛び越えてく若者が車窓から見えるわけですよ。ドイツでは銃殺だけど、アメリカでは自由だ! アメリカ最高!って感じで。すごい失礼ですよね。だって、今までの話総括すると、アメリカで入国手続とらない奴は死んでもいい、ってことじゃないですか。そういう意味でのルールですよってことでしょ。しかも、別にそんなルールもアメリカ人じゃなければどうでもいいしね、って感じですよ。

 

 まぁ、というのは僕の心が荒んでるからなんでしょうね。

 非常に映像も綺麗で、楽しい映画でした。

 個人的には、50点です。

大人の童話~『The Walk』を観て~

 『The Walk』を観てきました。2D字幕版です。

 ネタバレで感想垂れ流していきます。

 

 

 この作品は、ワールドトレードセンターを綱渡りした人の話ですので、そのシーンが一番すごかったです。と言うよりも、そのシーンだけの映画です。2Dで観てもビビりました。凄いな、と。

 「実際にこんなに行ったり来たりしてたのか」とか、「結構やっつけ仕事の割にきちんとやってるんだな」とか、「そもそも徹夜明けで体力凄いな」とか、映像的にもテンション的にもとにかく凄い。これはもう、主演のジョセフ・ゴードン=レヴィットの力が大きいと思います。演出ももちろん良いのですが、顔芸というか、緊迫感とその中にある茶目っ気、全てを語れる演技力はさすがだな、と思いました。

 この綱渡りシーンのためだけに、3D観てこようかな、と考えています。

 

 と、言うのも、他のシーンは全体として普通だからです。

 一応、実話にもとづいている話ですが、語り口は童話を読み聞かせるような印象でした。主人公がなぜか自由の女神の上に立ちながら、追憶の日々を語る、みたいな。それが既に「ダサッ」となる方にはアウトな作品ですね。僕はかろうじてこらえました。なんか、学校で『昔のアメリカ』みたいなビデオ観てるイメージですよね。

 なぜそうしたのか、と言うと、多分尺の問題と、よりファンタジックに語りたかった、ということがあると思います。主人公の若い時代からの話をなぞるので、時間が足りなかったんでしょう。ドキュメンタリーっぽく撮ったり、主人公と違う目線からの描写を多くすればするほど、煩雑な語り口になる、ということだったんだと思います。その点、主人公が語れば、内面描写も素早くできる、という感じでしょう。ただ、なぜ自由の女神の上で語らねばならないのか、という疑問は凄くあります。たぶん、アメリカというものを象徴したかったんだと思いますが。

 観ていて、ティム・バートンの『ビッグフィッシュ』っぽいなぁ、と感じました。大人のお伽話。最初にサーカスの話で始まるからでしょうか。仲間を増やしていくところも、善人しかいないというか、クズだけど良い奴、みたいな。あと、フランス人ならみんな友達、みたいなノリ。ここら辺は、アメリカの文化かもしれないですね。同郷の人で連帯感を持つ、みたいな。特に、この時代を描く上で「古き良きアメリカ感」を出すと、客が喜ぶってのはあると思います。

 仲間との潜入シーンは良かったですね。面白かった。JPのキャラは凄くいいというか、主人公の「丸めこめ」の一言でなんとかしてしまうとか、サミュエルL・ジャクソンもびっくりの交渉人ですよ。ただ、彼らがなぜそうまでしてたのかは不明でしたね。お金払ってたんでしょうか。ビルで働いてる人も「こりゃ犯罪だぜ、、、、、最高じゃねーか!」というノリで参加してましたが、そこまでして彼にメリットは何もないです。世に名前も出ないし、ワールドトレードセンターの屋上へのフリーパスももらえない。ただ、自分は何かを成し遂げたのだ、という誇りが彼を救ったのか。そこら辺も描かれてないし、原作にもないのかも知れません。この仲間たちのノリは、基本的に凄い面白かったし、作品をドライブさせることは成功していましたが、結局は中身の無い話に見えたことはマイナスかな、と思いました。

 

 なので、全体として観ると、ちょっと粗が目立つというか、ノリの良さで全部行ってしまったような映画に思えました。

 ただ、綱渡りシーンのためだけに観るってのは全然ありですね。

 個人的には、70点です。

思いではいつもきれいだけど~『ガールズアンドパンツァー 劇場版』を観て~

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 『ガールズアンドパンツァー 劇場版』を観てきました。

 アニメは全く観ておりません。今回、なんだか暇だったので雪崩れ込んだ次第です。

 公開から日数もかなり経っており、今更ではありますが、感想文などを書かせていただきます。あと、映画と一緒に、最近のアニメについての私見なども。

 ネタバレ全開です。

 

 

