ボディロッキンで激ヤバ

ワンパクでもいい。ボディロッキンで激ヤバであれば。

【ネタバレ】ダルシム待望論~『カンフーヨガ』を観て~

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 ジャッキー・チェン主演の『カンフーヨガ』を観てきました。ジャッキー・チェンと言えば、海外では昨年公開された『The Foreigner 』の方が観たかったのですが、正月らしいメデタイ気分には丁度いいか、と思い鑑賞してきました。

 後は徒然。

 

・結構面白い

 粗だらけというか、正直に言うと普通の映画としての面白さはないと思う。終始、トンチンカンな映像のオンパレードであり、映像全体の情報量が多かったり(悪役の登場シーンは本当に面白かった。貴族的な服装をした鷲鼻の男が、ワシを手に馬に乗って砂漠を走っている)、時には全く意味のないシーン(カーチェイスシーンでは、ジャッキーの車にライオンが乗っているのだが、ジャッキーとライオンの顔が同期する意外には全く意味がなかった)なども入ってくる。ただし、それらは「ボリウッド的」という魔法の言葉によって緩和され、「まぁ、こういう映画なんだろうなぁ」と流される、また、映画も次々と展開が変わるので、あまり細かいことにこだわってもいられない。

 観客は常に映画に置き去りにされつつ、怒涛の展開の中で繰り出されるジャッキー・チェンの妙技を味わいつつ、ニヤニヤしながら映画を楽しめる。

 はっきり言ってそんなに悪い体験ではない。よく「頭を空っぽにしたら面白い」という文句があるが、この映画の場合その必要はない。ほっておいても頭は空っぽになる。

 

ボリウッド的なハリウッド映画

 インドで生産されているボリウッド映画的なテイストを、ハリウッド的なスケールでやったらこうなるんだろうな、と随所に感じさせる演出があり、個人的にはそこをこそ楽しめた。時折、わざとスローモーションのコマ送りがガタついたりと、わざとボリウッドの技術にまで落としたりする所も面白かった。

 最後のダンスシーンも、ボリウッド的なものではなく、よりハリウッド的な見せ方をしているためか、割と普通に良い映像に見える。

 また、主演の女優たちがおしなべて美しく、インド的な美人ではなく世界的に受けそうな美人を持ってくるあたりは、意識して人選をしているのではないかと思わせる。

 

・それでも残念な所

 別に、残念な所だらけの映画なので特に言うことでもないが、それでもこうしてほしかった、と思わずにはいられないことが2つある。

 

 一つ目は、ジャッキー・チェンの格闘シーンをもっと遅くしてほしかった、ということ。特に、格好良く闘うシーンは、もっと遅くても構わなかったように思う。そうすることで、ジャッキーがカンフーを使うまで、敵はジャッキーを舐める、という状態になる。「考古学者で、しかもチビのおっさんが、何もできやしない」と言う風に。しかし、観客は知っている。一度ジャッキーが構えを取れば、その時、奴らは中国四千年の歴史をその身をもって味わうことになる、ということを。これが、カタルシスを産む。

 最初の朝食シーンでカンフーを見せるのでも構わないが、その場合も、あまり早くなく、ヘロヘロな動きにとどめておけばなお良かった。

 雪原のシーンでカンフー教室をした理由は、恐らくは観客の中だるみを嫌ってのことだとは思うが、正直つまらない時間を長引かせただけに思える。製作者側に我慢がなかったのではないか。

 

 二つ目は、敵の格闘方法がカンフー的なものではなく、もっと別のものにしてほしかった、というもの。

 今回の敵は王子であるが、インドの歴史や伝統などは意味がなく、富こそが意味がある、という思想なのであれば、もっと近代的な(西洋的な)戦い方にしても良かったのではないか。ボクシングや、それこそMMAなどの動きが多ければ、説得力があった気もする。

 もしくは逆に、「殺人ヨガ」のようなものを勝手に作ってしまっても良かったのではないか。この映画の無数にある欠点の一つに「ヨガ要素が後半ほとんど無い」というのもあるが、それを払拭するために、王子にはヨガをモチーフにした殺人拳法でジャッキーに襲いかかってもらいたかった。口から火を吹いたり、遠距離から柔らかい体を活かしたパンチを放ってみたり、第三の目を開いてテレポートしたり。

 姫が「そんなものはヨガではありません!」と叫ぶ。しかし王子は「否! これこそ我らの伝統だ! この血に汚れたヨガマットこそが、我らの王家たる証!」と聞かない。そこへ、ヨガマットを瞬時に引きずるジャッキー。足を取られ、よろけたその隙に、蛇の頭のような連撃を叩き込む。まいった!との声とともに、姫が駆け寄る。「私が間違っていました。あなたの存在も、また私達の歴史」と手を取り合う。笑顔でジャッキーが手を合わせ、横にあったイスに腰掛ける。その後、ダンスが始まる。

