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ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】「生きること」を手伝うという意味~映画『聲の形』を観て~

 

 

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 映画『聲の形』を観てきたので、ネタバレしながらも、考えたことをただ書きなぐります。

 

 

 

・聾唖あるあるではない

 この映画を観た人はたいがいそう思うと思いたいが、この映画が描いているのは、ヘレン・ケラーの話ではない。眼と耳で違うとかそういう意味でなしに。

 この映画は、コミュニケーションとその結果の話。つまりは関係性とはなにか、という話だと自分には感じられた。そのため、普遍的な話に落とし込めている。

 いじめの話が主題であり、耳が聞こえないことに大した重さは置かれていない。ある意味、障害があることでいじめの重さを軽減してあるようにすら感じる。

 

・『君の名は。』と時期的に比べられることは分かるが、ある意味対極の作品。

 どちらもいいが、こちらは上品な作品。ファンタジー要素はないが、世の中をファジーな認識で写す分、こちらのほうがファンタジーに感じる人もいるかもしれない。

 また、コミックの要素を詰め込みまくっているせいか、かなり駆け足。物語自体は一本道でつながっているが、心情の流れはかなり複雑で、見ていて疲れる部類だと思う。

 

・優しさこそが人を傷つける、という人間関係の難しさを描いた良作。

 ある意味、植野が一番優しいキャラなのかもしれない。彼女だけが本音をぶつけ、自らの意志として人を傷つけていた。誰しもが自分勝手な中で、彼女は自分が自分勝手であることに唯一自覚的だった。あの川井が一番クソなこともそれに拍車をかけている。中盤から出てきた真柴の存在意義はかなり薄いようにも思えるが、顔も良く、性格もよく、いつも人の中心にいるああいうやつは確かにいるな、とは思う。それに、彼には彼の大事なポジションがあるとも思える。

 この映画の不思議な魅力は、全ての登場人物が生きているところにもあると思う。情報量が多いのに、どれが欠けても物語の大事なピースが抜け落ちているように感じる。

 

・この映画を贖罪の映画として見ることはできるが、その答えは一つも出ていない。

 それはヒロインと主人公の関係が恋仲になってしまったからだ。あの関係が冷淡なままであれば、より贖罪の話になったのではないか。

 主人公が入院した後、誰しもが謝りながら互いを傷つけ合うシーンがあるが、あのシーンこそこの映画の白眉であり、この映画を贖罪の一つ向こう側の作品にしている。

 人は他人を思うことですら、人を傷つけてしまうことを表している。

 主人公の母親の足にすがりつきながら嗚咽をもらすヒロインに、自分は思わず泣いてしまった。ヒロインは死ぬことすらもできない自分が情けなく、言葉が喋れたとしても、もはや何も言えなかったに違いない。自分の存在そのものが他人を傷つけている、ということに自覚的な人間であるからこそ、彼女は誰よりも傷ついているのだ。そして、自分を傷つけることと同じように、他者も傷つけている。

 

・生きることを手伝う、という言葉の重さ。

 ポスター等でも使われている、この映画の主題となる言葉。この言葉自体は綺麗事だが、作品を通して聞くと、全く意味が変わってくる。

 障害やイジメの贖罪とは違う意味で、すべての人間が何か欠陥を抱えていて、それを許しながら生きていく。それは他人を許すことだけではなく、自分を許すことも含まれている。川井が叫んでいるその言葉は果てしなく軽いが、ある意味でそれこそが生きることなのだ。何言ってんだ、こいつ、と思わせながらも、彼女もまたその弱さと戦い、生きている。そして、自分を許すことは、優しい人間であるからこそ難しい。その手伝いをしてほしい、という呼びかけはか細く、それだからこそハッとさせる。

 

 償いとは何か。

 植野自分を慰めるために、イジメの相手に優しくすることを否定していたが、果たしてそれで自らを満足させることができるのか。あらゆる行為(距離を置くことですら)がしこりを残す中、誰しもが被害者であり、加害者である。途中退場しかけていた佐原ですら、逃げられなかったのだ。