 

 まず、大変面白かったです。

 ほぼ全編が戦闘シーンという作りで、なおかつその戦闘の種類が豊富で飽きさせない。どの戦闘をとっても、それぞれの戦車及びキャラクターの設定が活かされており、アニメを観ていない自分でもすんなりと楽しめました。アニメを観ていたら、より楽しめたことでしょう。

 観覧車のシーンは言わずもがな、個人的にはイタリアの戦車隊が好きです。ノリが良くて最高。エンディングで三人が歌ってる姿には和む。他には、スナフキンみたいな人たちも人生楽しそうだな、という感じでした。

 戦車映画というと、最近では『フューリー』が傑作でしたが、あの作品とこの作品には共通点があるなぁ、と観ていて感じました。

 それは「コミュニケーション」です。

 『フューリー』でも感じましたが、戦車というものは個人で動かすようなものではない、ということ。その隊の長の命令と、戦車内の長の命令、そこから砲撃手や操舵士が動かし、初めて戦車は動く。戦車内だけでも様々な役割が存在し、ワンマンプレーを許さない構造になっています。そこに生まれる連帯感などが、戦車映画では面白いんだろうなぁ、と感じます。

 また、『フューリー』では、それを擬似的な家族のように描いていましたが、本作での描き方は若干違います。と言うよりも、そこがこの作品を面白いものにしているのだと思います。

 思うに、『ガールズアンドパンツァー』での会話は、度を越して多い。はっきり言って、ずっと誰かがしゃべっているというか、映画と客のテンションが上がるに連れて、会話の分量が非常に多くなります。中盤、疎開地でのシーンでは、極端に会話が無くなる。というか、無いシーンも出てきます。そこから、大学生との戦いが始まり、作戦会議が行うときから、会話量はピークを迎えます。そして、遊園地の戦闘シーンに至っては、誰も彼もがずっと喋ってる状態です。非常に面白い。と言うよりも、最早日常的にすら思えます。そこらの中学生が、電車内でしゃべっているノリに近いです。

 最後の最後、敵ボス戦車との戦いでは、逆に会話は全く無い。緊張感を高め、今までの日常から、一気に非日常へと観客を叩き落とす。この落差も、それこそ、イタリア娘が乗っていたジェットコースターのようで面白かったですね。

 こういう演出がきちんと出来ているところからも、普通に観ていて面白い映画だと思います。

 あと、この手の萌系映画を観ていて感じる多幸感。気持ち悪いですが、これもあります。非常に大きいポイントです。この多幸感というのは、感じる人にとってはずっと観賞中感じることは出来ますが、感じない人にとっては気持ち悪いだけです。

 個人的には、80点です。

 

 

 ここからは、この作品を通じて感じた、日本のアニメに対する私見をツラツラ述べます。全部私見ですので、統計や数字を持ってきているわけではありませんので、悪しからず。また、多分どっかの誰かが同じようなことは既に言っていると思いますので、「新しいことをおもいついた!」というわけでもないです。

 感じたことは、「日常系アニメ」と「ノスタルジー」の類似です。

 

 まず「日常」という言葉ですが、面白い観念です。『日常』というアニメ(マンガも含む)がある意味露悪的にやっていたように思うのですが、この「日常系」という言葉は、普通の言葉の日常とは全く逆の概念です。

 「日常系」という風に銘打たれたアニメのこと如くが、実際には「日常」とは程遠く、それどころか「非日常」であるように感じることが多い、というのは結構普通に言われていることだと思います。これは、もちろんガルパンも同じです。

 個人的に、この「日常系」というのは、それまで流行っていた『新世紀エヴァンゲリオン』などの「セカイ系」への対立概念として浮上してきたのではないか、と思っていたのですが、「セカイ系」と「日常系」というものは対立概念ではなく、非常に密接に関わっている、ある意味で同種の概念なのではないか、というのが最近ふと思いついたことです。

 

 「セカイ系」というのは、主人公やヒロインたちの、ある意味で「日常的」な行為(恋愛が含まれることが多い)が、そのまま世界全体を巻き込んでしまう、という一種の中二病的な世界観ですが、それは誰しもが通る世界観です。アニメ『中二病でも恋がしたい!』でもそういう結論に達していましたが、誰しもが幼少期に万能感に浸る期間があるように、そういう時期があるのだと思います。これは、世界と自己の距離を測る時期でもあるわけです。世界において自分がどういう人間であり、どういう人間ではないか、を理解する時期に、中二病というのは発症すると思います。そして、それは克服されるというより、自己を理解することによって、自然となくなっていくものです。故に、もう二度とあの世界観には戻れないわけです。