 これでよかったのではないか。

 

 とまぁ、阿呆みたいな話を思いついて友だちと話す分には悪くない作品だと思う。

 

 

【ネタバレ】本当に良かったよ~『ジャスティス・リーグ』を観て~

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 DC映画の最新作『ジャスティリーグ』を観てきました。

 DC映画の作品群は、もちろん全部見ているのですが(ドラマは除く)、それぞれに言いたいことはたくさんあり、『スーサイドスクワッド』を一番下にして、『ワンダーウーマン』が最高峰だったのですが、今回はそれを凌ぐというか、きちんと大作アクション映画として作られていて良かったと思います。

 正直、全く期待していなかったのですが、本当に普通におもしろい映画になったので安心しました。レイトショーで観ると決めた日は仕事中も「俺はこの大変な仕事を終えた後、クソみたいな映画を観させられるのではないか」と、人生について深く考えたりしていましたが、その疲れも吹き飛ぶほどでした。

 あとは徒然。

 

 

・と、言うほどでもない

 面白かった理由の大半は「ワンダーウーマンを除く、他のDC作品の体たらくぶり」という前提があったためと考えられる。なので、正直普通の映画としてみた時に言いたいことがないではない。

 例えば、オープニングの「スーパーマンがいなくなった世界」という感じで、希望をなくした世界をわかりやすく映し出すシーンがあるが、それがあまりにも矮小すぎて「これは危なそうだ」と覚悟を決めた。なんか八百屋?で喧嘩だか犯罪だかが行われていたり、ホームレスのおじいちゃんを情感たっぷりに映したりなど、正直「スーパーマンには全く関係がないのでは」ということを情感たっぷりに描かれても、こちらとしては鼻白んでしまう。

 スーパーマンを蘇らせるシーンのグダグダも「お、ここから来てしまうのか?」とちょっと不安になったのだが、スパッと解決したので事なきを得た。ただ、ここら辺のヒーロー対ヒーローの図式は「アベンジャーズ意識してるんだな」と思っていたら、編集にジョス・ウィードンが参加していた。

 

・映画の時間が短かった

 これは功績というか、無駄に長くせず、スパッと小気味よく編集した結果、映画としてのノリが軽くなって楽しめる作品になったと思う。前作『バットマンvsスーパーマン』で描かれた神話的な話では、ザック・スナイダークリストファー・ノーランの悪いところを凝縮して出してしまった、という無駄に長い映画になっていたのだけど、今回はもうキャラが矢継ぎ早に出てきてドッタンバッタンの大騒ぎを繰り返すという、最高のストーリー進行。

 ステッペン・ウルフの登場シーンなど、「こいつ誰だよ」と思った瞬間に戦闘が始まるので「あ、こいつは悪いやつなんだ」「強いんだ」「なんか怖いんだ」と小学生並みの感想だけで話を観ることができる。

 その結果としてアクアマンのキャラが掘り下げがほぼ無かったり「急に仲良くなってるな」という感覚はあったが、正直アクションが楽しく、ギャグの小気味が良かったら問題に思えなくなる。

 

・フラッシュが良かった

 全員キャラが立っているわけだが、特にバリー・アレンが良かった。各キャラクターの接着剤として、コミカルでありながら重要なキャラだったのだと思われる。

 特に、新人で戦闘は苦手な若者が、まさに「ヒーローへと成長していく」というところを描くのに、爽やかな描き方が出来ていたと思う。1人を助けろ、という命令に対し「まだもう一人いける」と戦いに入っていくシーンもあっさりと良い感じに描けていたと思う。

 サイボーグもそういう役どころなのだが、ただの便利な人にしかなっていないのは残念だった。ガル・ガドットとの会話などは、ガル・ガドットの母性を活かすことも出来たので良かった。

 

・人間の戦闘シーンはザック・スナイダーの得意分野

 バットマンワンダーウーマン、アクアマンの戦闘シーンは、どっちかというと『300』での手法も使えるので、ザック・スナイダーの得意分野だろう。『ワンダーウーマン』では監督は違ったが、正直「これならザック・スナイダーはいけるんじゃね」と思っていたのだが、今作での戦闘シーンはまさにザック・スナイダー節全開でよかった。特に、ステッペン・ウルフとの戦闘シーンは、全部似たようなものになってしまっていたけれど、ステッペン・ウルフの斧の軌跡の美しさも相まって、非常にかっこいい。

 

・「無駄なところがない」は映画として最高の賛辞

 今作、全く無駄がないではないけれど、少なくとも無駄な部分をたくさん削り、面白い所だけを残したということは、映画として最高の褒め言葉だと思う。

 とりあえず観たいものをすべて入れて、その結果として面白い作品になったのだとしたら、それは映画の芸術としては本懐だろう。

 

【ネタバレ】変化球~『ダンケルク』を観て~

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 クリストファー・ノーラン監督作品『ダンケルク』を観てきました。二回観ました。

