ボディロッキンで激ヤバ

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【ネタバレ】僕らはあの頃のように走り続けることができるのか~『ベイビードライバー』を観て~

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 エドガー・ライト監督作『ベイビードライバー』を観てきました。予告だけを観てたら「ちょっと明るい『Drive』かなぁ」という感じだったんですが、エドガー・ライト的なユーモアと落とし所があって、全く違う作品になっていました。まぁ、監督としての味が全く違うので当然ですが。

 『Drive』が「美しい映画」なら、本作は「楽しい映画」であり、娯楽映画として誰が観ても楽しく、最後には感動する作品になったのではないか、と思います。

 つらつら思ったことを書きます。

 

・カーチェイスシーンは、少ないが熱い

 本作の主人公ベイビーは「逃がし屋(ゲタウェイドライバー)」なので、もちろんアクションシーンは車を使っての逃走劇、カーチェイスになるわけだが、実はその数自体は少ない。ワイルド・スピードのように車で延々とアクションをしまくる、というわけではない。ただ、出て来るアクションそのものは密度が濃く、よく考えられていてカッコいい。

 また、車のアクション以外でのアクション自体もベイビーのなめらかな動きも相まって凄く良い。実は、この俳優さんの出ている映画は初めて観たのだが、こんなに滑らかでダンスのキレがある役者だとは知らなかったので、驚いたと同時に好きになってしまった。

 

・音楽とのマッチがいい

 これはもう、映画が始まった瞬間、車で強盗犯を待っているベイビーの待ち方からして最高だった。軽快な音楽とともに、色々なものを叩きながらリズムを取り、音楽に埋没している姿にこちらも自然と顔がほころぶ。しかしながら、警察や周りの動きには敏感に反応する。

 ベイビーという名前のとおり、まだ子供なんだな、という印象を与えつつも、確実に仕事をこなす冷徹な大人の側面を織り交ぜる最初のシーンは、この映画の全てを説明しているシーンでもある。

 子供のまま大人の世界に投げ込まれ、そして成長をしきれないまま大人になれと強要される。これは、映画で見ると特殊な事例になってしまうが、現実の世界でもそれほど変わらないとも言える。日本人などは学校を卒業していく過程で、社会というものに慣れ、染まっていくと考えられてはいるが、現実は大学を卒業しても人間としては成長過程であり、言ってしまえばまだ子供である。そして、そのままに大人であることを強要され、そして大人になろうともがく。子供らしさを揶揄されながら。

 ベイビーにとっての音楽とは、子供らしさの象徴である。だから、今の音楽ではなく、昔の音楽を聴く。子供の頃の曲を。

 

・「古典的な理想」と「いまそこにある現実」

 ベイビーとデボラが初めて話すシーンも、個人的にはグッと来た。彼らが話す「車で20号線をぶっ飛ばしたい」という理想は、それこそ昔の若者が映画いていた理想だ。だが、それは現実が許してくれない。このシーンが、大人の言う「昔は良かった」という台詞を聞き続けた若者に、自分には思えた。決して手に入れることの出来ない、だが過去には存在したという理想像。それをそのままサンプリングしたかのような白黒描写。悲しい現実を生きている全ての人間が、ここに共感せざるを得ない。

 

・登場人物の合わせ鏡としての主人公

 この映画の面白い部分に、ベイビーの成長の仕方があると思う。

 ベイビーは映画が進むに連れ、様々なことを学んでいくようだった。そのままではなく、彼なりの解釈をして。それはまるで、人の言葉をサンプリングし、それを加工し、トラックに落とし込むように。周りの大人達から貪欲に吸収していく。

 そう考えると、ベイビーがこんな家業をしていながら純粋さを保てていた理由はなんだろうか。それは育ての親であるジョーとドクという、二人の父親の影響が大きいのではないか。

 映画のラスト、ドクという存在がベイビーにとってどういう存在だったのか分かる。彼もまた、ベイビーを守護していたのだ。ベイビーがジョーに「俺が守るから」と言っている裏では、ジョーが精神的に、そしてドクが身体的に守っていた。

 

・ベイビーは大人になれるか? もしくは、大人とは?

 登場人物の中で、一番大人だったのは誰なのだろうか。それはジョーとドクだろう。それ以外の人間は、それぞれどこか大人になれきれていないのではないだろうか。バッツやバディもベイビーに色々と教えはするが、彼らも大人ではない。

 では、大人とは何なのか。誰かを守れるような存在だろうか。それは古典的な大人の理想像なのかもしれないが、それは現実では難しいのではないだろうか。

 娯楽作品でありながら、そんなことを考えてしまうようなこともあったりなかったりする、そんな作品でした。