 では、「日常系」はどうなのか。

 「日常系アニメ」という名前は、先述の通り、全く「日常的」ではなく、それどころか現実には存在しないような世界観を持っていることが多いです。『らき☆すた』にせよ、『けいおん!』にせよ、日常という形容には程遠い、ある意味でファンタジー世界をヒロインたちは過ごしています。この世界は、ぶっちゃけると「セカイ系」で夢破れた人間たちの楽園です。

 例えば、『けいおん!』は女子高生達による軽音楽部の日常を描いている、というお話ですが、軽音楽部の練習風景などはほぼ描かれず、女の子たちの可愛いいちゃこらをずっと眺める作品になっています。もちろん、何かしらの成長のようなものが描かれますが、基本的にはコミュニケーションそのものを楽しむ作品になります。そして、それは何故だか「日常」と捉えられています。実際にそんなことが日常的かどうかは、ここでは問題ではなく、極度に人生のストレスを無くし、生活の摩擦を全て0に換算した世界に思えます。つまり、そこで「完結した世界」を作っているわけです。それは、「セカイ系」での中二病的な世界とあまり変わっていません。「セカイ系」の世界は自分たちの決断や選択が世界を動かしますが、「日常系」の世界は非常に箱庭化され、どんな風に動いても破滅もしない世界。そこには、生活が存在していないのではないか、と思います。

 そう、「日常系アニメ」や「セカイ系」と呼ばれるものには、「生活」が抜けているように思えます。そして、そのために、「日常系アニメ」のキャラクター達は、成長をしているように見えながら、その実全く成長していない事が多いように思います。『けいおん!』などは、その最たるもので、結局は卒業後も高校時代と同じ世界を大学でも形成している。

 そして、その点で「ノスタルジー」という概念とよく似ているなぁ、と感じるのです。

 「ノスタルジー」とは、過ぎ去った時代を懐かしむ心のことです。昔にあったこと、経験したこと、そして今では感じることが出来ないものに対して、喪失感を感じるこ と。と、思われることですが、経験したことのないものについてもなぜか感じるのが「ノスタルジー」です。これは、非常に見分けにくい観念でもあると思いま す。

  「ノスタルジー」とは、言ってしまえば昔の映像や昔の出来事を、その時の生活を排除して(もしくは、その生活を美化して)、良かったものとして眺めることで生まれるものだと思います。あの頃は良かった、あの頃は希望に満ち溢れていた、という心情はよく分かります。個人的には、大好きです。ただこれは、その時代の未来を切り離して、箱庭化した見方です。未来を知っているからこそ、それを切り離している。

 これは「日常系アニメ」を観ていることに似ています。「日常系アニメ」では汚い社会を意図的に切り離し、この世界は良い、萌え~、と愛でるための箱庭化した世界を観ることが「日常系アニメ」だと思います。「ノスタルジー」は、苦く、つらい21世紀の生活を切り離し、もっと素晴らしい未来を夢見ている昭和世界を眺めているのだと思います。

  しかも、そこには、まるで自らが大人になったような錯覚も含まれます。「日常系アニメ」を観ていると、まるで親になって小さい子供たちを見守っているように感じる、という人を見たことがあります。それは、自分たちのほうが社会の苦さを知っていて、アニメの女の子達はそれを知らない無垢な存在。だから、それを見守っている。という構図になるわけです。それは、ノスタルジーも同じです。現在の苦さを知っているからこそ、ああ、この時代の人達はこうなることも知らないで、純粋に夢見ているんだな、というある意味で上から目線で見ているわけです。それこそ、自分はただこの時代に生まれただけなのに。これほど簡単な自慰的行為もないです。

 個人的に、ノスタルジーにひたるのは嫌いではないですが、あまり過度にひたるのはやめたほうが良いかな、というのが感想です。

 ここら辺を描いている名作は、『クレヨンしんちゃん モーレツオトナ帝国の逆襲』でしょう。あまりにも名作過ぎて、何を今更、と思われるかもしれませんが、この映画もノスタルジーへの耽溺と、そこからの成長が描かれています。この作品では、大人たちがオトナ帝国に言ってしまうと、街の機能が停止します。つまりは、生活の機能がすべて無くなるわけです。ノスタルジーというものが、生活を蔑ろにした概念だという表現がされています。

 この作品の敵、ケンとチャコの描き方は、凄い良い描き方だと思います。彼らは唯一、ノスタルジーの世界での大人であり(青年?)、ノスタルジーそのものとして描かれています。この二人は最後、死ぬことも出来ずに何処かへ消えていきます。そして、ひろしが「あの二人はどこかで生きていくさ」という言葉。これは、ノスタルジーというものは消えることはない、ということです。今の生活の中で、時々思い出すくらいならいいんじゃない、という感じですね。