 

 

・ただの戦争「映画」ではない

 どちらかと言うとアトラクションとして楽しむ作品に思える。効果音やハンス・ジマーの音楽、終始鳴り響く時計の音など、基本的には見ている人間を戦争の中に没入させようとする意思を感じさせる。

 音響設備に力が入っている映画館で観ると、より良い感想を覚えるのではないかと思う。

 特に、ダンケルクでのシーンは素晴らしい絶望感で、今まで見てきた戦争映画と並び称されることとは思う。少なくとも、不条理に人が死ぬ、という一点においては優れた映画だと思われる。

 

 

 

 

・ストーリーのある映画ではない

 今作は、物語として楽しむのではなく、どちらかと言えばアトラクションとして樂しむような作品なのだと思う。

 意図的にそうしているのかは分からないが、少なくとも登場人物への感情移入がしやすい作品ではない。また、その時代の常識や戦場での常識などへの説明も無いため、そういった知識が不足した観客は読解力や類推力が求められる。つまりは、いちいち考えなくてはならないので、映画に入りにくい。

 ここはもう、ファンタジー世界を見るくらいの気持ちで見てていいのではないかと思う。

 

 

・時制の変化が変化球すぎる

 ノーラン作品といえば『メメント』だが、それにも似た時制のランダム配置が行われている。その為、二回目に見た時は「あ、ここにつながるのね」と面白く感じたが、一回目はよくわからなかった。

 

 

チャーチルの演説は感動的だが

 予告編では絶望的な引用をされていたチャーチルの演説を、本編ではクライマックスに配置し、感動的なスピーチとしていたが、あの内容で戦場に行っていた兵士が喜んでいたのか疑問だ。

 命からがら国に戻ってきて「まだ戦うぞ」と言われて「よっしゃー!」となる人が多いものだろうか。しかも、今作の絶望的な状況の一つに、軍(国)からの支援があまりなかった、というものもある。そして、その国のトップが(女王はいるが)スピーチの主だ。

 これは、この時代、この国に生きている人間には響く言葉なのかもしれないので、個人的にはこう思った、というだけではあるが。

 

 

・人物の内面が描けていない

 というより、描く暇く暇がなかったのだろう。ただ、カットしなくてもいい部分をカットしたせいか、人物への感情移入はできなくなっている。

 ダンケルクの兵隊たちは死への恐怖があることは簡単にわかるので感情移入はし易いが、旅客船の人間たちの説明がないので、彼らへの感情移入は凄く難しい。彼らが何故ダンケルクに向かっているか、というのが表層的にしか分からない。

 何度も観れば分かるのだが、初回ではわかりにくく、またノイズに感じてしまう。

 更に兵隊たちについても、命からがら生き残ったのに「帰ったら叩かれるぜ」という心配。分からなくもないが、いきなりすぎて帰ってきた余韻が消えてしまった。そうやっておいて、実はみんな歓待しましたよ、というのをやりたいのは分かるのだが、あまりにも性急にやりすぎているように感じた。

【ネタバレ】古典的安心感~『ワンダーウーマン』を観て~

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 DC映画の最新作『ワンダーウーマン』を観てきました。

 ジャスティスリーグ作品としては前作の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』であったり、DC映画としては最新の『スーサイドスクワッド』が「うん、まぁ」という出来だったので、今作も同じようなものだったら、という危惧はあったものの、海外の評価は概ね良かったので、若干安心した気持ちで観に行きました。

 ぶっちゃけると、今までのDCシネマティックユニバースと呼ばれる一連の作品群の中では一番面白く、一番普通のアメコミ映画になったのではないか、と思います。

 

 

・本当に普通のアメコミ映画です

 普通にワンダーウーマンが大活躍(アクション的にも頭脳的にも)して、普通にカッコいい音楽があって、普通に世間知らずギャグが織り込まれて、普通に楽しめる。そんな映画。しかも最後には、「愛が世界を救う」だ。

 ただ、そういう映画を作ることも、やはり簡単ではないことは承知しているので、そういう映画を作ったからと言って評価が下がるものではない。だから、今作については、正直本当に良かったと思う。映画館で観てよかったと思うし、ジャスティスリーグもこのノリで行ってくれたらな、と切に思う。

 ただ、DCらしさと言うべきか、最後の戦いは必ず夜だなぁ、という印象。今回も真っ暗闇の中、一面煉獄の炎みたいな感じだったので笑ってしまった。

 

・特に、戦友が増えてからが面白い

 男の戦友が増えていくにつれて、この映画の面白さは増す。それはワンダーウーマンへ「すげぇ!」と言う役者が増えるという意味でもそうなのだが、キャラがそれぞれ立っていることも良かった。サミーアとの絡みは全体的に良かったし、酋長も存在感があってよかった。チャーリーのキャラもすごく良かったが、もうちょっと踏み込んでも、と思うが、尺が足らなかった。

