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ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】隠されたテーマを探しに~『GHOST IN THE SHELL』を観て~

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 スカーレット・ヨハンソン主演の『GHOST IN THE SHELL』を観てきました。原作の漫画『攻殻機動隊』や、押井守監督作品の『GHOST IN THE SHELL』を、何も見直さず、省みず、ただただ頭を真っ白にして観に行ってまいりました。

 正直、全然面白くなかったです。

 

 

・映像はすごくきれい

 ここに関しては本当にすごかったので、これだけは映画館で観てよかったな、と心の底から思っている。なんというか、家で観たらもっとひどい映画だと思っていたと考えられるので。

 ただ、街の映像は押井守の『GHOST IN THE SHELL』ではなく、『ブレードランナー』に近い、ホログラムを多用したサイバーパンク表現だったことは、少し残念。というか、アメリカ人はあれ好きなんだろうか。押井守の表現していた街は、どちらかと言うと、現在の地続きとしての東京と多国籍文化のハイブリットだったと思うのだが、そういうのはアメリカだとうけないのか、もはや日常的すぎるのか。

 

・やりたいことは分かる

 映像もそうだし、オープニングの義体構築シーンや、最後のシーンで少佐の義体が壊れていくシーンなど、押井守版を原題の実写映像でリメイクした映像などを観ると「こういうのがしたかったのね」と、納得はする。原作ファンへのラブレターというところだと思う。その文面が響いたかどうかはわからない。あまりにも内面を無視した、表層的な恋文に原作ファンがブチ切れないか不安になった。

 最後のクゼ(原作で言う人形使い)との決別も、ある意味ハリウッド娯楽作品として完成させるなら、「そうするよね」とは納得できる。ただ、それだとしたら本当に他の作品と全く変わらないので、「この原作を映画にした意味は無いよね」と冷静になってしまった。全体を通して「俺が押井守版を見た時に感じた感動を共有できない人が作った映画だな」と思った。

 

・これはSF作品として、ちょっと程度が低い

 押井守版と原作は、SF作品である。SFというのはどういう作品かというと、「何かしらの革新的な技術が、人間の世界・思考・構造すらも変えてしまった場合、何が起こるか」ということを表現している作品である。ただ単にカッコいいガジェットがでてきて、楽しい! というだけではない。もちろん、そういうのもないではないけど。

 例えば、この映画がひたすらオマージュを捧げている『ブレードランナー』だって、レプリカント(アンドロイド)という、人間に酷似し、なおかつ意思すらも持つような存在が生まれた時、果たしてどうなるか。そういう思考実験の一つの形であり、そういった作品群の一つなわけだ。そして、原作はそこに「人間とは何か」というテーマ(それは共感できる、ということである、と)も入れていた。映画はそこまで語ることは難しかったが、確実にそのテーマを咀嚼した形で提示しようとはしていた。娯楽作品として昇華するために、レプリカントの長台詞があったりした。もちろん、『ブレードランナー』の映画において、ビジュアル面の功績がなかったとは言わない。しかし、確実に思想面の功績もあった。そしてSF作品というのは、思想面が薄くなるということは致命的になる。

 押井守版にせよ原作にせよ、この点は十二分にカバーしているというか、ここの大きさがあまりにも大きすぎる。ネットという存在と、地続きの先に義体化や電脳化というものがあり、そしてその先に「ネットに生まれる自我」というものであったり、だからこその「ゴースト」という概念が重要になってくる。ここまでくると、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と同じ問題が浮かび上がってくる。「人間とは何か」「何をもって人間とするか」という。

 今回の『GHOST IN THE SHELL』で一番の問題は、その問題を全くなしにして、なんかただの企業の悪性であったりに落とし込んで、本来この作品が語るべきというか、語ってもいい問題を蔑ろにしている点にあると思う。はっきり言って、原作が出たのは1989年である。もはやこの作品で語られてることなど、陳腐化していると言っていい(今でも面白い題材ではあるが)。なので、現在の作品群は、そこから更なるひねりを入れて語ることが求められてしまう。しかしながら、原作を忠実に再現する、という目論見で作るなら、そこが甘くみてもらえる。そこまでの捻りを必要としない。だから、衒いなくやってしまえばよかったと思う。

 それでいながら、街にいっぱい出てるホログラムみたいに「これ原作に忠実な見た目ですよ」「こんなの、押井守版にありましたよね!」とか出されても、「この人、あの作品をそういう風にしか観てなかったんだな」となってしまう。ていうか、そもそも押井守版しか観てないんじゃないか。

 

・普通の映画としてみてもレベル低いよ

 じゃ、普通のハリウッド映画として観て面白いか、というとそれも別に面白くない。

 例えば、バトーの義眼も、別にあそこで目を焼かれて義眼にする必要が全くない。最初から義眼でもいいし。何故なら、別に後になって彼の義眼が、物語に影響を一つも与えていないから。

 例えば、(面白いかはしらないけど)そこを元に、スカヨハとバトーとの恋愛というか、仲良くさせるキッカケとかにしても良かったはずだ。ていうか、映画の前の話としてそういう事件があって、二人の関係が「ただの職場の仲間以上」とかになってた方がスムーズだったし、犬の餌やりも、なんかもっと良い感じに描けたんじゃないの?(そもそも、あそこの犬が押井守犬っぽいのも、逆にオタクをイラッとさせるポイントじゃないか? 袈裟まで憎い状態になってしまってるかもしれない)

 あと、そういうことでもない限り、スカヨハが現世に残る意図がよく分からない。あの娘、なんか今の世界でなんか良いことあったか? 「私はここで生きていくわ」とか言われても「え、なんで?」となる。だって別に、スカヨハのこの作品内での人生を考えてみても、特に残る理由がない。母親くらい。でも、あのままで母親とずっと暮らすのかよ、と驚いてしまった。

 あと、あの会社と公安9課(section 9って言ってたけど、一応警察でいいの?)の関係は、なに?

 どういった関係か全くわからなかったので、最初は私警察か何かな、と思ったけど、いきなり首相とかの話出てきたから「あ、公の組織なんだ」と。じゃ、あの関係は、なに?

 観に行った僕の頭があまり良くなかったせいで、多分読みきれなかったのでしょう。そこら辺は、多分最初のトグサのセリフからしても、分かる人には分かる、ということなんだと思う。

 トグサ「お前、なんか変わったな」

 黒人「わかる? 肝臓変えたんだ」

 それ、見た目で分かるか? 俺は絶対にわからないと思うんだけど。

 まぁ、でもそういう人なら、この映画の隠されたテーマをきちんと見つけられると思いました。