 

 長々とあれでしたが、ガルパンの多幸感を見ながら、たまにはいいけれど、こういうのばかりを観るのは自重しなくてはいけないな、と思って書いた感想でした。

 失礼しました~。

人の打算と善意の狭間~『ストレイト・アウタ・コンプトン』を観て~

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 映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』を観てきました。

 この映画は、まったくHIPHOPの知識がない人がみると、より面白いと思います。とにかく、N.W.Aについての下調べをすればするほど、「いい人達が多い」ことに少し首を傾げるような気がしました。シュグ・ナイトを除いて。

 ただ、そういう風に感じる反面、音楽活動をしている人間で、なおかつそれなりに成功している人間というのは、少なからず社会性を持っていなくてはならないことも事実。つまり、あまりにも残虐で冷酷な人間というのは、よほどの力を持っていない限り、限界がきやすいのではないか、とは思います。

 だから、「いい人が多い」というのは、あながち描き方としては間違っていないのかも知れない。

 今回のレビューに関しては、特にその面について書きたいと思う。と言うか、今作で一番好きなキャラクター「ジェリー」について書きたいと思う。ネタバレしかしないです、はい。

 

 

 ジェリー(実際にはジェリー・ヘラーという人らしい)の描き方が、僕はこの『ストレイト・アウタ・コンプトン』の最も好きな部分だ。この映画が映画として素晴らしい物になっている、と感じた理由の一つだからだ。

 ジェリーという人物は、重層的だ。この作品のトリックスターだ。悪人であるし、N.W.Aの理解者でもあるし、社会におけるマイノリティでもある。彼は、ある意味で言葉巧みにイージー・Eに近づき、自らの利益のためにクルーをだます。しかしながら、彼の功績無くしてN.W.Aが成功したかどうかは、非常に懐疑的だ。

 彼はそもそも、コネクションがあった。これは実際にそうだった。ジェリーの昔ながらのコネクションが、レコード会社との契約を持ってくる。あの破壊的なツアーの段取りも、ジェリーの功績だ。ホテルでの乱痴気騒ぎ、素晴らしいステージ、それもジェリーの力の一つだ。

 ジェリーは、いうなればN.W.Aの「産みの親」でもある、というわけだ。これは、映画でも明示的に描かれる。レコーディング中、屋外に出ていたN.W.Aクルーが警官にイチャモンをつけられるシーン。ティーザーにも挙げられているこのシーンは、映画冒頭のアイスキューブが警官に押さえつけられるシーンに似ている。その時、キューブの両親は家から飛び出し、父親が「俺達はお前の味方だ!」と叫ぶ。ジェリーはほぼ同じ態度をとる。「私のクライアントを、色で差別することは許さんぞ!」と叫びちらし、警官に真っ向から立ち向かう。

 このシーンは本当に素晴らしい。この時、ジェリーがどういう心理状態だったのか、非常に説明しづらい。レコーディングを終わらせるため、自分の利益のために叫んでいた、とも言える。ただ、後で映画内で言及されるが、彼自身もユダヤ人という社会のマイノリティなのだ。そんな彼が、差別を受けている人間を前にして、果たして打算だけで警官に立ち向かえたかどうかも疑問だ。思うに、何か一つだけが正解なのではなく、彼はこの時、すべての感情を引っくるめて叫び散らしていたようにみえる。そういう意味で、彼もN.W.Aの共犯者だったのだ。黒人とは別の形で戦うユダヤ人として、彼も戦っていたのだ。

 

 この時、もちろんジェリーはN.W.Aの親という立ち位置になるが、それはN.W.Aというよりもイージー・Eの親代わりでもある。主要メンバーの3人の内、この映画で全く親の影が描かれていないのは、イージーだけなのだ。実際のイージーの母親は学校の理事をしており、ある意味で厳格な両親だったのではないか、と思われる。その親から抜け出し、ハスリングライフを送るイージーにとって、ジェリーは親代わりのように寄り添う。

 イージーがシュグ・ナイトからの暴行を受けた後、ジェリーに会いに行くシーン。このシーンも凄く良かった。そもそも、ジェリーに会う、ということが感動した。レンでもイェラでもなく、ジェリーだったのだ。「シュグ・ナイトに報復を(殺しに行く)」と告白するのが、クルーではなくジェリーなのだ。それほどまで、ジェリーに信頼を寄せるイージー。そして、ここでジェリーがゆっくり諭す言葉も素晴らしい。ジェリーは、イージーに生きるよう説得する。今まで、イージーは、死のうが生きようが関係ない世界に生きていた。そして、自分自身を鉄砲玉へと追いやろうとするイージーに対して、ジェリーはそれこそ親のように、生きることに意味がある、と説得する。ジェリーらしい言葉のチョイスで。