 

・普通のアメコミ映画って

 今までのDC映画は、おそらくは「DCって、大人向けでしょ」ということを考えてしまって、なんか変なことをしてたのではないか、と個人的には思っている。それこそ『スーサイドスクワッド』で監督をデヴィッド・エアーにしてみたりだとか。

 それはどういう勘違いかというと、「大人向け=分かりにくい、咀嚼しにくい」という勘違いだったと思う。正直それって凄い浅はかだと思う。もちろん、ビールの苦味みたいに一口目で「なにこれ」と思わせつつ、何度も試している内に楽しみ方が分かるような作品もあるにはある。ただ、それはハリウッドの超大作でやることではないし、そんな作品をアメコミ映画でやったところで、食合せが悪すぎて、誰も何度も楽しもうとは思わない。

 勘違いしてほしくないのは、所詮DCも「アメコミ」でしかなく、やっぱり大人が読んでたら「え、大の大人が漫画なんて読んでるの?」と言われるような対象だということだ。つまりは、子供向けなのだ。

 マーベルはそこに対しては、全く変なことは考えなかった。普通に子供向け(というか、子供が観ても楽しめるよう)に作っている。ただ、その中で語っている内容で、ちょっと深いところまで視野に入れて作っているだけだ。特に、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などは、(監督が良いということもあるが)あんなにバカっぽくて楽しい作品なのに、そこで語っている内容は「大人であれば、より心の琴線に触れる」ものに仕上がっている。そしてその威力は、飲み込んだ腹の中で炸裂するからこそ、最大限に発揮される。

 DC映画は全く逆で、飲み込みにくい割に、特に飲み込んでも炸裂するわけでもなく、何も残らない。「うん、苦かったね」で終わるだけだ。なんかもう、激辛料理食べる選手権みたいだ。

 それに対して、今作『ワンダーウーマン』はもう、そこら辺全てを取っ払って、ただのアメコミ映画に仕上げている。というか、それだけだ。特に深みはないし、明日へ生きる希望やなにか、というものは全く無い。ただもう、ガル・ガドットが美しく、アクションは豪快で、ワンダーウーマンのテーマソングは問答無用でテンション上がる。

 それ以上はない。ただ、それの何が悪いというのか。もちろん、そこにテーマ的なものを持たせて、物語や人物とのミックスアップを図ることができたら、傑作になっていたかもしれないが、そうでなくても映画として楽しめたら、お金払った意味はあると思う。『スーサイドスクワッド』はそうすべきだったし、そうしなかったのがより評価を下げたと思う。

 

・前作『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』との不適合

 ただし、別に言いたいことがないわけではない。

 例えば、今作のワンダーウーマンは完全に「神様の子供」である。これは結構、前作で語られていた「神 VS 人間」という構図を根本からぶち壊すものであり、前作でもワンダーウーマンが出てきた瞬間にテーマが音を立てて崩れ落ちたように、「あの作品って何だったんだろう」という思案を映画を観ている内に始めてしまった。

 しかも、スーパーマンは「神」とは言っても、「神(のような存在)」であって、ぶっちゃけると「宇宙人」なのだ。つまりは、今の人類が様々な宗教で象徴している神とは、少し毛色が違うのだ。神のような力を持っている宇宙人なのだ。ここには利点もある。つまりは、宗教的な色が薄いということだ。どういうことかというと、キリスト教の神やイスラム教の神でもないし、仏教の神でもない、ということだ。

 それに対して、ワンダーウーマンは完全にギリシャ神話の神であり、ギリシャ神話で語られていることが史実である、ということになってしまう。つまり、一番偉いのはギリシャ神話になってしまわないか、という危惧が浮かぶ。だからどうだ、という話ではないが。ただ、世界観的に大丈夫か?とは思ってしまう。そもそも、神様を殺したいならワンダーウーマン殺すようにすべきではなかったか、ジェシー・アイゼンバーグ。いや、調べてはいたのか。

 また、今作の終わり方だと、ワンダーウーマンは「人類は愛がある限り救うべきだ」という考えに至った、とのことだが、それって『ジャスティスの誕生』と違うくないか? 前作のワンダーウーマンは「人間なんて救う価値もないし、なんか近寄られると嫌だから関わらん」という態度だったはずだが、なんか色々人助けとかしてたんだろうか。

 個人的に今作の終わり方としては、「ワンダーウーマンは男や世界に裏切られて、前作のワンダーウーマンにつながるんだろうな」というものを予想していた。というか、前作のワンダーウーマンにつなげるなら、そうするしかない、と考えていた。それはつまり、終わり方はスカッとしたものになるはずはない、と考えていたのだが、そうはならなかった。

 これって、もしかすると前作や『スーサイドスクワッド』の批判を受けて、「一作くらいはスカッとした作品つくるか」となったのではないか、と邪推したくなるほどの矛盾っぷりである。もしもそうなのだとしたら、『スーサイドスクワッド』で気がついてほしかったな、というのが正直なところではあるが。

