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【ネタバレ】お祭り感~『夜は短し歩けよ乙女』を観て~

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 森見登美彦原作の『夜は短し歩けよ乙女』を観てきました。監督はTVアニメ『四畳半神話大系』でも森見登美彦作品をアニメ化した湯浅監督。監督自身も言うとおり、「四畳半神話大系のご褒美的に作ることが決定した」との見方は正しいと思う。それくらい、今回の作品は湯浅成分が強めなのかもしれないな、と思いました。

 

 

・ぶっちゃけ四畳半の方が面白かった

 原作も含めて、という意味で。

 まず、TVアニメ版『四畳半神話大系』は個人的には大好きな作品で、近年のアニメの中では(もう7年前なのか)トップクラスに好きだし、傑作だと思う。何が傑作なのか、というと「あの森見登美彦の原作をここまでアニメとして成立させ、尚且つ湯浅監督の味を出し切ることができた絶妙なバランス感覚」が良かったのではないか、と考えている。

 そもそも、森見登美彦作品というのは映像化しにくい作品ではないか、というのがある。それは、物語の面白さというよりも、作品全体の文体や、その文体に非常にマッチした主人公の精神構造こそが面白いのであって(個人の感想です)、それは言うなれば「小説ならではの」面白さが詰まっている、とも言える。ぶっちゃけて言えば、文章が面白いから面白いのだ。つまり、文章が消えれば面白さの半分以上が消えると言って過言ではない。(前に書いた『虐殺器官』などと同じだが)

 それに対して、『四畳半神話大系』ではどうしていたのか。同作品の脚本を担当していた上田誠が、森見登美彦原作の『有頂天家族』の文庫版でそれについて「恐るべき体験」として解説している。

 

四畳半神話大系』は、その名の示すとおり、四畳半に暮らす冴えない大学3回生が主人公の小説であり、文章の大半は、飯を食う、猥雑図書を読む、悪友とじゃれあって過ごす、など、およそストーリーの展開には与しない、無意味な描写に費やされる。

(中略)

 となれば、それらを差っぴいて、物語の「核」を見い出せばいいのだとばかりに、そうした箇所を順番に落としていくと、物語はなんだかみるみるやせ細っていき、「大学生活をスマートに送る男子学生の話」といった風情の、模範的ではあるものの、原作の豊穣さとはまるで別のことになってゆく。そしてその一方では、割愛した瑣末なエピソードたちが、より集まって、なんだか妙なきらめきを湛えている。

森見登美彦著(2010)『有頂天家族幻冬舎文庫p.420)

  掻い摘んで言ってしまうと、最初は「物語の核」さえ掴んでしまえば、枝葉の部分は少し削ってしまっても問題なかろう、という風に考えていたが、そうすると全く物語が面白くならない。というよりも、核ではないと思われる部分こそ、核なのではないか、ということである。個人的には、核ではないと思われている部分は、本当に核ではないのだと思う。ただ、核であるからこそ面白い、というわけではないし、核でないから大事なものではない、というわけではないだけだろう。

 これはもはや、物語が面白いのではなく、作者が面白い類の作品なのだと思う。僕の友人曰く「昔のテキストサイト侍魂など)みたいで嫌い」との評価だったが、それはその通りだろう。

 かくして、あのアニメでは、まるで原作小説をただ読んでいるかのごとく、主人公の独白(小説の地の部分)を延々と30分間叩き込み続ける、という常軌を逸した作品になった。

 そして、その常軌を逸した作品を分かりやすく説明し、なおかつより引き込ませるために湯浅監督の、一見荒唐無稽ながらも直感的に物事を説明できるアニメ演出が組み合わさり、観たその瞬間に理解しながら、そして笑いながら観ることのできる素晴らしい作品になった、のだと思う。

 理解の補助としての演出、という意味で言うと、湯浅監督にはあまり似つかわしくない言葉にも思える。どちらかと言うと荒唐無稽なパースで視聴者を叩き伏せまくるのが得意技だと思っていた監督だが、どうやらそうではないらしい。能ある鷹は爪を隠すと言うが、それに近い何かしらがかの監督の今の名声と、そして奇妙な立ち位置を醸成したのであろう。というのが、僕の湯浅監督評であった。

 ともかく、そういった様々な要素が絡んでできあがった『四畳半神話大系』と比べて、『夜は短し歩けよ乙女』は少し小さくまとまった作品になった、という印象であった。

 

・夜という空間

 森見登美彦の作品における「夜」という存在は、不思議なものに感じられる。森見登美彦作品がファンタジー小説と言われている所以でもある。それは彼の描く夜が、非常に奇怪で、時には底知れぬ暗闇としての夜として現れるのではあるが、そこに出てくる人物たちは皆優しく(金貸しなどを除いて)、主人公たちを受け入れてくれる。

 様々な要素をまとめる存在としての「夜」は、確かに京都の祗園や木屋町には現実として存在している。それは森見登美彦作品に出て来る登場人物のようだ。彼らは、主人公や物語という側面だけでしか語られないが、確実に何か裏を感じさせるように描かれている。

 それをきちんと描ききった作品が『四畳半神話大系』であった。なので、『夜は短し歩けよ乙女』は、言うなれば『四畳半神話大系』のうちの一部分とも言える。あの連綿と続く四畳半の中の一つの物語にある、とも言える。というよりは、その後も続いていく森見登美彦サーガの一側面、と言うべきか。

 そういうこともあり、『夜は短し歩けよ乙女』が小粒に感じるのもあると思う。

 

・役者たちの技量

 これについては仕方ないとは思うのだが、星野源に『四畳半』の先輩役のような長回しのセリフは難しかったのだと思うし、そこを同じにしたら「四畳半と同じじゃねーか」となるので、やらないのは成功だったとは思う。

 

・街に認められること

 個人的にこの作品でよかったのは、全体の雰囲気、と言うに尽きる。これは森見登美彦作品に必ず存在する空気感なのだが、主人公は街に認められている、という感覚。この場合、主人公というのは黒髪の乙女のことでもあるし、先輩のことでもある。個人的に言えば、非常に世の中から阻害されていると感じている先輩もまた、この街の一部であり、彼も夜の中に入り込んで行けている。それは愛ゆえの行為ではあるが、彼の行動こそが、映画全体のテンションをきちんと上げている。そこは良かった。

 逆に、乙女はあまりにもキャラがのっぺりとしていて、そこまで魅力的には描かれていない。『四畳半神話大系』の明石さんとは大違いである。明石さんは、文系オタクの求める女性像としてあまりにもオーバーキルな感じが、もはやギャグでしかないとは思うが。ただ、彼女が街に溶け込み、認められ、練り歩いていくさまは観ていて気持ちが良い。

 

 映像も面白いし、悪くはないのだが、ファンディスク的な要素が強い作品だな、とは思った。