ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】僕らはまっすぐ世界を見れるのか~『ペンギン・ハイウェイ』を観て~

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 森見登美彦原作『ペンギン・ハイウェイ』を観てきました。

 原作は読んでいないので、そういう意味では正しいレビューではないと思います。ただ、森見登美彦作品では『有頂天家族』をよく読んでおり、また『四畳半神話大系』は原作、アニメともに好きです。

 徒然と思ったことを書きます。

 

森見登美彦の映像化としては正解

 森見登美彦作品の面白さの半分は、その文体である。そう言ってしまっても問題はないと考えている。映画『夜は短し歩けよ乙女』が、映像作品としての面白さはあるものの、個人的に響かなかった理由はそこにある。逆に、アニメ版『四畳半神話大系』が大成功だった理由は、個人的にはその超高速独白を延々と全話続けたからに他ならないとも考えている。

 つまり、今作ではその映像的な美しさとは別に、主人公の独白が多くを占め、そして口調も基本的に、読みやすい文語体的な口調をそのまま使ったおかげで、面白さの半分は担保できている、と言っても過言ではない。

 というのも、森見登美彦作品における文体、独白というものは、それ自体が作者の、現実に対する距離を物語っているからだ。森見登美彦は、基本的には傍観者である。世界を批評的に見ているからこそ、その物語はどこか悲しく、幻想的であり、そして優しい。

 

・映像が素晴らしい

 オープニングから、個人的には心を鷲掴みにされた。近年、アニメでも流行っているのであろう、マーティン・スコセッシのような部屋の俯瞰に、アオヤマくんの代表的な独白が重なる始まりから、ペンギンと出会い、そして町から山の中へとペンギンが入り込んでいくシークエンスで、劇場版アニメーション作品としての尊厳のようなものを垣間見た。有り体に言えば、手間も金もかけている、ということをまざまざと見せつけられた、というところだ。

 キャラクターデザインも、オタク臭すぎず、かといって中村佑介的な色から離れすぎず、野暮ったくもなく、フレッシュなデザインだったと言わざるを得ない。全員の頬に朱が射している部分は少しあざとく見えたものの、すべてのキャラクターデザインが正解と言えるバランス感覚で作られている。正直、ここまでちょうどいいデザインは、思いつかない。正しい言い方ではないが、ガイナックス作品からオタク臭さを脱臭したような作りだと言える。

 

・アオヤマくんという子供

 主人公のキャラクターについては、森見登美彦作品の集大成のような人物像系だと思う。

 彼の美徳は、世界を肯定しているところだ。冒頭のいじめっ子との対比で、それは分かりやすく描かれている。ペンギンを「珍しくない」「つまらない」と断定するいじめっ子に対し、主人公は「そうではない」とはっきりと言い返す。主人公にとって、世界とは驚きに満ちあふれており、一つ一つは確かに日常的で、ありふれたものかもしれないが、その中に入り込むことで、世界はまだ見たこともない顔を見せつけてくる。

 初期の森見登美彦作品において、主人公はどちらかといえば、世界を否定していた。もしくは、否定するように世界に飼い慣らされた、とも言える。アオヤマくんのような少年の成れの果てこそが、森見登美彦作品における主人公であり、腐れ大学生であった。初期作品では、そういった青年たちが、自分たちの世界を肯定することに立ち返る作品が多かったと思われる。アニメ版『四畳半神話大系』などは、その性質をより際立たせる物語展開を行った。自分の灰色だと思っていた大学生活が、実はそれ自体が素晴らしく、かけがえのないものであった、と気がつく瞬間、彼は世界を肯定したのだ。

 対して、今作の主人公は、いわばその前身であり、なおまだ他人を否定することも知らない少年として描かれている。例えば、彼は幼い妹や、クラスメイトでドジっ子のウチダ君(この映画で一番可愛かった)を、文句も言わずに助ける。彼は、誰も蔑まず、否定しない。彼にとって世界とは肯定の対象でしかないのだ。そういった主人公だからこそ、まっすぐに世界を見つめ、そしてまっすぐにお姉さんへ向かっていくのだろう、という終わり方を見せている。

 

・世界のルール作りの曖昧さについて

 今作における一番のネックとは、お姉さんとはどういう存在で、ペンギンとは何で、結局“海”とは何だったのか、という風に、あまり答えのない事柄が多いことだと思われる。簡単な説明はあるが、明確に答えを言明しているわけではない。確かにそれはノイズであった。

 ただ、それに関して擁護をするならば、その答え、ないしはスタンスをアオヤマ君が考えたくなかったから、だと言える。

 この映画の物語を押し進めるのは、様々な謎だ。それはペンギンであったり、“海”であったり、お姉さんの能力であったりする。それらの謎を解明し、答えを見つけることが物語の目的であった。しかし、実はその答えよりも大事なものがお姉さんであった、という物語に、急激にシフトチェンジしてしまう。