 贖罪とは他人から許してもらうための行為であるが、自分を許すことこそ、自らを肯定することが贖罪の先にあることではないのか。

 ただ、この映画はそれが答えだとは明示しない。それはもちろん、それが答えではないからだ。この映画は何が答えかを言わないし、そもそも答えなどない。この映画はただ、主人公がこれから始まる剥き身の世界と触れ合ったところで終わる。美談のようであり、これは悲しい結末でもある。世界の汚らしさ、世界の痛みを、今まで以上に受け止めて生きていかなくてはならない。ただ、その世界は残酷で痛みにあふれていながらも、やはり美しいのだ。

 

 

・この世界に出てくる大人たちもまた、身勝手で優しい。

 主人公の母親やヒロインの母親もまた、それぞれに自らの葛藤を抱えながら、間違えながら生きている。ただ、大人たちは子供を肯定し、それを生きる糧にしている。特に主人公の母親の存在は、この映画のどこをとっても清涼剤で癒やしだった。それはヒロインの祖母とも対応した関係だ。惜しむらくは、ヒロインの祖母と主人公の母親の対比が描けていれば。

 

 

aiko歌は削れなかったのか?

 この映画は恋愛だけの映画じゃなく、もっと深い話までできる。もちろん、あの二人のラブストーリーではあるが、その愛とは高校生のただの恋愛だけに終わらない、人生を肯定する話だと思う。

 あの二人の恋愛感情は、確かに彼らを救った。ただ、本当にそれが救いなのかどうかまでこの映画では語れたのではないか、と思う。

 

 

・思想面での『君の名は。』との違い。

 『君の名は。』もまた、肯定の物語である。

 存在の肯定であり、新海誠の美しい世界観は、それこそが世界の肯定であると言える。ただ、君の名は。』は、その部分を映画ではなくRADWIMPSの曲に託しているのではないか、と個人的には感じた。

 あの映画が卑怯であり、それでも感動できるのは、野田洋次郎が持っている底抜けた自己肯定感と、そこからやってくる世界の肯定が鍵なのだと個人的には思う。

 例えば、前前前世』では、ずっと前から君を探しているが、自分が果たして探しに行ってもいいのか?」「探すことが許されているのか?という過程が君の名は。』にはない。それは野田洋次郎の自己肯定感と曲の疾走感で対処している。もしくは、運命というもので必ず出会う誰か、というものを想定している。

 『聲の形において、その問は問われたままだ。答えなど出ていない。ただ、主人公やヒロインに襲いかかってくる現実を、「これでいいのか?」と自らに問いかけながら、必死に対処しているに過ぎない。

 そもそも、耳が聞こえず、しゃべれないことも、いじめの罰として孤独になったことも、すべてどうしようもない現実だ。映画の中盤、植野がこう問いかける。「あの子(ヒロイン)がいなかったら、私たちこんな風にならなかったよね」と。もちろん、そうだったかも知れない。ただ、現実はそうではない。それこそ、ヒロインの耳が聞こえていたら、こんなことにはならなかったかも知れない。主人公と一緒に同じ高校に行って、普通に恋愛をして、普通に生きていたのかもしれない。

 ただ、現実はそうではないのだ。

 だからこそ、主人公は何も言わなかった。彼は現実を味わってきた。その結果、彼もまた耳を閉じて生きてきたのだ。それは世界から自分を守るための逃避だった。そして、彼は何度も自分に問いかけていた。これでいいのか、と。自分の行っていることは、本当にやっていていいことなのか、と。

 それこそ、中島義道が言うところの倫理的な人間だ。彼は善い行いをしているのか、常に自らに問いかけ、悩みながら、答えを出せないまま、そして最後にヒロインを探し始める。そこにすら、自己の肯定はない。彼は告白の時ですら、自分が無様で格好悪く、間違っていると感じた。そして、そうやって生きていくのだ。

 『君の名は。』とくらべて、こちらの方が複雑で、楽しみ方の違う作品だと思う。『君の名は。』で楽しめなかった人も、『聲の形』なら楽しめるかもしれない。

 

 個人的には90点。