ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】古典的安心感~『ワンダーウーマン』を観て~

www.youtube.com

 

 DC映画の最新作『ワンダーウーマン』を観てきました。

 ジャスティスリーグ作品としては前作の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』であったり、DC映画としては最新の『スーサイドスクワッド』が「うん、まぁ」という出来だったので、今作も同じようなものだったら、という危惧はあったものの、海外の評価は概ね良かったので、若干安心した気持ちで観に行きました。

 ぶっちゃけると、今までのDCシネマティックユニバースと呼ばれる一連の作品群の中では一番面白く、一番普通のアメコミ映画になったのではないか、と思います。

 

 

・本当に普通のアメコミ映画です

 普通にワンダーウーマンが大活躍(アクション的にも頭脳的にも)して、普通にカッコいい音楽があって、普通に世間知らずギャグが織り込まれて、普通に楽しめる。そんな映画。しかも最後には、「愛が世界を救う」だ。

 ただ、そういう映画を作ることも、やはり簡単ではないことは承知しているので、そういう映画を作ったからと言って評価が下がるものではない。だから、今作については、正直本当に良かったと思う。映画館で観てよかったと思うし、ジャスティスリーグもこのノリで行ってくれたらな、と切に思う。

 ただ、DCらしさと言うべきか、最後の戦いは必ず夜だなぁ、という印象。今回も真っ暗闇の中、一面煉獄の炎みたいな感じだったので笑ってしまった。

 

・特に、戦友が増えてからが面白い

 男の戦友が増えていくにつれて、この映画の面白さは増す。それはワンダーウーマンへ「すげぇ!」と言う役者が増えるという意味でもそうなのだが、キャラがそれぞれ立っていることも良かった。サミーアとの絡みは全体的に良かったし、酋長も存在感があってよかった。チャーリーのキャラもすごく良かったが、もうちょっと踏み込んでも、と思うが、尺が足らなかった。

 

・普通のアメコミ映画って

 今までのDC映画は、おそらくは「DCって、大人向けでしょ」ということを考えてしまって、なんか変なことをしてたのではないか、と個人的には思っている。それこそ『スーサイドスクワッド』で監督をデヴィッド・エアーにしてみたりだとか。

 それはどういう勘違いかというと、「大人向け=分かりにくい、咀嚼しにくい」という勘違いだったと思う。正直それって凄い浅はかだと思う。もちろん、ビールの苦味みたいに一口目で「なにこれ」と思わせつつ、何度も試している内に楽しみ方が分かるような作品もあるにはある。ただ、それはハリウッドの超大作でやることではないし、そんな作品をアメコミ映画でやったところで、食合せが悪すぎて、誰も何度も楽しもうとは思わない。

 勘違いしてほしくないのは、所詮DCも「アメコミ」でしかなく、やっぱり大人が読んでたら「え、大の大人が漫画なんて読んでるの?」と言われるような対象だということだ。つまりは、子供向けなのだ。

 マーベルはそこに対しては、全く変なことは考えなかった。普通に子供向け(というか、子供が観ても楽しめるよう)に作っている。ただ、その中で語っている内容で、ちょっと深いところまで視野に入れて作っているだけだ。特に、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などは、(監督が良いということもあるが)あんなにバカっぽくて楽しい作品なのに、そこで語っている内容は「大人であれば、より心の琴線に触れる」ものに仕上がっている。そしてその威力は、飲み込んだ腹の中で炸裂するからこそ、最大限に発揮される。

 DC映画は全く逆で、飲み込みにくい割に、特に飲み込んでも炸裂するわけでもなく、何も残らない。「うん、苦かったね」で終わるだけだ。なんかもう、激辛料理食べる選手権みたいだ。

 それに対して、今作『ワンダーウーマン』はもう、そこら辺全てを取っ払って、ただのアメコミ映画に仕上げている。というか、それだけだ。特に深みはないし、明日へ生きる希望やなにか、というものは全く無い。ただもう、ガル・ガドットが美しく、アクションは豪快で、ワンダーウーマンのテーマソングは問答無用でテンション上がる。

 それ以上はない。ただ、それの何が悪いというのか。もちろん、そこにテーマ的なものを持たせて、物語や人物とのミックスアップを図ることができたら、傑作になっていたかもしれないが、そうでなくても映画として楽しめたら、お金払った意味はあると思う。『スーサイドスクワッド』はそうすべきだったし、そうしなかったのがより評価を下げたと思う。

 

・前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』との不適合

 ただし、別に言いたいことがないわけではない。

 例えば、今作のワンダーウーマンは完全に「神様の子供」である。これは結構、前作で語られていた「神 VS 人間」という構図を根本からぶち壊すものであり、前作でもワンダーウーマンが出てきた瞬間にテーマが音を立てて崩れ落ちたように、「あの作品って何だったんだろう」という思案を映画を観ている内に始めてしまった。

 しかも、スーパーマンは「神」とは言っても、「神(のような存在)」であって、ぶっちゃけると「宇宙人」なのだ。つまりは、今の人類が様々な宗教で象徴している神とは、少し毛色が違うのだ。神のような力を持っている宇宙人なのだ。ここには利点もある。つまりは、宗教的な色が薄いということだ。どういうことかというと、キリスト教の神やイスラム教の神でもないし、仏教の神でもない、ということだ。

 それに対して、ワンダーウーマンは完全にギリシャ神話の神であり、ギリシャ神話で語られていることが史実である、ということになってしまう。つまり、一番偉いのはギリシャ神話になってしまわないか、という危惧が浮かぶ。だからどうだ、という話ではないが。ただ、世界観的に大丈夫か?とは思ってしまう。そもそも、神様を殺したいならワンダーウーマン殺すようにすべきではなかったか、ジェシー・アイゼンバーグ。いや、調べてはいたのか。

 また、今作の終わり方だと、ワンダーウーマンは「人類は愛がある限り救うべきだ」という考えに至った、とのことだが、それって『ジャスティスの誕生』と違うくないか? 前作のワンダーウーマンは「人間なんて救う価値もないし、なんか近寄られると嫌だから関わらん」という態度だったはずだが、なんか色々人助けとかしてたんだろうか。

 個人的に今作の終わり方としては、「ワンダーウーマンは男や世界に裏切られて、前作のワンダーウーマンにつながるんだろうな」というものを予想していた。というか、前作のワンダーウーマンにつなげるなら、そうするしかない、と考えていた。それはつまり、終わり方はスカッとしたものになるはずはない、と考えていたのだが、そうはならなかった。

 これって、もしかすると前作や『スーサイドスクワッド』の批判を受けて、「一作くらいはスカッとした作品つくるか」となったのではないか、と邪推したくなるほどの矛盾っぷりである。もしもそうなのだとしたら、『スーサイドスクワッド』で気がついてほしかったな、というのが正直なところではあるが。

 

・戦友との別れ

 クリス・パインは戦死したのでアレだったが、他の生きている戦友との死別は描いても良かったように思う。ワンダーウーマンというキャラクターは寿命が長いので、そういった人類との交流というものは別れの連続になるしかない。そこを描けていたら、もうちょっと前作に繋がったかも、とは思う。どれだけ愛しても、私を残して去っていく存在、という人類に対して「救う(愛する)価値があるのか」と苦悩するなら、繋がったのではないか、とは思う。そしてこの悩みは、神的な悩みでもある。

 

・ラスボス

 なんか、人間の時の見た目がね、あんまり好きじゃない。ジョンブルすぎ。