 

・戦友との別れ

 クリス・パインは戦死したのでアレだったが、他の生きている戦友との死別は描いても良かったように思う。ワンダーウーマンというキャラクターは寿命が長いので、そういった人類との交流というものは別れの連続になるしかない。そこを描けていたら、もうちょっと前作に繋がったかも、とは思う。どれだけ愛しても、私を残して去っていく存在、という人類に対して「救う(愛する)価値があるのか」と苦悩するなら、繋がったのではないか、とは思う。そしてこの悩みは、神的な悩みでもある。

 

・ラスボス

 なんか、人間の時の見た目がね、あんまり好きじゃない。ジョンブルすぎ。

【ネタバレ】僕らはあの頃のように走り続けることができるのか~『ベイビードライバー』を観て~

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 エドガー・ライト監督作『ベイビードライバー』を観てきました。予告だけを観てたら「ちょっと明るい『Drive』かなぁ」という感じだったんですが、エドガー・ライト的なユーモアと落とし所があって、全く違う作品になっていました。まぁ、監督としての味が全く違うので当然ですが。

 『Drive』が「美しい映画」なら、本作は「楽しい映画」であり、娯楽映画として誰が観ても楽しく、最後には感動する作品になったのではないか、と思います。

 つらつら思ったことを書きます。

 

・カーチェイスシーンは、少ないが熱い

 本作の主人公ベイビーは「逃がし屋(ゲタウェイドライバー)」なので、もちろんアクションシーンは車を使っての逃走劇、カーチェイスになるわけだが、実はその数自体は少ない。ワイルド・スピードのように車で延々とアクションをしまくる、というわけではない。ただ、出て来るアクションそのものは密度が濃く、よく考えられていてカッコいい。

 また、車のアクション以外でのアクション自体もベイビーのなめらかな動きも相まって凄く良い。実は、この俳優さんの出ている映画は初めて観たのだが、こんなに滑らかでダンスのキレがある役者だとは知らなかったので、驚いたと同時に好きになってしまった。

 

・音楽とのマッチがいい

 これはもう、映画が始まった瞬間、車で強盗犯を待っているベイビーの待ち方からして最高だった。軽快な音楽とともに、色々なものを叩きながらリズムを取り、音楽に埋没している姿にこちらも自然と顔がほころぶ。しかしながら、警察や周りの動きには敏感に反応する。

 ベイビーという名前のとおり、まだ子供なんだな、という印象を与えつつも、確実に仕事をこなす冷徹な大人の側面を織り交ぜる最初のシーンは、この映画の全てを説明しているシーンでもある。

 子供のまま大人の世界に投げ込まれ、そして成長をしきれないまま大人になれと強要される。これは、映画で見ると特殊な事例になってしまうが、現実の世界でもそれほど変わらないとも言える。日本人などは学校を卒業していく過程で、社会というものに慣れ、染まっていくと考えられてはいるが、現実は大学を卒業しても人間としては成長過程であり、言ってしまえばまだ子供である。そして、そのままに大人であることを強要され、そして大人になろうともがく。子供らしさを揶揄されながら。

 ベイビーにとっての音楽とは、子供らしさの象徴である。だから、今の音楽ではなく、昔の音楽を聴く。子供の頃の曲を。

 

・「古典的な理想」と「いまそこにある現実」

 ベイビーとデボラが初めて話すシーンも、個人的にはグッと来た。彼らが話す「車で20号線をぶっ飛ばしたい」という理想は、それこそ昔の若者が映画いていた理想だ。だが、それは現実が許してくれない。このシーンが、大人の言う「昔は良かった」という台詞を聞き続けた若者に、自分には思えた。決して手に入れることの出来ない、だが過去には存在したという理想像。それをそのままサンプリングしたかのような白黒描写。悲しい現実を生きている全ての人間が、ここに共感せざるを得ない。

 

・登場人物の合わせ鏡としての主人公

 この映画の面白い部分に、ベイビーの成長の仕方があると思う。

 ベイビーは映画が進むに連れ、様々なことを学んでいくようだった。そのままではなく、彼なりの解釈をして。それはまるで、人の言葉をサンプリングし、それを加工し、トラックに落とし込むように。周りの大人達から貪欲に吸収していく。

 そう考えると、ベイビーがこんな家業をしていながら純粋さを保てていた理由はなんだろうか。それは育ての親であるジョーとドクという、二人の父親の影響が大きいのではないか。

 映画のラスト、ドクという存在がベイビーにとってどういう存在だったのか分かる。彼もまた、ベイビーを守護していたのだ。ベイビーがジョーに「俺が守るから」と言っている裏では、ジョーが精神的に、そしてドクが身体的に守っていた。

 

・ベイビーは大人になれるか? もしくは、大人とは?