 例えば、夜、妹が「お母さんが死んでしまう」と主人公に泣きつくシーンが有る。それは単に、「“いつかは”お母さんは死んでしまう」という事実に妹が気がついただけであった。主人公は冷静に「命とはそういうものだから」と諭す。しかしながら、お姉さんに関しては、冷静ではいられなかった。彼は「お姉さんの喪失」という可能性に対しては、いついかなる時も可能性に蓋を閉め、答えを出さないようにしようとしてきた。最後になっても、彼は答えを口にしないように努力をした。

 しかしながら、最後は現実が彼とお姉さんを引き裂いた。命とはそういうものであり、世界とはそういうものなのだから。彼ははからずも、自らの言葉を証明してしまった。

 

・「言わない」という関係性

 『有頂天家族』などでも描かれていたが、森見登美彦作品において、「言わなくとも伝わる」という関係性は、非常に重要なものとして描かれる。例えば、『有頂天家族』の主人公と、師匠である天狗の関係性はそれを如実に表している。

 横暴な師匠と、それに不承不承つきあう弟子、という体裁を彼らはとっているものの、実のところ、互いに(それぞれにとって可能な範囲ではあるが)敬愛しあっている。それを弟に見破られても「恥ずかしいから言うなよ」と口を封じる。

 また、父を殺したのは自分かもしれぬ、という後悔で蛙になってしまった次兄のことを、「恐らくはそうではないか」と気がつきつつも、優しく受け入れる母なども、同じく「言わなくとも伝わる」関係性と言えるだろう。(そもそも、『有頂天家族』という作品は、狸鍋となった父を介した、伝えることのできない思いの交錯する様を描いた作品だったとも言える)

 今作においてもそれは同様だ。主人公はお姉さんへの思いを、最後まで本人には言わない。本人どころか、周囲にも言わない(胸部への飽くなき興味は断言するが)。だからこそ、最後に「お姉さんにもう一度会って、どれだけ好きだったかを伝える」という決意が、大きな感動を生むのだ。空き地に帰ってきたペンギン号を見つけ、主人公は目を輝かせた。ペンギンはお姉さんとのつながりであり、そして、いつしか自分もまた、このペンギン号と同じことをするのだ、という決意のようでもあった。

 個人的には、そこは良いと思う半面、やはり言葉にすること、行動にすることも別の感動を生む、と考えている。アニメ『フリクリ』や『エヴァンゲリオン破』などのガイナックス作品は、逆に伝える方向にシフトチェンジした。個人的には、その方が好みではある。

 しかし、森見登美彦らしい、という意味では問題はない。

 

・大きな問題点は、お姉さんの登場時間

 途中に大きな断絶があるため、登場時間が短く感じる。

 “海”の研究をしている間、お姉さんがあまり出てこないものだから、映画だけで見るとお姉さんとの交流は少なく、どちらかと言えばハマモトさんのほうがヒロインのように見える(さらに言えば、ウチダ君は徹頭徹尾ヒロインのようであった)。そのため、原作未読者には「お姉さんのどこが好きなのか」「胸がでかいからじゃないか」という認識になるのでは、と感じた。

 と言うより、出ずっぱりにしてもらえないものだろうか、とは思った。蒼井優の棒っぽい演技も相まって、お姉さんは魅力的だった。ペンギンを整列させ、突撃していく様は痛快でありながら可愛く、確かに少年にとっては刺激の強い女性である。

 

宇多田ヒカルの曲は素晴らしい

 エンドロールは曲の良さで泣きそうになった。しかも映画にあっている。

 おやすみ、という言葉はお姉さんへの鎮魂歌のようでもあるし、お姉さんからアオヤマくんに伝えているようでもある。

 謎は終わらない、ということは、この世界はずっと続いていき、その細部は複雑になり続ける、ということだ。その度、世界の複雑さ、奇妙さに驚くことだろう。そしてその驚きは、つまりはお姉さんに対する驚きだ。世界とは驚くほどに美しく、そして訳もなく好きなのだ。

 そういったまっすぐさを持った映画であり、ぜひ腐れ大学生や、そのまま大人になってしまった不純な人間こそ、夏の終わりに見るべき作品だと思われる。

【ネタバレ】良い映画だがチグハグ~映画『フローズン・タイム』を観て~

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 アマゾンプライムで映画『フローズン・タイム』を観ました。

 結構前評判が良かったので安心していましたが、考えていた以上に良い映画だったので驚きました。ジャケットがあまり映画とあっていないので、なんとかして変えたほうが良いのでは。

 SF、というべきかファンタジーと言うべきか、ジャンルとしてはヒューマンドラマと呼ぶべき作品。

 

