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【ネタバレ】僕らの行いと僕らの解釈~『ハクソー・リッジ』を観て~

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 メル・ギブソン監督、アンドリュー・ガーフィールド主演『ハクソー・リッジ』を観てきました。非常に楽しみにしていた作品です。

 メル・ギブソンらしい過剰なまでの残酷描写と、その中にある人間の優しさというか、気高さというか、悲哀に満ちた一作だと思います。物語自体は一本道なのですが、語っているテーマ自体は非常に分かりにくいというか、多種多様な語りが可能になるのではないかと思いました。僕は凄く楽しかったです。

 後は徒然、書きなぐります。

 

・戦争シーンに関しては言うことはない

 映画館で見て本当に良かった、と思える映画は多い。それは2つの意味があって、「この映画、映画館で見てるからまだ面白いな」というものと「この映画、映画館で見たら、家で見るより最高だぜ!」の2つだ。

 この映画はもちろん後者だし、それこそ爆音上映とかで見てみたい。『プライベート・ライアン』を越えた、という宣伝については、言い過ぎかどうかは分からないというか、ああいう言い方はあまり好みではない。ただ、メル・ギブソンが撮った映画には、必ず地獄のシーンがある。それは人によってこの世に顕現した地獄だ。この映画は、その地獄のシーンが長いだけだ。感覚が麻痺してくるほどに。

 

ヒューゴ・ウィービングは好きです

 個人的には、『V・フォー・ヴェンデッタ』での怪演というか、超絶演技が大好きな役者である。今回も、その声の演技が随所に見られて気持ちよかった。メガトロン様でもあるし。

 

・みんな優しい

  この映画に出てくる軍人たちは皆優しく、ドスを心の底からは憎んではいないように見えた。ドスに対して厳しく当たるときですら、どこか優しさの片鱗を匂わす。例えば、ブートキャンプ中にスミッティが「俺を殴れよ」と頬を差し出す時、そこには「早く仲間になれよ」という、一種の勧誘の意識すら見えた。周囲の軍人たちも「なぐっちまえよ!」と言いつつ、ドスを否定せずに、仲間へと勧誘している。また、重労働を課すように命令されている軍曹は、その悲壮な姿に感化される。

 ある意味で、ここの演出は戦争映画的ではない。戦争の非常さを描く上での、軍人同士の友情は、基本的には艱難辛苦を共にしたことによって生まれる連帯感を指す事が多いからだ。そこには、もちろん皮肉も含まれている。人間的でなくなったものたちが、人間的な何かを求めている、という皮肉である。しかしながら、ドスはそれを否定している。ここから分かるように、この映画は戦争映画の皮を被った宗教映画であって、言うなれば『パッション』を戦争映画でやり直した、とも言える。

 

・ドスは狂人だが、狂人でないものなどいない

 ドスは「神の声なんて聞こえない。俺は狂ってない」と言い切っているが、もちろん彼は彼で狂っている。ただ、狂い方が他の人間とは違うだけだ。

 戦争というものは、国家であったり、個人であったり、色々なものを狂わせていく。それは、ドスの父親も同じだろう。彼もまた、戦争によって狂ってしまった人間の一人なのだ。そしてもちろん、軍人たちも狂っている。

 ただ、ドスは戦争によって狂ったのかというと、じつは少し違う。ドスはその前から狂人であった。言うなれば、狂信者だろうか。

 冒頭の車事故の現場での対応や、その後の立ち居振る舞いは、正しいことをしているはずなのに、どこかその行いに狂気が滲んでくる。ここでアンドリュー・ガーフィールドの演技が本当に素晴らしい。その演技は、どこかメル・ギブソンを彷彿とさせる狂った演技だ。どこかが先天的に抜けてしまっている、天使のような狂い方を、過剰なまでの笑顔で表せている。

 

・宗教的、哲学的に生きるということ

 「人は哲学を教えることはできない、哲学することを教えうるのみである」というのはカントの言葉だが、カントの哲学はキリスト教に深く根ざしている。宗教において、非常に重要な要素となるのが「行い」であることは、当然過ぎて言うまでもないことだが、それが一番忘れられていることでもある。というよりも、「行い」というものを一義的に見すぎる、ということが問題になると思われる。

 この映画に出てくる言葉と行為は、非常に重層的だ。「殺す」ことが、女子供を「守る」ことだと言うし、人を「殺さない」ということは、仲間を「殺す」ことになる。ここで分かることは、どちらも正しいということであり、それを分けるのは解釈でしかない、ということだ。そして、それを決める人間は皆狂人であるのが世の常だ。ジョージ・オーウェルの世界が、この世界と地続きである証拠でもあるが。

 それはまさに、映画の最初にふざけて崖の上で遊んでいた子供が、成長してからは崖の上で恋人とキスをし、そして人を助けるために奔走する、という ことと同じだ。

 崖の上で何かを行っている。そしてそれを見上げる人が「狂ってる」と言うか、「人を命がけで助けている」と観るか、どちらかでしかないのだ。

 そして、当のドス本人にとって、戦場で彼がとった「行い」とはなんだったのか。この映画はそこに大きな余白を残している。彼はただ、命を救おうとしただけだ。崇高な信念があったといえるかもしれないが、彼の行った行為は、血みどろになり、生き残るかどうかもしれない人間たちを崖からおろしただけだ。彼にとっては人の命を助ける、ということが宗教的な行いであり、生き方であったにすぎなかった、とも言える。

 わかりきっていることだが、「行い」自体に善悪はない。例えば、ドスが助けようとした人間は、全員が助かったわけではない。また、助かったとしても、五体満足で帰れない者もいた。不具の余生を過ごさせることを呪う者も出てくるかもしれない。また、五体満足な兵士は、再び戦場へ投下され、誰かを殺すことになる。つまりは、新たな死者をドスが産んだことになる。

 それを理由に、彼を偽善者だと罵ることは、可能である。可能か否か、と問われれば可能である。しかしながら、「行い」というものはそういうものだ。この映画において、ドスは大事なことは何一つ口にしない。彼自身、自分の「行い」に対しての答えなど持ち合わせていないからだ。ドスにできることは、ただ自分の信念を曲げること無く、生きることでしかない。そして、誰かに「それは間違っていないか?」と聞かれた時、ドスのように迷うこともまた、大事なことだ。それこそまさしく、宗教的に生きる、ということなのかもしれない。迷うことができるからこそ、生きる事ができるのだ。そして、宗教的に生きるということは、難しいことであるが、誰にでも開けている、ということだ。

 

 メル・ギブソンらしい、豪快で残虐ながらも、それでも人生の大事なことは何か、と考えさせてくれる良作。