 登場人物の中で、一番大人だったのは誰なのだろうか。それはジョーとドクだろう。それ以外の人間は、それぞれどこか大人になれきれていないのではないだろうか。バッツやバディもベイビーに色々と教えはするが、彼らも大人ではない。

 では、大人とは何なのか。誰かを守れるような存在だろうか。それは古典的な大人の理想像なのかもしれないが、それは現実では難しいのではないだろうか。

 娯楽作品でありながら、そんなことを考えてしまうようなこともあったりなかったりする、そんな作品でした。

 

【ネタバレ】小さなことからコツコツと〜『メアリと魔女の花』を観て〜

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  米林宏昌監督作品の『メアリと魔女の花』を観てきました。

 『思い出のマーニー』は割と面白かったというか、ジブリでこんなことするんやな、という感じだったので、そんな人が魔女物をやったらどうなるか、と思って観に行きました。

 ツラツラ書きます。

 

・子供向けであり、大人向けではない

 ジブリの作品は大人でも鑑賞できるような内容が多かったが、今作品は子供向けであり、大人の観賞には耐えられるものではないと思う。少なくとも、脚本自体はご都合主義というか、あまり筋道立てて考えずに作ったな、という印象。

 

・メアリの表情や仕草がかわいい

 キャラクターの魅力という点では、主人公メアリは可愛かった。特に、絵柄はジブリっぽいのに、表情は今までのジブリ映画には見られない感じのものが出るときなどは、可愛さが増しているように思えた。

 

・映像はきれい

 ジブリらしい背景などすばらしかった。終わり付近の実写のような草木に、ジブリらしい絵柄が被っていくところなど、実験的でもあるが良かった。

 

・忘れられたメアリの成長

 この映画を見ていて残念に思ったことは、メアリがこの事件で何を得たか不明瞭である、という点に尽きる。

 元々メアリは、自分の赤毛を毛嫌いし、それを挽回すべく色々なことに手を出し、失敗していた。一見、そこにあるのは自己嫌悪に思えるが、それは逆だ。彼女は自己愛にまみれている。メアリは自分が、現状の評価よりも高い評価を得るべきだと考えている。だからこそ、理想的でない自分が許せないのだ。そんな彼女に、変身できる魔法は魅力的だったろう。

 その証拠に、彼女は謝ってはいるものの非常に自分勝手に振る舞っている。例えば、黒猫に対してすら「あんたも不幸よね」と失礼極まりない言葉を投げかけていた。その言葉自体は子供らしい身勝手さとも言えるが、そこから成長し、自分自身であるということを誇るようになる、ということがこの映画で語られるべきではなかったか、と個人的には思う。

 多くの子供は成長するにつれ、大きな自己愛から脱却するものだ。そして、他人との相対的な世界に生きていく。その中で、自分さらに獲得していく。そういう要素がないのなら、ここ物語でメアリが得たものは何だったのか、という話になる。

 

 ・魔法は悪者か?

 この映画で更に気に障ったのは、魔法に対する扱いの浅薄さだ。そもそも、魔法世界の描き方が足りない。

 あの魔法大学という所でさえ、出てきた教員は二人だけだ。しかも校長と化学の教師だけ。もっと出さないと、大学と言うにはお粗末すぎるように感じる。学生の数は多いのに、あの二人だけで回しているのだろうか。

 一応、他にも魔法大学は存在して、この大学は特に「変身魔法」について研究が盛んである、という趣旨にはしている。しかし、その理由はあまり明かされていない。というより、最初の「不法侵入者は変身させる」という文言のためだけにやってるように見える。正直、そんな大事な分野なら罰則に使うのはどうかと思うが。

 例えば、あの大学を作った魔法使いが「変身魔法は、必ずや世界を良くする」みたいな精神を持っていて、だからこその大学を作った、とかなら分かる。それくらいにしてくれたらよく分かる。

 ここで自分が何を言いたいかというと、「魔法は使い方によっては便利で役に立つ」ということであり、そこを蔑ろにしたらこの映画そのものが無意味なものにならないか、というものである。

 この映画で目指すべきラストは「魔法世界から、現実世界へメアリが帰っていくこと」であり、そんなことは分かりきっている。問題は、何を持ち帰ってくるか、ということに尽きる。

 メアリがラスト付近で「魔法なんかいらない!」と叫ぶシーンがある。この発言は「魔法がなくてもやっていける!」という意味なのだと思うが、正直あった方が良いに決まってる。ピーターは母親の手伝いをよりできるようになるし、メアリも変身魔法で見た目を変えられるかもしれない。そもそも、メアリが魔法世界から家に帰るためには魔法の杖がないと帰れないのだ。それなのに魔法はいらないなんて、よっぽど子供らしい恥知らずなセリフだと思う。

