ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】ドラマで見たい~『SCOOP』を観て~

www.youtube.com

 

 大根仁監督、福山雅治主演の『SCOOP』をDVDで観ました。観る前から評判自体は聞いていたので、安心して観た、ということではありましたが、予想を軽く裏切る終盤の展開に、本当に驚きました。

 リメイク元を観ていないので、リメイク元からあのラストだったのかは分からないのですが、結構唐突に打ち込まれたので、よくわかんないけどやられたな、という気分でした。

 以下、徒然と書きなぐります。

 

 

福山雅治は良かった

 いじわるな言い方をしてしまうと、二階堂ふみを除いて、役者陣は全て良かった。福山雅治は、ある意味でガリレオとか、ああいうキレイな役柄よりもこういった粗野な役の方が真実味があって良いと思うし、そもそも、これくらいの妙齢のイケメン役者たちには、シモネタ全開のおっさん役をやらせておけば、だいたいハマると思う。オバサマ方に「あのましゃが!」とか言わせておけば、まぁ、身も心もガッツリなんじゃないですかね。

 吉田洋さんも、そこまで変ではなかった。思い返すと、ちょっと大根だったようにも感じるけど、ああいう感じの人もいるよな、とは思う。

 と言うのも、二階堂ふみを除いて、大体の人物が、各々の鋳型とでも呼ぶべき人物造型がしっかりしていた、ということが良かった理由になると思う。それに対しての配役も同様に、しっかりと考えられていたと思われる。そのため、映画全体を通しての、人物像系の違和感というものはなかった。二階堂ふみを除いて。

 これはつまり、逆の意味になる。二階堂ふみだけが、ちょっと鋳型が歪んでたというか、あんまりきちんとした鋳型に入れてもらえなかったんじゃないだろうか、というのがあると思う。

 

・裏側を映さない

 この映画の良い所は、テンポが凄く良いところだと思う。映画というのは引き算の芸術なので、何を見せて、何を見せないか、というところに面白さの妙がある。近年、超大型テレビドラマが躍進を遂げているからこそ、その芸術性がクローズアップされているように思われる。どれだけ長くても、物語を3時間以内に、きれいにまとめ上げなくてはならない、ということだ。

 その点、大根監督はその資質は非常に高いように思う。各人物の人物造型をきちんとすることで、あまりその人物について深く語らなくても「多分この人はこういう人だよね」と観客に分からせることができる。チャラ源なんかは完璧にそうで、あの人自身が映画内で何をしているかは、全く明示されていないにも関わらず、観客は彼が情報屋で、だからこそあのキャラで、ということを了解する。お金の受け渡しの下りなど、人物描写として使い古されているからこそ、最短で観客に「あ、こういう人ね」と分からせることができる。(これはもちろん、お約束すぎてつまらない、という風にも言える。ただ、映画というのは、その性質上サンプリング的な手法が突き詰められていくのかな、とは思う。)

 吉田洋が首にタオルを巻いているのも、良い演出だなぁ、と思った。女性であれをしているだけで「あ、この人、現場っぽい」と勝手に観客が考えてしまうのだ。

 人物描写を最短で行った後、映画は小気味よく進む。ポンポンと事件を小気味よく起こし、矢継ぎ早に成功シーンを入れる様は、どこか『スカーフェイス』にも通じる。一種の成り上がり映画としては、やはりモンタージュを入れるとノリが格段に良くなる。非常に面白いし、見ていてテンションは上がる。

 しかし、ここでは反面として、本当の意味での人物描写というものは、少しおざなりになっている面もある。それは人物描写というよりも、内面描写である。

 例えば、今作の福山雅治のような人物はもちろんいる。世の中には、たぶん複数いる。しかしながら、彼らが皆同じか、というとそうではない。マクロ的に見たら似たり寄ったりに見える彼らも、ミクロで見てみると、やはりそれぞれの悩みがあり、葛藤があり、そして信念がある。そこについての言及をもう少ししても良かったのではないか、というのは今作に対する、ちょっとした不満である。テンポが良いゆえに、語りきれなかった部分でと思う。ただ、二階堂ふみについては、しなくてはならなかったのではないか、と思う。と言うのも、今作においては彼女こそがキーポイントであり、彼女がこの物語の舵取りをしているからだ。なので、彼女が舵を取る理由があやふやだと、焦点がぼやけた映画になってしまう。

 

二階堂ふみが何をしたかったのか

 彼女が何をしたかったのか、ということに対しての言及が少なすぎたことは、大きな不満である。彼女は、最初はファッション関係の記事を書きたくて記者になり、流れ流れて、パパラッチをするようになった、という人物である。そんな彼女が、強姦殺人犯に対して「わかんないけど、こいつこのままでいいんですか!?」と言うのが、少し分かりにくい。彼女はそういうことに対して、何かを考えているような人間だという描写は全く無いからだ。例えば、世間一般の意見としての義憤である、としたら、やっぱりそれは二階堂ふみの人物造型があやふやになるわけだな、と思われる。世間一般、という人間はいないからだ。

 一応、福山雅治をきちんとした写真家に戻したい、という動機はなくもないのだが、だとしたら会議でああいう風に言い出す必要はないのではないか。あそこでは黙っておき、後で「もしかすると、あの事件がきっかけになるかも」と考えさせればいい。

 

・構成の見直しが必要だったのではないか

 この映画は、大きく分けて三部構成になる。一部はパパラッチ修行、二部は松永事件、三部はチャラ源、となる。

 新兵物、成り上がり物としての面白さは一部に集約されており、映画全体で観ると長すぎたようにも感じる。ここを少し短くしておいても良かったのではないか。

 そして第二部の松永事件への流れはスムーズではあったものの、上述した二階堂ふみの動機不明により、あんまり人物の考えがよくわかんないまま、映画自体は凄く盛り上がっていく。もちろん、それぞれの物語自体は凄く面白いし、実際に凄く楽しかったことは言うまでもない。