 この時も、ジェリーは果たして打算だけで、そんな言葉を使ったのか。善意が全くなかったとは思えない。というよりも、彼自身にもわからないのではないか。ジェリーは、この後N.W.Aに関する自伝を出すほどには面の皮が厚い人物である。全く打算がないではなかったと思う。それでも、彼はそれも併せ持ったすべての感情を込めて振る舞った。

 

 ジェリーとの別れのシーン。ジェリーの言葉は軽薄だ。帳簿も全て、自分のためにやったのだ。全て事実だ。彼はそういう意味で悪人だし、自分のことしか考えていないようにも思う。そして、全部はクルーのためにやったと言う。これもある意味で事実なのだ。

 ここも、映画の冒頭を思わせる。ドレーの母親が、「全部お前のために」と言っていたことに似ている。ドレーの親は、子供のためと言いながら、家にお金を入れることを要求している。親とはそういうものなのだ。自分の打算と、子への思いが重層的に感情を織り成している。

 そして、子供に捨てられた親は、戻って来いと泣き叫ぶ。情けなく、あまりにも人間的だ。全ての感情がないまぜになり、彼はもう泣くしかないのだ。

 ここで、やっとイージーの両親が完成し、映画はクライマックスに向かう。イージーの死で、映画は終わる。この映画は、僕にとってはイージー・Eとジェリーの映画だった。

 

 この映画が描いていることは、ビジネスにおける打算と善意が交錯する瞬間だと思う。それはどの社会でもそうだと思う。

 社会貢献という偽善的なお題目でお金を稼ぐ人たちというものを嫌う人は多い。それが偽善的だからだ。しかし、偽善という言葉は少し違う。善と偽るというよりも、善も含まれる、という言い方が正しいように思う。自らも大金を稼ぎ、人を助けることもできる。そういう【含善的】な行為というものが、社会を形成しているように思う。もちろん、そのバランスは危うい。どちらかに転んでしまえば、破滅しかないからだ。

 

 

 映画としての出来は素晴らしいの一言。

 ただ、前述した通り、HIPHOPファンからすると、物足りない部分があるかも知れないな、と思いました。ただ僕は、ジェリーのキャラクター形成だけで凄く楽しめました。

 個人的には、80点です。

 

 

ロッキーへのアンサーとしての物語と現実 ~『CREED』の感想~

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 『CREED』を観てきました。

 正直、泣きました。

 それは、映画に感動したから、というよりも、この映画にかけるバイブスというか、熱量にやられたからだと思う。

 ただ、それは旧作である『ロッキー』への熱き思いだけではなく、「ボクシング」というスポーツエンターテイメントに対しての思いだろう。正直、ロッキーファンからしてみれば、凡作に見えるかもしれない。

 

 この『CREED』という作品は、予想をはるかに超えて、現実のボクシングという競技に寄り添っている。というよりも、ボクシングの現状を映画に反映させている。そして、それこそが「ロッキー的な価値」に対して、強いアンサーだと感じた。

 

 例えば、主人公の闘いの現場の変遷。

 最初は汚いメキシコのリング。控室では、数分後に闘うであろう相手がセコンドと一緒に話している姿が目と鼻の先である。

 その次に闘うのは、アメリカの中くらいの会場。相手は地元の強豪で、ここでは先の闘いとは違い、控室は分けられている。

 そして、最後がイギリス・リバプール。巨大な会場。

 ここで、「なぜイギリス?」と思う人もいるかもしれない。「ボクシングといえばアメリカが本場じゃないのか?」と。

 その疑問は半分正解であり、半分間違いなのだ。現在のボクシングの勢力図というものを説明しておきたい。現在ボクシングの最高峰は御存知の通り、マジソン・スクエア・ガーデンである。もちろん、一番でかい興行はそこで行われる。しかし、少し前から急速に力をつけているのが、ヨーロッパでの興行である。クリチコ兄弟やコズロフなど、重量級の強豪ボクサーがヨーロッパに多く出現したことから、大きな会場で派手な演出を行う興行がヨーロッパでも頻繁に行われるようになっている。

 そして、イギリスもその流れに乗って大きな興行を打つようになってきた。そもそも、ナジーム・ハメドの頃からショー的な演出はやっていたし、今回のコンランのモチーフになったであろうリッキー・ハットンや、出演していたアンドレ・ウォードとも闘ったカール・フロッチ、クリチコを破ったタイソン・フューリーなど、いつの時代も強いボクサーを排出する「ボクシング発祥の地」としてのイギリスが最後の舞台になったのは、アメリカと同じくらい派手で大きな興行を魅せる上で現実的な話だったのだ。