・基本的には笑える映画

 この映画は一本道のストーリーではあるものの、主人公が何かしらの目的を持って行動しているわけではないので、途中までは非常に無軌道に見える。

 例えば、主人公は恋人に振られた(と言うよりは、その後目の前でイチャツカれたりした)ショックで不眠症となっているが、それを苦しんでいる素振りは少ない。と言うよりも、そうなっていることで恋人を忘れないようにしている、とすら読める。つまり、この映画の主軸は不眠症の治癒ではない。

 では、フローズン・タイムという名前が示す能力(というべきか、なんというべきかわからないが)を使った、楽しいエンターテインな人生を送ることが主題歌と言うと、そうでもない。主人公はその能力を使い倒して楽しむでもなく、ただひたすら絵を書くことばかりに使う。(少なくとも、映画で描写する範疇では)

 ヒューマンドラマと呼ばれるジャンル映画によくあることだが、この無軌道っぷりを覆い隠すために、この映画では随所に笑いを散りばめている。そして、その笑いは冷たいものではなく、温かみに溢れた、人とのふれあいの中の笑いだ。そこがこの映画を良い映画にしているところだと思われる。

 この映画は、本当にとりとめもない笑いを、これでもかと散りばめている。悪友二人の馬鹿なやり取りだけでなく、突拍子もなく出てきたカンフーマニアや、幼馴染の下ネタ。すべてが抱腹絶倒、というわけではないが、テンポよく運び込まれるネタの嵐を前に、くだらなすぎて笑えてしまう。

 ただ、それが物語を進めているわけではないことは事実だ。この映画の悪い点の一つとして、やはり無軌道すぎる点が挙げられると思う。ギャグを重ねても、物語への興味を持続させることは難しい。

 

・善人だらけのスーパーマーケット

 この映画の大きな部分を占めるスーパーマーケットは、日常そのものを描いている。基本的には退屈で、時間の進みのない場所だ。ただ、そこに息づく人たちはくだらないことに知恵を絞り(時計を隠すなど)、くだらない笑いを見つけ出し(悪友二人組)、そして、その日常を楽しんでいる。

 フローズン・タイムというタイトルではなく、原題のキャッシュバックという意味で言うと、主人公はこの日常の中から、お金以上の何かを取り戻した、ということになる。それは新しい恋人、という意味でも正解だろう。画家としての成功も正解だ。しかし、実際には彼が取り戻したのは日常だったのかもしれない。

 

・店長というキャラ

 本作中で一番の悪人として描かれている店長ですら、どこか優しく、憎めない。彼の描き方はこの映画の白眉と言える。厚顔無恥であり、自信家であり、誰よりもエゴイストな彼だが、周囲の人間を嫌わないことにこそ、その美徳はある。問題しかない従業員を信頼し、チームワークを説き、果てはパーティーにまで呼ぶ。

 なぜ彼が他人を信頼するか、という謎への答えは簡単だ。全ては、彼のエゴイズムから来ている。彼は自身が素晴らしい人間であることを疑わないがゆえに、他人も自分を愛していることを信じて疑わない。そして、自らを愛する者を、彼は愛しているのだ。

 この馬鹿げたキャラクターは、馬鹿げているがゆえに魅力的だ。

 

フローズン・タイムにはルールがあったほうが良かった

 主人公の時間停止能力は、この映画の主軸ではない。それゆえに、ほぼ説明もない。ただ、それでは本当に謎しか残さないため、人によっては「結局、これは何なの?」というブレーキにしかならない時もあるのでは、という危惧がある。

 また、主人公の独白が大半を占めるこの映画で、能力についての分析があまりないのも気になった。これだけ四六時中、様々な事を考えている主人公が、なぜこんな面白い事象を簡単に受け入れてしまうのか。

 やはり、こういう荒唐無稽なものに対しては、一定の主人公のスタンスを示すべきではないか、というのは感じた。主人公の中で「おそらくはこうだろう」というルールを設けるべきだったのではないか。

 

・そもそも、能力が暗示しているものが不透明

 この時間停止能力には、様々な理由が考えられるが、個人的には以下の3点かな、と推測していた。

 

①スージーと恋人に戻りたいという時間逆行への願望(そこから転じて、恋人がほしいという願望)

不眠症が突き進んだ結果、時間の進行が極限まで遅くなった

③主人公の妄想

 

①が一番ありえた、とは思うのだが、結局は最後も時間を止めており、そうではないらしい。

②については、不眠症が治ったはずが、その後で時を2日も止めている。ジョースター家の血でも入っていたのか。

③は、絵であったり、店長への実際の被害もあったので、おそらくは違う。

 