 そして、三部へのジャンプは、あんまりにもいきなりすぎて、結構驚いた。「え、こんな話にするの?」と、腰を浮かした。(リリー・フランキーのシャブ中演技については、実際のシャブ中の方を見たことがないのでうまいかどうかは分からないが、怪演という意味では、凄く良かったと思う。)

 この三部についても、二階堂ふみの動機不明と同じことが言えると思う。チャラ源の心理描写に時間を割いていないため、やばい奴がもっとやばくなって銃振り回した、というだけにしか見えない。

 はっきり言って、この状況自体は非常に凄惨な状況だと言える。特に福山雅治にとっては、人生の中に顕現した地獄のような瞬間だと思う。ただそれは、身の危険という意味ではなく、自分の恩人であり、親友である人間が、もはや自分の知っている存在とかけ離れてしまったのではないか、という瞬間である。ここまでの状況じゃなくても、普通に生きている中で、旧友の変貌した姿を見て同じような状況になる人間も現実にいると思う。

 それは福山雅治の物語である。そしてそれは裏返せば、そこまで落ちていってしまうチャラ源の物語も、たしかに存在しているのだ。そこについての言及が少ないから、「なんか分かんないんですけど」となってしまう。別れた妻の話とか、もっとしてほしかったな、と。

 

・ドラマでやったらちょうどいいんじゃない

 映画にする上で、あまりにも要素が多すぎたのではないか、と個人的には思う作品だ。二部までのもので、二時間半で作れば、もっと良かったのではないかな、とは思う。チャラ源のところまでやるなら、1クールのドラマでやったほうが良かったのではないか、と感じた。そうすれば、人物描写もきっちりできて、尚且つ類型化されない人物として二階堂ふみも描けたのではないか、と思う。

 

 

・道徳的な週刊誌の意義

 この作品では道徳的な物語は全く語られないし、滝藤賢一が「犯人にも人権はあるんだよ!」と叫んだが、それに対する答えはないままだ。加害者の人権というものについてどういう風に考えるかは、観客個々人の問題ではあるが、あまりにもそれについての言及がないのはどうだろうか、と思う。(語っていないわけではないんだけど)

 最後の福山雅治が撃たれる写真を使うかどうかも、正直言って「写真家としての尊厳は」みたいなこと言い出してたけど、正直それで説き伏せられる方もどうかと思う。だったら、もっとちゃんとしたとこに持っていけや、とは思った。週刊誌の紙面に飾っていいものかどうか、という話だ。

 ここでは抜けているのは、週刊誌というメディアがどういう立ち位置をとるべきか、という問題だ。それについて語っている部分もある。各記者が「昔は事件とかについてもよく記事にしていたし、編集長も賞をとってた」と、口々に過去の栄光を話していた。それに対して滝藤賢一が「今の読者が求めているのはグラビアで袋とじなんだ」と、ある意味で自嘲気味に吐き捨てる。で、これについて吉田羊は、なんか皮肉を言うし、二階堂ふみは、何を思ってるかも分からない。(個人的には、グラビアの方が、パパラッチよりもマシな気がする。女性の権利的な意味で言えば、グラビアが道義的に正しいとは思わないが、他人のプライバシーを有名人だからという理由で隠し撮りし、公衆の面前で公開し、複数の人間の人生をメチャクチャにして金を儲けていることに比べればマシに感じる。こればかりは個人の嗜好にもよるが)

 最近、文春であったりが色々と特ダネを引っ張ってきたりしているが、彼らのやっていることがジャーナリズムというものかは疑問だ。じゃぁ、重大事件の犯人の顔をすっぱ抜く、ということがジャーナリズムなのか、というとこれもまた疑問だ。罰を与えるのは、あくまで司法であり、それ以外の人間が、社会的に加害者を罰することがまかり通ってしまうと、社会的にはよろしくない。というより、それは私刑でしかない。その片棒を担うことがジャーナリズムなのか、という話だ。そして、それで金を稼ぐ。ということがどういうことなのか。

 もっと踏み込んで言うと、告発という行為自体が、ただの正義と言う言えない領域に存在している。

 それについては、『凶悪』という映画で、より大きなテーマとして描かれている。あれもリリー・フランキーが加害者として出てくるわけだが。

 『凶悪』という作品、及び原作においては、週刊誌という媒体の利点も明記されている。それは、新聞と比べてフットワークが軽い、という点である。新聞記者は、基本的には「起きているかどうかもわからない事件」は、追跡することはできない。それに対して、週刊誌というものは(会社の判断はあるにせよ)「どうやら事件っぽい」というものを取材し、記事にすることもできる。また、『凶悪』という作品は、獄中の殺人犯が告発する、という内容でもあったため、週刊誌でないと話も聞いてくれない、という状況はあったのだと思う。

  しかし、『凶悪』で主人公が行った告発は、ある意味で正義であった、とも言える。しかしながら、それをしたことで、彼もまた一種の加害者になったのだ。それに対して、主人公は苦悩する。自分が行ったこと、それが果たして正義なのか。それとも、ただの自己満足でしかないのか。

 二階堂ふみや、福山雅治は、そういった悩みを全く持っていない。ただ数字として、発行部数が職場に貼り出され、大塚愛を熱唱する。もちろん、そうすることで、この業界の欺瞞を浮き彫りにしている、とも言えるが。

 

 ただ、そういう裏を勘ぐらずに、普通に楽しんで見る映画としては、全然悪くない映画だと思います。

 ましゃの汚い演技も最高だったし、なによりも二階堂ふみの濡れ場(下着着用)もある。これ以上に言うことはない。