 実際、今回のドニーくらいの戦績の親の七光りボーイが、MGMでメインは張れない。ただ、あまり小さい会場だと、カタルシスがない。そこで、敵地の大きな会場でやろう、という脚本は非常に現実的だ。なおかつ、敵地なので判定で負けることにも納得がいく。

 

 この勢力図の変化というのは、ある意味で「ロッキー的な価値」を追い求めるために起こっているとも言える。ここで言う「ロッキー的な価値」とは、【ハングリー精神】と言い換えてもらってもいい。

 つまり、アメリカという資本主義の勝ち組(もちろん、貧しい若者はいるが)の中から強いボクサーが生まれていないのは、他国の貧しいボクサーの方が【ハングリー精神】を持っていて、そのために激しい鍛錬を行い、結果としてアメリカンドリームをつかむ。これが、一般で言うところの「ロッキー的な価値」感だろう。(実際の映画『ロッキー』は、少し違うと思うのだが、それは別の話)

 それがヨーロッパの移民たち、イギリスの労働階級、そしてフィリピンの野良ボクサー達がボクシングでの成功を収めている理由だ、という意見がある。本当かどうかは分からない。それは、ある意味で物語だ。アメリカンドリームをつかむという、典型例としての物語。

 そして、この『CREED』はその物語に対してのアンサーに近いものを持っている。

 主人公は有名なボクサーを父に持ち、資産家の子供であり、大学も出ている、つまりは「ロッキー的な価値」を全く持っていない人間だ。IT機器を駆使し(この駆使している描写の拙さは『ロッキー』映画的だ)、パリっとしたトレーニングウェアで汗を流す。

 つまり、彼こそはボクサーとして成功してはいけない存在なのだ。そして、それは『ロッキー』におけるアポロ・クリードという存在でもある。アポロ・クリードは、『ロッキー』において、アメリカン・ドリームをロッキーに与える存在として描かれる。巨大で、傲慢で、ユーモラスで、憎めない敵として。そして、資本主義の象徴として。つまりは、彼こそがアメリカだったのだ。そして、今作のドニーも、アポロと同じくアメリカを背負う。パンツだけでなく、今作の主役として。「ロッキー的な価値」を無くしたアメリカの比喩になったのだ。

 彼には闘う理由はない。アメリカン・ドリームは、既につかみきった後だ。巨大な邸宅、自動で開閉する門、プロジェクターでYOUTUBEを見て、真っ白なテーブルに着く。

 しかし、それはドニーが手に入れたものではない。そこにこそ、彼の「ロッキー的な価値」がある。実際、他人は彼に何かを持っている、と言う。しかし、彼は何も持っていないと感じる。

 ドニーこそが、ある意味で一番アメリカン・ドリームから遠い人間なのだ。

 だからこそ、彼はすべてを捨てる。そして、「お前はそれを既に手にしたはずだ」と言われるアメリカン・ドリームを自分の手でつかむため、一人でグローブをつけるのだ。

 

 

 この映画では「なぜボクシングなのか」という所は、示されていない。個人的に、そこは一回見ただけでは、これだというものを読み取ることはできなかった。名前を呼ばれたくないなら、それこそボクシングなんかしなければいいのに、とも思う。

 ただ、それがドニーには必要だった、とも言える。それはある意味で、地獄めぐりにも見える。そして、最後には彼はその名前をこそ誇りとし、新たな一歩を踏み出すようになる。その流れは『ロッキー』という作品の根幹だと思う。『ロッキー』は、アメリカン・ドリームの映画とは、若干違う。ロッキーは、もちろん名声や富は得たが、実はそんなものよりも大切なものを得た、ということが『ロッキー』という作品を名作にした理由なのだ。それは、明日を生きるため、何かを成し遂げる男の物語なのだ。

 ドニーはアメリカン・ドリームを得られたのだろうか。はっきり言って、『ロッキー』よりも、そこはドライに描かれている。『ロッキー』のような突き抜けるような感動ではなく、肩に置かれたスタローンの手のように、重たくのしかかる言葉だけがエンディングでは残る。

 

 

 

 映画として、万人にオススメはしませんが、僕は感動しました。ボクシング映画として、金字塔になりえる気がします。

 そもそも、ボクシング番組の質感をかなり忠実に表現しててすごかった。こう、名乗りを上げる時、後ろにベルトを掲げる時の角度とか、完璧でした。毎週WOWOWでこの角度見てるわ、と。

 アンドレ・ウォードをはじめ、普通にボクシングの著名人がオンパレードで、そこもボクシングファンとしては最高でした。ジェイコブ・デュランが結構出ずっぱりなのも笑えました。喋ってるぞ、と。演技してるというか、喋ってる。