というように、映画の主軸がないために、時間停止能力もそこに関与したものとならない。

 この映画の大きな問題点はここにある。主題が定まっていないことだ。普通のヒューマンドラマで、特に時が止まらないのであれば、別にこの映画は何も問題がないように思う。もしくは、時間停止がただの妄想であり、主人公の願望を演出として見せているだけなのだとしたら、この映画は普通のヒューマンドラマとして成立したと考えられる。(最後の演出も、二人だけの世界に入りました、みたいな感じで納得できよう)

 時間停止のような荒唐無稽なものを出すのであれば、それはなにかの言い換えであったほうが映画的な主題を強化する装置になる。

 例えば、①の場合であれば、二度出てくる「時間は巻き戻せない」という言葉が、非常に大きな意味を持つ。つまりは、彼の持っている能力は、彼の本当の望みを叶えることができない。そして、二人の恋人を失い、彼がそれでも何かを『キャッシュバック』したとしたら、それは何か、という話に持っていくことができる。この場合は、バッドエンドを描くことになるかもしれないが、能力が映画の主題を説明する装置になる。

 主題がない映画が悪い、というわけではない。この映画は、装置の食い合わせが悪い、ということだ。少なくとも、時間停止は演出だけにとどめておけばよかったと思う。もちろん、それが面白くないのであれば、主題を明確にすれば良かった。

 

 例えば、この映画は何度も過去の話が挿入される。(その挿入のシームレスさは良かった。この映画の美点の一つ)

 もう二度と戻らない、馬鹿げていたが楽しく、美しい日々。それらは時間の不可逆性を演出するのに一役買っていた。さらに、その登場人物がまた現実に出てくることで、その閉鎖性を打ち破り、未来がある演出にもなっていた。(その後、付き合っていないのには閉口したが)

 その話もまた、与太話の一つでしかなく、あまり映画の進行に寄与していることはなかった。

 映画は無駄なことを語れば語るほど、主題が見えなくなり、結果としては茫洋な映画になる。

 良い映画ではあったが、今の評価はたしかに適当だと思われた。

【ネタバレ】映画で語るべきは「嘘」と「本物」だけなのではないか~『万引き家族』を観て~

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・痛快な万引き劇はない

 タイトルからして、家族全員で万引きを行っているのかと思っていたが、そういう場面はない。万引きが家族の絆でとか、そういうのもない。

 万引きという言葉自体には、あまり大きな意味はない、とも言えるし、意味を読み取ろうと思えば読み取れなくもない。

 この家族自体が、自然と生まれいでたものではなく、どこかから盗んできたものの集まりだった、という意味にはできる。だからそう、というあれでもないが。

 

 

・何が「本物」だったのか

 映画というものは基本的には「フィクション」であり、実際に起こっているものを再現したとしても、それを作っている時点では本物ではない。だからこそ、映画という芸術には「嘘」が最初から含まれている。映画というよりも、演技という行為がふい組まれる芸術、というべきか。

 この映画もそのご多分にもれず、舞台設定は現実的ではない。この映画の構成要素を見て、「現代日本の縮図だ」「こういう奴らが日本の現実だ」と言うのには少し飛躍があると思う。現実の一側面をデフォルメ化しただけだろう。

 なので、高須クリニックの院長が「現実的でない、ファンタジーだ」ということにも真実はある。高須院長が「こんな奴らはいるはずがない」と言うことと、「こういう奴らはいる」という人間が、それぞれの現実を生きているだけに過ぎない。その会話の中ではどちらも「本物」であり、「嘘」なのはこの映画だけだ。

 なぜなら、この映画の本当の主役は「嘘」であり、またその裏返しである「本物」だったからだ。

 

 

・本物の家族

 この映画の最後まで行くと、観客は否応なく「本物の家族」という言葉に頭を殴られる。

 不幸で痛ましい本当の家族と、貧しいが慈しみのある偽物の家族、どちらがいいですか、という二者択一を図らずも考えてしまう。

 しかし、この映画が提示する答えは、その二者択一の向こう側だ。なぜなら、どちらも正しくはないからだ。(この映画の中において、という意味ではあるが)

 何故正しくないか。それは、どちらも嘘で成り立った関係だからだ。

 例えば、本物の家族のもとにいるのが幸せだ、という言説は嘘だし、本物の母親が必要、というのも嘘だ。リンが元の家族に戻らなくてはならない理由はすべてが思い込みの嘘っぱちでしかない。

 しかしその一方で、嘘の家族の元で暮らすことが正解ではない。なぜなら、彼らの優しさは(も、また)自己投影でしかないからだ。安藤サクラはリンに、リリー・フランキーは祥太に、自分を投影しているからこそ優しいのだ。その行先は、おそらくは元の家族とそう変わらないだろう。束縛と破滅しかない。

 この2つの家族は正反対のようで、実は利己的で他人を傷つけている面では変わらない。しかも、その利己性は「嘘」で塗り固められている。

 

 