 別に、このセリフが悪いのではない。このセリフを言わせる準備が足りないことが問題なのだ。

 このセリフを言うためには、メアリやピーターが現実世界を認め、そこで生きていく決意をしなくてはならない。魔法があれば、全てがうまく行くかもしれない、しかし、それでも私は現実の世界を、この赤い髪のまま生きていく、という、決意が必要なのだ。この映画にはそれがない。ただ一方的に魔法を悪者扱いして終わらせている。だが、それは違う。

 確かに、教授や校長は悪人だったかもしれないが、彼らは彼らなりに、世界をより良くしようとしていたことがうかがえる。花の力を使えば、ピーターやメアリでも魔法が使えるようになるのだ。そして、その研究をしていけば「世界が変わる」と言ったのだ。それ自体が悪いことだとは思えない。

 その方法を間違えただけだ。そして、彼らは悪くとも、魔法自体は悪いものではないのだ。というかそうしないと、現実世界へ帰るという選択肢の重さが失われる。

 

・校長と教授の悪の置き方は悪くない。

 常道だと思う。「世界を変えたい」という願いは、ある意味でメアリの写し鏡だからだ。メアリもまた、一歩間違えればそうなっていたかもしれない、という意味で。だからこそ、「彼らを打倒する」=「世界を変えず、自らを変える(魔法無しで)」という物語は分かる。ただし、そこの書き込みがあまりにも足りないというか、分かりにくい。

 

・「大きな力には大きな責任が…」と言いたいのだろうか

 ラストのシーンは、おそらくは原子力発電所の事故を思い起こさせる意図があったのだと思うが、そこまで盛り込んだら分かりにくさが増すだけではなかったろうか。入れるなとは言わないが、もっと入れないといけない話を捨ててまで入れると「いや、逆効果なんですけど」と思ってしまう。

 この話はもっと卑近なものだ。というより、矮小なものだ。一人の女の子が、自分の髪の色を気に入る/許すまでの話だ。そこを蔑ろにして、ベンおじさんのあれはないと思うが。

 

【ネタバレ】敬意をもって生きていこう~『ジョン・ウィック:チャプター2』を観て~

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 キアヌ・リーブス主演、大ヒットアクション映画の2作目『ジョン・ウィック:チャプター2』を観てきました。

 前作も楽しく観させてもらって、今作もすごく楽しめました。キアヌ・リーブスを始め、制作陣のほとんどが「楽しいB級映画を作ろう」というスタンスで挑んでいることが伺える、非常にエンタメに特化している作品だと思います。

 今作は、良い意味でのB級感に加えて、こういったジャンル映画の良さとは何か、ということを、いい具合に落とし込むことが出来ているのではないか、と思いました。

 以下、箇条書き。

 

・1作目からのブラッシュアップ

  1作目については色々な言い方で褒める人はいると思うが、個人的には「ババヤガ(ブギーマン)おじさん」と、やけに打ち込まれる字幕の2つが面白かった(両方共ババヤガおじさんのシーンやないか)。そして、それが今作にも生かされているのが笑えた。

 きちんと映画の最初の方で「ババヤガ」とか言ってくれるし、手話の敵役がいたことで、ずっと字幕が使える。ここまでして字幕を使いたいか、と笑ってしまった。カッコいいんだけどね。

 あとは、全体的な世界観の深みを、より説明していることで2作目として面白さの持続が出来ていることは感心した。世界観の作り込みは前作の良い点の一つだったが、今作はその部分を掘り下げ、発展させたことで、凡庸に終わらせる2作目とは違う、きちんとした脚本になっていると思う。その世界とは、殺し屋たちの世界であり、そしてその殺し屋たちを支える人間たちの世界だ。

 やはり、007シリーズでのQのように、殺し屋たちが使うおもしろガジェットや武器を開発、調達する人間は、それだけでキャラクターとして面白い。色々な幅(階級であったり、人種であったり)をもたせることができるし、演出の仕方も遊べるのだと思う。

 今作、ジョン・ウィックがローマで仕事を頼む、様々な人間たちはまさにその面白さに満ち溢れている。このシーンは、銃撃戦のシーン以上にワクワクさせる、この映画の白眉だと思うが、同時進行で色々な資材(武器、情報、防弾服)を調達する場面を見せているのだが、そのシーンに出てくるジョン・ウィックの相手が全員魅力的だ。例えば、1人は古ぼけた古書店?のオーナーであったり、1人は服屋か紡績工場のおばちゃんであり、更には高級テーラー。それぞれが隠語を使ってみせたり、それぞれの仕事の仕方、それぞれの流儀を感じさせることのできる、素晴らしい演出だと思う。

 そして、誰しもが最後にジョン・ウィックに声をかける。「良い狩りを」など。プロフェッショナルさがある。最後の方はギャグになるほど。

 

・これ一作で語ることはできないし、したくもない

 今作は、前作の『ジョン・ウィック』が予想以上に売れたことで作られた、言わば「ご祝儀」である。もちろん、今作なりの面白さはあるが、それもやはり前作の中にあった要素をクローズアップしたものであって、今作だけの良さかといえるかは微妙である。