 ドニーの動きも、本物のボクサーのようでした。というか、あんなボクサーいます。

 殴るときの動きなどは、わざとオーバーアクトにしているので、そこまで言い出すのはフェアじゃないかな、と。

 難点を言うなら、ボクシングオタク向けすぎるというか。PFPなんて、日常会話では使わないので、アレ分かるのか?とか。アンドレ・ウォードがPFP2位で出てきて、ドニーをボッコボコにするけど、ボクシングファンからしたら「いきなりPFP2位に勝てるはずないだろ」と思うので、ちょっと興ざめだし、知らない人からしても「なんか強そうな人に負けた」くらいで、よくわからないというか。

 そもそも、ドニーは強いのか強くないのか良く分からん、とか。平場がなんかダレるとか。映画としてどうなんだ、と思う所はありました。

 

 ともかく、ボクシング映画を観たいなら、オススメです。

 個人的には90点です。

STAR WARS フォースの覚醒

面白かったですが、僕のエイブラムス嫌いは治りませんでした

 

 『STAR WARS フォースの覚醒』を観てきたんで、簡単なレビューをやります。

 が、僕は監督のJ・J・エイブラムスの作品はあまり好きではありません。ある意味、クローバーフィールドが一番良かったです。そして、最低ランクは『スーパー8』です。なので、あんまりためになるレビューではありません。

 また、STAR WARSの大ファンというわけではなく、ただただテレビでやっていたEP4~6を観つつ、EP1~3をお祭り的なノリで映画館に観に行ったくらいです。特にSTAR WARSグッズに身を包むこともなく、キャラクターの名前も主要キャラクターは覚えているものの、その他は特に調べていない、暗記しようともしていない、という感じです。そんな人間が、またしても祭り感覚で観に行きました。

 上記2点を踏まえた上でのレビューです。

 ネタバレ全開です。

 

 

 

 まず、面白かった点を4つ挙げます。

 

1、序盤の引きの良さ

 これは、いきなり出てくる例の文字情報と音楽。否応なく、「STAR WARSを観に来ました」という感覚を味わえます。その後の戦闘シーンも、銃の音が完全に旧作のそれ。STAR WARSを観に来た、という気分は最高潮。

 あと、絵的に凄い良いと思うシーンとして、ヒロインが最初に潜入している昔の帝国軍軍艦とか、壊れたAT-ATに住んでるシーンなども序盤にあります。これ以降は、特に絵的に良いシーンはないので、ここが一番良かったかもしれません。あとはまぁ、ルークみたいな「このままここで老いさらばえて死ぬのか、、、、」的なノリ。

 あと、あのミレニアム・ファルコンが動きまくってるシーンは、良いですよねぇ。現代のCG技術で動くファルコン号は素直に良かったです。

 

 

2、ハン・ソロ無双

 これはもう、ティーザーからそうでしたが、ハン・ソロが出てくるシーンは抜群に安定しています。これはハン・ソロというキャラクターが持っている魅力と、ハリソン・フォードがこういうやさぐれた役柄が、あまりにも合っているからだと思います。もはや本人そのまんまなんじゃないかと。

 この映画はハン・ソロが出てきて以降、もうほぼずっとハン・ソロがいます。いない時もなくはないんですが、出てないとあまり面白いシーンになっていません。ハン・ソロが画面に出てきて、なんか喋ってるだけで場面が保つ。それも正解ですしね。

 

 

3、会話の面白さ

 フィンとポーの掛け合いなどは、エイブラムスにしては会話が面白いな、とは思いました。この二人の脱出劇の部分はテンポよく進むので、アクション映画としてすんなりと楽しめます。ポーが善人過ぎる。

 ハン・ソロとチューバッカとの掛け合いも、バディものとしての良さが光る。

 

 

4、旧作オマージュの洪水

 これは、スタートレックのリブート作品もそうでしたので、今回もそうするだろうとは思いましたが、旧作へのオマージュや、旧作キャラクターの出演などが、洪水のようにぶち込まれています。酒場とか、兵隊とか、もう、オタクがワイワイ騒げるようになっています。ただ、それがわからないから面白く無い、というほどの物ではないので、別にそこはスルーしても大丈夫です。分かんなくても、この映画観た後に旧作を6作観たら、気づくか、分かるか、まぁ、なんとなく。

 

 

 この上記4点だけで出来てる映画です。

 大部分はハン・ソロです。言うなれば、お話もハン・ソロ家の話なんで、それは当然なんですけどね。

 ただ、これだけで十分面白いし、今回のお祭りで持ち上げられる神輿としては全く見劣りするようなものではないので、そこだけは保証します。

 