・風俗という嘘の商売

 松岡茉優が演じている風俗嬢は、まさに嘘と本物の入り混じった職業だろう。風俗嬢は疑似恋愛という形で、収入を得ている。そして彼女はマジック・ミラーで自分を見るように、相手を覗き見る。相手に自分を投影しているように。

 

 

樹木希林と駄菓子屋の存在

 この映画内で、きちんと死が描かれている二人は、ある意味で旧時代のモラルを持っていた。そして、そのモラルが時代遅れであるからこそ、あの二人は退場したのだ。

 この映画は、映画が進んでいくとともに、不可逆の時間への意識付けも行っている。もう二度と戻らない時間、それは嘘だらけのこの映画において、唯一の真実だ。

 

 

・すべて計算されているのだろうか

 最後のバス停のシーンで、バスの窓にリリー・フランキーが写っている。あれはまさに、祥太に自分を写していたことを映像で見せているのだろう。彼は、まさに自分の子供時代のやり直しを、翔太に託していたのだ。

 そして、バスは無情にも走り出す。リリー・フランキーは情けなく追いすがるが、追いつくことはない。バスは時間と同じだ。決して止まらず、リリー・フランキーを置いていってしまう。

 ここで素晴らしいのは、リリー・フランキーの姿を映さないことだ。なぜなら、誰も時間に追いつくことはできないからだ。まして、引き返すこともできない。

 僕たちにできることといえば、振り返ることだけだ。バスの中で後ろをただ振り返っていた、祥太のように。

 

【ネタバレ】帰る国とは~『キングスマン ゴールデン・サークル』を観て~

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・正直、前作よりも楽しい。

 キングスマンの一作目は、実は大好きな作品ではない。と言うのも、キック・アスが最高すぎて、思想的なものを軽く排除したキングスマンはそこまで感動を覚えなかったからだ。ただ、娯楽作品として見れば素直に楽しく、また現代のスパイアクション映画として興味深い作品であったことは確かだったと思う。

 今作は、その楽しさをより増しており、スパイあるあるも大量に詰め込んだ、最高の娯楽作品になったと思う。

 

長回しのアクションは脱帽

 もちろん、擬似的なワンカットだとは思うが、長回しの戦闘シーンが素晴らしく、正直感動すら覚えた。

 すごいのは、一対一の戦いではなく、一対多数の、しかも息のあった長回しの戦いであり、その場にある地形の応用であったり、もはや他の追随を許さぬほどに洗練されたアクションシーンだと思う。

 

・より明確な、選民思想への反対表明

 マシューヴォーン作品で必ず扱われるテーマだが、今回も健在だ。前作と比べて、その意見は過激になっている感すらある。

 それは、恣意的な選民思想に対する、選ばれない者によるカウンターである。

 キングスマン一作目で言われる「マナーが人を作る」という言葉が示す通り、誰しもが自ら高貴な存在になれる。つまりは、他人が勝手に選んだ高貴な人間というものは間違いである、ということだ。ちなみに、「キック・アス」では「高貴な人間」は、「スーパーヒーロー」に言い換えることができる。ヒーローとは、他人に認められてなるものではない。自らそうなり得るべく、努力し、勝ち取る者なのだ。だから、「キック・アス」において主人公は真のヒーローになったのだ。自らが何者であるか、を真に獲得したからこそ、彼はヒーローにもなれたし、また普通の人間にもなれた。

 キングスマン一作目では、その基準を決めようとするのは貴族であり、または億万長者だ。アーサーが敵に寝返るのは当たり前というか、彼は最初から敵とほぼ同じ存在であったと言える。何故なら、彼もまた他人を恣意的な基準で選別していたにすぎないのだから。

 今作で、それはより過激な方向にシフトした。今作の真なる敵は、実は麻薬王ではなく、そして大統領ですらない。それは、普通の人々の持っている偏見だ。今作における合衆国政府は、皮肉な存在だ。彼の行なっている行為は、恐らくは一部の(そして多数)の人間にとっては正しく見えるに違いないし、民主主義でいうところの正しい行いだ。彼らは民衆の中のマジョリティを代弁した存在でしかなく、非常に空疎な存在として描かれている。恐らくは、数字で見た麻薬中毒者の犯罪率も高いのかもしれない。しかし、それは人間を数値に貶める行為だ。そして、その数値上での線引きこそが、恣意的な線引きに他ならない、と言うことだ。

 前作は、例えば逆の線引きもしてしまう。貴族階級だから、人を恣意的に選別してしまう、という、これもまた誤った線引きだ。今作で言いたいのは、生まれは関係なく、人は時に誤った線引きをしてしまう、ということだ。

