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【ネタバレ】映画で語るべきは「嘘」と「本物」だけなのではないか~『万引き家族』を観て~

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・痛快な万引き劇はない

 タイトルからして、家族全員で万引きを行っているのかと思っていたが、そういう場面はない。万引きが家族の絆でとか、そういうのもない。

 万引きという言葉自体には、あまり大きな意味はない、とも言えるし、意味を読み取ろうと思えば読み取れなくもない。

 この家族自体が、自然と生まれいでたものではなく、どこかから盗んできたものの集まりだった、という意味にはできる。だからそう、というあれでもないが。

 

 

・何が「本物」だったのか

 映画というものは基本的には「フィクション」であり、実際に起こっているものを再現したとしても、それを作っている時点では本物ではない。だからこそ、映画という芸術には「嘘」が最初から含まれている。映画というよりも、演技という行為がふい組まれる芸術、というべきか。

 この映画もそのご多分にもれず、舞台設定は現実的ではない。この映画の構成要素を見て、「現代日本の縮図だ」「こういう奴らが日本の現実だ」と言うのには少し飛躍があると思う。現実の一側面をデフォルメ化しただけだろう。

 なので、高須クリニックの院長が「現実的でない、ファンタジーだ」ということにも真実はある。高須院長が「こんな奴らはいるはずがない」と言うことと、「こういう奴らはいる」という人間が、それぞれの現実を生きているだけに過ぎない。その会話の中ではどちらも「本物」であり、「嘘」なのはこの映画だけだ。

 なぜなら、この映画の本当の主役は「嘘」であり、またその裏返しである「本物」だったからだ。

 

 

・本物の家族

 この映画の最後まで行くと、観客は否応なく「本物の家族」という言葉に頭を殴られる。

 不幸で痛ましい本当の家族と、貧しいが慈しみのある偽物の家族、どちらがいいですか、という二者択一を図らずも考えてしまう。

 しかし、この映画が提示する答えは、その二者択一の向こう側だ。なぜなら、どちらも正しくはないからだ。(この映画の中において、という意味ではあるが)

 何故正しくないか。それは、どちらも嘘で成り立った関係だからだ。

 例えば、本物の家族のもとにいるのが幸せだ、という言説は嘘だし、本物の母親が必要、というのも嘘だ。リンが元の家族に戻らなくてはならない理由はすべてが思い込みの嘘っぱちでしかない。

 しかしその一方で、嘘の家族の元で暮らすことが正解ではない。なぜなら、彼らの優しさは(も、また)自己投影でしかないからだ。安藤サクラはリンに、リリー・フランキーは祥太に、自分を投影しているからこそ優しいのだ。その行先は、おそらくは元の家族とそう変わらないだろう。束縛と破滅しかない。

 この2つの家族は正反対のようで、実は利己的で他人を傷つけている面では変わらない。しかも、その利己性は「嘘」で塗り固められている。

 

 

・風俗という嘘の商売

 松岡茉優が演じている風俗嬢は、まさに嘘と本物の入り混じった職業だろう。風俗嬢は疑似恋愛という形で、収入を得ている。そして彼女はマジック・ミラーで自分を見るように、相手を覗き見る。相手に自分を投影しているように。

 

 

樹木希林と駄菓子屋の存在

 この映画内で、きちんと死が描かれている二人は、ある意味で旧時代のモラルを持っていた。そして、そのモラルが時代遅れであるからこそ、あの二人は退場したのだ。

 この映画は、映画が進んでいくとともに、不可逆の時間への意識付けも行っている。もう二度と戻らない時間、それは嘘だらけのこの映画において、唯一の真実だ。

 

 

・すべて計算されているのだろうか

 最後のバス停のシーンで、バスの窓にリリー・フランキーが写っている。あれはまさに、祥太に自分を写していたことを映像で見せているのだろう。彼は、まさに自分の子供時代のやり直しを、翔太に託していたのだ。

 そして、バスは無情にも走り出す。リリー・フランキーは情けなく追いすがるが、追いつくことはない。バスは時間と同じだ。決して止まらず、リリー・フランキーを置いていってしまう。

 ここで素晴らしいのは、リリー・フランキーの姿を映さないことだ。なぜなら、誰も時間に追いつくことはできないからだ。まして、引き返すこともできない。

 僕たちにできることといえば、振り返ることだけだ。バスの中で後ろをただ振り返っていた、祥太のように。