 

 

 じゃ、次に、減点というか、これはどうっだったのかな、ということをあげます。

 

 

1、キャラ造形の平坦さ

 例えば主人公の脱走。

 主人公フィンは「殺したくない」という理由でファーストオーダーから逃げ出しますが、実際には「死にたくない」で良かったのはないか、と思います。と言うのも、最初に正気に戻るシーンでは、仲間の死に怯えるところから始まるからです。そこから村人虐殺のシーンで銃を撃たない、というシークエンスに至るわけです。

 ただ、そこで「これ以上殺したくない」となるよりも、「死にたくない」となっている方が良かったと思います。しかも、それなら村人の虐殺よりもストームトルーパーの大量虐殺の方がいい気もしますが。絵的にも、ストームトルーパーの死骸が山のようになってるほうがいいのに、とは思いました。

 大体、「殺したくない」と言っておきながら、いきなり銃でさっきまでの味方殺しまくってて笑いました。そこはもう、終盤まで緋村剣心よろしく「殺さず」で行っても面白かったんじゃないのか。

 と言うか、途中からは「死にたくない」に変わってるんですよね。いつのまにか。最初は「これ以上はもう殺したくない」とか言ってるのに。ここら辺の脇の甘さというか、脚本の甘さがエイブラムス映画にはあるので、ぼくはそこがあんまり好きじゃないです。

 

 カイロ・レンにしても、情けなさがあるという風にするのは、全然構わないんですけど、もっと強いシーンが多くてもいいのに、とは思いました。というのは、情けないシーンの情けなさが半端ない情けなさをさらけ出しすぎだからじゃないかと。物に当たったり、基本的には他人に教えを請いまくっていたり(最高指導者とか、溶けたダースベイダーの仮面とか)。ダース・ベイダーは、ここで味方に当たるわけですよ。それでスゲーやつとか、残忍なやつとか、そういう印象を与えられるんですけど、多分それができないくらいには良い奴ってことにしたいんでしょうけどね。

 

 

2、絵的に凄いシーンはあんまりない

 良い面としてあげた、帝国軍艦隊の砂漠に墜落してるところとか、廃棄されたAT-ATに住んでるとか、最初のファルコン号の戦闘。それ以降で絵的に魅せるとか、撮影技法で魅せるシーンはあんまりありません。エイブラムスは、そもそもそういう監督じゃないので、当然といえば当然ですが。

 ただ、絵的には面白く無いと、説得力が感じられないというか、観てて飽きます。で、飽きないように何するかって言うと、基本的には命にかかわる事件を物語で起こす、というのがエイブラムス映画の流れだと思います。『スタートレック イントゥ・ダークネス』なんかは、10分に一回くらい命の危険が主要キャラに襲いかかってたように思います。歩いて横の部屋に移動するだけで危険に出くわしてたような。今回は、だいぶ緩和されてはいましたが、基本的には変わってないな、という印象です。もちろん、それは場が停滞するよりも良いのかもしれません。娯楽作品だし。

 

 あと、人物の映像的な描写がかっこ良くない。ハン・ソロにしても、あれはハリソン・フォードの演技がいいのであって、映像的に魅力を増幅させてるか、というと微妙な気もします。

 フィンがレイと初めて会って、目を見て何かを感じた、という所も、分かりやすくフィンがうろたえてるので「あ、なんか感じたんだな」という風に見えなくもないんですけど、それを視覚的に表現しないと、「こいつ、可愛い女の子見つけたな」くらいにも見えてしまうんですよ。もちろん、そういう含みがないとは言わないですけど、回想シーンなりなんなりで、こう、フィンから見たレイの印象を映像的に見せないと、すごい平坦な映画に感じてしまうんですね。例えば、凄い後光の中で、彼女の目だけが見えるとか。そういう神話的なシーンがあっても良かったんじゃないかな、と思いました。

 

 それに、エイブラムスは基本的な絵しか見せないのに加えて、今回のSTAR WARSはもともと旧作という素材がいっぱいあるので、それを基に似たようなものを作りまくればいい、ということになったんじゃないかな、と。で、旧作の凄いシーンって最早使い古されているシーンばっかりなので、そら凄いシーンはないよねっていう。というか、そこに作家性を求める監督ではないのかな、と思います。

 

 とまぁ、色々言いましたが、エイブラムス映画にイラッとしない人であれば、楽しめる映画だと思いますし、何の問題もない映画だと思います。

 実際、観ている最中は楽しかったですし、カイロ・レンのマスクも格好いい。というか、最後の殺陣でカイロ・レンが血の出てる腹を殴りまくってる動きは良いと思いました。素晴らしい。

 

 全体としては、75点です。