 民主主義は間違いを犯す。そして、その間違いが殺すのはマイノリティーである。麻薬中毒者の症状の推移は面白い。始めは色がつくだけだが、そのうち踊り始め、最後には静かになり、死ぬ。昨今の、よくネットで馬鹿にされている対象によく似ている。彼らは声を上げて抗議すれば馬鹿にされ、最後には静まり返り、人知れず息をひきとるだろう。

 では、そうさせているマジョリティにその覚悟があるか。果たしてどうだろうか。正しいことを行なっているはずの政府は、何故か中毒者たちを隔離し、人目から隠す。まるで、恥ずべき行いのように。

 マシューヴォーンは、人々の恥部に目を向けさせる。面白おかしく。

 もちろん、マジョリティに言い分がないわけではないし、全てが間違っているわけではない。ただ、全てを数値化した瞬間、なくなるものもある、と言うことだ。

 

 

・悪役は凡庸と言うよりも、前作が魅力的すぎた。

 個人的な意見だが、前作の悪役は近年見たどの映画の悪役よりも輝いていたし、あの二人組は前作の白眉だった。

 サミュエルとガゼルの関係性は、一言で言えば共犯者だった。しかし、ガゼルの果たした役割はそれ以上だろう。ある時は恋人のように、ある時は母のように、そして仲間のように、なによりも用心棒のように。ガゼルというキャラクターがあったればこそ、サミュエルL・ジャクソンの奔放で憎めないキャラクターに深みが出た。

 今作の麻薬王も、チャーリーと同じような関係にしようとしたのかもしれない。しかし、チャーリーというキャラ自体にそこまで魅力はなく、残念ながら関係性としても中途半端に終わったと思われる。

 

 

・何故ハリーは敵に気づいたのか

 それは誰にもわからないのだ、、、、、、

 

 

 

【ネタバレ】ダルシム待望論~『カンフーヨガ』を観て~

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 ジャッキー・チェン主演の『カンフーヨガ』を観てきました。ジャッキー・チェンと言えば、海外では昨年公開された『The Foreigner 』の方が観たかったのですが、正月らしいメデタイ気分には丁度いいか、と思い鑑賞してきました。

 後は徒然。

 

・結構面白い

 粗だらけというか、正直に言うと普通の映画としての面白さはないと思う。終始、トンチンカンな映像のオンパレードであり、映像全体の情報量が多かったり(悪役の登場シーンは本当に面白かった。貴族的な服装をした鷲鼻の男が、ワシを手に馬に乗って砂漠を走っている)、時には全く意味のないシーン(カーチェイスシーンでは、ジャッキーの車にライオンが乗っているのだが、ジャッキーとライオンの顔が同期する意外には全く意味がなかった)なども入ってくる。ただし、それらは「ボリウッド的」という魔法の言葉によって緩和され、「まぁ、こういう映画なんだろうなぁ」と流される、また、映画も次々と展開が変わるので、あまり細かいことにこだわってもいられない。

 観客は常に映画に置き去りにされつつ、怒涛の展開の中で繰り出されるジャッキー・チェンの妙技を味わいつつ、ニヤニヤしながら映画を楽しめる。

 はっきり言ってそんなに悪い体験ではない。よく「頭を空っぽにしたら面白い」という文句があるが、この映画の場合その必要はない。ほっておいても頭は空っぽになる。

 

ボリウッド的なハリウッド映画

 インドで生産されているボリウッド映画的なテイストを、ハリウッド的なスケールでやったらこうなるんだろうな、と随所に感じさせる演出があり、個人的にはそこをこそ楽しめた。時折、わざとスローモーションのコマ送りがガタついたりと、わざとボリウッドの技術にまで落としたりする所も面白かった。

 最後のダンスシーンも、ボリウッド的なものではなく、よりハリウッド的な見せ方をしているためか、割と普通に良い映像に見える。

 また、主演の女優たちがおしなべて美しく、インド的な美人ではなく世界的に受けそうな美人を持ってくるあたりは、意識して人選をしているのではないかと思わせる。

 

・それでも残念な所

 別に、残念な所だらけの映画なので特に言うことでもないが、それでもこうしてほしかった、と思わずにはいられないことが2つある。

 

 一つ目は、ジャッキー・チェンの格闘シーンをもっと遅くしてほしかった、ということ。特に、格好良く闘うシーンは、もっと遅くても構わなかったように思う。そうすることで、ジャッキーがカンフーを使うまで、敵はジャッキーを舐める、という状態になる。「考古学者で、しかもチビのおっさんが、何もできやしない」と言う風に。しかし、観客は知っている。一度ジャッキーが構えを取れば、その時、奴らは中国四千年の歴史をその身をもって味わうことになる、ということを。これが、カタルシスを産む。