 ジョン・ウィックをもう一度観たい、ジョン・ウィックのいる世界をもう一度味わいたい、というファンに向けたサービスであり、その世界観を作り上げた制作陣に対するボーナスであったように思う。

 

・『ジョン・ウィック』の魅力

 当たり前の話だが、この作品の面白さはジャンルムービーとしての面白さもあるとは思うが、やはり大きな魅力は、主演がキアヌ・リーブスである、という点にあると思う。

 というのも、『ジョン・ウィック』という作品が出る前(今でもそうかもしれないが)、キアヌ・リーブスという俳優の評価は高いものではなかった。『スピード』や『マトリックス』の成功があったにも関わらず、近年はビッグバジェット作品ではことごとく外し、演技もできない大根で、時々変わり者の一面でネットを賑わすくらいの俳優だった。それが、『ジョン・ウィック』の主人公と、面白いくらいにマッチした、ということだ。引退まではいかなくとも、俳優としての旬は過ぎた、と誰しもが考えていたわけだ。

 ジョン・ウィックというキャラクターの魅力は、そういったキアヌ・リーブスが「キアヌ・リーブスであり続けた」ということが全面に出てきてるが故の魅力である、と思う。これはもはや、セガールやジャン・クロード・ヴァンダムと同じ世界に片足を突っ込んでいると言える。ヴィン・ディーゼルも似たような存在で、そちらの方が似ているかもしれない。

 

・至高のドタドタ感

 例えば、映像的に非常に作り込まれている中で、実はそこまでキアヌ・リーブスの立ち居振る舞い自体は、洗練されたものではない。「ガン・フー」という名前で呼ばれる、銃と肉弾戦の組み合わせも、わりとドタドタしていて、格好良く敵を次々殺していくというよりも、なんとか頑張って大勢の敵をなりふり構わず倒している、という風に見える。それが悪いわけではなく、元ネタ?というか、銃撃戦と近接戦闘を組み合わせた戦闘術である「ガン=カタ」(『レベリオン』で出てきたトンデモ武術)と比べて、より泥臭く、よりリアルな戦闘スタイルは、確実にこの作品の良さにつながっている。

 このドタバタ感は、リアルさを出すことにも寄与しているし、ジョン・ウィックというキャラクターが一度は引退した人間である、ということを表現しているようにも見えるし、尚且つ、キアヌ・リーブスっぽさすら表現しているようにも思う。と言うより、今までのスタイリッシュな映像の中で、格好良く決めポーズをとっていたキアヌ・リーブスが、本当の姿を見せているのではないか、という感動がある。

 まぁ、実際の所どうだかは分からないのだが、色々と漏れ聞こえてくるキアヌ・リーブスの生活を総合すると、どう考えてもちょっと天然というか、どんくさそうな人だな、という感想を個人的には持っていた。なので、ジョン・ウィックのどんくさそうな動きは、すごくしっくりと来た。

 それが感動した、というのは1作目に対する個人的な評価だ。そして、2作目もそれは変わらない。

 ドタバタと、現実に対してなんとか対処していくその姿は、映画俳優キアヌ・リーブスの生き方と同じだからだ。

 

・物語としての面白さ

 この作品の根幹となるような言葉が、今回敵より出て来る。それは「ジョン・ウィックは、復讐をしたいだけだ」というものだ。ありがちながら、面白い話だ。そして、復讐するという精神は、動物には本能的に備わっているものだ。

 そして、人間だけがその復讐という本能を、社会との契約によって縛られている。野生の動物、群れを作る動物にももしかしたらあるのかもしれないが、人間は掟や法律を作ることによって、復讐の連鎖を終わらせようとしてきた。有名なハンムラビ法典などは刑法であった。目には目を、しかし、それ以上のことは許さないよ、というものだ。

 しかし、それが足かせになることもある。それは別に、社会全体からしてみると、その個人が我慢をすればいいことだ、とも言えるかもしれない。しかし、世の中には掟や法律では縛り切ることの出来ない「怒り」もある。それと同時に、そういった「怒り」を覚える相手も、存在するということだろう。

 『ジョン・ウィック』1作目が出た時の「犬でここまでやるかよ」という言葉は、それ自体はギャグだが、真面目に考えてみると、人が何を大事にしているかは、他人にはわからない、ということだ。例えば、今作の宣伝では「犬の次には家を焼かれた」とあるが、実は家ではなく、家の中にあった妻との写真であり、思い出を焼かれたことが復讐の動機となっている。今作冒頭の、車を強奪することも同じである。

 他人の心はわからない。だからこそ、一定の尊敬を誰に対しても持つべきだな、というのが個人的な感想だった。というか、こういう映画を見るたびに思う。『イコライザー』とか。マッコールさんに勝てるやつなどいないのだ。