 最初の朝食シーンでカンフーを見せるのでも構わないが、その場合も、あまり早くなく、ヘロヘロな動きにとどめておけばなお良かった。

 雪原のシーンでカンフー教室をした理由は、恐らくは観客の中だるみを嫌ってのことだとは思うが、正直つまらない時間を長引かせただけに思える。製作者側に我慢がなかったのではないか。

 

 二つ目は、敵の格闘方法がカンフー的なものではなく、もっと別のものにしてほしかった、というもの。

 今回の敵は王子であるが、インドの歴史や伝統などは意味がなく、富こそが意味がある、という思想なのであれば、もっと近代的な(西洋的な)戦い方にしても良かったのではないか。ボクシングや、それこそMMAなどの動きが多ければ、説得力があった気もする。

 もしくは逆に、「殺人ヨガ」のようなものを勝手に作ってしまっても良かったのではないか。この映画の無数にある欠点の一つに「ヨガ要素が後半ほとんど無い」というのもあるが、それを払拭するために、王子にはヨガをモチーフにした殺人拳法でジャッキーに襲いかかってもらいたかった。口から火を吹いたり、遠距離から柔らかい体を活かしたパンチを放ってみたり、第三の目を開いてテレポートしたり。

 姫が「そんなものはヨガではありません!」と叫ぶ。しかし王子は「否! これこそ我らの伝統だ! この血に汚れたヨガマットこそが、我らの王家たる証!」と聞かない。そこへ、ヨガマットを瞬時に引きずるジャッキー。足を取られ、よろけたその隙に、蛇の頭のような連撃を叩き込む。まいった!との声とともに、姫が駆け寄る。「私が間違っていました。あなたの存在も、また私達の歴史」と手を取り合う。笑顔でジャッキーが手を合わせ、横にあったイスに腰掛ける。その後、ダンスが始まる。

 これでよかったのではないか。

 

 とまぁ、阿呆みたいな話を思いついて友だちと話す分には悪くない作品だと思う。

 

 

【ネタバレ】本当に良かったよ~『ジャスティス・リーグ』を観て~

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 DC映画の最新作『ジャスティリーグ』を観てきました。

 DC映画の作品群は、もちろん全部見ているのですが(ドラマは除く)、それぞれに言いたいことはたくさんあり、『スーサイドスクワッド』を一番下にして、『ワンダーウーマン』が最高峰だったのですが、今回はそれを凌ぐというか、きちんと大作アクション映画として作られていて良かったと思います。

 正直、全く期待していなかったのですが、本当に普通におもしろい映画になったので安心しました。レイトショーで観ると決めた日は仕事中も「俺はこの大変な仕事を終えた後、クソみたいな映画を観させられるのではないか」と、人生について深く考えたりしていましたが、その疲れも吹き飛ぶほどでした。

 あとは徒然。

 

 

・と、言うほどでもない

 面白かった理由の大半は「ワンダーウーマンを除く、他のDC作品の体たらくぶり」という前提があったためと考えられる。なので、正直普通の映画としてみた時に言いたいことがないではない。

 例えば、オープニングの「スーパーマンがいなくなった世界」という感じで、希望をなくした世界をわかりやすく映し出すシーンがあるが、それがあまりにも矮小すぎて「これは危なそうだ」と覚悟を決めた。なんか八百屋?で喧嘩だか犯罪だかが行われていたり、ホームレスのおじいちゃんを情感たっぷりに映したりなど、正直「スーパーマンには全く関係がないのでは」ということを情感たっぷりに描かれても、こちらとしては鼻白んでしまう。

 スーパーマンを蘇らせるシーンのグダグダも「お、ここから来てしまうのか?」とちょっと不安になったのだが、スパッと解決したので事なきを得た。ただ、ここら辺のヒーロー対ヒーローの図式は「アベンジャーズ意識してるんだな」と思っていたら、編集にジョス・ウィードンが参加していた。

 

・映画の時間が短かった

 これは功績というか、無駄に長くせず、スパッと小気味よく編集した結果、映画としてのノリが軽くなって楽しめる作品になったと思う。前作『バットマンvsスーパーマン』で描かれた神話的な話では、ザック・スナイダークリストファー・ノーランの悪いところを凝縮して出してしまった、という無駄に長い映画になっていたのだけど、今回はもうキャラが矢継ぎ早に出てきてドッタンバッタンの大騒ぎを繰り返すという、最高のストーリー進行。

 ステッペン・ウルフの登場シーンなど、「こいつ誰だよ」と思った瞬間に戦闘が始まるので「あ、こいつは悪いやつなんだ」「強いんだ」「なんか怖いんだ」と小学生並みの感想だけで話を観ることができる。

 その結果としてアクアマンのキャラが掘り下げがほぼ無かったり「急に仲良くなってるな」という感覚はあったが、正直アクションが楽しく、ギャグの小気味が良かったら問題に思えなくなる。

 

・フラッシュが良かった

 全員キャラが立っているわけだが、特にバリー・アレンが良かった。各キャラクターの接着剤として、コミカルでありながら重要なキャラだったのだと思われる。

 特に、新人で戦闘は苦手な若者が、まさに「ヒーローへと成長していく」というところを描くのに、爽やかな描き方が出来ていたと思う。1人を助けろ、という命令に対し「まだもう一人いける」と戦いに入っていくシーンもあっさりと良い感じに描けていたと思う。

 サイボーグもそういう役どころなのだが、ただの便利な人にしかなっていないのは残念だった。ガル・ガドットとの会話などは、ガル・ガドットの母性を活かすことも出来たので良かった。

 

・人間の戦闘シーンはザック・スナイダーの得意分野

 バットマンワンダーウーマン、アクアマンの戦闘シーンは、どっちかというと『300』での手法も使えるので、ザック・スナイダーの得意分野だろう。『ワンダーウーマン』では監督は違ったが、正直「これならザック・スナイダーはいけるんじゃね」と思っていたのだが、今作での戦闘シーンはまさにザック・スナイダー節全開でよかった。特に、ステッペン・ウルフとの戦闘シーンは、全部似たようなものになってしまっていたけれど、ステッペン・ウルフの斧の軌跡の美しさも相まって、非常にかっこいい。

 

・「無駄なところがない」は映画として最高の賛辞

 今作、全く無駄がないではないけれど、少なくとも無駄な部分をたくさん削り、面白い所だけを残したということは、映画として最高の褒め言葉だと思う。

 とりあえず観たいものをすべて入れて、その結果として面白い作品になったのだとしたら、それは映画の芸術としては本懐だろう。

 

【ネタバレ】変化球~『ダンケルク』を観て~

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 クリストファー・ノーラン監督作品『ダンケルク』を観てきました。二回観ました。

 

 

・ただの戦争「映画」ではない

 どちらかと言うとアトラクションとして楽しむ作品に思える。効果音やハンス・ジマーの音楽、終始鳴り響く時計の音など、基本的には見ている人間を戦争の中に没入させようとする意思を感じさせる。

 音響設備に力が入っている映画館で観ると、より良い感想を覚えるのではないかと思う。

 特に、ダンケルクでのシーンは素晴らしい絶望感で、今まで見てきた戦争映画と並び称されることとは思う。少なくとも、不条理に人が死ぬ、という一点においては優れた映画だと思われる。

 

 

 

 

・ストーリーのある映画ではない

 今作は、物語として楽しむのではなく、どちらかと言えばアトラクションとして樂しむような作品なのだと思う。

 意図的にそうしているのかは分からないが、少なくとも登場人物への感情移入がしやすい作品ではない。また、その時代の常識や戦場での常識などへの説明も無いため、そういった知識が不足した観客は読解力や類推力が求められる。つまりは、いちいち考えなくてはならないので、映画に入りにくい。

 ここはもう、ファンタジー世界を見るくらいの気持ちで見てていいのではないかと思う。

 

 

・時制の変化が変化球すぎる

 ノーラン作品といえば『メメント』だが、それにも似た時制のランダム配置が行われている。その為、二回目に見た時は「あ、ここにつながるのね」と面白く感じたが、一回目はよくわからなかった。

 

 

チャーチルの演説は感動的だが

 予告編では絶望的な引用をされていたチャーチルの演説を、本編ではクライマックスに配置し、感動的なスピーチとしていたが、あの内容で戦場に行っていた兵士が喜んでいたのか疑問だ。

 命からがら国に戻ってきて「まだ戦うぞ」と言われて「よっしゃー!」となる人が多いものだろうか。しかも、今作の絶望的な状況の一つに、軍(国)からの支援があまりなかった、というものもある。そして、その国のトップが(女王はいるが)スピーチの主だ。

 これは、この時代、この国に生きている人間には響く言葉なのかもしれないので、個人的にはこう思った、というだけではあるが。

 

 

・人物の内面が描けていない

 というより、描く暇く暇がなかったのだろう。ただ、カットしなくてもいい部分をカットしたせいか、人物への感情移入はできなくなっている。

 ダンケルクの兵隊たちは死への恐怖があることは簡単にわかるので感情移入はし易いが、旅客船の人間たちの説明がないので、彼らへの感情移入は凄く難しい。彼らが何故ダンケルクに向かっているか、というのが表層的にしか分からない。

 何度も観れば分かるのだが、初回ではわかりにくく、またノイズに感じてしまう。

 更に兵隊たちについても、命からがら生き残ったのに「帰ったら叩かれるぜ」という心配。分からなくもないが、いきなりすぎて帰ってきた余韻が消えてしまった。そうやっておいて、実はみんな歓待しましたよ、というのをやりたいのは分かるのだが、あまりにも性急にやりすぎているように感じた。